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データの使い方

3/12日経朝刊1面コラム「世界この先」でグローバル化に罪は無いと述べている。世界の収入のジニ係数がここ36年で0.67→0.61となり、$1.25/day以下で生活している人もこの25年で5億人減った。マクロで見ればグローバル化が人々を不幸にしたと言えないと述べている。グローバル化(自由貿易の推進)は人々が幸せになると主張する。

一方、農業協同組合新聞コラムでは2007年から08年にかけて2年で飢餓人口が1億人増え9.6億人に達したと述べている。グローバル化は食料の海外依存を招き、食料高騰の折には不幸になると。(またやはり10年で1億人以上飢餓人口が増えたといっている。2年で1億人で、10年でも1億人であれば、ここ2年が異常なだけで8年間は変化が無かったとも読み取れるのだが、、、。)

期間の違いがあるのだが同じようなデータを用いて真逆なことが述べられている。

この差はデータを見て分析したのではなく、ある主張があって都合のいいデータを持ってきたと見る方が自然であろう。日経は「市場の論理」や「自由貿易」、農協は「食の国産化」や「国内農業を守る」というバイアスがあっても不思議ではない。そこで面白いのは(全く同じではないであろうが)似たようなデータを期間だけ変えて主張するのが面白い。

大雑把な日経の主張ではあるが私は日経に軍配を上げる。農協新聞の主張の通り商業作物を作って輸出をしなければ食料高騰には対応できていたであろうが生活レベルは30年前と同じであったであろう事は容易に想像がつく。デメリットを強調するためにふんだんにデータを出しているのだが、その間享受したメリットに触れられていないため説得力に欠ける。この主張は自国農業振興のための保護貿易を主張する枕なので、話が強引過ぎる。

統計を議論のツールに用いるのは有用だがそれでも公平なデータの用い方というのがそもそも存在せず、恣意的に統計を用いることで同じデータで真逆の反論が出来る。私の職場ではデータから危険率pを逆算する奴まで居る。統計で武装した論理も疑う必要があるのだ。

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疑似科学とそうでない境目

最近OEMメーカーや部品メーカーと打ち合わせがあって、雑談の感想。

どうも以前のエントリーの評判が悪いようだ。「疑似科学は潰しきれない」「多くの製品は情緒を売っているので科学的で無い件」は非耐久消費財・耐久消費財ともに情緒を売っているのであって科学的機能を販売しているわけでは無い事例が多いという指摘であって、その情緒は科学と相反するので、非科学・疑似科学との境目はグレーゾーンだよということ。そして業界関係者でもなければ境目は分からんだろという指摘なのだ。ところがピントがズレてるとか、細かい表現ミスは全体がおかしいという全否定や、題名で脊髄反射とか、、、頭悪いなぁという印象。メーカーでモノを作っていなければ「頭悪い」というのも言い過ぎか、でもだからこそ興味ある人は「勉強してね」というメッセージのつもりだったのだがorz。

でもそれで引っ込むのも癪に障るということで、小学生にもわかるように「境目」とはなんぞやを論説する。手元に洋酒メーカーSu社の「金○」の缶がある、今ひっかけたブツのパッケージだ。ここには目立つように「天然水仕込み」とある。天然水とは何物であろうか辞書で引くと新語というジャンルで「地下水を濾過・沈殿・加熱殺菌の方法だけで処理した水の総称。(以下略)」とある。要は水道水でなく、地下水ということらしい、薬剤は使用してはいけないらしい。この単語をなんのためにいれたのであろうか?安全性のためであればNGであろう、水道水の元素量の基準の方がナチュラルミネラルウォーターよりも厳しいからだ。味?硬度が高いのは味が不味いとされているので天然水が美味しい理由にはならない。

「天然水」の持つイメージを利用したのであろう、「○麦」には美味いか不味いかは別として実際に天然水を利用しているのであろう。これは語感を利用した明白な印象操作であろう、当然科学の都合など無視だ。また『「旨味麦芽」を主に使用』とある。「旨味麦芽」は辞書に載っておらず定義が不明、さらに「主に」って?これは業界の自主基準に沿った表現方法であろう、科学的事実を踏まえていると思われるがこうやって情緒を作り出すのだ。一流メーカーでもそんなものだ、これでもきちんと自主基準を決めたことが重要である。業界自主基準と関係ない存在はいわんやおやというところ。

科学をイメージさせるのも当然ある。某化粧品メーカーのAg+という商品名のパウダースプレーが手元にある。銀イオンをイメージさせているのは明白だ。そして銀含有ゼオライトを配合している表記してあるが銀イオンが何に何故いいのかは書かれていない。単に事実を書いているがそれで科学的な何かをイメージさせているのは明白であろう。

これらは一例であるが、健康食品や化粧品などすごいモノだ(酷いのもある)。中小企業など自主基準や業界標準を無視する場合が多いのでそれこそ何でもアリだ。

科学の成果は厳密で誤解させるのは問題だと指摘するのは幼児的だ。少なくとも現実的でない。世の中が白・黒の1bitであればそういう論理は成り立つのかもしれないが現実的には世の中は1bitではない。そうなると当然境目は分からなくなるのだ。業界では誤解されないように精一杯配慮した結果が先の2例(だと思う、大手メーカーだし)なのだ。某大手家電メーカーの「マイナスイオン」も義務教育~高・大では聞かなかった表現であるがそこそこに根拠があるのであろう、理論的でないにしても(マイナスイオンドライヤーは観察事例の積み重ねで根拠があるという論理だったような気がする)。

ここで大手メーカーを信じていることに違和感を感じる向きもあるであろう。しかし大手メーカーは業界団体を通じて役所と「表現方法」にも議論をしている。消費者の安全を担保することを役所は求められているので勝手は出来ないのだ(役所はそこまで責任を求められている、めちゃ大変だ、同情する)。メーカーに勤務していればそれは常識だと思うのだ。

