
ずっと前から気になっていたこの旧ソ連製SFカルト映画、ようやくレンタルで見ることができました。聞くところによれば、ソ連では若者を中心に大ヒットしたものの、世の評価はまっぷたつに分かれる映画なのだとか。
冬のモスクワ。帰宅した建築技師のマシコフは、妻にパンとマカロニを買ってくるように頼まれる。店の前でバイオリンケースを抱えた青年ゲデバンに声を掛けられるマシコフ。「あそこに自分を異星人だという男がいる」。青年につきあってその男と話すが、男は自分の星に帰りたいと言い、これが「空間移動装置」だと言って、小さなケースのようなものを二人に見せる。そんな話など信じられないマシコフは、つい「空間移動装置」のボタンを押してしまう。次の瞬間、マシコフとゲデバンは、砂漠の真ん中に立っていた。しかもそこは地球ではないらしい…。
音楽も音響効果も全くないまま、まさに「次の瞬間」、場面が唐突に切り替わる。どんよりしたモスクワの街角から、燦々と太陽が輝く砂漠へ。あまりにもきっぱりした場面転換に、ただ唖然とするしかない。ともかくも、こうして、二人の、「キン・ザ・ザ星雲にある惑星ブリュク」での奇妙な物語が始まります。
どんな風刺にもコメディにもギャグにも、「笑わせよう」という意図がある以上、ある種の「あざとさ」を避けることはできません。そして、そのあざとさに、あまりにも「わざとらしさ」が感じられると、私には一切笑えなくなってしまいます。作り手・送り手の「どうだ、まいったか」という雰囲気は、けっこう敏感に伝わってくるものです。
この映画には、そのへんの「あざとさ」がほとんど感じられませんでした。だからといって、ガハハ、と大笑いするようなシーンがたくさんあったということではなく(最初に見た時、私は1ヶ所だけでした)、あまりのばかばかしさ、シュールさ、脱力ぶりに、ほとんど全編あきれかえってばかり。
公開当時、一部(どういう一部だ?)で流行したという「クー」という挨拶。ほっぺたを両手でパンパンしてから、両腕を左右に開き、ついでに脚もガニ股にするというややこしいポーズを取ります。もし別の喜劇映画で、このポーズが出てきたら、とたんに「あざとさ」を感じてしまったことでしょう。ところが、この映画では、ごく「自然」に感じられるのです。あのポーズは、「なくてはならない」のです。地球人であるマシコフがへたくそな「クー」をやると、「おいおい、もっとしっかりやれよ」とさえ言いたくなったほどです。
この「自然さ」はいったいどこから来るのでしょう? それはたぶん、この映画が、1986年、旧ソ連で作られたものであるというところに隠されているような気がします。
1986年と言えば、前年に社会主義国ソ連の最高指導者に就任したゴルバチョフが、「ペレストロイカ」(再構築)と呼ばれる政治体制の改革と「グラスノスチ」(情報公開)を進め、腐敗した共産党支配体制の立て直しが始まっていた時期です。これまで自由にモノを言えなかった社会が、徐々に「民主化」の波に洗われていきました。そして、結果的には、その民主化の波が、共産党支配に終止符を打つことになりました。この映画はまさにそういう時代に作られたのです。「異星」の出来事にかこつけて、旧ソ連の融通のきかない首脳部をおちょくるような描き方が許されているのも、そういうわけなのでしょう。そこには、確かに、民衆の体制への不満や政治不信が見てとれます。そういう意味では、ごく自然な「おちょくり」なのです。心の底から、「おちょくりたい」という願望がむんむん感じられます。旧ソ連の人々は、逆に、この映画を心から楽しむことなんかできないのではないか、とさえ思うのです。
さびついた音のする釣鐘状の飛行物体や、「空間移動装置」、鈴のついた鼻輪など、一見、決してスタイリッシュとは言えない小道具もまた、旧ソ連製品への痛烈な皮肉でしょう。ロシア人そのものの野暮ったさという意味ではなく、「体制」の生み出す野暮ったさ。それもまた味があるといえば味があるとも言えるのですが。それにしても、ああいう小道具の懲り様は、テリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」を彷彿とさせます。
