
"PARADISE NOW"
2005年/フランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ/90分
【監督】 ハニ・アブ・アサド
【製作】 ベロ・ベイアー
【脚本】 ハニ・アブ・アサド ベロ・ベイアー
【撮影】 アントワーヌ・エベルレ
【出演】 カイス・ネシフ/サイード アリ・スリマン/ハーレド ルブナ・アザバル/スーハ
「自爆テロ」という言葉を聞くと、すぐにイスラム過激派グループによるテロを思い起こします。体に爆弾を巻き付け、自分自身も犠牲になって敵に攻撃を加えるテロ方法。敵のもとに確実に武器を運ぶことができる方法ではあります。"9.11"の同時多発テロもまさに自爆テロでした。英語の"Suicide bombing"(直訳すると「自殺爆弾」!)では、第二次世界大戦末期に日本軍が行った特攻隊("KAMIKAZE")なども含まれるという。
特攻隊は、厳しい戦局の中で生み出されたやむにやまれぬ戦術だったのでしょうが、イスラムのテロは、そうするしか方法がないというよりは、むしろ積極的な意味で自爆テロが行われているような気もしていました。
この映画は、自爆テロの実行者に指名された若者二人の48時間を描いた物語。舞台は、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区。「ガザ地区」とともに、パレスチナ人によるパレスチナ暫定自治政府が樹立されている地域です。ただ、パレスチナ人による「自治区」は限られた地域に過ぎず、その周辺にはイスラエル軍が常駐していて、しばしば自治区を「封鎖」しています。映画の中でも、「占領下の日常は牢獄と同じだ」というセリフが出てきますが、自治区に住むパレスチナ人にとっては、そこは「祖国」と呼ぶには程遠い状況であることがわかります。
パレスチナとイスラエル。そこにあるのは、果てしのない「憎しみの連鎖」。自動車修理工場で働くサイードとハーレドは、反イスラエル組織のリーダーが殺害されたことに対する報復として、テルアビブで自爆テロをするよう命じられる。しかも、それは「明日」だという。「神のご意志なら」と表情を変えることもなく、淡々と受け入れるサイード。「明日自分が死ぬ」ことに対して、なぜそれほどまでに冷静でいられるのか。今夜が家族と過ごす最後の夜になるのに、なぜいつもどおりに食事ができるのか? 神に対するあつい信仰のもとに生きている彼らにとっては、「自爆テロ」でさえ、日常の延長でしかないように思えます。ただし、その死は、最高の栄誉を保障してくれる。でも、死ぬことで英雄になるなんて、私には納得できない世界です。
サイードの父は、彼が10歳の時に「密告者」として処刑されています。生きるためとはいえ、イスラエルのスパイとして働いた父を「弱い人間」ととらえるサイードは、自分はそうなりたくないと強く願っています。自爆テロは、自分が(父とは違う)「強い人間」だということを示す絶好の機会なのです。
でもサイード、それは違うと言いたい。自爆テロが、「強さ」を示す唯一の手段ではない。もっと別の「戦い方」があるはずです。
かつて、モサド(イスラエルの秘密警察)に逮捕・処刑された"殉教者"アブ・アザームは、「死を恐れる者はすでに死んでいる。恐れない者に安らかな死が来る」と言ったという。「善く生きる」ことを説くのが宗教の役割ではないのか。「安らかな死」は、死を恐れない者にも、また恐れる者にも等しく訪れるものではないのか。
パレスチナを出て外国で暮らしてきたアブ・アザームの娘スーハは、そんな「真っ当な」考えの持ち主として登場します。「自由は戦って手に入れるもの」と言うハーレドに対し、彼女は、「イスラエルに殺す理由を与えてはいけない」と主張します。「人殺しに占領者も犠牲者も違いはない。こんな作戦で"勝利"するわけはない」と。その通りだと思う。圧倒的な軍事力と経済力を持つ相手に対して、自爆テロのような「点」をいくら作ったとしても、それが「線」や「面」には決してならないことは、歴史を見れば明らかです。
イスラエルはパレスチナの独立を認めるべきだと思います。しかし、「憎しみの連鎖」を増長するような自爆テロが続く限り、イスラエルを「変える」ことはできない。この映画を見て、そういう思いをますます強くしました。
「パラダイス・ナウ」≫Amazon.co.jp
