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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

マーラー 交響曲第4番/ワルター&ニューヨークPO、ハルバン

2007年03月18日 13時16分41秒 | マーラー+新ウィーン
 フェリアの「亡き子をしのぶ歌」のフィルアップに収録されている演奏です。オーケストラはニューヨーク・フィル、最終楽章の歌はフェリアでなくデジ・ハルバンで、1945年の録音とあります。時期が時期だけに同曲の最古のレコードかと思ったら、意外にも1930年5月の近衛秀麿が新交響楽団(現N響)という本邦のコンビによる演奏が最初だとか....。とはいえ、ワールドワイドなレコード史上となると、やっばこの演奏が始祖ということになるんでしようね。この時ワルターは既に69歳ですが、さすがに60年代まで盤歴を残した人だけあって、この時の演奏はまだまだ若々しくフレッシュで覇気十分な演奏を聴かせてくれます。

 さて、この演奏一聴して印象的なのは、大昔の演奏だというのにほとんど古びてきこえない点でしょうか。ワルターのマーラーというと、第2番のステレオ録音の演奏の古色蒼然とした演奏を思い出したりもしますが、この演奏ではそうした時代的な誤差はほとんどなく、60年代、70年代の演奏と伍して楽しめるという印象です。全般的にテンポがに早く、あまり旋律をこねくり回さずストレートに歌っているあたりが、そう感じさせるんでしょうが、そもそも作品そのものがあまり表現主義なところのない、時にモーツァルト的といいたいような軽さとマーラーの交響曲曲としてはほとんど例外的といいたいくらいに、全編に渡って屈託のない明るさをもっているということも原因しているかもしれません。第1楽章の軽やさ、後半のダイナミックな展開、第3楽章もさらりとして淀みなくなく流れていく様、あと同楽章オーラスのハープが絡んだサウンドの美しさなど、さすがにワルター素晴らしいものがあります。ついてに書くと、第4楽章のハルバンの声は小鳥のようなさえずりのような可愛らしい美声で、これもワルターの語り口にぴったりマッチしています。

 ちなみに録音はリマスタリングの成果なのか、45年録音とは思えないほど良好で、レンジが狭いのを我慢すれば、通常聴いている分にはあまり不足感を感じないほどです。ちなみにこの時期にステレオ期のような録音によるレーベルカラーがあったのかどうか、私にはよくわりまんが、楽器に近接したマイクで収録したとおぼしき音調はいかにもCBSの録音という感じがします。しかしこれ本当に盤から起こしたのかな、全くノイズがないのはほとんど驚異ですね。
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マーラー 亡き子をしのぶ歌/フェリアー、ワルター&ウィーンPO他

2007年03月16日 23時56分33秒 | マーラー+新ウィーン
 フェリアがワルターと組んで52年に収録された「大地の歌」はモノラルとはいえ、ほとんどエバーグリーン的な価値がある大名盤として有名ですが、それに遡ること3年、1949年に収録された「亡き子をしのぶ歌」も名盤として知られていました。私は「大地の歌」の方は20代の頃アナログ盤で随分聴き込んだ記憶がありますが、「亡き子」の方は今回初めて聴きました。ただし、私の聴いたのはEMIから出たオリジナル盤ではなく、おそらく著作権切れに伴いレーベル独自のリマスタリングを施したほとんど海賊盤すれすれの線で発売されている。Naxosのヒストリカル・シリーズで出ているディスクで、フィルアップは同じくマーラーの交響曲第4番です。ただし、こちらはワルターとウィーンの演奏ですが、最終楽章でファリアは歌っている訳ではありません。

 さて、さっそく「亡き子」を聴いているところですが、彫像のようなトゥーレル、ドラマチックなベイカー、格調高いフィッシャー・ディスカウと聴いてきた比較でいうと、フェリアは切ないまでの情感ということになるんでしょうか。まさに「子を失った母親の悲しみ」が乗り移ったような歌で、この曲が詩が父親の視点で描かれたものであることを確実に忘れさせる説得力があります。
 フェリアという人は41歳で亡くなってしまったので、ある種悲劇的な夭折伝説みたいな感じで神格化されているところもありますが、歌そのものは英国人らしい行儀の良い穏やかさと温もりが特徴だと思いますが(学校の先生みたいな感じね-笑)、そういう人がこの曲では悲しみにうちしおれ、時に絶叫する訳ですから、確かに胸にせまるものがありますね。ただ、そういう情感が時に深すぎて、この曲の別の側面である官能的な美しさだとか、厭世的で退廃的なムードはほとんど感じられないのも確か。私などどちらかといえば、この曲のそうした面も好きだったりするので、これはこれで素晴らしいとは思いますが、これがあれば他の演奏が全部いらない....とまではいかないかなぁ。