一方で、地球に帰る途中でワープしたアルファ星、きれいなお花畑に清純なコスチュームをまとった人々の住む星は、旧ソ連から見た西欧諸国をイメージしているのかもしれません。悪いヤツはサボテンにしてやる~! きれいな空気を汚さないようにガスマスクをつけるべし! これもまた別の意味で痛烈な批判ですね。
地球では珍しくもなんともない「マッチ」を、キン・ザ・ザの人たちは「カツェ」と呼んで、貴重品扱いする。何しろ、マッチ棒1本と、宇宙空間におけるワープの必需品である「加速器」が交換できるくらいなのですから。そうした価値観の違いに直面しながらも、ひょうひょうと対応していくマシコフが最高におかしい。クールなように見えて、しかしマシコフは、自分たちを裏切ったにもかかわらず、異星人の二人組を救うために地球へ帰る手段さえいったんは放棄してしまうあたりも泣かせます。
ゲオルギー・ダネリヤ監督、さすがは(?)「人民芸術家」(!)。彼は、旧ソ連を構成していた国の一つ、グルジア共和国の出身です。グルジアはあのスターリンの出身地でもあります。劇中、実はバイオリンなんか弾けない「バイオリン弾き」ゲデバンがグルジア人という設定です。黒海とカスピ海の間に位置するグルジアとその周辺は、旧ソ連時代から民族紛争が絶えない地帯でした。アブハジア、オセティア、チェチェン…。グルジア共和国の中にそんな国家内国家がいくつもあって、独立紛争を何度も繰り返してきています。ダネリヤ監督は、自分の故郷のそんな複雑な民族対立の状況さえ、しっかり写し取っています。
この星で対立しているらしいふたつの民族は、小さな識別器でもって識別されます。身体に当てて、緑色のランプがつけばパッツィ人、オレンジ色ならチャトル人。人間が機械によって区別されている。そして、「区別」とは「上下関係」であるというのは、宇宙のどこに行っても同じらしいのです…。
見終わってから、「いったいあれは何だったんだろう?」と思うシーンがたくさんあるのですが(全編がそうだと言えばそうかもしれない)、それにもかかわらず、この映画はいい。「自然さ」がいい。とことん脱力系でありながら、ふと考えさせられる仕掛けがいい。
冬のモスクワ。帰宅した建築技師のマシコフは、妻にパンとマカロニを買ってくるように頼まれる。店の前でバイオリンケースを抱えた青年ゲデバンに声を掛けられるマシコフ。「あそこに自分を異星人だという男がいる」。青年につきあってその男と話すが、男は自分の星に帰りたいと言い、これが「空間移動装置」だと言って、小さなケースのようなものを二人に見せる。そんな話など信じられないマシコフは、つい「空間移動装置」のボタンを押してしまう。次の瞬間、マシコフとゲデバンは、砂漠の真ん中に立っていた。しかもそこは地球ではないらしい…。
音楽も音響効果も全くないまま、まさに「次の瞬間」、場面が唐突に切り替わる。どんよりしたモスクワの街角から、燦々と太陽が輝く砂漠へ。あまりにもきっぱりした場面転換に、ただ唖然とするしかない。ともかくも、こうして、二人の、「キン・ザ・ザ星雲にある惑星ブリュク」での奇妙な物語が始まります。
どんな風刺にもコメディにもギャグにも、「笑わせよう」という意図がある以上、ある種の「あざとさ」を避けることはできません。そして、そのあざとさに、あまりにも「わざとらしさ」が感じられると、私には一切笑えなくなってしまいます。作り手・送り手の「どうだ、まいったか」という雰囲気は、けっこう敏感に伝わってくるものです。
この映画には、そのへんの「あざとさ」がほとんど感じられませんでした。だからといって、ガハハ、と大笑いするようなシーンがたくさんあったということではなく(最初に見た時、私は1ヶ所だけでした)、あまりのばかばかしさ、シュールさ、脱力ぶりに、ほとんど全編あきれかえってばかり。
公開当時、一部(どういう一部だ?)で流行したという「クー」という挨拶。ほっぺたを両手でパンパンしてから、両腕を左右に開き、ついでに脚もガニ股にするというややこしいポーズを取ります。もし別の喜劇映画で、このポーズが出てきたら、とたんに「あざとさ」を感じてしまったことでしょう。ところが、この映画では、ごく「自然」に感じられるのです。あのポーズは、「なくてはならない」のです。地球人であるマシコフがへたくそな「クー」をやると、「おいおい、もっとしっかりやれよ」とさえ言いたくなったほどです。