2005年/フランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ/90分
【監督】 ハニ・アブ・アサド
【製作】 ベロ・ベイアー
【脚本】 ハニ・アブ・アサド ベロ・ベイアー
【撮影】 アントワーヌ・エベルレ
【出演】 カイス・ネシフ/サイード アリ・スリマン/ハーレド ルブナ・アザバル/スーハ
「自爆テロ」という言葉を聞くと、すぐにイスラム過激派グループによるテロを思い起こします。体に爆弾を巻き付け、自分自身も犠牲になって敵に攻撃を加えるテロ方法。敵のもとに確実に武器を運ぶことができる方法ではあります。"9.11"の同時多発テロもまさに自爆テロでした。英語の"Suicide bombing"(直訳すると「自殺爆弾」!)では、第二次世界大戦末期に日本軍が行った特攻隊("KAMIKAZE")なども含まれるという。
特攻隊は、厳しい戦局の中で生み出されたやむにやまれぬ戦術だったのでしょうが、イスラムのテロは、そうするしか方法がないというよりは、むしろ積極的な意味で自爆テロが行われているような気もしていました。
この映画は、自爆テロの実行者に指名された若者二人の48時間を描いた物語。舞台は、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区。「ガザ地区」とともに、パレスチナ人によるパレスチナ暫定自治政府が樹立されている地域です。ただ、パレスチナ人による「自治区」は限られた地域に過ぎず、その周辺にはイスラエル軍が常駐していて、しばしば自治区を「封鎖」しています。映画の中でも、「占領下の日常は牢獄と同じだ」というセリフが出てきますが、自治区に住むパレスチナ人にとっては、そこは「祖国」と呼ぶには程遠い状況であることがわかります。
パレスチナとイスラエル。そこにあるのは、果てしのない「憎しみの連鎖」。自動車修理工場で働くサイードとハーレドは、反イスラエル組織のリーダーが殺害されたことに対する報復として、テルアビブで自爆テロをするよう命じられる。しかも、それは「明日」だという。「神のご意志なら」と表情を変えることもなく、淡々と受け入れるサイード。「明日自分が死ぬ」ことに対して、なぜそれほどまでに冷静でいられるのか。今夜が家族と過ごす最後の夜になるのに、なぜいつもどおりに食事ができるのか? 神に対するあつい信仰のもとに生きている彼らにとっては、「自爆テロ」でさえ、日常の延長でしかないように思えます。ただし、その死は、最高の栄誉を保障してくれる。でも、死ぬことで英雄になるなんて、私には納得できない世界です。
サイードの父は、彼が10歳の時に「密告者」として処刑されています。生きるためとはいえ、イスラエルのスパイとして働いた父を「弱い人間」ととらえるサイードは、自分はそうなりたくないと強く願っています。自爆テロは、自分が(父とは違う)「強い人間」だということを示す絶好の機会なのです。
でもサイード、それは違うと言いたい。自爆テロが、「強さ」を示す唯一の手段ではない。もっと別の「戦い方」があるはずです。
かつて、モサド(イスラエルの秘密警察)に逮捕・処刑された"殉教者"アブ・アザームは、「死を恐れる者はすでに死んでいる。恐れない者に安らかな死が来る」と言ったという。「善く生きる」ことを説くのが宗教の役割ではないのか。「安らかな死」は、死を恐れない者にも、また恐れる者にも等しく訪れるものではないのか。
パレスチナを出て外国で暮らしてきたアブ・アザームの娘スーハは、そんな「真っ当な」考えの持ち主として登場します。「自由は戦って手に入れるもの」と言うハーレドに対し、彼女は、「イスラエルに殺す理由を与えてはいけない」と主張します。「人殺しに占領者も犠牲者も違いはない。こんな作戦で"勝利"するわけはない」と。その通りだと思う。圧倒的な軍事力と経済力を持つ相手に対して、自爆テロのような「点」をいくら作ったとしても、それが「線」や「面」には決してならないことは、歴史を見れば明らかです。
イスラエルはパレスチナの独立を認めるべきだと思います。しかし、「憎しみの連鎖」を増長するような自爆テロが続く限り、イスラエルを「変える」ことはできない。この映画を見て、そういう思いをますます強くしました。
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