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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/サロネン&ストックホルム室内O

2007年04月22日 22時27分48秒 | マーラー+新ウィーン
 サロネンといえば思い出すのが、1990年代にロスアンジェルス・フィルと共演した一連のストラヴィンスキー。シェーンベルクとは違った意味で古典化が進まないストラヴィンスキーの様々な曲を、まるで普段着のような感覚で実にあっけらかんと、かつスポーティーに演奏して、随分と驚いたものです。今や有数のオーケストラ・ピースとなった「春の祭典」なども、かなり早めのテンポでウルトラ・スムースに演奏して、この曲につきまとう野趣だとか、複雑なリズムだとかいう、「難関」をもはや「解決済みの問題」としていともやすやすと演奏していましたし、それ以降の新古典派だの、12音なんかを駆使した曲でも、キレのあるリズムと独特の軽みを帯びたスリムなアンサンブルで、非常に分かりやすい演奏をしていたのです。

 この演奏はオケがロス・フィルではなく、サロネンの地元と思われるストックホルム室内管弦楽団ですが、前述のサロネン的なところはここでも十分に出ていて、もうなんの疑問もなく「ロマン派最終ステージを飾る名曲」と思える演奏しています。そのロマンチックさは、サロネンの制作した隠れ名盤バーナード・ハーマン集のそれとボーダレスに感じるくらいで、おそらく戦後はおろか、いわゆる「現代音楽」ですら、リアルタイムで間に合わない世代(サロネンは1958年生まれ)にとっては、ハーマンも「浄夜」も20世紀のロマン派という意味でさほどの違いはないんでしょうね。まさに世代とい他はありません。
 ちなみにこの演奏で、もうひとつ印象の残るのは、その温度感の低さですかね。このところ聴いた何種類かの演奏は、割と暖色系のサウンドに仕上がっているものが多かったですが、こちらは凍りそうに冷たい....訳でもないですが、フレージングは清潔だし、オケもスリムである種心地よい冷気のようなものが感じられるサウンドになっています。これはサロネンとストックホルム室内管弦楽団という北欧コンビによる演奏のせいなのかどうかわかりませんが、独特のひんやりした感覚があってユニークです。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/オルフェウス室内管弦楽団

2007年04月22日 11時20分59秒 | マーラー+新ウィーン
 90年の録音。これまでアシュケナージ、シャイー、レヴィ、シノーポリと「浄夜」をムーディーで滑らかに演奏したものが続いた訳ですが、このオルフェウス室内管はいささか毛色が違います。もちろん、70年代以前の激しい表現主義的な演奏に逆行したものという訳ではなく、これもまた「今どきのさっぱりとした浄夜」には違いないのでしようが、オケが室内管による演奏ということで、そもそもオケの人数が少ないのか、時に弦楽六重奏版を聴いているような気になるくらいに引き締まったタイトでクリアな響きがするのが印象的で、演奏時間も20分代後半と、ある意味メカニカルといいたいくらいにキビキビと進めているのもそうした印象を倍加していると思います。

 また、全曲を通じて歌い回しがとてもあっさりしていて、時にデジタル的に割り切ったようなドライな感じになるのも特徴といえるでしょうか。女性的ななよなよしたところをフィーチャーしがちな第2部や、逆にブラームス的な男性美を感じさせる第4部なども、リリースの短いフレージングで、あまりムーディーなところにはこだわらず実にてきぱきと進めていきますし、逆に音響的におもしろい部分ではそのあたりをくまなく表現してますから、いきおいこの曲のロマン派的な香りは後退し、標題音楽というより抽象音楽として時にスポーティーな美しさすら感じさせたりします。このあたりは感触というのは、おそらくこの楽団が「浄夜」を現代音楽の視点から演奏しているせいもあるでしょうし、そもそもこの楽団の特色なのかもしれません(ロッシーニなんかでもそうでしたし)。
 ともあれ、そのあたりがこの演奏のおもしろさであり、また食い足りないところでもあります。ちなみに、このアルバムには二つの室内交響曲が収録されているのですが、この楽団の真骨頂は、どちらかといえばこういうハイブリッドな曲の方に発揮されるような気もします。

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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/シノーポリ&フィルハーモニアO

2007年04月21日 23時34分55秒 | マーラー+新ウィーン
 シノーポリがフィルハーモニア管を振った92年の演奏。シノーポリは新ウィーン楽派の作品をかなりの吹き込んでいますが、主たるソースはこの録音と同じ年に彼の手兵となったドレスデン・シュターツカペレに集中していて(ちなみにレーベルはワーナーレーベル、CD8枚組のボックスセットになっています)、グラムフォンでの録音はこれくらいかもしれません。相方がフィルハーモニアであるところからして、おそらくマーラー全集の延長線で企画されたんでしょう。おそらく、その他の曲もフィルハーモニアで録音するつもりだったのでしょうが、彼がドレスデンの首席に就任したことで、レーベルの異動などもあり、結局フィルハーモニアとはこれだけという結果になったんではないでしょうか。

