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ピカソ・マニマニア

ピカソの91年を 詩にしました。
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おおばんぶるまい について  ”吾妻鏡” 

2011-10-26 16:53:14 | 吾妻鏡

今日は 震災で延び延びになっていた NHK文化センターの

8か月ぶりの講座でした。

 

吾妻鏡 全52巻中(うち一巻抜け) 今日から9巻目に入ります。

 

文治5年(1189年)正月3日 おう(土完 二字くっつける)飯例の

ごとし。 おう飯とは 当時一汁一菜に1.5合の酒、 調味料の乗った

経木の盆が 三枚出されること。 大盤振る舞い はここからきています。

これを供するには 厳格な順番があり 頼朝の信頼篤い者順です。

この年は 率いる兵は3百騎ながら(一万を越す兵を擁する者もいた)

旗揚げの第一人者、 頼朝が父とも仰いだ 千葉常胤でした。

 

続いて 御弓始です。 当時 武士とは 弓を使う人でした。

選ばれたのは 頼朝の異母弟範頼の部下で 武士の心意気を

頼朝に高く評価された 庄司行平です。  行平は9日の頼家の

弓始めでも 一番射手をつとめました。   この日の4番射手の控えに

海野小太郎幸氏が 選ばれています。  幸氏は 人質となった木曽義仲

の嫡男・義高についてきて 義高の影武者的存在でした。 義高亡き後も

弓の腕を買われ 頼朝に用いられました。  

 

ところで 鎌倉武士の食卓は 経木をランチョンマットのように用いた 

素焼きの器で 使い捨てでした。  庶民の食事は 木や塗の食器

だったそうです。  経木の上に素焼きの器がのったものが 沢山

出土したら それは五位以上の身分の高い武士の屋敷があったと

いうことらしい。

 

      風呼   でした         

 

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ああ私のお気に入りNHKカルチャーの"吾妻鏡"講座が・・・

2011-03-19 13:21:02 | 吾妻鏡


先ほど NHK文化センターから電話があり 来週の”吾妻鏡講座”が 中止になったとの連絡を受けました。


3月31日まで 全ての講座が お休み。

3月どころか 4月再開講のメドもたっていないそうです。


町田NHK文化センターは 旧長崎屋の 古い建物の中にあったので 地震によるダメージが大きかったようです。


鎌倉びとたる先生の 絶妙な講義が聞かれなくて 本当に残念です。


4月の先生引率の 鎌倉紀行に期待しよう。


よみうり文化カルチャー町田は 計画停電にあわせ 細かな対応をしているようです。


玉川高島屋の コミュニティクラブたまがわは 封筒の表にホームページアドレスが書いてあるに拘わらず そのホームページには ひと言も震災についても震災による休講につても 書いてありません。

月曜朝の当日の休講について あたふたと電話があったときに きつく注意したのに。

コミュニティたまがわは 今どき(よみうりだって とうに止めている)二年に一度、年会費 5250円を取っているのに。 何の為だ、 もう払ってやんない!

たまがわの 危機感のなさに 怒っている

カルチャー難民の


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精進潔斎のことなど  『吾妻鏡』 より

2011-02-24 23:58:14 | 吾妻鏡


昨日(2月23日)は 月に一回の『吾妻鏡』 講読の日でした。


天皇のおわします京都では 血を忌み嫌い 参殿する者は少なくとも一週間は 精進潔斎をする慣わしでした。

平安400年間は 京で死刑が行われなかったくらいです。


頼朝もそれに習い 常に精進潔斎をしていたようです。
魚肉が必要な時は なるべく干したものを食していた。
 (そうか それで 地獄谷と呼ばれる刑場は 切り通しの外なのか)


余談ですが 室町以降の 武士の裃は 精進潔斎をした者だけが着用できました。 


文治4年 11月18日の 吾妻鏡 の記述に 大庭景能(おおばかげよし)宅に 狐が死んでいた。 怪異たるによって 閉門す とあります。

けがらわしいので 自宅蟄居です。 ずる休みの口実に使われるので その事実を確かめに行く役もあったそうです。

27日に 大庭景能の父親の墓が 荒らされます。 狐の死との係わりが詮索されます。


1180年 平重衡(当ブログ 2010年9月22日 ”恋わずらいと 天然痘” 参照) による兵火で 東大寺は徹底的に破壊されます。

能・歌舞伎で有名な 『勧進帳』 にもあるように 頼朝も東大寺再建に 多大な資金援助をします。

源氏の影響が大きくなるのを恐れる 東大寺の僧兵との いざこざなども記述されています。 悪いのはひとり二人の僧だけなのだから 首領格だけ罰すればいい と 頼朝はなかなか太っ腹です。