なので単純に科学と非科学の境目があることを前提とした議論には違和感を感じるのだ。というかその時点で無知だろって感じ。論理で言いたい事は分かるが、現実的にはおかしい、というかそのグレーゾーンで商売のネタを作るのだ。「明らかに間違っていることを指摘している」という主張はどこまでが「明らか」でどこからが「グレーなのか」を定義できない時点で馬鹿丸出し、というか馬鹿だ。

「明らかなブラック」というのを指摘する気分は分かる、ところがどこからがブラックでどこからは自主基準・法令違反をしていないかというぎりぎりを探るのが商売なのだ。その本質を無視するという神経が「馬鹿でどうしようもない」のだ。

何回も言うが「業界の自主基準」てやつを理解できない人は(胡散臭くない商品は絶無なので)世の商品を買うことが出来ず、飢え死にするはずだ。論理ゲームで都合のいい論争にふけっているのであればどうでもいい話だけどね。

 

追記:「原理主義って迷惑だな」というエントリーも批判多数、意味不明。このロジックは「原理主義は迷惑だよね」→「(本質ではないが)科学にも原理主義が居るネ」であるが、これが「科学は原理主義だよネ」に摩り替わっているあたりがorz。原理主義は原理の論理を重んじる余り現実的な対応が取れないということを批判するエントリーなのであるが、ここで脊髄反射した人の多くは原理主義者であろう、教典(科学)をナンビトタリトモオカシテハナラナイ雰囲気がぷんぷんだからだ。まぁだからどうでもいいんだけど。

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しっぺ返し戦略の応用

出社が楽しい経済学(NHK)で今回は囚人のジレンマだった。工学部卒の私にも分かり易い内容だった。しかし理論の勉強には事足りるであろうが、この手のゲーム理論はプレイヤーが多数だと成り立たないというか一気に複雑化するので、ドラマの場面のようにライバル会社が1社だけでしか使えない。

なので例として2国間での戦争の例が出てくる。今回はしっぺ返し戦略の例だ。まぁ詳しい説明は省くが。(Link見てください)

きちんと勉強した人は当然のことであろうが、このしっぺ返し戦略はプレイヤーが増えても単純化できることに気がついた。ゲーム理論では「疑心暗鬼」が非協力を生む。ところがしっぺ返し戦略は公言してしまえば読み間違いがない、なので某非合法組織の方々はコストを度外視した報復が裏切りを抑えているわけだ。裏切りが無ければ戦略の手数も増える。イスラエルもその戦略なのだろうがハマスやヒズボラが斜め上を逝っているので効果は疑問符、でも卵の数も有限なわけで費用との相談と言うところであろう。イスラエルも非合法組織も費用さえ気にしなければ多面作戦をとれるのだ。

というのは西友のCMを見たから。これはまさしくしっぺ返し戦略であろう。他流通が価格で出し抜いたら西友もそれに追随することを公表されたら、価格で出し抜くことは事実上不可能だ。なので価格で出し抜くインセンティブが失われる。他流通は最初から出し抜くことを諦めて地域でカルテル状態を維持できる。アッタマイー。

家電業界はカルテルを結べないので体力勝負を超えて、自分たちの都合で消費者に不都合を強いている。例えば「店員にお聞きください」というアレ。本当の価格が見えないので、真の物価が分からず、おまけにポイントで囲われているので、家電を買うという行為は損をしに行くようなものなのだ。それなら勉強してNETで通販の方が合理的であろう。

ところが実家の近所に西友式を敷く家電店がある、大規模ではないが繁盛しているようだ。他店のチラシで値段が決まるのだ、これは流通・消費者にとってメリットがある。

他店のチラシが即自店の価格であることが浸透すれば、定期的なチラシを入れる必要が無い。新聞チラシにもコストがかかるので他店のチラシ=自店のチラシを消費者に認知してもらえれば、宣伝費がかなり浮く。店のコンセプトを認知してもらうことに特化すればいいからだ。

この店もポイント制を敷いていて顧客の囲い込みを行っている。通常であれば複数の店のポイントカードを持っており、ポイントの付加と値段で複雑な計算をして実際に買う店を決めていると思われる。またはポイントを貯める誘惑(または計算する面倒さ)に負けて、損を覚悟でおなじみ店を決めていることであろう。この店は最安を謳っているので消費者はここで買えばポイントの散逸という心配が無くなる、必要なのは他店の価格チェックなのだ

まさにしっぺ返し戦略は複数のプレイヤーにも発揮できるツールとして利用されているようだ。しかも地域的には均衡を誘発できるか可能性も高い。

他店は真の価格が伏せられているが、さすがにチラシ価格はこれ以上値段が下がらないという前提。それすら怪しいのであれば価格.comあたりで通販だ。楽天ポイントを集めている人も多そうだ。

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議員さんの仕事

議員さんてすごく大変だと思う。4年に1回程度更新(選挙)があって必ずしも更新されるわけではない(単純に確率であれば1/2以下だ)。ここでは本来の仕事(立法)はあまり考えない、ネタなので。

まずは就職時のことを考えてみよう。自分の就職活動を支援してもらおうと思うと本来の仕事(立法)で活躍することをアピールするのは非常に難しい。なので政党と言う看板を借りて活動することになる。本来の仕事の為には看板の言いなりにならなくてはならない、看板の言いなりになるだけで就職できるのであれば看板から就職権を貰えばいいがそうは簡単ではない。個別の活動が必要になる。

個別の活動を斡旋者(有力者)の合理的行動を読むと空手形か実弾と言うことになる。空手形は「就職できたら(利権を持ってくる)運動するね」という意味であり、「就職できたらできたら」という前提であるので斡旋者は重きを感じてくれない。であれば斡旋者の周りをそういった雰囲気にすればいいのであり、その場合実弾も有効かも。周り(有権者)を躍らせるのだ、金で。