 ちなみに、このシリーズはマーク・オバーソーンという人がリマスタリングを担当していますが、とにかく音が良いです。アナログ盤からにマスターを起こしたようですが、それがにわかに信じがたいほどノイズレスな音ですし、音に張りと腰があり、49年録音のモノラル録音であるであることをしばし忘れてしまう音質にリフレッシュしているのは、まぁ、コンピューター技術の賜物なんでしょうが、なかなか凄いものがあります。自分もパソコンで自家製のリマスタリングをやったりしますが、なかなかこうはいきませんからね。極意を教えてもらいたいもんです(笑)。。
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マーラー 交響詩「巨人」/ハマル&パンノンPO

2007年03月09日 20時06分25秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの交響曲第1番「巨人」が、もともと交響詩だったことは有名な話です。近年では交響詩から交響曲に衣替えした時に省かれた「花の章」をボーナス・トラックとして演奏することも多くなってきましたが、これはかの曲が交響詩だった頃のスコアを用いて演奏したものです。浅学の私はこういう演奏が存在していること自体、最近までロクに知らなかったのですが、調べてみると既に数種の演奏が出回っているようでもあり、これはその中でも比較的新しいもののようです。また、交響詩「巨人」にはいくつかの版があり、古い順にブダペスト、ハンブルク、ワイマールと呼ばれているようです。これまで出た演奏はハンブルク版が多いようですが、この演奏では一番新しいワイマール版を用いているとのことです。

 で、興味津々で聴いてみましたが、2,3回聴いた感じからすると、それほど交響曲と違いは感じませんでした。細部のオーケストレーションがいろいろ違うように感じるところもあり、時々おや?と思うところは頻出するのですが、聴き慣れない旋律が出てる訳でもありませんし、期待したような後年差し替えられた幻の楽章とか小節みたいな、ちょうどブルックナーの版違いのような代物を期待すると拍子抜けしちゃいます。ブラームスの第1番第2楽章の初稿なんかもそうでしたけど、やっぱ、世に問うという段階まで育てた作品というのは、一般リスナーにはほとんど感知しえないような、ディテールを修正するくらいで、ほとんど完成しちゃってるもんなんだなと思いました。ブルックナーみたいに作品を発表後、あれやこれやと根本的なところまでいじくるのはむしろ例外なんですね。(ただし、もっとも初期のブタペスト版には大きな改訂を加えて、後のハンブルク、ワイマール版となるようなので、こっちなら大きな違いがあるのかもしれません....もっとも現在は消失しているそうですが。

 演奏については、ジョルト・ハマルとパンノン・フィルハーモニー管弦楽団(ハンガリーのオケだそうです)はいささか小振りなところはありますが、今風に自然な流れを持ったモダンなもので、まぁ、可もなく不可もなくといったところでしょう。ただし、全体に響きが野暮ったく、今一歩洗練したサウンドになっていない感じがするのは、まるで放送録音のように極端に残響の少ない乾いた音質のせいなのか(作品の性格上、細部を見渡せるようにとの配慮からこういう音にしたのかもしれませんが)、ワイマール版のオーケストレーション固有の特徴なのかは私にはわかりませんが、いつも「巨人」とは違う響きがすることだけは確かです。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」/シャイー&ACCO

2007年03月09日 00時41分39秒 | マーラー+新ウィーン
 例によって、アムスの極上のオーケストラ・サウンドとそれをビビッドに捉えたデッカの優秀録音が印象的な演奏です。リッカルド・シャイーの指揮はといえば、マーラーのもっている歌謡性をゆったりとしたテンポじっくりと歌っているという感じで、とにかくさわやかな色彩感と、ある意味マーラーの音楽には付きものといえるような性急さが、全くといっていいほど感じられない、おっとりとしたところが特徴といえるでしょう。まぁ、このあたりをどう評価するは人それぞれですが、個人的には一長一短というところですかね。時にそのあまりに悠々としたテンポに、もう少しドバっと炸裂してもらいと欲求不満を感じたりもする反面、この立体的に滑らかで色彩的なサウンドには抗しがた魅力も感じますから....。

