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「なぜ人を殺してはいけないのか」に対する違和感と雑感

なぜ人を殺してはいけないのか~google

そうか割と皆混乱しているようだ、上位の記事をつらつらと見ても回答はあまり論理的ではない感じがする。

これはコミュニティの中では倫理と刷り込まれているので論理的に思考していないからであろう。
当然であるが戦闘中の兵士や警察の狙撃班はこの中に含まれない。これも原理原則から外れる事例として受け取られているようだ。

私は倫理的な問題を論理的に説明できない筈は無いと考えている。その倫理が成立した背景や理由が必ずあると言うことだ。なので全ての倫理・道徳は論理的に説明できると考えているし、考えなくてはならないと思っている。

その根本は「利」にあると考えている。「利」が絡まないと誰もそのルールは守らない、それを「理」で説くのが論理、それを丁寧に説明するのが面倒だし、子供へにはそもそも伝わらないということで「倫理」「道徳」を利用する。主は利を補強する論理で、その子供が倫理・道徳と言う構図を頭に描いている。

基本的な疑問に対して、「当たり前だ」とか「常識だ」というのは最低の反応で、何も言わない方がまだましだ。

 

私なりの答えは

「私(と家族)が殺されたくないから」である。その為には所属しているコミュニティで「人を殺してはいけない」というルールを作り、皆が守ることが手っ取り早い。皆に守らせるためには強制力も必要だ。人間1人では生きていけないので村八分にするとか、警察力を形成して刑罰を与えるということもあるであろう。それがそのコミュニティを形成しているメンバーで共有している例が多い。それが答えだ。

なので内戦が勃発していたり、ゲリラ戦争が行われている地域では「人を殺してはいけない」というルールは曖昧であろう、というか部族内だけに限定される性質であろう。遭難先で食料が足らない場合もそのルールは破棄されるかもしれない。

なので「人を殺してはいけない」は普遍的なルールでもなんでもなく、それをコミュニティメンバーが合意して初めて成立する。もちろんその範囲は限定的だ。

 

ルールと言うのはそのルールがある方が得だから作るのだ、そして守った方が得だから守るのだ。殺人・盗み等の刑法はおろか、税法なども皆がそのルールを守った方が得だから作るのだ。商売にルールが無ければ「自分はいつ騙されないか」とびくびくしながら生活しなくてはならないし、道交法が確立していなかったらスピードを出してクルマで走るなど自殺的だ。

強制力が無くても皆が得だと思えば守られるルールもある。駅での整列乗車や渋滞時の譲り合いなどだ。駅で皆が好き勝手すれば時間を読むことが難しくなるし、渋滞では譲り合った方が結局早く着く。中国などでは渋滞がものすごいみたいだが、インフラの貧弱さよりもルールを守った方が得だと言う事が周知されていないからだと思う。近年の東南アジアも大渋滞が減っているようだし。

逆説的には皆が守っても得でないルールは廃れる。日本は原則左側通行であるが「人」だけは右側通行である(道交法)。これはクルマの運転マナーの過渡期に交通事故が増え、前から来るクルマから身を守るように注意しなさいというルールである。クルマのマナー向上や人間の命の値段が上がったおかげで、「人を轢いてもいいや」と考える人は皆無になった。原則左側通行なので電車など人の流れに影響するインフラも左側通行、エスカレーターも左側通行が多い。

なので鉄道事業社は「ここでは左側通行」ということがはびこり、そこかしこでローカルルールが跋扈して、本家道交法は風前の灯火である。しかし法律は生きているので法律通りの行動をすると大迷惑だったり、施設のローカルルールがエリアのルールに昇格したりと不便極まりない。皆が守った方が得なルールが過渡期にあるといえよう。

 

話を元に戻すとどんなルールにも理由がある。倫理は論理的な不便さを補う物だ。それを教えるのが「道徳の時間」だと思うんだけどね。

この辺りを下敷きにしてます

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