 演奏の方はやはり80年代以降の同曲に演奏に共通する、あまり深刻にならないビューティフルな演奏といえますが、さすがにシャイーやレヴィと比べると、多少表現主義的な激しさが見え隠れしてます。シノーポリのマーラーはスタンダード演奏をベースにしつつ、ホットな部分とやや突き放したような客観性のようなものが妙な具合にバランスしたところユニークでしたが、この演奏でもそういうところが随所に感じられます。
 まず、昨夜のレヴィほどではありませんが、この演奏もかなり遅目です。悠々としたテンポで実にじっくりと歌っていて、多少突き放したような印象を与えるくらいですが、これが主人公たちの情念というか心の葛藤の表現したような音響的な部分になると、ここぞとばかりにドラマチックな表現に切り替えているようであり、シノーポリらしい手練手管を感じさせます。また、色彩感という点でもシャイーのような健康的なカラフルさというよりは、前半と後半の明暗をあまりくっきりと分けず、全体に割とほの暗い色調のサウンドで統一しているように感じさせるあたりも、ひょっとするとシノーポリの個性なのかもしれません。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/レヴィ&アトランタSO

2007年04月20日 23時43分34秒 | マーラー+新ウィーン
ヨエル・レヴィはこのアルバム以外聴いたことがないのだが、ルーマニア出身のイスラエル系の指揮者である点、また、テラークでマーラーを連続して録音していた点などから、調度、デンオン・レーベルでのインバルを思い出させる。また、アトランタ交響楽団も他の演奏は聴いたことがないが、おそらくアメリカのメジャーの次くらいの位置にオーケストラだと思われるから、先の例えでいえばフランクフルト放送響と似たようなポジションだと思われる。ようするにマイナー・レーベルが見つけた知名度はいまいちだが、実力派中堅指揮者とオケによる、優秀録音アルバムといったところだろう。

 さて、演奏だが基本的には昨日のシャイーやその前のアシュケナージなどと共通する、表現主義的な激しさ、ものものしさを抑えた今風な滑らかさとさっぱりとした感触を持ったものといえる。ただ、シャイーやアシュケナージに比べると、全体に演奏が遅く、普通なら30分前後で終わるこの曲を35分以上かけて演奏しているのはなかなかユニークだ。フレージングなども悠々迫らぬ落ち着きと安定感があり、併せて対旋律がよく聴こえるバランスやある種の克明さなど、ちょっとクレンペラー思わせるものがあったりする。また、オーケストラの響きがけっこう大柄でシンフォニックなのもそれ的だ。もっとも、それでいながら音楽そのものがべたべたしたり、鈍重になったりしないのは、リズムがシャープに決まり、オケのアンサンブルもけっこうきっちりとしているからだろう。

 ちなみにこの演奏、1994年の録音でシャイーから更に5年後のパフォーマンスということになるが、もう何の疑問符も感じ得ない「普通のロマン派の曲」になっているのは、やはり驚いてしまう。同じ譜面を使って演奏しているのに、70年代の演奏との恐ろしく違うこのソフトで楚々とした感触はなんなのだろうか....。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/シャイー&ベルリン放送SO

2007年04月19日 23時55分54秒 | マーラー+新ウィーン
 シャイーはマーラーの交響曲全集をアムステルダム・コンセルトヘボウと共に完成しているが、それに先つ1987年にデリック・クック版のマーラー交響曲第10番をベルリン放送響と録音していて、「浄夜」はそのフィルアップとして収録されていたものである。シャイーのマーラーは表現主義特有の振幅の激しさやシリアスさをきれいさっぱりと拭い去った、ちょっと近未来的といいたいような、屈託がないあまりにさりげない解釈だったけれど、この「浄夜」もそういった解釈である。とにかくこの曲の肩を怒らせたような厳しい表情、壮絶なまでなドラマチックさといったところが、きれいさっぱりとなくなって、まるで深夜にラジオでながれるBGMみたいな、落ち着き払ったリラクゼーションが充満した演奏になっている。

 この演奏の随所に感じられる「さりげなさ」は、先日弦楽六重奏版でとりあげたシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏で受けたものに非常に近く、作曲から一世紀という長い演奏の歴史を経て、この曲がもう押しも押されもしない普遍的な名曲になったことを感じさせるに十分といったところだろうか。先日レビュウしたアシュケナージが振った演奏も全体の感触としては似たような「さりげなさ」があったけれど、あの演奏ではフレージングや起伏といった点で、やや大昔のウィーン情緒みたいなところに依存しているようなところがないでもなく、さすがにここまで吹っ切れた演奏にはなっていなかったように思う。
 第1部の心の葛藤を表現したと思われるうねるように激しい部分など、他の演奏では「エキセントリックな音響」として聴こえるオーケストレーションが、ここではなんとも音楽的に響くし、第2部の主人公の女性の独白のシーンでの官能性もことさら声を荒立てることもなく、ごくごく普通の美しい音楽として自然に流れていくし、浄化されるような第4部のブラームス風な旋律も同様だ。

