新宿へ（１）

中秋の名月となる日の前日、新宿の某碁会所へと向かう。ちょくちょく参加させていただいている某会の月例大会に来ないかと、Ｎさんに誘われたからだ。７月にもその会には参加させてもらったけれど、そもそも新宿に出かけたのはそれ以来かもしれない。今年のあまりの猛暑に、新宿にも出かけていなかったのだ。そして、久しぶりに新宿に来ると、あまりの人ごみに戸惑ってしまう。小生の徒歩圏の池袋にしてもそれなりの雑踏なのではあるが、新宿のそれとはどこか質がちがう感じがする。新宿に出かけたあと池袋に着くと、なんだかホッとしてしまうことがたびたびあるからだ。
どこかのおのぼりさんみたいなことを書き始めてしまった。新宿も好きだけれど、池袋も好きなんだということを述べたかっただけであった。池袋の場合、大型量販店（ここでは、百貨店、書店も含むとする）が密集しているので、買い物が便利だという利点もある。あとは、東武百貨店と西武百貨店とに早く橋を架けてもらい、双方の回流を便利にしてもらいたいものだ。
それはともかく、囲碁を打つため日曜の午後新宿に出かけた、と話をもどす。前にも述べたかもしれないが、その会は手合い（ハンディのつけ方）を結構厳密にしているところで、しかも、その碁会所はアルコールなしときている（タバコはOK）。アルコールはともかく、その手合いの初期設定が小生に甘かったようだ。つまり、小生に有利なように現状ではなっているということである。対局を重ねていけば自然にある妥当な地点に落ち着くのだろうけれど、こちらもたまにしか行けないので、現状ではそこまでなかなか進んでいないということである。
みなさん集まったところで、すぐ対局ということになった。小生も、前回ボロ負けしたＮさんと、また９子局黒28.5目コミだしなるとんでもないハンディで指導碁を打ってもらう。いかにとんでもないかといえば、小生が囲碁を覚えたばかりの人相手に打つくらいのハンディのつけ方であるからだ。もちろん、小生の黒持ちである。ところが、黒が白の大石を撲殺して勝っちゃった。Ｎさんがなぜ大石を見殺しにするような打ち方をしたのかがわからない。そこでつい、「なんで、白死んじゃったんですか？」などと、とぼけた質問が口から出てしまう。「それは腹巻くんの攻めがよかったからだよ。特に最後の引きはよかったなあ」「ああ、いや、ごめんなさい。そういうことではなく、途中、この白の一団を生かす手なんてわけなくあったと思うんですけど、どうして助けなかったんですか？」「単純に、左辺の黒は死んでいるけれど、そのコウの振り代わりで右下に大きな黒地ができちゃったし、右上と左下の黒も厚い。そうするとコミの28.5目分に白はまだ足りないんだよね。それで上辺で稼がせてもらって、あとの白の一団は黒が間違えれば生きるという形にしないと、この碁に白の勝ちはなかったということなんだ。だから、腹巻くんの最後の攻めは本当に見事だったよ」
はあ、そういうことですかと、ようやく手品の種明かしをしてもらったような気分だ。下手には上手のヨミがまったく理解できていないので、あちこちに繰り出されるちょっかいを全体的に把握できていない。ついつい、部分的な生き死にとしてしか受け止められず、そこで石がポロポロ死んでいくと、盤面全体がダメなのかという絶望的な気分になってしまう。ところが、盤面ってもっと広いんだなあということをＮさんに教えてもらったような感じである。
先述のとおり小生にはいささか有利な手合いなので、その日小生は４戦全勝ではなはだ気分をよくさせてもらった。しかも、みなさんに殺し屋と呼ばれたのは、正直にうれしい。殺し屋とは、いまは亡き加藤正夫元日本棋院理事長の若きころのニックネームであるからだ。その加藤先生の弟弟子が、小生の敬愛してやまない趙治勲先生ということになる。しかも、加藤先生ゆかりの碁会所が福岡市の六本松（六本木ではない）なるところにあったのだ。
小生も若いころ、その六本松の近くに住んでいたことがあった。ところが、囲碁からまったく離れた10年間の最中で、看板に「加藤正夫」なる人名を見つけてフーンと思えども、いつも通り過ぎるばかりでしかなかった。いまさら、その六本松の碁会所に足を踏み入れなかった自分を悔いてもしょうがないだろう。周りに将棋の好きな奴はいても、囲碁を打つ奴はいなかったし、さらには囲碁部のようなところに入れるほどの棋力もなかったわけである。しかしそれゆえに、いまさらながらも「殺し屋」と呼ばれて、悪い気のするわけがないだろう。
そして会も終わり、みなさんから反省会に飲みにいこうと誘われるが、山の神の顔がちらつきその日はそのまま帰宅することにした。アルコールを一滴も入れないまま家にもどると、妻が怪訝な顔をして「あれ、あんた、きょう酒飲んでくるから、帰り遅くなるって言わなかった？」。なんだよ、だったら、反省会に参加したかった。