なんとか就職したら斡旋者にお礼をしなくてはならない、本来議員は立法が仕事のため、行政の部分には立ち入れないはずだがまぁそんなことはない。予算と言う奴があるのだ。予算は税の使い道を決めるのであり、斡旋者が土建屋であれば道路などの設備投資に予算を割く活動が仕事となる。そして更新を重ね地位が上になれば、斡旋者の得意なジャンルへ予算を厚くすることが使命だ。

なので議員の仕事は法律・条令を作ることではなく、予算を地元や斡旋者の得意ジャンルに導くことなのだ。それが証拠に立法は官僚・役人が起草している、それを議員は承認するだけ。というより承認する時点ではもう仕事が終わっていて、起草の時点で自分に得になる、といっても自分で事業でもしていない限り巡り巡って自分の得になるということ。

すごく面倒だ。予算を引っ張ってこれる実力があると支援者は増える。支援者が増えれば更新(選挙)は楽勝なので支援者を増やすことが議員の主目的になる。革新系という団体でも支援者を増やすことが目的と言うのは究極的には同じであろう。自分のやりたいことをやるというのは青いお題目に過ぎない。あくまでも議員は利益代弁者なのだ。自分がどう考えているかどうかは究極的には全く関係ないのだ。

なので「政治は汚い」と小僧のように言うのは、所詮小僧なのだ。私は議員に知り合いが居ないが議員に知り合いが居ることを自慢したり、お願いをしたりというのは案外普通のこと。地元が困っているというお願いは利権を呼び寄せる依頼なのだから。これらを処理して時には利権を引っ張ってきて、支援者は喜ぶのだ。なので自民党から民主党に与党が変わっても利権を頼む先が変わるだけでなんの変化も無い。

市民が議員にモノを頼むと損をする仕組みが出来上がらない限り、政権交代が起こっても何も変わらない。別に自民党が悪いのではなく、頼む国民が悪いからだ。

これは地縁・姻戚に基づいた関係だけでもない。(自治体利益を考えなくても済む)公務員団体とか、(プロ市民と呼ばれる)市民団体でも同じこと。だから政権交代が行われると「何かが変わる」というのは幻想だ。別に自民・民主その他を腐してるわけでも応援しているわけでも無いけれど。

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高尾梅郷散歩記、ではなく開発反対運動への雑感

3/7は天気が良かったので高尾梅郷まで観梅と散歩に行ってまいりました。着いたら曇りだったのですが、風も無く、梅も満開というか散り初めっぽい感じで満喫しました。丁度高尾駅付近から甲州街道が旧道と分かれるところで旧道に入っていくわけです。旧道の裏には川があり行きは川沿い、帰りは旧道をトータル2時間の散歩でした。

この付近は圏央道と中央道のジャンクションがあり、まさに圏央道の延伸のため、高尾山にトンネルが掘られようとしている状況でありました。地元住民はこの工事に反対をしているわけです。写真は切り羽(トンネルの掘削面)予定地です。なんか痛々しいのと、ジャンクションの近代的な構造物の美しさに複雑な思いを感じます。

この問題に詳しくはないのですが、住民の行動は合理的でしょう。地域の神々しい自然(厳密には自然で無いが後述)を傷つける工事は受け入れられないという感情は理解できます。例えば子供の頃に砂遊びや潮干狩りをした砂浜が護岸工事で消えてしまったら悲しむでしょう。また虫を取ったり釣りをしていた遊水地が埋め立てられたら悲しいでしょう。しかも護岸や埋め立てはその地域の住民にメリットがあります。高潮を防ぐとか農業用水が完備されさらに農地・住宅地が増えるとか。ところがジャンクション周辺住民にはこのメリットが存在しません。ジャンクションは通り過ぎるための交差点に過ぎないわけですから間接的にはともかく直接的にはメリットよりデメリットの方が圧倒的に大きいでしょう。

しかしこの反対運動もロジックが弱いのは否めません。まずは自然破壊ではないということ。首都圏の交通の便が割りと良い地域(東京駅までバスで15分+電車で1時間程度)なので里山の体を為しています。里山全体は農地・水路整備していますから自然を感じる要素はありません。切り羽予定地も植林をされているわけで自然は一切無いといって過言ではありません。この工事では自然破壊は起こらないのです。ただし高尾山は霊山なので宗教的な見地から不快感を催すとかはあるかもしれません。ということは工事反対は里山風景を壊したくないという郷愁的・宗教的見地であり、自然破壊という取り返しのつかない工事では無いということが明言されます。

またこのような工事はその地元民にとって多かれ少なかれ郷愁をぶった切る一面は必ずあるでしょう。ということは地元反対民はこのような設備を使用しているかどうか、その享受をどう受け止めているかという点にあります。うちの山への工事は許さないけど他地域の高速道路は利用しというのでは説得力がありません。

だからといって無限大に工事を進めるのには違和感を感じます。その感情が一般的だからこそ埼玉県の見沼田んぼのように開発規制がかかっている地域もあるわけです。やはりある種の開発規制は必要でしょう、自然も部分的であれば開発も仕方が無いでしょう。住宅開発のように面で開発するのと違い、道路建設は線状なので、開発される被害も小さいと思えます。

私の家の近所の例を挙げると、過去に八王子市南大沢~多摩市の開発現場を目の当たりにしたことがあるのですが多摩原林を開発して山の形が大幅に変わりました。逆説的ですが多摩原林が貴重なのか小刻みに緑地として多数残されています。首都大学東京の原林ではマムシが出ると看板に記されています。また八王子市みなみ野地区は原野だったのがこの数年でニュータウンになってしまいました。こちらは本当の自然を開発してしまいましたがそれに対する反応は薄かったようです。何故でしょう。