 という訳で、カラヤンやブーレーズの激しい演奏が、大昔のいかめしい演奏に聴こえかねないくらいに、あっさりとした演奏。まぁ、時代様式とかいう以前に、シャイーの穏当な個性というものが大きいところもあるんだろうけど、それにしたって20年前の演奏でこうだとすると、90年代以降の「浄夜」といういったいどうなってしまうのだろうか(笑)。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/アシュケナージ&イギリスCO

2007年04月15日 23時44分22秒 | マーラー+新ウィーン
 アシュケナージが指揮業に色目を使い始めた1981年にイギリス室内管とともに収録された演奏。先日のモーツァルトのところで書いたけれど、アシュケナージは指揮でもピアノでも、出来上がった音楽は割と角の丸い、柔和な表情になることが多いけれど、ご多分に漏れずこの演奏もそういう特色をもったものになっていて、ある意味で「浄夜」の女性的な叙情といったものを全面出した演奏といえるかもしれない。第1部で聴こえるウィーン風なソロ・ヴァイオリンもよく聞こえるし、この音楽の主人公である女性のキャラがよく伝わる演奏とでもいったいいか。もっともここでの主人公は、カラヤンやブーレーズのような官能を湛えた悲劇のヒロインという感じではなく、若気の至りで馬鹿なことをしてしまった、少しなよなよとしたそこらいる若い女性というイメージなのだが....。

 ちなみにシェーンベルクの音楽は後年のシリアスな作品の影響なのか、「浄夜」とか「ペレアス」といった純ロマン派風な作品も、非常に厳しい表情、壮絶なまでにドラマチックな音楽として演奏されるのが一般的で、先のカラヤンとブレーズの70年代の演奏などはその究極ともいえる姿を示していたと思うけれど(メータもそう)、この演奏は前述のアシュケナージの穏和な個性という点もさることながら、80年代に入ってこうした「容赦のない厳しさをもったシェーンベルクの音楽」といったイメージがそろそろ溶解し始めたことを、実は物語っている演奏なのかもしれない。先日のストコフスキーのところで、私は「古典化を焦りすぎている演奏」旨のことを書いたけれど、その時のストコフスキーはまさにこういう風に「普通のロマン派の曲」として「浄夜」を聴かせたくて、あの演奏したのではないだろうか....などと、このアシュケナージの演奏を聴きながらふと思った。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/カラヤン&ベルリンPO

2007年04月15日 17時23分08秒 | マーラー+新ウィーン
 こちらはカラヤンとベルリン・フィルによる演奏、奇しくも昨日のブーレーズとニューヨーク・フィルが組んだ演奏と同じ73年の収録だが、1974年がシェーンベルク生誕100年という時期だったせいか、マーラーなど併せて新ウィーン楽派の音楽も注目されていたようで(もっともマーラーほどには定着しなかったようだが)、ちょっとしたブームの如き様相を呈していたようで、この演奏もそうした流れでリリースされたのだろう。とはいえ、CBSはブーレーズ、デッカはアサートンといわば専門家にこれらの作品を振らせたのに比べ、グラムフォンはアバドとかマゼールでさえなく、カラヤンとベルリンがその企画に乗ったというは今考えてもなかなか凄いことではあった。

 演奏はもう「カラヤンらしいとしかいいようがない」といったらそれで話が終わりになってしまうが、ピアニッシモを絹がずれるのような感触で鳴す繊細きわまりない表現、絡み合う旋律が絶妙なバランスでまとめ、うねるように展開していく様の官能的な美しさ、どっしりとした低弦をベースにした劇的な場面の迫力等々、まさに文句のつけようのない完璧な演奏になっている。「浄夜」といえば、先日のシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏などからも推測できるように、近年の演奏はもはや完全な古典として、あっさりとしたさりげない演奏にシフトしているはずだから、この演奏など今となっては表現主義的な緊張感やドラマチックさが過剰の旧式な演奏なのかもしれないが、それにしたってひとつの究極ではあると思う。

 ちなみに弦楽合奏でのカラヤンは、先日取り上げたR.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」もそうだったし、他に、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」などもそうだが、、レガートを多用した滑るような美しさと、ある種の厳格さを感じさせるアンサンブルの精緻さが高いレベルで融合して、良い意味でカラヤンらしさが満喫できるものが多い。私は「浄夜」でカラヤンのカラヤンとベルリン・フィルの弦楽合奏を初めて体験したクチなので、実をいうと「メタモルフォーゼン」や「弦楽セレナーデ」などを聴いても、「浄夜」の壮絶さを思い出してしまったりする(笑)。要はそれだけカラヤン的な個性を出せるフォーマットなのだろう。

