◆邪馬臺國の遷都 二
一方で、奈良県奈良県天理市に鎮座する
石上神宮(いそのかみじんぐう)に保存されている【七支刀】の金嵌銘文六一文字の記述には、
泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬□
七支刀□辟百兵宜供王 □□□□作
(異説あり)
とあって、大意は百濟の國王から、泰□四年□月十六日に倭王に対して献納された品とわかる(これも異説あり)。
(異説はあるものの)石上神宮に伝わる【七支刀】は、朝鮮の百濟王より、(中國元号の)泰□四年□月に、倭王に献納された品である。
未判読文字
泰□四年を、西晋の「泰始四年」とよめば、【二六八年】となる】。
泰□四年を、「泰和四年」とよめば、【四六八年】となる。
泰始四年は、景初二年(二三八)より三〇年のあとである。
泰和四年は、景初二年(二三八)より二三〇年のあとである。
【七支刀】が献納されたのは、当時大和にあった物部氏であり、物部氏は、倭王とあるから、邪馬臺國の所在地は、
景初二年(二三八)より三〇年。あるいは、二三〇年ののちには、九州から大和に遷都されたと考えられる。
大神神社の祭神は【オオモノヌシノミコト(大物主命)】とされ、オオモノヌシノミコト(大物主命)とは、オオナムチノミコト(大己貴命)と同神とする説もあるが、これは、物部氏の首長たる大物主とみるべきではないだろうか。
桜井市の纏向遺跡は、大物主命(物部氏)の都であり、北九州から遷都された大和の邪馬臺國だと推察する。
おそらく茶臼山古墳は、物部氏の墳墓であろう。
【私論 魏志倭人傳】