数年前のこと、その決着が終わったのが6月ごろだったような気がするけれど、弊社があるくだらない訴訟に巻き込まれたことがあった。結果として、弊社にはなんの問題もないという裁判所の判断がくだり、小生にしてみればヤレヤレとなったものの、その過程でずいぶんとしんどい思いをすることになった。なにせ、こちらは法律的にはただの素人である。W弁護士にいろいろとご教示いただき、難を逃れてヤレヤレという疲労感しか残らなかったことがある。
そのとき、ある判決文を見るため、東京地裁に出かけた。簡易裁判所の方に回されたりと、お役所的なたらいまわしを味わわされたのち、地裁本館(という表現があるのかどうかを知らない)の閲覧室でお目当ての判決記録を読むことができた。アレ?民事の訴訟記録ってだれでも見られるのだっけ、それとも関係者しか見られないのだったか、そんな基本的なことも忘れちゃっている。
結果として、その訴訟記録に目を通そうが通すまいが、弊社の問題としてはさしたる重要性もなかったのではあるが、小生にしてみれば会社の存亡がかかっている事案だけに、必死な気分で記録を読むことになる。ところが、カウンターの向こうにいるおじさんたちがやけにうるさいのだ。
暑い季節に冷房がさほど効いていない部屋である。省エネルックということなのか、ノーネクタイに半そでのカッターシャツを着たおじさんたちが数名、右往左往している。こいつらなにやってんだ?といぶかしく思い、彼らを観察していると、どうやら、閲覧者の一人が勝手に記録を持ち帰ってしまったようなのだ。「さっき申請したおばさん、本当に姿がどこにもないの?」と中心と思しき人物が周りのおじさんに声を荒げて確認している。「申請書の会社には電話したの?」「したんですけど、会社にはまだもどってないって言うんですね」「それは困ったなあ。ケータイの番号とか書いてない?」「記されてないですねえ」なんて会話が繰り広げられている。
ならばこのドサクサにまぎれて、小生も閲覧中の書類を持って帰ろうかとイタズラ心がもたげてくるけれど、おじさんたちをこれ以上困らせてもしょうがない。見るべきほどのことは見たのでおとなしく会社にもどることにしたけれど、まるでカフカの小説の一場面でも味わっているような気分になった。彼らにしてみれば、書類管理こそが唯一絶対の存在理由である。それを根底から踏みにじる失態を仕出かしてしまったのだから、あわてるのも無理からぬところだ。
そういえば、その昔に東京地裁刑事部のエースと言われていた某裁判長(以下、某氏)、書類紛失の責任をかぶらされて退職に追い込まれたそうだ。この話、もしかしたら裏があるのかもしれないけれど、某氏はすぐ弁護士に転進し、のちにテレビのコメンテーターなんかもされていたらしい(それは見ていない)。ところが、世のなかには悪い人がいるもので、某氏が現役の裁判長時代、彼が学生のころは反帝学評(反帝学生評議会、社青同解放派の学生組織)に属していたというビラを地裁前でまいたのだ。
小生にしてみればただの笑い話にすぎないが、某氏が担当している刑事事件の弁護士にしてみればたまったものじゃない。つまらないことで裁判長を怒らせて、ひどい判決をくだされたら元も子もないではないかというわけだ。あわててビラをまいている悪い人のところにいって、「それはやめてくれ!」となったそうである。その甲斐あってかどうかは知らないが、現在の目線に立てばわりとまともな判決だったようにも思う(当時はその判決結果に憤慨していた)。
しかし、思い出すことが、どれもこれもカフカ的に感じる。カフカをまた読み返してみようかな。新たな発見があるかもしれない。特にカタストロフィの迎え方は今後の人生の糧になりそうだ。恥辱だけが生き残るように思うのかな。
それはともかく、いまだカタストロフィを迎えたいわけではない。なんとか経営危機を回避しなければならない。そのためには金欠ウツから脱却しなければならない。さて、そのためにどうやっておのれにムチ打つか。というわけで、遠藤ミチロウのパフォーマンスをYouTubeで観ることにした。その映像を酒を飲みながらずっと観ていて思うに、若いころの姿よりも、晩年の姿の方がカッコいいのだ。演奏している曲が若いころに演じたものであったとしても、映像で観ているかぎり還暦を過ぎたミチロウは毒々しいのに、どこか自然体に映る。つまらない蛇足だが、ここで映像という語にこだわるのは、最近の方が映像技術が進んでいるということを意味している。
以前、ザ・スターリンのファンであったことは一度もなかった旨を述べた。スターリンの時代、小生は田舎のガキでしかなかったから、そのライブに行くことなんて不可能だったろう。しかし、遠藤ミチロウが亡くなったいまさらになって、スターリンに憧れを覚えてきている。こんなことならば、スターリンはともかく遠藤ミチロウのライブに一回くらい行けばよかったなあと後悔しつつも、そんなことはあとの祭りにすぎない。現実は現実として受け止めることにしよう。