 第1楽章はサウンド・イフェクトの冒頭から開放的な主題部、そして炸裂する展開部へ非常に滑らかに進んでいきます。もうバーンスタインのようにこのあたりの振幅を大きくとるとやけにダイナミックな様相を呈してくる訳ですが、そうした表現主義的なところには目もくれない....というところは、やはり現代のマーラー解釈なんでしょうね。第2楽章もスケルツォとトリオをあまり明確に対比させず、一貫してカラフルな色彩感で勝負した演奏といった感じです。
 第3楽章は叙情的な旋律をよく歌いこんでます。また対旋律を浮かび上がらせるバランスも絶妙で、シンプルでトラディショナルな旋律を徐々に立体的にサウンドに展開していくあたりは録音の良さもありますが、全曲中の聴きどころとなっています。第4楽章はこの楽章のダイナミズムは、例によってそのあまりの滑らかさ、耳障りの良さの中で多少犠牲になっている感もなくもないです。

 という訳で、つい先日まで、バーンスタインの思い入れとこだわり満載の「熱い演奏」を聴いていた身としては、シャイーのなめらかさで全編に渡ってよどみなく音楽が流れ続けるような演奏は、非常に心地よい感覚美のようなものは感じますが、少なからず違和感を覚える確か....。なにしろ、このマーラー的要素をいったん何もかも洗い流したような、洗練されきった演奏ぶりは、マーラー音楽の古典化を通り越して、一種近未来的、SF的なマーラー像を感じさせるほどですから。
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マーラー 亡き子をしのぶ歌/ルードウィッヒ,カラヤン&ベルリンPO

2007年03月05日 22時15分00秒 | マーラー+新ウィーン
 カラヤンとクリスタ・ルードウィッヒが組んだ「亡き子をしのぶ歌」です。アナログ盤、そしてそれをそのままフォーマットした初期CDでは、この曲は第5番のフィルアップとして収録されていました。近年カラヤンの5番はマスター・シリーズで一枚物のCDとなり、私は音質向上を期待してそちらも購入したので、「亡き子をしのぶ歌」が入った旧盤の方は売り払ってしまおうかと考えたこともありましたが、こういうこともあろうかと踏ん張って(笑)、手放さなかったのは正解でした。まぁ、当時、「亡き子をしのぶ歌」をこんなに気に入るとは思ってもいず、単に記録として貴重かなという程度で、手放さなかったのですが....。

 さて、カラヤンとルードウィッヒが組んだ「亡き子をしのぶ歌」ですが、ほとんど最高の名演といってもいいのではないでしょうか。70年代前半というまさにカラヤンとベルリン・フィルの最盛期ならではの、比類のない精緻さ、滑らかさの中に独特な耽美的な表情をのぞかかせるカラヤン・サウンドと「亡き子」のムードは、ほとんど絶妙なマッチングをしめしていて、冒頭の木管ソロから一気に引きこまれますし、第2曲の中間、感情が高まり、アルトが絶叫しそうになる部分で重なるハープの美しさなど、ほとんどこの世のものとは思われない美しさで。まさにカラヤン・サウンドを堪能させてくれます。第5曲でそれまで遅めのテンポから一転して、早めのテンポでまさに嵐のように始まり、そのピークで曙光のようなやすらぐ部分に変貌していくあたり、まるで交響詩のようなドラマ性を感じさせ、これまたカラヤンらしい巧緻さを堪能させてくれます。またアルトのルードウィッヒも甘さや情念に流れされず、厳格な雰囲気すら感じさせる格調高い歌唱で、カラヤンの作り出すサウンドにぴたりと収まっているあたりはさすがです。

 という訳で、個人的には非常な名演だと思います。もっとも、ここまで作り込んでしまうと、子供を失った素朴な悲しみというより、ギリシャ悲劇みたいな余所行きなドラマになってしまい、ある種の切実さがないじゃないか....みたいな意見もあるかもしれないですけど、作品を冷徹に突き放し、冷徹な美しさのみを追求するというカラヤン流の方法もここまでやれば、これはこれでひとつの極限というか、ある種の凄みすら感じる演奏になっていると思います。
 ちなみに、オリジナル・マスター・シリーズで、この「亡き子」は、「リュケルト歌曲集」と一緒に第6番の方に収められていますから、現在聴けないということはありません)。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」/テンシュテット&ロンドンPO