奥州に匿われている 義経について 後白河法皇との駆け引きも ますますです。

つまり 頼朝の東国における勢力拡大を恐れる 後白河法皇は 義経を差し出せば 藤原氏を不問にすると言うのですが 頼朝は 藤原氏を潰しにかかりたい。


そんなこんなの 『吾妻鏡』 巻八です。


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梛(なぎ)の木の話

2011-01-26 23:53:13 | 吾妻鏡


今日 1月26日は 月に一度の 吾妻鏡の講義の日でした。


文治4年 1188年10月 相変わらず 西の後白河法皇と 東の頼朝との 駆け引きが中心。

11月1日に 鶴岳宮の馬場の木が 風もないのに倒れた。

頼朝が確かめに来て 供え物をして供養することとなった。

この木が何の木かは 定かでない。

去年 八幡宮の大銀杏が倒れたが 銀杏の木は 中国から入ってきて1000年位しか経っていないので 銀杏でないことは確かだろう。

神社の神木に多い 梛(なぎ)の木ではなかったか。

公暁が銀杏の木に隠れて 実朝を暗殺したというのは 江戸中期の作り話で 当時銀杏の木はあるにはあったが 階段の反対側だった。

恐らく公暁が隠れていたのは 梛の木の陰だったのではないか というものです。


写真の木は 伊豆山神社の 梛(なぎ)の木です。
2,30メートルにも 育つそう。

梛の木は 縁結びの木としても有名ですが 葉に葉脈がなく 縦に筋が入っていて 横には絶対に裂けない事からきている。

頼朝と北条政子が ここ伊豆山神社の梛の木の下で 逢引をした その逸話からも そう言われているそうです。



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放生會の流鏑馬 『吾妻鏡』 より

2010-12-22 23:42:01 | 吾妻鏡


今日(12月22日)は 月に一度の「吾妻鏡を読む会」でした。


文治4年(1188年) 8月15日 鶴岳(つるがおか)の 放生會で 頼朝出席の下 流鏑馬が行われました。 (現在も行われているそうです 但し新暦の9月15日)

射手は 海野(うんの)幸氏と 諏訪盛澄 等。

海野幸氏は 10月28日にこのブログの 田楽でアップした 大姫(頼朝長女)と婚姻した 木曽義仲嫡男 源義高(清水冠者 冠者とは位のついていない者をいいます)に 付き人としてついてきた者です。

1184年 義仲が 義経に討たれた後 北条政子と大姫が 義高を逃がす時 義高の振りをして碁を打っていた いわば影武者でした。

義高は敢え無く (現在の埼玉)入間川で討たれるのですが その後この少年はどうなったのかと思っていました。

さすが信濃源氏の武士 4年後15才と思われますが 流鏑馬の射手を勤めるまでになったのですね。


吾妻鏡は 北条本をメインに 吉川本 前田本とあるそうです。

現在知られているのは 徳川家康が活版本にした 北条本が主の 家康好みと呼ばれるものです。

土地の所有権 とか 地頭の横領とか 些細な諍いに 頼朝はえこひいきなく実に的確に 審判を下します。 家康が大いに参考にする筈です。



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鶴岡八幡宮の諍い 『吾妻鏡』 より

2010-11-26 00:47:58 | 吾妻鏡


昨11月24日の 『吾妻鏡』の講義よりもう一つ。


京都の岩清水八幡宮を篤く信仰していた源頼義(源頼朝の祖父)が 由比ガ浜に(後、源頼朝によって現在地に移転)勧請して建てた鶴岡八幡宮は 鎌倉に於いて 岩清水と呼ばれた。