 ちなみ、カラヤンは新ウィーン楽派をに音楽を最終的に、シェーンベルク2枚、ベルクとウェーンベルン1枚づつリリースして、それをまとめたボックス・セット「新ウィーン楽派の管弦楽曲集」として完結させるのだけど、カラヤンはこの企画にどの程度乗り気だったのだろうか?。よくこのアルバムだけをカラヤンの盤歴で異常に持ち上げる人がいるけれど、随所にみなぎる緊張感や壮絶さなどはむしろ音楽が音楽そのものがもっているだけで、ひよっとすると、カラヤンはこいつもペースでこれも料理しただけ....みたいなノリだったのでは?などと思ったりもする。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/ブーレーズ&ニューヨークPO

2007年04月14日 22時05分29秒 | マーラー+新ウィーン
 50年代、60年代と続いた弦楽合奏版の「浄夜」も、ここから70年代に入るが、まずはブーレーズがニューヨーク・フィルを振った73年の演奏から聴いてみた。ブーレーズの「浄夜」といえば、先日取り上げたアンサンブル・アンタルコンタンポランとの弦楽六重奏版の演奏は83年だったから、こちらはそれに遡ること10年前の演奏ということになる、更にいえばこのニューヨーク・フィルの数年前に、ドメーヌ・ミュージカル・アンサンブルと収録した弦楽六重奏版も出していたから、都合これはブレーズの2回目の「浄夜」ということになるんだと思う。この時期のブレーズはクリーブランドとの「春の祭典」あたりから、現代音楽的シャープな切り口によるユニークな演奏でもって、指揮者としても売れっ子といいような活躍をしていたようだけれど、この演奏などもまさにこの時期を象徴するユニークな名演だと思う。

 演奏は一聴して明るいオーケストラの音色に驚く。CBS流の録音ということもあるだろうが、とにかくオーケストラの隅々まで強力なサーチライトを照らされているかと思うようなサウンドで、先日聴いたメータとロス・フィルの重く鬱蒼とした音色とはあらん限り対照的な音なっている。音楽的な余韻や、音楽のわびさびといった曖昧な要素とは決別して、楽音のみで勝負しているという感じで、この音楽が持つブログラム性は今一歩伝わってこないし、ことに随所に登場するウィーン風な女性的叙情のようなものなど断固拒否しているようでもある。反面、前半の心の葛藤を表現したような部分での、容赦のない厳しい音楽的表情などはブーレーズ的であると同時にシェーンベルク的な世界でもあって、「浄夜」という音楽の一面をとても良く表現していると思う。つまりこの演奏はこの曲のロマン派的なところではなくて、現代音楽的な視点から振り返った演奏ということになるのだろう。

 先のアンサンブル・アンタルコンタンポランの演奏では、このあたりが大分ロマン派寄りのものになっていたし、現在のブーレーズのマーラーなどから推測するに、今後ウィーン・フィルあたりとこれの弦楽合奏版を演奏しても(その可能性は十分にあると思う)、おそらくはここまで厳しく壮絶なものにはならないだろうから、その意味でもこの演奏、ブーレーズが最もブーレーズらしかった時期の記録として、今後もワン・アンド・オンリーな演奏であり続けるのではないだろうか。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/メータ&ロスアンジェルスPO

2007年04月11日 23時29分22秒 | マーラー+新ウィーン
 昨夜取り上げたストコフスキー盤から10年後(67年)に収録されたもので、指揮はメータ、オケは同じロスアンジェルス・フィルである。当時、このコンビは比較的にモダンなレパートリーをデッカの優秀録音を武器に次々に録音して、「惑星」とか「春の祭典」など大ヒット作を連打していた訳だけれど、これもその一枚ということになるのだろう(しかし、このアルバム、「浄夜」はいいとしても、「室内交響曲第1番」や「管弦楽のための変奏曲」まで入っているのはおそれいる)。私は少し前に連続でレビュウしたマーラーなどでは、メータの演奏をいつもけなしていたのだが、この演奏はなかなかいい。少なくとも彼の演奏でいつも感じるような、私の音楽的なツボ絶妙にハズしてくれるような違和感(笑)をあまり覚えず、「浄夜」というか、この時期のシェーンベルクらしい壮絶なまでにの美しさを、ストレートに楽しませてくれる演奏となっているのだ。

 演奏そののもはかなり大柄である。テンポは遅め、構えが大きくシンフォニックな響きが充満した、一昔前の形容でいえばグラマスという他はないような演奏なのだが、これが「浄夜」という作品には良くマッチしている。この曲は複数の細い線が織りなす複雑な文様を楽しむという側面はもちろんあるとしても、オケ全体が官能的にうねり、時に叫んだり、むせび泣いたりするというマスのダイナミズムもまた魅力な訳で、この演奏はその後者の典型的な演奏といえるかもしれない。とにかくメータが作り出すオケの瀟洒な響きに身を委ねているだけでも心地よいものだといえる。ストコフスキーのようにシェーンベルクの音楽を「分かり易く丸めた」ようなところもなく、これだけ大柄な演奏でありながら、存外リズムはシャープだし、荒れ場でも手綱をゆるめず、音楽的な緊張感が最後まできちんと持続しているあたり、当時はさぞやフレッシュな演奏に聴こえたことと思う。

