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地名で見る世界史 #13 東京

2005-01-30 | └地名で見る世界史
「東西南北・京」シリーズも今回の「東京」で最後となります。

「東京」といえば、誰しも日本の首都「東京」を思い浮かべると思います。明治に入り、江戸を新しい首都に定める際に、西の都「京都」に対して、東の都つまり「東京」と改称されたのです。実はこの時(1868年7月17日)の布告では、「京」を異体字「亰」と記していました。中国の「東京」と紛らわしいから、というのがその理由です。

なお、「東京」の読みですが、「トウキョウ」のほか「トウケイ」という読み方も明治20年代まで存在したようです。ちなみに、「キョウ」は呉音読み、「ケイ」は漢音読みです。呉音とは、長江下流域における読み方から来たもので、主に仏教の僧侶によってもたらされました。「行」を「ギョウ」とする読み方ですね。また漢音とは、唐代に長安で用いられていた発音に由来し、遣唐使らによって奈良~平安時代にもたらされました。こちらは、「行」を「コウ」と読み、どちらかというと一般的になっていきます。

さて、中国の「東京(トンチン)」とはどこか。もっともよく知られている「東京」とは、北宋の都でしょうか。

唐が滅んだあと、しばらく分裂していた中国は、宋王朝によって再び統一されます。これが北宋(960~1127年)です。北宋は、都を汴京(べんけい)に置きましたが、ここを東京開封府と称し、そのほかに、西京河南府(洛陽)・南京応天府・北京大名府と、「四京制」をとっていました。もっとも、「東京開封府」を都としたのは北宋が最初ではなく、それ以前の分裂時代に華北を支配した「五代」のうち、後唐を除く4ヶ国が都としています。

開封は、もともと汴州(べんしゅう)とも呼ばれ、黄河のほとりにある町です。隋の煬帝が開いた南北を結ぶ大運河のうち通済渠(つうせいきょ)との分岐点にあたっていたことから、交通の要衝として栄えました。北宋時代の開封のにぎわいぶりは、「清明上河図」という絵巻物に生き生きと描写されています。

「東京」という呼称を用いた最初の王朝は後漢(25~220年)です。前漢は長安に都を置きましたが、後漢は長安の東に位置する洛陽に都を置いたのでここを「東京」と称しました(ちなみに中国では後漢を「東漢」と呼びます)。また、唐は都を長安に定めますが、洛陽を「東京」と呼んでいました。前述のように、北宋時代には洛陽は「西京」と呼ばれましたので、なんだかとってもややこしい。モンゴル系の契丹族は、中国に侵入し華北を支配(遼:916~1125年、都は内モンゴルの上京)しましたが、この時は南京を「東京」と改めています。

つまり、時の権力者が「中心」だと定めたところを基準にして、そこから東西南北の都市が決められていたということなのですね。「中華思想」では、漢民族以外の異民族を「東夷(とうい)」、「西戎(せいじゅう)」、「南蛮(なんばん)」「北(ほくてき)」と呼んで蔑みましたが、「東西南北・京」は、絶対的な「中心」を基準にしたものではなく、あくまで相対的な命名によるものと考えていいでしょう。

ところで、「東京」という地名は、中国以外にも存在します。地図を開くと、ヴェトナム北部、ハイナン島との間に挟まれた湾に「トンキン湾」というのがありますが、これは漢字を当てはめれば「東京湾」となります。ヴェトナムは中国では「越南」(これがもちろん「VietNam」の由来)と呼ばれ、長く中国の支配下にありました。現在の首都ハノイ(漢字で記すと「河内」!)が17世紀から19世紀にかけて「トンキン(東京)」と呼ばれていたことから、今も湾の名称として残っているのです。なお、トンキン湾をヴェトナムでは「バックボ」と呼びますが、漢字を当てれば「北部」となります。

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