2007年03月03日 11時38分03秒 | マーラー+新ウィーン
 良く言うと非常に重厚、悪く云うと鈍重な演奏という感じです。私の場合、この曲に初期型マーラー特有のファンタジーとかナイーブな情感みたいな、ある種のフレッシュさを求めてしまう人なので、この演奏の重厚長大さは、曲の解釈としてもちろんひとつの見識だとは思いますが、「復活」や第3番あたりならまだしも、1番だと個人的にはちょいと違和感を覚えてしまいますね。例えば、第1楽章の意味深な導入からやがてパースペクティブが開け、その後のどかで解放的な第1主題が登場する訳ですけど、なんかいつもワクワク感があまりないんですし、第3楽章の情感も純文学的に高尚すぎるというか、早い話もう少し下世話に泣き節をうなってもらいたいという感じがあったりして、この曲の「青年期のマーラーがもっていた疾風怒濤」を聴きたい人にとっては、少し「おとなの演奏」でありすぎるというところでしょか....。

 もっとも、最終楽章の大詰め、普通なら駆け抜けるように演奏してしまう最後の荒れ場のところで、ぐいとばかりにテンポを落としてより巨大なクライマックスを形成するあたりの壮絶さはなかなか凄いものがあって、次なる第2番の予告というよりは、一足飛びに第6番の最終楽章を聴いているような気にみなったりして、聴きごたえ十分。ともあれ、全体を通じて感じられるドイツ的な安定感をベースにした交響的なプロポーションの良さやある種の格調高さはテンシュテットならではですから、例えばこの曲を中期のような、割と抽象度の高い交響曲として楽しみたい向きには良い演奏なのではないとは思いました。

 あと録音。しつこいようだけど、この音にはどうしても納得できないなぁ(笑)。ホールトーンをまるごと収録したワンポイント的な録音というのが狙いなのはわかりますが、いかんせん、各楽器の粒立ちの悪さに起因すると思われる分離の悪さ、特に弦楽器群が冴えない音には辟易してきます。オーケストラが立体的に定位するのではなく、バラバラに拡散して、焦点がボヤけてしまってしまっているような音に聴こえてしまうんですね。ついで弱音部が非常にローレベルに収録されているのもいつも通りで、外部のノイズを遮蔽したきちんとしたリスニング・ルームでならいいんでしょうが、うちのような貧弱な環境だと実質ノイズにかき消されてしまうことが多く、聴いてきてイライラしてくることもしばしばでした。

 ところが本など読むと名録音として評価しているものもあるんですね。一体どんなシステムで聴くと、これが優秀録音に聴こえるのだろうか、またこれを優秀録音というおっしゃる方は他にどんなアルバムが優秀だと思うのか、とても興味あるところです。よくわからないけど、大きなホールでオケの生音に多く接している方は、この音をとても自然に感じるのではないと、漠然と予想したりもしてるんですが....。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」/ワルター&コロンビアSO

2007年03月02日 00時28分42秒 | マーラー+新ウィーン
 ワルター晩年の録音で、これを聴いたバーンスタインが同じ頃収録を予定していた第1番のセッションを延期したというのは有名なエピソードです。晩年のワルターはカリフォルニアで余生を過ごし、音楽活動としてはCBSにあてがわれたコロンビア響を指揮したレコーディングのみという状況だった訳ですが、その一連のレコーディング・セッションから生み出されたアルバムの中でも、これはまず筆頭にくるべき演奏として定評があるものです。個人的にマーラーの一番というとクーベリックとバイエルン放送響との演奏で曲に馴染んだものですが、これもその多少後に聴いてとても感心したものです。とにかく全編に渡り柔らかいなんともいえない優美さがある一方、そこはかとない感傷のようなものも顔を出すあたりが魅力的でその味わい深さに、他の演奏はたいてい薄味と感じたり、コクがないと思うようになってしまったものでした。