そのとき、ある判決文を見るため、東京地裁に出かけた。簡易裁判所の方に回されたりと、お役所的なたらいまわしを味わわされたのち、地裁本館(という表現があるのかどうかを知らない)の閲覧室でお目当ての判決記録を読むことができた。アレ?民事の訴訟記録ってだれでも見られるのだっけ、それとも関係者しか見られないのだったか、そんな基本的なことも忘れちゃっている。
結果として、その訴訟記録に目を通そうが通すまいが、弊社の問題としてはさしたる重要性もなかったのではあるが、小生にしてみれば会社の存亡がかかっている事案だけに、必死な気分で記録を読むことになる。ところが、カウンターの向こうにいるおじさんたちがやけにうるさいのだ。
暑い季節に冷房がさほど効いていない部屋である。省エネルックということなのか、ノーネクタイに半そでのカッターシャツを着たおじさんたちが数名、右往左往している。こいつらなにやってんだ?といぶかしく思い、彼らを観察していると、どうやら、閲覧者の一人が勝手に記録を持ち帰ってしまったようなのだ。「さっき申請したおばさん、本当に姿がどこにもないの?」と中心と思しき人物が周りのおじさんに声を荒げて確認している。「申請書の会社には電話したの?」「したんですけど、会社にはまだもどってないって言うんですね」「それは困ったなあ。ケータイの番号とか書いてない?」「記されてないですねえ」なんて会話が繰り広げられている。
ならばこのドサクサにまぎれて、小生も閲覧中の書類を持って帰ろうかとイタズラ心がもたげてくるけれど、おじさんたちをこれ以上困らせてもしょうがない。見るべきほどのことは見たのでおとなしく会社にもどることにしたけれど、まるでカフカの小説の一場面でも味わっているような気分になった。彼らにしてみれば、書類管理こそが唯一絶対の存在理由である。それを根底から踏みにじる失態を仕出かしてしまったのだから、あわてるのも無理からぬところだ。
そういえば、その昔に東京地裁刑事部のエースと言われていた某裁判長(以下、某氏)、書類紛失の責任をかぶらされて退職に追い込まれたそうだ。この話、もしかしたら裏があるのかもしれないけれど、某氏はすぐ弁護士に転進し、のちにテレビのコメンテーターなんかもされていたらしい(それは見ていない)。ところが、世のなかには悪い人がいるもので、某氏が現役の裁判長時代、彼が学生のころは反帝学評(反帝学生評議会、社青同解放派の学生組織)に属していたというビラを地裁前でまいたのだ。
小生にしてみればただの笑い話にすぎないが、某氏が担当している刑事事件の弁護士にしてみればたまったものじゃない。つまらないことで裁判長を怒らせて、ひどい判決をくだされたら元も子もないではないかというわけだ。あわててビラをまいている悪い人のところにいって、「それはやめてくれ!」となったそうである。その甲斐あってかどうかは知らないが、現在の目線に立てばわりとまともな判決だったようにも思う(当時はその判決結果に憤慨していた)。
しかし、思い出すことが、どれもこれもカフカ的に感じる。カフカをまた読み返してみようかな。新たな発見があるかもしれない。特にカタストロフィの迎え方は今後の人生の糧になりそうだ。恥辱だけが生き残るように思うのかな。
それはともかく、いまだカタストロフィを迎えたいわけではない。なんとか経営危機を回避しなければならない。そのためには金欠ウツから脱却しなければならない。さて、そのためにどうやっておのれにムチ打つか。というわけで、遠藤ミチロウのパフォーマンスをYouTubeで観ることにした。その映像を酒を飲みながらずっと観ていて思うに、若いころの姿よりも、晩年の姿の方がカッコいいのだ。演奏している曲が若いころに演じたものであったとしても、映像で観ているかぎり還暦を過ぎたミチロウは毒々しいのに、どこか自然体に映る。つまらない蛇足だが、ここで映像という語にこだわるのは、最近の方が映像技術が進んでいるということを意味している。
以前、ザ・スターリンのファンであったことは一度もなかった旨を述べた。スターリンの時代、小生は田舎のガキでしかなかったから、そのライブに行くことなんて不可能だったろう。しかし、遠藤ミチロウが亡くなったいまさらになって、スターリンに憧れを覚えてきている。こんなことならば、スターリンはともかく遠藤ミチロウのライブに一回くらい行けばよかったなあと後悔しつつも、そんなことはあとの祭りにすぎない。現実は現実として受け止めることにしよう。
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