裏高尾地区は里山なので人が住んでいるわけです、人が住んでいるから反対運動が起こるのです。多摩地区の自然は里山もあるのですが自然が多い程度に人口が少ないので反対する人がいないわけです。土地のオーナー一族しか住んでいなければ開発は土地オーナーにとってラッキーな訳で、反対どころか賛成をするのです。

 

少し開発反対運動と言うものを考察してみました。結論が無くてすいません。

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胴鍋を錫引きせずに使用する件(重大な間違いがあります、追記参照)

2011/02/13追記)この記事のネタで用いた緑青は安全です、毒ではありません。訂正します。

 

鉄腕ダッシュは郷愁があったり、エコを重視してたり、古式農法を紹介したりと割と好きだ。頭では現代農法や食品添加物を否定する姿勢に違和感を感じつつも、根本では好きなのでいつも見ている。

ところが3/1放送の銅鍋はいただけないのではと思った。そもそも論として市販の銅鍋は錫をひいてある。これは銅が酸化した緑青が毒であり、これを防ぐために錫めっきでコーティングしてあるのだ。番組では作りたてだし、てんぷら鍋として使用していたのでイオンとして溶け出す事は無いと思うがそれでも嫌な感じ。つい先日も我が家の銅の雪平の錫が剥げてきて、青い錆が見えるようになってきたので捨てたばかりだ。環境を意識して、自爆。(でもまぁ私個人的にはこのままでいいとおもうのだけどね)

従来技術は科学で合理的だと説明するのはいいが、従来技術を賛美するあまり、現代科学での常識をおろそかにするのは本末転倒だと思うんだよね。この手の技術(農業もそうだと思うけど)は疑ってかかった方が合理的。なんせ、従来技術を使用していた頃の平均寿命は60歳以下くらいだったはずだ。

例えば塩の殺菌性を賛美して、塩辛い漬物で米を大量にを食すのは高血圧の元凶と言うこと。そういえばダッシュ村では動物性たんぱく質を全く採らないがそれも不自然と言うか不健康。従来技術を賛美して旧来の東北人が寿命が短いのを無視するのはおかしい。従来の里山を賛美するのは科学知識が十分に固まっていない若い視聴者への影響を考えたほうがいいと思う(繰り返すが私にとっては番組はこのままでいい)。

 

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環境問題の啓蒙手法は宗教的な件

ロンボルグ氏の主張である「地球温暖化は経済優先の方が効率的」という主張はある意味間違っていないと思う。なぜかと言うと地球温暖化は途上国にとって脅威であり、環境対応資金のある先進国では予防費よりも対策費の方が安くつくからである。しかし地球の生物多様性や自然環境を人類が壊すことに対する宗教的感覚において違和感があるため対策を講じている。

ところが辻褄が合わないというか、環境に金を払えるのは先進国であり、途上国にとっては目先の経済発展の方が重要である。地球温暖化問題は真の当事者である途上国は無視をこいて、(地球のためには)ロジックで必要だと主張する先進国という俯瞰が見える。そうなると当然、先進国の環境問題対策には感情の成分が多い、というか途上国のためでは無い事は確か。

この感情の成分は「正義」や「宗教」であったり、とかく合理性を論じることが少ない。1億ドルの資金をホッキョクグマのために使うよりも、マラリアで苦しんでいる途上国の人々を救う方が先だとロンボルグ氏は説く。この意見が真っ当なのは環境派が土地へのDDT残留を危惧したので人命よりも土地への影響を優先しDDT(マラリア蚊への特効農薬)を製造禁止に追い込んだことでも分かる。彼らは「人命よりも土壌の方が重要」なのだ。

私は個人的にはホッキョクグマよりも皇帝ペンギンよりも人命の方が守られるべきだと思うのだが、部族の抗争等により内戦が続くアフリカ諸国では経済的に底上げする手法が存在しないので「それだったらホッキョクグマだよね」というのは分かる。しかしそれでもDDTを認めないのは理解できない。

環境派は論理・理論よりも身勝手というか正義・宗教(私もです)なので一枚岩ではなく、脛に大きな傷を持つのだ。環境原理主義派は地球宗教というか野生生物宗教にとりつかれ、それを脅かす存在(例えばDDT・遺伝子組み換え技術)を利益・損失という点ではなく出自の点で忌避する。そして原理主義の声が大きいのでネガティブな印象を持たれる、そのアレルギーが反環境本なのであろう、彼らの違和感は十分に理解できる。

そしてようやく本題。

環境問題への提言は「煽り」の成分が高い。それで予算を勝ち取る研究者にとって仕方が無い部分はあると同情するのだけれど、煽る行為はその分突っ込みどころが多いわけで「馬鹿じゃないの」と思われても仕方が無い部分が多々ある。温暖化による経済損失の試算を見ても、「平均気温が2℃上がれば農業に打撃がある」とか子供でも分かる嘘をつく、まぁ無理な前提を積み上げれば嘘ではないのであろうが。

平均気温が上がればその土地で全く同じ作物を作り続けるのは不可能であろう、煽る識者は多分それを問題視していると思う。ところが現在でも作物は10年も経てば違う品種を作っているわけで、果樹などは大きな影響は出るかもしれないが野菜や穀物は温度に対応した作付けをすればいいじゃん。台湾やフィリピンで米も作っているし。単純に考えれば(嗜好を無視すれば)日本の穀物生産量は温暖により収量は上がるであろう。嗜好への対応だって研究しているのだから無理なわけはない。そもそも有史日本の米作は日照り(こちらはダムや溜池で対応)と冷害への克服だった、北海道でブランド米が作られるようになったのは品種開発・製造技術の賜物だ。その逆の方がよっぽど簡単であろうにその試算は温暖化被害に計上されない、収量ゼロでの計算で危機を煽るのだ。