 さて、その後一番の演奏もずいぶん聴きましたが、先日の小澤とボストンの淡麗な演奏も素敵でしたし、なにより先ほども書いた通りバーンスタインとニューヨーク・フィルの天衣無縫な演奏が素晴らしかったので、久しぶりにワルターの演奏を聴いたら、さすがに色あせて聴こえるのではないか?。と思ったのして、今おそるおそる聴いてみているところですが(笑)、全くの杞憂でした。
 さすがにダイナミックさと迫力という点ではバーンスタインには到底かないませんし、この世代の感覚なのかガツンと撃つべきところをややオブラートをかけてしまい、歌謡的な部分は逆に思い切り歌いまくる....という、19世紀ロマン派の流儀というか、早い話が大時代的な身振りのようなもの感じる部分はありますが、第1楽章の天国的な幸福感、第2楽章の鄙びた風情、第3楽章の涙を誘うような叙情といったものは、さすがに余人をもって代え難い格調高さがあり、そういう部分はまるで絵をみているような錯覚を感じるほど、映像を喚起するような訴求力があります。まさに至芸というべきでしょう。

 それにしても、これを録音した1962年はワルターも既に85歳、彼はこの翌年に亡くなってしまう訳ですから、こんな最晩年にいたるまで彼が元気でいて、しかも「巨人」を録音する覇気が残っていたことを、クラシック・ファンは感謝しなければいけません。マーラーに師事した指揮者としては、同じ頃オットー・クレンペラーが存命でしたけど、調べてみたらクレンペラーの方がワルターより10歳近く若いんですね。それを考えると、ワルターがこんなクリアなステレオ録音残したというのはやはり非常に幸運なことだったと、あらためてを感じているところです。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」/バーンスタイン&ニューユークPO

2007年03月01日 22時16分39秒 | マーラー+新ウィーン
 60年代にニューヨーク・フィルと録音した一連のマーラー・シリーズ(現在では旧全集という位置づけですが)の一枚です。私はバーンスタインの一番を聴くのは初めてですが、マーラーの一番といえば、どう考えてもこの時期のバーンスタインに相応しい素材であり、実際の仕上がりもその期待を裏切らない、壮年期のバーンスタインの覇気に裏打ちされた、よどみない流れと華やいだ活気が充満した、とても素晴らしい演奏になっています(ちなみにこれも自家製りマスターで、このCD化に際して失われた高域を復活させた....つもりのディスクで聴きました)。

 第1楽章の緊張感ある幕開けから、やがてパースペクティブが開けて一気に開放感溢れるテーマがでてくるあたりの活気やハイライトでのきかせる強奏部分のパンチ力など、この曲はこうでなくちゃね....と思うことしきりです。第2楽章の鄙びたところやエキゾチックな部分には目もくれず、まるで「魔法使いの弟子」かなにかのように、あっけらかんとしたスケルツォとして演奏している割切りぶりも、ある意味バーンスタインらしいオプティリズム全開ぶりで楽しい限り。
 また、第3楽章の叙情的旋律を、モダンとも古風ともいえる、まさにバーンスタインとしかいいようがない絶妙な緩急で歌ってみせるところなどレニーの芸に引きこまれるという感じですし、次の第4楽章の荒れ場では、ニューヨーク・フィルという馬車馬と一緒になって一気に疾走する快感のようなものがあって、「燃えるバーンスタイン」を堪能させてくれます。

 例によってこの時期のニューヨーク・フィルにはざらついた感触がありますし、細部の仕上げとかいうと、この時期のバーンスタインの演奏はありがちなざっくりしたところもないではないですが、それらを補ってあまりある音楽の推進力と弾けるような勢いは、マーラーの出発点を記録したこの曲にうってつけという他はなく、まさに曲と演奏家の幸せな出会いという他はない仕上がりです。
 なんかこんなにおもしろく聴かせてもらうと、次に聴こうかと思っているワルターとコロンビア響の演奏がつまんなくなっちゃいそうでコワイですね(笑)。 
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マーラー 歌曲集「子供の不思議な角笛」/フィッシャーディスカウ,シュワルツコッブ,セル&LSO

2007年03月01日 01時00分03秒 | マーラー+新ウィーン
 先日、ヴァイクルとポップがテンシュテットと組んだ「子供の不思議な角笛」を聴いたあと、「亡き子をしのぶ歌」の方に浮気気味でしたが、一緒に購入してきたフィッシャーディスカウとシュワルツコッブ、そしてセルによる同曲を聴いてみました。前回聴いた時は、「記憶だともっとファンタジックで軽やかな音楽だったような記憶がある」旨書きましたけど、こちらを聴くとあの時感じた居心地の悪さは、少なからず演奏のせいだったことがよくわかります。もともとこの曲をフィッシャーディスカウ&シュワルツコッブ盤を聴いていたという影響も当然あると思いますが、こちらを聴くと自分がもっている「マーラー的音楽像」を裏切らないというか、良い意味で違和感を覚えず楽しく聴けるんですね。

