暘州通信

日本の山車

◆邪馬臺國の遷都 三

2018年04月23日 | 日本山車論
◆邪馬臺國の遷都 三

 景初二年(二三八)十二月、魏王より、卑弥呼に下賜された【親魏倭王】の称号と、【金印紫綬】。
 泰□四年□月に、百濟王より倭王に献納された七支刀 銘文の両社は、謎に満ちた古代日本史の貴重な記録と考える。
 
【私論 魏志倭人傳】

◆邪馬臺國の遷都 二

2018年04月23日 | 日本山車論
◆邪馬臺國の遷都 二

 一方で、奈良県奈良県天理市に鎮座する
石上神宮(いそのかみじんぐう)に保存されている【七支刀】の金嵌銘文六一文字の記述には、

 泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬□
 七支刀□辟百兵宜供王 □□□□作
  (異説あり)

 とあって、大意は百濟の國王から、泰□四年□月十六日に倭王に対して献納された品とわかる(これも異説あり)。

 (異説はあるものの)石上神宮に伝わる【七支刀】は、朝鮮の百濟王より、(中國元号の)泰□四年□月に、倭王に献納された品である。

未判読文字
泰□四年を、西晋の「泰始四年」とよめば、【二六八年】となる】。
泰□四年を、「泰和四年」とよめば、【四六八年】となる。

泰始四年は、景初二年(二三八)より三〇年のあとである。
泰和四年は、景初二年(二三八)より二三〇年のあとである。

 【七支刀】が献納されたのは、当時大和にあった物部氏であり、物部氏は、倭王とあるから、邪馬臺國の所在地は、
景初二年(二三八)より三〇年。あるいは、二三〇年ののちには、九州から大和に遷都されたと考えられる。

 大神神社の祭神は【オオモノヌシノミコト(大物主命)】とされ、オオモノヌシノミコト(大物主命)とは、オオナムチノミコト(大己貴命)と同神とする説もあるが、これは、物部氏の首長たる大物主とみるべきではないだろうか。

 桜井市の纏向遺跡は、大物主命(物部氏)の都であり、北九州から遷都された大和の邪馬臺國だと推察する。 

 おそらく茶臼山古墳は、物部氏の墳墓であろう。
 
【私論 魏志倭人傳】



◆始めて一海を渡る…… 考察 六

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 六

 邪馬臺國の所在はいまだ知れないが、総距離一万二千里から
魏から、倭の不彌國までの累算距離である一万三百里を差し引いた、千七百里(当時の一キロメートルは四里から五里位との説によれば)、三〇〇数十キロくらいの九州東部地内に存在したと推察され、その所在地はかなり限定されてくる。

【私論 魏志倭人傳】

◆始めて一海を渡る…… 考察 五

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 五

 しかし、魏の京都である、洛陽から、倭の首都である邪馬臺國にいたる記述には誤りはなく、
 その全行程は、一万二千里。
 その行程の内訳は、陸行一月。水行一〇日。
 であって、記述は正しい。

 これを誤りとする論述は、「魏書、東夷傳」の読み方に誤りがある。

【私論 魏志倭人傳】
 

◆始めて一海を渡る…… 考察 四

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 四

 「魏書、東夷傳」の記述に誤りがないとはいえない。例えば、邪馬臺國を、邪馬壹國と記述したのは誤リりである。
のちの中國の史書では【邪馬堆國】とも記述されていて、邪馬臺國が正しくその訓みは【ヤマタイコク】であろう。卑弥呼のあとを相続した⒔歳の少女の名称も【壹與】ではなく、正しくは【臺與】で、その訓みは【トヨ】であろうと推察する。
 
【私論 魏志倭人傳】

◆始めて一海を渡る…… 考察 三

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 三

 「魏書、東夷傳」の記述において、【倭を特定】するならば、まず、【魏】と【倭】を結ぶ経路をしっかり記述することはその最大の目的であるはずである。
 しかし、「魏書、東夷傳」の記述からは、その【倭の首都である、邪馬臺國】が何処にあるのか判然とせず、邪馬臺國の所在をめぐる論述は非常に多岐にわたっている。
 そのなかでも、
 邪馬臺國九州説
 邪馬臺國畿内説
 は二臺論となっている。そして、このように論評が分かれるのは、「魏書、東夷傳」の記述に誤りがあるのではないか? とまで疑問視される。

【私論 魏志倭人傳】


◆始めて一海を渡る…… 考察 二

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 二

 【東夷】にある「倭」とはいかなる國か? それはどこにあり、その中心となる統治國(首都)は、何処にあるのか?
その統治國(首都)への道筋(道路あるいは水路)はいかなる経路を経るのか?
 その國の過去の歴史、制度、自然環境や生活、風俗はいかなるものか? などについて、倭を訪れた人々の記録を蒐めて出来うる限り正確に詳述したのが、概ね、『三國志中「魏書、東夷傳倭人条(通称、魏志倭人傳)」』と言えるのではないだろうか。

【私論 魏志倭人傳】


◆始めて一海を渡る…… 考察

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察

 魏の史官である陳壽が、國史書として『三國志中「魏書、東夷傳倭人条(通称、魏志倭人傳)」』を著述した背景を考慮すると、魏の四方には、國境を接する隣接國として、【四夷】と理解されている外國があり、まだ【日本】とは呼ばれていない國が東方に存在していた。【倭を含む】この地方を【東夷】とよんでいたと考えられる。

【私論 魏志倭人傳】