このようにカルト的な想像をもって温暖化問題を煽り、日本の農業の未来を嘆くのは、技術に基づいた見解ではない。もっとも科学者は影響があるかという質問に最高の場面と最悪の場面を想定し、最悪の場面を述べているのかもしれない。それでも最悪の場面だけを述べるのはアンフェアであろう。

環境問題はお金がかかるので「危機を喧伝」し、予算を獲得するという行動が合理的なのかもしれない。しかしそれは予算を獲得する科学者にとって合理的なだけで、我々市民にとって合理的でない可能性は十分にある。そしてその疑いを科学者は科学で語るべきだ、正義・宗教ではなく。

 

このロジックはGMを潰せないというロジックに似ている。GMを潰せば百万人の雇用に影響があると言うが、まぁ影響があるのは当然としても、全員失業するわけではない。別の企業に就職する人も居るであろうし、GMの下請けも潰れるとはかぎらない。なによりGM自身が小さくなって再生する確率の方が高い。影響がある=首になるではないのだ。同じように温暖化で農業に影響がある=農業が壊滅する訳では無いということ。

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原価率が高い商品は消費者にとって得では無い件

標題の件、友人は「原価率が高い商品はお得」としゃべってて納得しそうになっていや違うと思った。

話はずれるが知人でUCCミルクコーヒーが好きな人が居る、甘ったるいので私は好きではないが彼曰く「無糖なんて損した気分がするやん」と大阪人らしい返答。これも原価率を意識した発言だろう。原価率が高いというのは原材料価格が高いことを意味し、例えば鶏よりは豚の方が高いからそれを同じ値段で提供しているならば豚の方を選ぶみたいな感覚であろう。

これは正しいか?まずは定価が決まっている商品から考えよう。缶ジュースやビールなどは片や120、¥230だ。であれば原価率が高いという事は贅沢な原材料を使用している、複雑な加工をして美味しいはずだということが論拠であろう。また同じ値段で売っている競合商品では経常利益率の高い企業はそれだけ原価率が低いことを示すと思われるので、経常利益率が低い方の企業を選んだほうが得だという論理だ。

定番商品は原料の取引単位が大きいことで原価を下げていることが予想されるであろう、逆に言えば直ぐに死んでしまうような商品は原価率が高い理由は取引条件(原材料・容器・加工費)由来であり、必ずしも贅沢品を使用しているとは限らない。例えば純米酒と言うと贅沢な感じがするがあれは大吟醸を磨いた米粉を使用しているカスを原料としているのだ。また取引単位の小さい新商品は原価率が概ね高めで、定番化すれば取引量が増え採算に乗ることも多いと思われる。

それよりも定番商品はその売上が落ちないように常にブラッシュアップされており、一番のお買い得だと思うのだ(同時に稼ぎ頭でもある)。

消費者にとってそうなのだからメーカーは原価率が適正な商品を作る必要がある。原価にカネをかけていい商品と言うのはありえない。なぜかと言うとそのような商品は利益に貢献しないため営業も工場も作りたくない/売りたくない。売上を上げ、固定費を償却したい、一定のボリュームを持ちたいという別の下心が作り上げる商品であろう。なのでメーカーも原価率の高い商品は売りたくないのだ。

値段に対して性能のいい商品でもメーカーが本気で売りたくないのであればそれは消費者に価値を提供できないというのと同じだ。それよりも適正利益を載せて、かつ消費者に広く価値を提供できるWin-Winの関係を構築できないと意味が無い。原価率が高い商品はそこらへんが歪なので究極的には消費者に価値を提供できていない。ということはlose-loseの関係といえるのだ。よく煮詰めないで、売りを上げる為に場当たり的な「原価率の高い商品」はゴミ以下なのだ。その商品を好きになった消費者も、売りを任された流通も、利益率が低いメーカーも全負けなのだ。

このデフレ下での正しいあり方は「低価格でも性能のいい儲かる商品」を造ること。それが消費者のためでもあるのだ。「カネを掛けたら売上が上がる」というのは短絡的な思考ただそれだけ。競合もあるであろうが、商品自体の魅力を上げる/パッケージで情緒を演出する/CMで情緒を演出するなどカネの使い方でメリハリをつけなければ特徴商品など存在できない。これら全部に資源を投入した原価率の高い商品を使うよりは消費者は上位商品を使用した方がいいという結論が導き出され、存在価値が全く無い。原価率の高い商品という存在はメーカー、消費者のどちらにも得にならない、というか両者に損なのだ。

商品設計には原価率を死守しなければならない、カネをかければ儲かるというのは幻想だ。瞬間風速的には消費者の得になるかもしれないが利益の稼げ無い商品は露出が少なく、尻すぼみになる、だって売りたくないんだもん。なので結局だれも得しない。

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販売中止のお知らせ

「消費者の責任でない」こんにゃくゼリー事故提訴~神戸新聞

 

 

水死:お年寄り、用水転落?

水は危険なため水の販売を中止いたします。危険の表示が不可能です~厚生労働省水道局

 

人口酸素供給設備が故障、人口呼吸器の酸素が一時低下

人口の酸素は事故を起こす懸念があるので使用禁止にいたします。酸素缶も禁止します。危険の表示が不可能です~厚生労働省酸素局

 

「給付金」かたる不審電話=県警が注意を呼びかけ

給付金は詐欺を助長するので廃止した上、税金に組み込みます。新潟県ではお金に危険表示は不可能です。~新潟県給付金課

 

その他、死亡事故・犯罪は全て禁止します。~内閣府

 

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カーボンフットプリント(CFP)の説明会雑感

カーボンフットプリント制度説明会の資料(別個経産省の資料1、)を入手したので論評してみる。私は参加しなかったのだが参加した人の話を聞いた雑感。主催はみずほ総研と経産省。そもそもカーボンフットプリントとは製造→流通→使用→廃棄で排出する温暖化ガス排出量をCO2換算で表記すること。