この「自然さ」はいったいどこから来るのでしょう? それはたぶん、この映画が、1986年、旧ソ連で作られたものであるというところに隠されているような気がします。
1986年と言えば、前年に社会主義国ソ連の最高指導者に就任したゴルバチョフが、「ペレストロイカ」(再構築)と呼ばれる政治体制の改革と「グラスノスチ」(情報公開)を進め、腐敗した共産党支配体制の立て直しが始まっていた時期です。これまで自由にモノを言えなかった社会が、徐々に「民主化」の波に洗われていきました。そして、結果的には、その民主化の波が、共産党支配に終止符を打つことになりました。この映画はまさにそういう時代に作られたのです。「異星」の出来事にかこつけて、旧ソ連の融通のきかない首脳部をおちょくるような描き方が許されているのも、そういうわけなのでしょう。そこには、確かに、民衆の体制への不満や政治不信が見てとれます。そういう意味では、ごく自然な「おちょくり」なのです。心の底から、「おちょくりたい」という願望がむんむん感じられます。旧ソ連の人々は、逆に、この映画を心から楽しむことなんかできないのではないか、とさえ思うのです。
さびついた音のする釣鐘状の飛行物体や、「空間移動装置」、鈴のついた鼻輪など、一見、決してスタイリッシュとは言えない小道具もまた、旧ソ連製品への痛烈な皮肉でしょう。ロシア人そのものの野暮ったさという意味ではなく、「体制」の生み出す野暮ったさ。それもまた味があるといえば味があるとも言えるのですが。それにしても、ああいう小道具の懲り様は、テリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」を彷彿とさせます。
一方で、地球に帰る途中でワープしたアルファ星、きれいなお花畑に清純なコスチュームをまとった人々の住む星は、旧ソ連から見た西欧諸国をイメージしているのかもしれません。悪いヤツはサボテンにしてやる~! きれいな空気を汚さないようにガスマスクをつけるべし! これもまた別の意味で痛烈な批判ですね。
地球では珍しくもなんともない「マッチ」を、キン・ザ・ザの人たちは「カツェ」と呼んで、貴重品扱いする。何しろ、マッチ棒1本と、宇宙空間におけるワープの必需品である「加速器」が交換できるくらいなのですから。そうした価値観の違いに直面しながらも、ひょうひょうと対応していくマシコフが最高におかしい。クールなように見えて、しかしマシコフは、自分たちを裏切ったにもかかわらず、異星人の二人組を救うために地球へ帰る手段さえいったんは放棄してしまうあたりも泣かせます。
ゲオルギー・ダネリヤ監督、さすがは(?)「人民芸術家」(!)。彼は、旧ソ連を構成していた国の一つ、グルジア共和国の出身です。グルジアはあのスターリンの出身地でもあります。劇中、実はバイオリンなんか弾けない「バイオリン弾き」ゲデバンがグルジア人という設定です。黒海とカスピ海の間に位置するグルジアとその周辺は、旧ソ連時代から民族紛争が絶えない地帯でした。アブハジア、オセティア、チェチェン…。グルジア共和国の中にそんな国家内国家がいくつもあって、独立紛争を何度も繰り返してきています。ダネリヤ監督は、自分の故郷のそんな複雑な民族対立の状況さえ、しっかり写し取っています。
この星で対立しているらしいふたつの民族は、小さな識別器でもって識別されます。身体に当てて、緑色のランプがつけばパッツィ人、オレンジ色ならチャトル人。人間が機械によって区別されている。そして、「区別」とは「上下関係」であるというのは、宇宙のどこに行っても同じらしいのです…。
見終わってから、「いったいあれは何だったんだろう?」と思うシーンがたくさんあるのですが(全編がそうだと言えばそうかもしれない)、それにもかかわらず、この映画はいい。「自然さ」がいい。とことん脱力系でありながら、ふと考えさせられる仕掛けがいい。
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