 フィッシャーディスカウ&シュワルツコッブ盤を聴いて、逆に何がそんなに居心地悪かったのかといえば、まずヴァイクルの歌唱があまりに芝居がかって、この曲集のもつ素朴さにはややオペラチック過ぎ、更に技巧がハナについていんだということがわかりました。例えば5曲目「無駄な骨折り」ので表現されるアイロニーなんか、フィッシャーディスカウを弁えた歌を聴いてしまうと、ヴァイクルの歌はあまりに喜怒哀楽の振幅が激しすぎて、マーラーの世界から離れてしまうように感じるんですね。
 あと、この両者ほどではないにしても、ソプラノのポップとシュワルツコッブ、指揮のテンシュテットとセル、ついでにオケのLPOとLSOにもほぼ似たような関係が感じられますから、結局、そのあたりが総合的に作用して、出来上がった音楽の肌合いはかなり変わったものになった....ということなんでしょう(録音も典型な50~60代のEMI調の写実系ですし....)。

 ついでにいえば、ヴァイクルとポップ盤でけっこう気になった「軍隊ラッパ+行進曲調}といった要素も、ここでは聴こえ過ぎる訳でも、もちろん聴こない訳でもなく「マーラーらしさ」というロジックにきっちり収まってごくごく自然に流れていくはセルの見識を感じさせるところかもしれません。その変わりといってはなんですが、「ラインの伝説」みたいな、ゆったりとした曲の官能性みたいなところはむしろテンシュテットの方がよく出ていていますから、何もかもフィッシャーディスカウ&シュワルツコッブ盤が優れているという訳でもありませんが....。ともあれ、この曲をとにもかくにも「マーラーの音楽を聴いてる気にさせてくれた」のは、やはりこのフィッシャーディスカウ&シュワルツコッブ盤である....ということは、目下のところ間違いないようです。
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ジャネット・ベイカー マーラーを歌う/バルビローリー&NPO,ハレO

2007年02月28日 00時07分27秒 | マーラー+新ウィーン
 ジャネット・ベイカーのマーラー歌曲集。収められた曲「亡き子をしのぶ歌」、「5つのリュッケルト歌曲集」、「さすらう若人の歌」で、伴奏はバルビローリ指揮のハレ管弦楽団(「リュッケルト」はニュー・フィルハーモニア管弦楽団)がつとめている(収録は67,69年)。ジャネット・ベイカーでマーラーといえば、72年にバーンスタインと共演した「亡き子」を先日とりあげたばかりですが、あれは5年振りの再録音ということになります。私はジャネット・ベイカーのことは英国出身のソプラノで、やたらと幅広いレパートリーでもって、60~70年代にかけていろいろなレコードで名前をみかけた人....くらいのことしか知りませんが、おそらくマーラーは得意のレパートリーだったんでしょうね。ベスト・セラーの「復活」とか「大地」の常連メンバーだったような気がします。

 さて、このアルバムですがお目当ては、やはり「亡き子」ということになります。5年ほど若い時期の録音ですが、歌そのものは基本的にあまり変わらないような気がしますが、こちらの方がスタジオ・セッション的に端正というか、割ときちんとコントロールして歌っているという感じ。こちらを聴くとバーンスタインとのパフォーマンスは一気に歌いきったようなライブ的感興のようなものがあって、秘めたる激情みたいなところをよく表現していたことがわかります。また、伴奏の違いもけっこう大きくライブ的なバーンスタインに対して、バルビローリはどちらかという瞬間、瞬間の美しさを描くのに注意を傾注しているという感じがして、時に音楽が止まってしまってるようなところもあり、かなり静的な演奏といえるでしょう(典型的なEMI調でまとめた録音というのも大きいと思いますが....)。それにしても、ベイカーの声というはとても安定感があり聴いていて安心できますね。ある種の母性を感じさせつつ。理知的な面にも不足しないというのが、特徴だと思いました。