岩清水八幡宮は 神功皇后、 その子の応神天皇、 その后の 三柱が御神体の朝廷の神社で 大変に格式が高いものです。



文治4年(1188年)7月17日の 記述です。

去(さん)ぬる11日に 院宣が下された。

去年の夏の放生会(ほうじょうえ)に 岩清水境内で神輿を担いでいた神人(じんにん 神社に仕える下級武士)と 御家人の藤原宗長が 諍い 神人が疵を負った。

下級武士とはいえ やんごとなき神にお仕えする身なので 藤原宗長には一旦は罪をあがなってもらい その後許せば良いではないか  というもの。

勘解由(かげゆ 役人の監視 江戸時代は財務担当)から 右兵衛督(うえもんのかみ 源頼朝の書を作成) に宛てられました。


院とは 後白河法皇の事です。


なんて理の通った、 解りやすい評定でしょうか。

どこかの首長さんも 見習ったら?  いえ 先生の弁です。



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田楽  『吾妻鏡』より大姫の悲恋

2010-10-28 17:31:48 | 吾妻鏡


昨日(27日)は 月に一度の吾妻鏡講読の日でした。


源頼朝の長女、 大姫について。

大姫は正室・政子との 長女です。 治承2年(1178年)生まれ。


頼朝と度々対する木曽義仲が 人質として鎌倉に送った 義仲嫡男、源義高(1173年生) と 婚姻します。  時に大姫数え6才、 義高11才。

1184年、宇治川の戦いで 義仲が頼朝軍に討たれると 頼朝は義高の命も奪います。

一旦は 大姫の機転で 義高を女装させて逃がすのですが、 敢え無く捕らえられ討たれます。 義高享年12。


大姫は 嘆き悲しんで どんどん衰弱していきます。
文治4年(1188年)6月1日の 吾妻鏡には その大姫を慰める為の 田植えの余興の様子が 記されています。

地の神さまを目覚めさせる為に 笛や鼓の音に合わせ 一本の棒にのってホッピングのように 田で とんとん跳ねるのです。 

美女が 歌を歌いながら 田植えをします。

これが 田楽。

やがて滑稽な仕草や 言葉がはいるようになる 猿楽となり

より深遠な 能楽 となるのです。


これからの季節に美味しい 田楽 はこの棒に刺さった様からきています。


大姫はその後 あまたの縁談を拒否して 病弱のまま1197年に亡くなります。
頼朝は何としても 天皇の外戚になりたくて 大姫を後鳥羽天皇に入内させようとするのですが 大姫は頑として聞き入れませんでした。


大姫とは 長女をさします。 頼朝と政子の長女でさえ 名は残っていません。




ちょっぴり切ない

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恋わずらい  と 天然痘  

2010-09-22 23:29:01 | 吾妻鏡


現在では 死滅してないもの。

今日は月1回の "吾妻鏡" を読む会でした。
先生の講義が面白く、嵌まっています。

"吾妻鏡" は 北条氏側から見た 臣下が書いたレポートのようなもの。
日記でもなく 史料でもない。
臣下の肉声が 聞こえてくる書です。

今日はいよいよ義経追討に出発の章。
ですが、日記の様でもあるので 何だか突然に 政子付きの女房が急死したの記述の ところで 話が横道に逸れました。

それが醍醐味でもあります。

つまり、この千手の前(せんじゅのまえ 1165~1188)という 
舞女(ぶじょ、後の白拍子)は 恋煩いで死んだ。
天然痘と並び 現在では絶滅した病です。 (先生の言)

誰に恋わずらったか というと 平重衡(1156~1185)。
御存知、平清盛の五男で "平家物語" の中で一番活躍している。
この絵は 平重衡のものです。  享年29 なんだけど。 老けてる・・・

重衡は兄の知盛とともに 増長する寺院勢力を征伐するのですが 東大寺・興福寺ともに
焼失をさせ 人民の反感をかいます。 (能・歌舞伎の "勧進帳" は焼失した東大寺再建の勧進の設定です)

1184年の 一の谷の合戦で梶原景時に捕らえられ 1185年の壇ノ浦の合戦の後に 鎌倉の源頼朝に身柄を預けられます。

怨み募る奈良に引き渡され 斬首されるのですが、 その鎌倉殿にお預けの身の折に この千手の前と会い 愛人関係になります。  "平家物語" にもこの逸話は出てくるので 本当にあった事のようです。 

で、 この件に関しては "平家物語" も お勉強。

"吾妻鏡" では 千手の前は1188年に 23才で急死(恋わずらい)で死んだ事になっています。 三年も亡くなった人を 想い続けていたんですね。

"平家物語" では 信濃の国善光寺で 髪を下ろしたとなっています。

重衡は 人格者であったらしく 源頼朝はじめ男性にも 
細やかな気遣いで女性にも 人気があったようです。

正室は藤原輔子、 壇ノ浦で安徳天皇と共に入水し 引き上げられた人です。
重衡は情に篤い人でもあったので 夫婦仲は良かったそうです。
後に 気丈にも斬首された重衡の 腐敗した首と胴体を 別々のところから探し出して 供養しました。


平重衡は 天晴れな敵を 見逃したり、 源頼朝は 鎌倉で重衡を 篤く接待したり(そこで千手の前と出会う)
鎌倉時代には ロマンがあります。




今日は歴女の

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