 ただ、難をいえば、この曲の標題的なストーリー性ということに関しては、さすがに後日レビュウすることになるであろう横綱級の演奏と比べると、第2部、第4部の独白のパートと、それをサンドイッチするテーマが循環するパートの対比など、やや一本調子なところはあるかもしれない。例えば第4部冒頭の暗闇に光りが差し込んでくるような部分など、もう少し前バートとの明暗をはっきりさせても良かったかもしれない。
 録音はいかにも60年代デッカの優秀録音といったところだろうか。弾力ある低音部とほんの少し角を丸めた中~高域の組み合わせはショルティなどと共通する典型的なデッカ・サウンドという感じだ。まぁ、現在となってはもうこのくらいの音はもう普通なのかもしれないが、なにしろ昨夜聴いたストコフスキーが、ステレオ最初期のEMI録音だけあって、10年間の録音技術の進歩をいやおうなく感じさせたのであった。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/ストコフスキー&同交響楽団

2007年04月11日 00時01分52秒 | マーラー+新ウィーン
 こちらはストコフスキー指揮による弦楽合奏版。オケはストコフスキー交響楽団となっているが、実体はロスアンジェルス・フィルらしく、収録は57年というからステレオ最初期の録音となる。ストコフスキーといえば、大衆受けするブリリアントな演奏という他にも、オリジナルに編曲と見まごうような改変を加えることでも有名だったが、この演奏もシェーンベルクが編曲した弦楽合奏版ではなく、弦楽六重奏のスコアを使った演奏という話をどこがで聞いたことがある。確かにその他の弦楽合奏版を用いた演奏と比べると、どこか違うような気もするのだが、詳しくはよくわからない。

 まぁ、ディテールは違いはさておくとして、これまでの弦楽六重奏版と比べると、さすがに弦楽合奏だけあって、シンフォニックでふっくらとした響きが心地良い。弦楽六重奏版、心の機微のようなものを感じさせる弦楽六重奏版が小説的だとすると、弦楽合奏版の色彩感は総天然色の映画的なスケール感があると思う。ただし、ストコフスキーの解釈は少し古くさい大時代的な趣が強すぎる気がしないでもない。この表現主義的な激しさを否応なく含んだ音楽を無理やりウィーン風な優美な音楽にしてしまおうと、例えば昨日例にあげた第1部のウィーン風なヴァイオリン・ソロなどは全面的にフィーチャーする一方、表現主義的な部分になるとやけにテンポを早くして、そそくさと通り過ぎしまおうとする傾向があると思うのだ。

 1957年という時代。レコードというメディアに「浄夜」を持ち出してくるストコフスキーの英断は評価するにやぶさかではないが、彼の解釈はあまりに「ワーグナーをベースにした古風なウィーン風な音楽」という側面に傾斜し過ぎてはいまいか。シェーンベルクらしい容赦ない冷徹なところだとか、ブラームスとマーラーの折衷だとか、そういう要素があまり感じられないのが不満に感じてしまうである。なにしろ、昨夜聴いたシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏が、そのあたりをあまりといえばあまりなくらい自然に演奏してたものだから、この演奏には古典化を多少焦っているような不自然さを感じてしまったりもするのだ....。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽六重奏版)/シェーンベルク弦楽四重奏団他

2007年04月09日 23時37分31秒 | マーラー+新ウィーン
 シェーンベルク弦楽四重奏団は、英国のマイナー・レーベル、シャンドスで新ウィーン楽派を中心にレコーディングしている1976年に結成されたオランダの弦楽四重奏団。グループ名にシェーンベルクの名を冠しているのは、おそらくシェーンベルクの関係団体から称号でももらったのかもしれないが、よくわからない。シャンドスはマイナー・レーベルとはいえっても、かなり有名どころではあるし、バンド名にシェーンベルクを冠しているからには、おそらくその筋のエキスパート達なのだろう。ここのアルバムはシェーンベルクの弦楽四重奏曲関連の曲を一挙に集めた5枚組のCDで、これはその中の1曲という訳である。

