カクレマショウ

やっぴBLOG

「追悼 赤塚不二夫展」(続き)

2011-08-20 | ■美術/博物
いやー。彼の作品のことを、というか、彼の生み出したキャラクターのことを書いていると、いくらでも書けてしまうのだ。というワケで、前回の続きなのだ。

今回はまずは「もーれつア太郎」。

このマンガの舞台は、下町の八百屋。「ア太郎」って奇天烈な名前は、父親がたくさん子供を作ろうと、以降「イ太郎」、「ウ太郎」…と名付けていくつもりだったらしい。ところが、母親が亡くなってしまったため、「ア」で終わってしまったんだって。おやおや。その父親も、木に引っかかった風船を子供にとってやろうとして木から落ちて不慮の死を遂げてしまう。天涯孤独になったア太郎は、八百屋を継ぐことに。ちなみに、屋号は八百×(やおばつ)という。さらにちなみに、父親の名前は×五郎(ばつごろう)である。さらにさらにちなみに、ほんとは「八五郎」だったらしいが、父親の父親が、役場に届ける時に酔っぱらっていたため、「八」を「×」と書いてしまったという、ほんと、落語みたいな話。こんなとこまでしっかり考えている赤塚不二夫はやはり偉大です。

その死んだ父親ですが、天国の会議で、「死ぬべき時でない時に死んでしまった」と判定されて、再び地上に戻されてしまう。ところが、地上にはもはや戻るべき肉体はない。で、×五郎は、幽霊となってア太郎の周辺に出没することになるのです。父の姿はア太郎にしか見えない、という設定も、いかにもマンガ的でいいじゃないですか! しかも、彼はいろんな動物に乗り移ってその体を操ることができる…。

八百×の従業員がデコっ八。彼についてはかつて紹介したことがあるのでここでは詳細は語りませんが、ア太郎との親分子分の関係は、任侠物に通じる絆の深さがあって、時々ほろりとさせられます。

まさに日本的な義理人情の世界を描いたこの作品は、マンガ史においても特異な存在なのではと思っています。だいたい、アニメのオープニングだって、演歌をバックに、大衆演劇ですから。「おそ松くん」と同様、脇をしっかり固めるスピンオフ・キャラクターにしても、ココロのボスとブタ松親分の対立とか、しっかり任侠入ってます! (「天才バカボン」に登場する目玉つながりの「本官」は、実はこのマンガでデビューしています。) 登場人物に共通しているのは、「借りた恩は必ず返す」という1点。これって、たとえば、江戸時代には常識だったのではないでしょうか。「借りた恩を仇で返す」のは、人間として最も恥ずかしいことの一つ、という美徳が生きていた時代。今でも、もちろん大切ですよね。この前見た(読んだ)「阪急電車」も、たぶんテーマとしてはそんなところを投げかけていたのではと思います。

私の愛するニャロメ、ベシ、ケムンパスの3人(匹)組については、これも以前詳しく書いたので、ここでは書きません(T_T)。この3人(匹)も、人間と同じように、義理人情に生きています。生きとし生けるもの、皆つながっている、のです。

さて、次のコーナーは「天才バカボン」です。



今回の展覧会を見て、改めてこの作品は赤塚不二夫にとって「実験」の舞台だったのだと分かりました。とにかく、よく編集者がOKしたもんだと思うくらい、破天荒な試みをしています。コマ割りだけ書いて、マンガのない白紙のページが続いたり、「等身大」のバカボンとパパを描いてみたり。どのページも顔の半分くらいだけが描かれていて、「これじゃいつまでたっても話が進まない」とか言って、元の大きさに戻っていく。ま、「実験」というのが大袈裟なら、マンガを使った「遊び」ですね。顔の輪郭だけ描いてあって、造作は読者が勝手に描け、というのもありました。いかに読者を驚かせるか。いかにえええっ?!と言わせるか。そして、そのあといかに笑いを湧き起こすか。そのことに赤塚不二夫はこん身の精力を傾けていたんだろうなあ~。

サービス精神の旺盛さ、というのは、彼の人生を語るときに欠かせないキーワードだと思うのですが、展覧会の最後の方で、彼のそういう姿を見ることができました。気色わる!と言われようが悪趣味と言われようが、彼は生涯、人を楽しませることに努めた。素晴らしいマンガの才能だけでなく、彼自身の生き方でもってそれを存分に示して、そして、燃え尽きた。

ある意味で、それはうらやましい生き方ですね。


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