ここで重要なのは何故やるかということ。これは(1)消費者に選択する情報を与えるということ、(2)世界情勢に遅れをとらないこと、だそうだ。

(1)についてはカロリー表示を思い浮かべていただければいいのではないか、「環境」を意識している消費者に情報を与えるという意味だ。カロリーを気にしている人にカロリー情報を与えているのと同じ、別にそれによって体重をコントロールする気がないのと同じ理由で消費者の行動を動機付ける物ではないということ。

製造企業からの論理で言えば製造に対する温暖化ガス排出量で論じたいところであるが、消費者が商品を選択する指標と言うことであれば使用・廃棄を入れないわけには行かない。そうなると例えば寿命の長い蛍光灯の方が寿命の短く電力消費量の多い電球よりCFPは必ず多くなるという問題がある(排出CO2=使用電力量×寿命+製造段階だから)。また洗剤やシャンプーのように使用段階で個人差がある商品はどうするかという問題も生じる。なので商品を業界ごとにカテゴライズして、業界主導でCFPパターンを作成することを求められている。

(2)については(紹介されていたのは)英・米・独・韓の取り組みで、国際標準規格(ISO)制定に乗り遅れたくないらしい。JISに明記するためにはISOと違っていれば輸出産業は打撃を食らうわけで、ISO制定に対して関わって行きたいと言う事であろう(そしてJIS=ISOが望ましい)。イニシアティブを握りたいなら経験を積まないと議論が出来ないということ。例えば大まかなルールもそうだし、CO2排出量の1次資料(各企業の独自データ)、2次資料(例えば電力使用量に対するCO2排出量など公的なデータ)の取り扱い方とか。

ちょっと気になったのが否定的な企業が居るということだ。まぁ勝手に沈没しておけばいいのだが、趣旨を理解できずに「やりたくない」理由を述べるのは邪魔。どうせ強制されないのだからやらなきゃいいじゃん。業界全体でやりたくない業界もあるようだ。というのもCFPはサービスも含む全企業が対象らしい。例えば製造規格が厳しいDVDはどうよとか、コンテンツ制作費を含むのかとか、コンテンツ作成を含むと成ると我々メーカーでは研究費は含むのかとか。まぁそれは非現実的なので(単位研究費や単位コンテンツ制作費は生産量で激変する)、実際の製造段階なのであろう、であれば(同じ仕様であれば)DVDはどのメーカーでも全部同じと言うことになるわけだ。

業界が仮にやりたくなくてもある企業がやりたいとなればその企業が好きなように排出量算出ルールを決められることに成る。多分それでは業界が困るのでやらなくてはならないのであろう。(業界ルールは政府の確認があるので好き勝手と言うわけには行かないが)

また配布資料には海外の例としてネットバンクもあったがどういう論理なのだろうと疑問も出る。

 

感想は「役人って大変だなぁ」ということ、まぁいつも思うが。このように国益を守るために誰かが旗振り役を必要とした場合必ず役人が取りまとめる。そしてそれは誰かを損させる為ではないので調整は難航するであろう。今回のことも大まかな原則を決めただけでも勝手を言う企業もあるようだし。

次にCFPの本質は「栄養(カロリー)表示」みたいなモノで、CO2を少なくしたいという思いはあるもののそれを強制する物ではないということ。表記をしない自由も当然ある。

では需要はあるかという点では既にあると思う。例えばJR東海は新幹線が飛行機に比べエコ出張だとキャンペーンを張っている(費用を支出している)し、ルールがしっかりしてくれば新たな価値を生み出せる。そう価値なのだ。価値の切り口が増えるということは商機が増えるので企業は無視できない。多分そこが本質。

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受動喫煙の被害がよく分からない件

神奈川県は受動喫煙防止条例を本気で作りにきた。そこでロジックを調べてみたのだが完璧じゃん。少なくとも論理は完璧である。簡単に流れを説明するとWHOで「受動喫煙防止」を決め、国が批准し、国が健康増進法を制定したことを受けたものである。受動喫煙の健康被害のリスクはおいておいてロジックとしては完璧じゃん。

喫煙して健康被害は明白なのだから、受動喫煙でも健康被害はレベルを無視すれば当然起こり得る、自明。ではそのリスクと言うか程度はどうなこかという点だ。で、Wikipediaの登場だ。どうもよく分からないのであるが、被害の量はよく分かっていないというか参考文献が2本しかないらしい。水でも酸素でも人を殺せるご時世にただ「ハザードがあることは明白だ」という理由で喫煙が妨害されるのは論理的におかしいと思う。そもそも論として神奈川県は癌での死亡率を下げようとしているのだが、その第一は乳癌の撲滅だ(これはこれで対応をしている)、そして次は大腸癌なのだ。なんか無理やり感が香る。

関係ないが寿命が延びれば癌で死ぬのは悪くないと思うのだ。資料では平均寿命に関する言及は一切無い。であれば癌で死ぬのが県として嫌であれば殺人とか自殺とか、とにかく寿命を下げれば癌化率は減るよ。少なくとも乳癌以外の若年癌を避ける啓蒙にはなってない。でその結論が「受動喫煙防止」だから、民主党万歳。

「喫煙は迷惑をかけるからだめだ」という本音を受動喫煙を否定する(理論武装する)のであれば、それは逆に危うい論理だと思うのだ。呼吸器疾患の大きい原因は当然自動車(特にディーゼル)だし、健康被害が明白で訴訟も起きている。また職場での喫煙による受動喫煙を排除したいというのは分かる、しかし職場の禁煙(分煙)は進んでいる(と理解している)。それを民間の娯楽施設で強要しなくてもと思うのだ。スタバは禁煙だし、レストランでもランチタイムは禁煙は多いと思う。なので健康被害を重視するのであればまずはクルマだろと思うのだ。それが屁理屈というのであれば、受動喫煙自体が屁理屈だ。健康被害を考えた場合、公共の場はほとんどが禁煙なので、少し民間の施設へ入る際に気をつければ済む話なのだ。しかも毎日6時間くらい居酒屋に入り浸らなければ健康被害は存在できないであろう(それでも直接喫煙しているわけではないので健康被害が生じるのか怪しいが)。