 演奏だが、とにかく耳障りなところがない、穏やかで滑らかな演奏で、「今の時代、「浄夜」はこう演奏するものなのか」と思うほど、これまで聴いた3種の演奏とは違う趣を持っている。「浄夜」といえは、昔からシェーンベルク唯一の有名曲として、BGM的な聴かれ方すらしてきた曲だし、今更古典化もなにもないだろうと思っていたのだが、マーラー同様、時代の変遷に伴ってその曲の演奏スタイルも確実に変化していたという訳である。ひとくちにいえば、この曲の随所にある「何もそこまで」的に容赦のない表現主義的に激しいところをオブラートにつつみ、ごくごくスタンダードなロマン派的音楽の流れの中で、それを自然に溶け込ませたような演奏とでもいったらいいだろうか。早い話、まるでチャイコの「弦楽セレナーデ」か演奏する時のように、既に完全に古典化した曲を当たり前に演奏する自然な感覚が感じられる演奏ということだ。ここには妙な気負いも分析も表向きはほとんど感じられらず、ごくごく自然に楚々と音楽が流れていく....うーむ、実に新鮮だ。

 また、この弦楽四重奏団、テクニック的にもなかなか凄いものがありそうなのだが、ちょっとくすんだような落ちついた音色やリズム感があるようで、この落ち着き払った雰囲気は、ひょっとすると曲の現代化、古典化もさることながら、このグループの個性に追うところが大きいのかもしれない。ともあれ、ここにはブーレーズのような激しさ、アサートンの生真面目さ、ラサールの鋭角的といった、尖った雰囲気まったくない。まるでニューエイジ・ミュージックとして使えそうなくらい角のない、穏やかな演奏なのである。先ほど聴いたラサールの演奏はずいぶん現代的だと思ったが、ひょっとするとあれも今では昔のスタイルということなのだろうか。 
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シェーンベルク 浄夜(弦楽六重奏版)/ラサール弦楽四重奏団他

2007年04月09日 22時21分01秒 | マーラー+新ウィーン
 これまで軽く聴き流したことはあったけれど、きちんと聴いたのは確か初めてだが、ほとんど文句のつけようのない演奏だ。もう少しがあすこがこうだったらとか、ここがああだったら....というような注文がほとんど思い浮かばない、まさに知情意揃った名演奏だと思う。この曲は標題楽的なストーリー性とブラームス的な精妙だとか、室内楽の枠を破るようなシンフォニックな響きと各メンバーの自発性を尊重した室内楽のもつスリリングさとか、割と相反する要素を合わせ持つのだけれど、まずはそのあたりを矛盾なく表現している点が素晴らしいし、非常にテクニカルで精密な演奏ではありながら、そこから世紀末の情緒もしっかり聴こえてくる点など、さすがはシェーンベルクを研究しつくしたラサール弦楽四重奏団としかいいようがない。

 第1部の冒頭は音量、テンポ、バランス等々全く違和感がない。例えば森の中を歩くふたりを描写したと思われるテーマで、主人公の女を現しているとおぼしき対旋律がヴァイオリン・ソロで聴こえるのだけれど、演奏によってはこの部分をとても大きく聴こえるように演奏したりする場合もあるが、ラサールはあまり大仰にならない程度で軽く流していている。このお涙頂戴式のセンチなヴァイオリン・ソロは、やや時代がかった陳腐さを感じさせるので、私の場合、あまり盛大に聴こえて欲しくないのだけれど、ラサールはこのあたりのバランスが絶妙で、開巻早々「そうそうこうでなくっちゃね」と思わせるてくれるのがいい。一方、第1部終盤近くの表現主義的に激しい部分では、ラサールの精緻なアンサンブルがフル稼働してスポーツ的な快感があるし、第2部へと移行していく様もスリリングだ。ちなみに第2部は女性的な叙情的表現はほどほどな分、ダイナミックな部分で翻弄される女性の切なさのようなものをそこはかとなく感じさせてくれる。

 後半の幕開けである第4部冒頭の壮麗さはこれまで聴いた2種類の演奏に比べると、多少スリムだが、こうした低カロリーさも悪くない。この曲の第2部は女性的で優美で弱々しく、第4部が男性的に骨太でという風にかなり対照的に表現したのがブーレーズだったとすると、こちらはいく分、表情がさっぱりしていて、どろどろした情念から遠ざかったさりげなさのようなものがあると思う。また、曲の随所にリズムのキレ味の良さがあるのもモダンな印象を与えていると思う。先日聴いたブーレーズの演奏は、そのドラマチックさに感心したものだけど、多少しつこくもたれる感じがしたので、今の私にはこちらの演奏の方がしっくりとくる。おそらくそ
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シェーンベルク 浄夜(弦楽六重奏版)/アサートン&ロンドン・シンフォニエッタ

2007年04月08日 20時11分36秒 | マーラー+新ウィーン
 デビッド・アサートンとロンドン・シンフォニエッタによる弦楽六重奏版による演奏。この曲のプログラムにはあまりこだわらず、堅実で折り目正しく、とにもかくにも譜面を忠実に音として具体化することを主眼とした、ある意味即物的な演奏だと思う。確かアサートンという指揮者は、自らロンドン・シンフォニエッタを組織して、近~現代の音楽の専門家としてデッカであれこれ録音してようだから、当然学者タイプの指揮者だったはずで、こういうザッハリッヒな演奏になるのはある意味必然なのかもしれない。そういえば、あんなに重厚ではないが、ロバート・クラフトが振ったシェーンベルクとけっこう近い感触も感じる。これに比べれば、昨日聴いたブーレーズの演奏は、実は非常にロマンティックな起伏に富んでいた思うくらいだ。

