逮捕以来、秋田の小学生殺害事件の容疑者の名前がテレビや新聞に出ない日はありません。
逮捕前から、娘を失った悲劇の母親として、またその死に関して警察の捜査批判をしていたことで注目を浴びていましたが、「疑惑」が募る中で、加熱する報道陣や警察に対する彼女のエキセントリックな言動がワイドショーなどで繰り返し流されました。マスコミにとっては格好の被写体なのでしょう。
加えて、彼女のこれまでの人生が執拗なまでに暴かれています。「同級生」や「恩師」、「元同僚」が次々と登場しては(もちろん顔は隠して)、彼女を「評価」していきます。曰く「いじめられっ子だった」、「友だちはほとんどいなかった」、「使いっ走りをしていた」、「金融業者から毎日のように電話がかかってきていた」…。さらに彼女が書いた作文だとか卒業文集に寄せた文章だとかが、当たり前のように公開されます。テレビは、取材によって得られた「データ」から、「情報」として提供する映像や発言を取捨選択します。事件の経緯を伝えるレポーターやナレーターはそういう「情報」についてコメントは決してしません。ひたすら「流す」だけです。彼女の「憤りぶり」、かと思えば一転して見せる「殊勝な態度」などについてのコメントや感想は、ゲストとして招いたコメンテーターたちに任せてしまう。
当初、死体遺棄容疑で逮捕された彼女も、ついに殺害についても自供し始めたのだとか。しかし現時点では彼女はあくまでも「容疑者」です。今回の事件に限らないことですが、「容疑者」はあくまで「容疑者」で「犯人」ではない。それを決めるのは裁判です。現在、警察によって着々と彼女による犯行だという証拠が固められつつあるようですので、そんなことはないとは思いますが、もし仮に裁判で「無実」の判決が下されたりしたら、マスコミはいったいどんな対応をするのかと余計なことまで考えてしまいます。
現時点で言えるのは、一人の7歳の男の子が殺された、という事実だけです。「犯人だと思われる人」の半生を暴いたり詮索しているヒマがあったら、彼の冥福をひたすら祈りたい。そして遺族の皆さんにそっと思いをはせたい。
逮捕前から、娘を失った悲劇の母親として、またその死に関して警察の捜査批判をしていたことで注目を浴びていましたが、「疑惑」が募る中で、加熱する報道陣や警察に対する彼女のエキセントリックな言動がワイドショーなどで繰り返し流されました。マスコミにとっては格好の被写体なのでしょう。
加えて、彼女のこれまでの人生が執拗なまでに暴かれています。「同級生」や「恩師」、「元同僚」が次々と登場しては(もちろん顔は隠して)、彼女を「評価」していきます。曰く「いじめられっ子だった」、「友だちはほとんどいなかった」、「使いっ走りをしていた」、「金融業者から毎日のように電話がかかってきていた」…。さらに彼女が書いた作文だとか卒業文集に寄せた文章だとかが、当たり前のように公開されます。テレビは、取材によって得られた「データ」から、「情報」として提供する映像や発言を取捨選択します。事件の経緯を伝えるレポーターやナレーターはそういう「情報」についてコメントは決してしません。ひたすら「流す」だけです。彼女の「憤りぶり」、かと思えば一転して見せる「殊勝な態度」などについてのコメントや感想は、ゲストとして招いたコメンテーターたちに任せてしまう。
当初、死体遺棄容疑で逮捕された彼女も、ついに殺害についても自供し始めたのだとか。しかし現時点では彼女はあくまでも「容疑者」です。今回の事件に限らないことですが、「容疑者」はあくまで「容疑者」で「犯人」ではない。それを決めるのは裁判です。現在、警察によって着々と彼女による犯行だという証拠が固められつつあるようですので、そんなことはないとは思いますが、もし仮に裁判で「無実」の判決が下されたりしたら、マスコミはいったいどんな対応をするのかと余計なことまで考えてしまいます。
現時点で言えるのは、一人の7歳の男の子が殺された、という事実だけです。「犯人だと思われる人」の半生を暴いたり詮索しているヒマがあったら、彼の冥福をひたすら祈りたい。そして遺族の皆さんにそっと思いをはせたい。
確かにそれも言えるかもしれませんね。あのエレベーター会社が社会的に非難されるのは当然としても、報道を見ていると、バッシングのためのバッシングという気がしないでもありません。ただ、「自己責任」という見方は、たぶん視聴者=世論がそれを許さないでしょう。マスコミは常に「視聴者本位」の立場を標榜しますから。