 

以前のエントリーでも触れているが、この条例に反対しているわけではない。実験をすればいいと思っている、そして私の飲みに行く回数が減ることを期待している。飲みたければ新宿でも品川でも町田でもあるのだから。そして経済がどれだけ落ち込むか、特に横浜駅西口がどうなるか純粋に興味がある。(事業者には死活問題かもしれないがあくまでもロジックとしての考察)

横浜市では横浜駅の禁煙地区を増やした。私は「ここが禁煙」という主張よりも「ここで吸って下さい」という方が合理的だと思うのだがそうはならなかった。クソ名古屋駅のようだ(違反者多数、だって当然でしょ)。人が多いところでは吸わないが、吸える場所を明示する方が誘導できると思うのであるが。誘導を失敗したので過激論者は「もっと厳罰を」と言うが、厳罰主義で上手く行かないのは2千年前に秦の始皇帝が厳罰主義で失敗した経験を生かせないというか無知で馬鹿なのだろう。知能が足らん。

政治的な対応はちょっとおいておいて本題。受動喫煙で健康被害の実例、または現実的な可能性はあるのだろうか?まず無いと思うのが普通なのだが。

 

もう1つ疑問。神奈川県は「煙草はダメ」なのだが「酒は適量」を推奨している。基本的には毒である(致死量のハードルの低い、病気を誘発する)アルコールを飲まない方が健康にいいと思うのだが、未成年は除く飲酒経験者の方が優位に寿命が長いのであろうか?

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雇用創出の定石

雇用を創出するのが大変だという論調には多少の違和感がある。日本の場合、雇用は直ぐにでもひねり出せる、まぁそれが適当であるかどうかは分からないが。

小泉氏の「改革」である「官から民へ」は単純だ、雇用創出なのだから。今さら何を言ってるのかと思う。国(省庁)が関係団体に安全やらを担保に許認可権を独占し、それに守られた業界団体が既得権を有して競争が緩和されているというのに異論は無いと思う。古くはヤマト運輸が郵政省に喧嘩を売ったとか(古くはないか)。(国民の安全を標榜する)役所の許認可権を准じようとすればとかくコストがかかるので、新規参入がママなら無いのだ。まぁ国民も自業自得といえる。なにか問題があると「政府の責任」なので政府は批判されないように完全を期する。完全を期するためには参入プレイヤーが少ない方がコントロールしやすいので業界団体に管理させ、お墨付きを与えるという図式になる。当然高コストだ。しかし国民がそれを望んでいる。

前回のエントリーで述べたように国が雇用を創出するには税金を使うしかない、福祉には税金も料金ももっと遣ってもいいと思うが。

逆説的に言うと規制を緩和すれば参入プレイヤーが増えるので雇用が創出される。国民が「国で面倒見てもらわなければ困る」などと寝言を言わなければ雇用は直ぐにでも出来るのだ。

例えばNEXCO、いわゆる道路公団だ。ファミリー企業が跋扈しているがそれは当然。いくら民営化したといっても民営化の結果の「経営責任」とやらを問われないので黒字であれば経営者は無茶をしても許される(もっと儲かったはずだという追求を受けない)、やりたい放題の結果が天下り企業群の存在であろう、株主不在の典型例だ。政府が全部ファンドに売って効率経営を行えば生産性は上がるであろう、首になる人も多いと思うけど。首にした分だけ雇用は創出されるであろう。

同様に電波、行政サービス、法曹、農政、警察、消防、病院。思いつくだけでもいろいろある。これらに参入を広く認めると雇用は増える。もちろん、行政全般がサービスの最低保証を行っていることを放棄するということと同義なのだが。

今後も日本は日本版「英国病」から脱出できないであろう。政府・行政がどの程度国民に最低保証するのかは議論が必要だと思う、そして行政は基本的に高コストだ(行政は無謬性とか論理性を求められるので効率的ではない)。

 

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農業で雇用を吸収は食料自給率が上がる件

農業が雇用を吸収する受け皿になるというのはどう考えても理解できない。市場がでかくなっている(成長している)のであれば理解できるがそうではないらしい、じゃあ税金を注ぎ込むか。本エントリーは統計を調べるのをサボってます、突込みがあれば修正するのでお願いいたします。

米市場だけを考えると減反の成果は乏しく米市場は低迷している。まぁ(昔で言うと)自主流通米が増えて、政府米の市場が小さくなっているのかしら、どちらにしても米市場が小さくなっていることには変わり無いであろう。では畜産・野菜はどうか?デフレ下で収益を上げるのは難しいでしょう、おまけに経済が収縮している時点で農業に雇用吸収力があるとは思えません。兼業農家が米作を赤字覚悟でやっているとすると専業が太刀打ちできるはずもありません。

私は農業の可能性は高品質・高価格の製品を研究・開発・流通革新を視野に入れた分業体制を敷けばある程度は生産性が上がるとは思います(実際の成功例はこの分野ばかりです)。しかしそれは庶民向けではなく、ぜいたく品の類で本質的には輸出を視野に入れなくてはなりません。庶民が食う物を日本の専業農家が作っていては生産性に限界があります。農業生産額を上げるという指向は貧乏人は相手をせず、カロリーも関係ありえません。