 第1部は非常にゆっくりと始まり、女の葛藤を表したとおぼしき表現主義的な激しい部分も重厚かつシンフォニックに表現しているという感じで、ことドラマチックさという意味では昨日聴いたブーレーズ比べ今一歩という感がする。逆に優美で女性的な旋律に始まるウィーン風な第2部にそういう部分はさらりと流し、むしろ主題の展開的なところを入念に表現して、前パートとの対比というよりは連続性を重視している印象だ。つかの間主題が回帰する第3部もまるで前パートのコーダのように始まる。
 暗から明へ転ずる第4部では、ドラマチックな壮麗さはやはり今一歩で、ブーレーズのようなカタストロフィがない。入念に書き込まれた錯綜する旋律の綾みたいなところはよく表現されているのだが、なんとなくブラームスの室内楽を聴いているような、ある種の堅苦しさや律儀さといったものを感じでしまうのだ。なので、ハッピーエンドなハズの第5部でも、そうした雰囲気の表現は控えめである。

 全体としては、昨日聴いたブーレーズの演奏に比べ、この曲のブラームス的な精妙さのようなものは十分に感得できるのだが、世紀末的な情緒だとかワーグナー風の浄化のカタストロフィーみたいな点では、いささか平板でメリハリ不足を感じてしまった。実はブーレーズの演奏はこれまでのイメージだと、しつこい、もたれる演奏というイメージがあって、あまり積極的に手が伸びなかったのだが、こうやって聴き比べてみると非常に優秀な演奏だったことを実感した。さて、明日はこの曲の演奏としては定評のあるラサールの演奏を聴いてみたい。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽六重奏版)/ブーレーズ&アンサンブル・アンタルコンタンポラン

2007年04月07日 22時24分32秒 | マーラー+新ウィーン
 シェーンベルクの「浄夜」は大好きな曲だ。シェーンベルクといっても、無調や十二音の技法を使った小難しい音楽ではない。19世紀のどん詰まりに25歳のシェーンベルクが、当時どっぷりと浸かっていたでろう、爛熟した後期ロマン派の雰囲気をそのまま表現したかのようなロマンティックこの上ない作品である。曲は「冬の夜、月の光の下1組の男女が森を歩いている。女は他の男のは子供を宿したことを告白するが、男はそれを許し、自分の子供として育てることを誓い、2人の愛は浄化される....。」という、いかにも世紀末な情景を描いたリヒャルト・デーメルの同名の詩を下敷きとしているが、音楽もそのストーリーに忠実に再現したものなっている。なお、オリジナルは弦楽六重奏だが、後に作曲者自身によって弦楽合奏用アレンジされたものもあり、どちらも頻繁に演奏されるが、音楽そのものの流れはほとんど同一である。

 さて、この「浄夜」だが、全体は切れ目なく演奏される単一の緩徐楽章のような曲であるが、曲の性格上からいっても特定の形式にはなっていないようである。ただし、大まかには5つ部分の構成されているようで(あんまり重要視することがないことは分かってはいるのだが....)、CDなどでもそのようにトラックやインデックスが分けられていることが多い。私はこの曲をこれまでかなり愛好していながら、この曲が前述のブログラムとおおよそどう対応しているかはもちろん、5つのパートの区切りすら判然としなくて、長年の宿題のようにとなっていたのだけれど、いい機会だから、今回はじっくりと聴いて、そのあたりを解決....とまではいかなくても、ある程度見通しをつけてみたいと思う。

Pt.1 非常にゆっくりと (6分半)
 やや鬱蒼として重々しい冒頭は、月夜を下を歩く二人の情景を現しているようだ。この後、ややせっぱ詰まったような感情の高まりを見せる部分が続く、余所の男の子を身ごもってしまった女が、そのことを一緒に歩く男に告白すべきなかどうか葛藤している様子なのかもしれない。そのピークで女は男に告白するというか。
Pt.2 幅広く (5分半)
 音楽はウィーン風な優美で女性的な旋律に変わる。ということで、当然ここは女の告白を現しているのだろう。この女性は自分の不幸な生い立ちから、見知らぬ男に身を任せ、身ごもったあげくに、愛する男に出会い、人生の報いを受けたと告白する訳だ。途中スケルツォ風をデフォルメしたような部分が現れるが、これなど流転したらしい過去を語っているのだろう。
Pt.3 重々しく強調して(約2分)
 チェロによる重々しく叩きつけるような響きは、告白を受けた男の衝撃を物語っているのだろうか。その後、冒頭の月夜を下を歩く二人の情景が再現されると、今度は男が語り出す。
Pt.4 非常に幅広く、そしてゆっくりと (9分半)
 重々しいムードが替わり、ちょっとブラームスを思わせる壮麗な旋律が登場するが、この部分の暗から明への転換はなかなか感動的で、この曲のハイライトといえる。男は彼女の全てを許し、その子供は祝福されているのだと語るのだ。
Pt.5 非常に静かに(約4分)
 三度、月夜を下を歩く二人の情景が再現されるが、冒頭の重々しさとはうってかわって、全てが浄化されたような雰囲気をもっている。オーラスはキラキラするようなイメージの中ワーグナー風に終わる。

