◆18012 美奈宜神社 更新
□所在地 福岡県朝倉市'旧甘木市)大字林田字蜷郷
□社名 美奈宜神社(みなぎじんじゃ)
□祭神
スサノオノミコト 素盞嗚命
オオナムチノミコト 大己貴命
コトシロヌシノミコト 事代主命
□汎論
美奈宜神社は延喜式神名帳、筑前國一九坐中、下座郡(しもつあさくらこおり)に記載される三坐のうちの一坐。下座郡の一宮である。
九州に祀られる神社は、古くは【日氏】の太陽神祭祀に続き、韓半島(朝鮮半島)、中国北部、東南アジア、台湾方面から琉球(沖縄県)を経た渡来系民族の定着とともに、祭祀にも広範な要素が渾然となり長い歴史を経て次第に同化していったと推定される。
仮説であるが、古代の【香椎宮】は、日本の祭祀とは異なる霊廟祭祀が行なわれ、支石墓(ドルメン)を築造する民族の定着もあったはずである。日氏は海神系・綿津見氏と同化し、宗像氏、秦氏などとも融和していったと考えられるがそれはのちのことであり、その過程には熾烈な争いが繰り広げられたと考えられる。
出雲氏の出雲文化とは、広義の弥生文化だと推定するが、通念として、【銅劔、銅戈】と、【銅鐸】文化圏が広域にわたって、ほぼ一定の範囲を占めている。このことで、両者は異文化と考えられがちであるが、九州には出雲系氏族の痕跡が沢山残っていて、のちに擡頭する大和朝廷の成立以前に成熟した国家と勢力が象づくられていたと考えられる。その証左となるのが、九州各地にある出雲神を祭祀する神社の存在である。
当社は出雲氏の一族を祀る神社であるが、おなじ名称の【美奈宜神社】が朝倉市'旧甘木市)荷原に鎮座し、こちらの祭神は皇室神である。平安時代に美奈宜神社に対して、皇室の支配の手が伸びたとき、普通の概念として既鎮座の祭神と皇室神を合祀するのが普通であるのに対し土地の氏族はおなじ名称の【美奈宜神社】を創建し祭神の混在にけじめをつけた潔さがうかがわれる。各地に同名の神社が複数あって、もとの延喜式神名帳記載の神社が何処かわからなくなって【論社】として、議論の対象になる理由のひとつにも挙げられよう。
□参考
次を参考にさせていただきました。
・美奈宜神社 玄松子
http://www.genbu.net/data/tikuzen/minagi2_title.htm
*
地域を特定しやすくするため行政コード番号は変更せず、従前のままです。
20120920 更新
【論攷 延喜式神名帳】
□所在地 福岡県朝倉市'旧甘木市)大字林田字蜷郷
□社名 美奈宜神社(みなぎじんじゃ)
□祭神
スサノオノミコト 素盞嗚命
オオナムチノミコト 大己貴命
コトシロヌシノミコト 事代主命
□汎論
美奈宜神社は延喜式神名帳、筑前國一九坐中、下座郡(しもつあさくらこおり)に記載される三坐のうちの一坐。下座郡の一宮である。
九州に祀られる神社は、古くは【日氏】の太陽神祭祀に続き、韓半島(朝鮮半島)、中国北部、東南アジア、台湾方面から琉球(沖縄県)を経た渡来系民族の定着とともに、祭祀にも広範な要素が渾然となり長い歴史を経て次第に同化していったと推定される。
仮説であるが、古代の【香椎宮】は、日本の祭祀とは異なる霊廟祭祀が行なわれ、支石墓(ドルメン)を築造する民族の定着もあったはずである。日氏は海神系・綿津見氏と同化し、宗像氏、秦氏などとも融和していったと考えられるがそれはのちのことであり、その過程には熾烈な争いが繰り広げられたと考えられる。
出雲氏の出雲文化とは、広義の弥生文化だと推定するが、通念として、【銅劔、銅戈】と、【銅鐸】文化圏が広域にわたって、ほぼ一定の範囲を占めている。このことで、両者は異文化と考えられがちであるが、九州には出雲系氏族の痕跡が沢山残っていて、のちに擡頭する大和朝廷の成立以前に成熟した国家と勢力が象づくられていたと考えられる。その証左となるのが、九州各地にある出雲神を祭祀する神社の存在である。
当社は出雲氏の一族を祀る神社であるが、おなじ名称の【美奈宜神社】が朝倉市'旧甘木市)荷原に鎮座し、こちらの祭神は皇室神である。平安時代に美奈宜神社に対して、皇室の支配の手が伸びたとき、普通の概念として既鎮座の祭神と皇室神を合祀するのが普通であるのに対し土地の氏族はおなじ名称の【美奈宜神社】を創建し祭神の混在にけじめをつけた潔さがうかがわれる。各地に同名の神社が複数あって、もとの延喜式神名帳記載の神社が何処かわからなくなって【論社】として、議論の対象になる理由のひとつにも挙げられよう。
□参考
次を参考にさせていただきました。
・美奈宜神社 玄松子
http://www.genbu.net/data/tikuzen/minagi2_title.htm
*
地域を特定しやすくするため行政コード番号は変更せず、従前のままです。
20120920 更新
【論攷 延喜式神名帳】