市場主義では農業生産額が問題になるため、食料自給率は一切関係なく、市場が成長しなければ雇用にも結びつきません。誰にでも分かるだろうに。

奇策はあります、雇用や食料自給率をあげる奇策は。簡単です、市場規模を大きくすればいいのです。減反を廃止して米の買入価格を倍にすれば農家の所得も、新規雇用も創出されるでしょう、余った米は格安で畜産や肥料に回せばいいのです、そうすれば自給率も向上しますし、保管費も考えなくて済みます。バイオエタノールやバイオプラスチックに回すのもアリです。差額は当然税金です。

あくまでネタだけどこれくらいやんないと農業で雇用は創出できない。所詮税金で雇用を創出するのは無理がある。もう保守以外の設備投資は縮小気味であろうし。さらに税収に期待する構図は若年層への負担が高まるし。

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誰に何を売るか

再びデフレ圧力があるのは分かりますが、安ければいいというダンピングに生きる道があるとは思わないのですが、それに突き進んでいる業界も多いようです。私は技術屋なので論理を重んじるのですがやはり訳が分からない事象が多数観測されるようです。以下具体的なブランドを出しますがあくまでも私的脳内シミュレーションの話です。

BMW318の性能でカローラブランド、少し高価、原価率が50%超という商品を上市しようとします。こんな商品は消費者にとってめちゃうれしいと思われるのですが、誰が買うのでしょうか?

(1)BMWユーザー:クルマはステイタスと言うか情緒の部分が多いので全く同じ中身でもスキンとブランドが違えば購入する事は無いでしょう、安くてもカローラブランドであればBMWユーザーにとって「安い」ということはなんの価値もありません、もしその商品がBMW318と性能が同じなどと言えばBMWの価値が下がるだけでしょう。

(2)カローラユーザーにとって情緒を重んじるBMWの「情緒」の部分に幾らカネを払うのでしょう?別に特殊モデルを待つまでも無く、普通のカローラがいい訳です。ディーラーオプションやメーカーオプションでスポーツモデルはありますがあくまでも特殊な存在です。10万円のアルミホイールが付いて5万円高、これがいい程度です。

(3)他ブランドユーザー:興味なし。

結局、ブランド価値をダンピングしても売上が上がるとは思えない。それよりは既存ブランドの価値低減を進めるだけだ。そして誰に売るのかが明確で無いことを証明するだけ。

クルマとは違う業界ブランドで説明しよう。AGF社のインスタントコーヒーを軸に話を進める(関係者ではないので間違いがあるのは当然、モデルにあまり突っ込まないでください、不快なら削除します)。

AGF社はブレンディ・マキシムのブランドがある、それに対応するトップメーカーのブランドはゴールドブレンドとエクセラだ。価格差もゴールドブレンド>マキシム>>エクセラ>ブレンディとする。

ここでマキシムが低価格路線を敷くとする、ゴールドブレンド>マキシム>エクセラとなってしまう。マキシムの価格戦略帯がゴールドブレンドとエクセラの中心に持っていくというのは分かる。しかしそれをすればブレンディの戦略もエクセラの下級ブランドに下落することを意味する。また消費者は味に対してそこまでシビアで無いので(ブランドの信頼で購入しているだけなので)、マキシムを初めブレンディの品質を落さざるを得ない。既存のマキシムの顧客に不味い物を売るわけだ、ブレンディも同様。当然であるが売上はともかくブランド力は低下し、デフレ下で売上が伸びなければ収益性が圧迫される事は想像に難くない。そして品質を落さないことは消費者に得になるのかという謎だという点だ。

結論から言えば決して消費者にとって得にはならない。なぜならこの高度な消費社会でのブランド力は商品の品質を表していなくては成らず、過剰品質を認めてくれるほど甘くはないのだ。具体的に言えば、ゴールドブレンドの顧客がブランド力の下がったマキシムを買うことを無く(商品の品質を評価すらしてもらえない)、高度にカテゴライズされた市場でエクセラの顧客が手を出すとも思えない、仮にエクセラユーザーがフリーズドライであるマキシムに手を出しても所詮特売の時に浮気をする程度であろう。そして旧マキシムユーザーは安値で買えて得したと思うのは一時的で味の落ちた安いマキシムと買い続けるかどうかは分からない。仮にAGFが品質を落さなければ収益を圧迫するだけで、新たな顧客は望めない。そしてその結果AGFは品質を落さずにダンピング戦略に勝てないということになる。

要はある期待値を望む顧客に性能をアピールしたブランドでもって供給できるかという点だ。先のインスタントコーヒーで言えばブレンディの値段を下げてもゴールドブレンドの顧客は取れないということ、そしてブレンディの顧客が離れるということ、品質をいじっていなくてもだ。

ある想定した価格と性能を下級ブランドで全てを請け負うというのは無理なのだ。また上級ブランドの価値を下げると、値段が下がった分だけブランド価値が下がり、流出<流入が得られたとしても売上が上がらなければ意味が無く、流出=流入であればその時点で単純に損なのだ。先の例で言えば流入<流出のリスクも大きい。

結局、誰に何を売るのか、と言う点とブランド価値を適正に見れているかという点に尽きると思う。デフレ下でブランド価値を段々とダンピングして、従来のポジションに新規ブランドを立てるのは分かる(それでも新規ブランドは定着率が少ないのでリスキーだが)、でもブランド秩序を再確認して、それに伴うラインアップを構築した方がいいんじゃないか?

前段の例で言えば、BMWの顧客にカローラの値段でと言っても、カローラの顧客にBMWの情緒をと言ってもどちらにも受け入れられない中途半端に陥る。要は誰に何を売るのかが明確で無いブランド戦略はダメなのだ。

逆にデフレ下でブランド戦略で間違う企業が少なく無いであろう、という意味ではきちんとしたブランド戦略をもつ企業はかなり有利だ、売上落ち込み量はボンクラ企業が引き取ってくれる。

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