 という訳で、今までは何を意味するのかさっぱり分からなかったこの曲のプログラムだけれど、こうやって詩のあらすじと照らし合わせながら聴くと、なんで今まで分からなかったのだろうかというくらいに一目瞭然であった。また、この曲って「情景-女の告白-情景-男の答え-情景」という詩と同じ構成になっているから、こじつければロンドとかソナタみたいに解釈できないこともない音楽ということも発見であった。ともあれ、この曲を聴いて早四半世紀、ようやく宿題が終わったという気分である。
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マーラー 歌曲集「子供の不思議な角笛」他/フェルミリオン,ヴァイクル,インバル&ウィーンSO

2007年03月24日 23時55分16秒 | マーラー+新ウィーン
 テンシュテット、セルに続く三つ目の「子供の不思議な角笛」です。インバル指揮による一連のマーラー・シリーズだと思いますが、どういう訳かオケがいつもフランクフルトではなく、ウィーン交響楽団になっています。このアルバムは96年に収録されていますが、インバルは89年にフランクフルトの首席を下りているらしいので、おそらくそのあたりの事情が絡んで、当時一緒にショスタの交響曲など同じレーベルに録音していたことから起用されたんだと思います。歌手陣はソプラノはイリス・フェルミリオン、バリトンはベルント・バイクルです(フィルアップに収録された「さすらう若人の歌」はヨルマ・ヒンニネンというバリトンが歌ってます)。

 この曲はテンシュテットの録音をCDで購入して以来、よく聴きますが個人的にはいまひとつ馴染めない曲であり続けてます。前回書いたように、この曲集の随所に現れる「軍隊ラッパ+行進曲調」みたいところが抵抗あるのに加え、どうもこの曲集に漂う苦いアイロニーと諧謔味みたいなものも馴染めないような気もしてきました。今年になってマーラーをいろいろと聴いたおかげで、「亡き子をしのぶ歌」を大のお気に入りにできたのは収穫でしたが、この曲の場合、その壁はなかなか厚いです(笑)。そういえば、この曲集、全曲から「ラインの伝説」とか「浮き世暮らし」といった曲を数曲を抜粋して歌ったり、アルバムに収録されたりすることも多いんですが、そういうスタイルがある程度流通しているところをみると、やはりこの曲集を「ひとつのまとまった曲」として聴くのは、いささかつらいところがあるのは、存外私だけじゃないかのかもしれませんね。

 さて、このアルバムの演奏ですが、これまで聴いたものの中では、一番クセのない、ノーマルな演奏という印象を受けました。前述したような違和感はほとんどない演奏ともいえます。こういった印象は曲のエキセントリックなところはさらりと流し、途中で立ち止まったり、やにわ大声で叫んだりせず、流れるような演奏に仕上げているところからくるものだと思いますが、こういうところにもマーラー演奏の現代性みたいなものが流れ込んでいるというところなのかもしれません。けっこう気に入りました。
 バイクルはテンシュテット盤でも歌っていた人で、あの時は芝居がかった過剰な身振り手振りにいささか辟易しましたが、こちらは割と素直に歌っているのは指揮者の意向を汲んでのことでしょうか。また、フェルミリオンはシャープでモダンな歌い方をする人で、格調高いのはいいのですが、この曲のトラッドな性格を考えるとやや突き放し過ぎような気がしないでもないです。

 あと、テンシュテットとセルは同じEMIという事情なのか曲順が同一だったのですが、こちらはかなり曲順が違います。私はこうした曲順を非常に重視するタチなので、かなり違った感じを受けます。一聴した印象ではテンシュテットの方はメリハリのある山あり谷ありな起伏を狙った並べ方をしていたととすると、こちらはより田園的な歌曲集みたいな平坦な起伏になっているような気もしますが、どうでしょうか。
 ついでに録音ですが、オケこそ違うものの、一連のマーラー・シリーズと共通するとふっくらとしたホールトーンをたっぷりととりいれ、実になめらかな音質になっています。また交響曲に比べると、オケの響きがややくぐもった暖色系の音に感じられるのは、録音というよりフランクフルトとウィーン・シンフォニーというオケの違いでしょうか。
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