 一方、「リュッケルト歌曲集」は「亡き子」とある意味対をなす、そこはかとない幸福感に満ちた歌曲集ですが、先に聴いたトゥーレルと比べると、格調は高い表現のように感じました。ちなみに「アダージェット」に酷似した「私はこの世に捨てられて」はハレとNPOの2ヴァージョンが入ってます(あっ、そうそう、この歌曲集の3,4曲目って、どうもマーラーのオーケスレーションじゃないような気がするなぁ)。
 更に「さすらう若人の歌」は伴奏のせいか、非常に重厚なパフォーマンスになっていて、これはこれでおもしろいとは思いましたが、ややこの曲にもともとあるはずの軽快さのようなものがどこかにいってしまって、違和感を覚えたのも事実ですねぃ。 
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マーラー 歌曲集/フィッシャーディスカウ,フ.ルトヴェングラー,ケンペ&PO

2007年02月27日 21時38分47秒 | マーラー+新ウィーン
若き日のフィッシャーディスカウがフルトヴェングラー、そしてケンペと組んだ名盤中の名盤です。前者は「さすらう若人の歌」で52年に、後者は「亡き子をしのぶ歌」で55年に収録されていますが、どうしてこういう組み合わせになったのか、浅学の私は知りませんが、オリジナルではおそらく別々に発売されていたいたものをLP時代になったまとめたものが名盤化したのかもしれませんね。50年代中盤といえば収録はまだモノラルであり、音質的な面からも、古びてしてまいかねないアルバムでしたが、私がクラシックに耽溺していた80年代もこのアルバムは「名盤中の名盤」として評価が高く、レギュラープライスに近い形で発売されていたような気がします(違ったかな)。

 さて、このアルバム、私は80年代にこのアルバムをエアチェックかなにか録音したテープで繰り返し聴いたような記憶がありますが、多分、購入はしていないでしょう。おそらくこういう歌曲なら女声で歌ったものを聴きたくて、そちらを数枚購入したまま、次の対象に興味が移ってしまったというところではないかと思います。
 なので今回聴くのは実に久しぶりになるのですが、一聴してひきこまれました。さすがに名盤中の名盤という評価はだてではありません。そもそも私は歌曲というジャンルが得意でなく、その中でも男声の歌曲となるとほとんど興味からはずれてしまうのですが、このアルバムについては例外といえますね。とにかく両曲ともにフィッシャーディスカウらしさであるいつもの格調高さに加えて、ここでは若さ故なのかナイーブな情感のようなものがブレンドされ、微妙な緊張感を湛えつつも、知情意が見事にそろった歌い振りなっているのが素晴らしいです。一般的には老獪なフルトヴェングラーと組んだ「若人」のフレッシュな歌い振りが方が有名でしょうが、「亡き子」の抑圧された情念のようなものも見事なものがあると思います。
 フィッシャーディスカウという人の歌曲は数えるほどしか聴いていませんが、60~70年代のつくられた歌曲集などを聴くと、あまりにコントロールされた完璧さ故にとっつきにくく感じてしまったものですが、このアルバムでは素直に情感に訴えてくるような一途さのようなものにぐっときます。

 録音は52,55年ですから当然モノラルということになりますが、あまりに素晴らしいパフォーマンスなので、こうした音質上の欠点は1,2分聴いただけで忘れてしまいます(リマスターの効果もあるんでしょうが)。オケは50年代にEMIのハウス・オーケストラとして数々の盤歴を残したフィルハーモニアですが、フルトヴェングラーとケンペという指揮者を迎えたせいか、カラヤンの時のようなスリムな機動美さではなく、ドイツのオーケストラのような重量感とくすんだ響きがあってこれも良いところですね。
 あと蛇足ですが、ここに収録された「若人」と「亡き子」って、もし指揮者は逆だったらどうなっていただろ?と聴きながら考えちゃいました。まだまだブラームスみたいなところが残っている「若人」の方を正統派ドイツの巨匠ケンペが担当し、「トリスタン」の親類みたいな「亡き子」フルトヴェングラーが振るというのも、けっこうおもしろかったと思うのですが....。 
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マーラー 亡き子をしのぶ歌/ベイカー,バーンスタイン&ニューヨークPO

2007年02月26日 00時13分46秒 | マーラー+新ウィーン
 先にメモった時に聴いた「亡き子をしのぶ歌」は、ジェニー・トゥーレルとバーンスタイン&ニューヨークPOが組んだ60年のパフォーマンスでしたが、こちらはトゥーレルがジャネット・ベイカーに替わった布陣で72年収録されたもので、どちらもバーンスタインのマーラー全集の旧盤に収録されている訳ですが、「亡き子をしのぶ歌」が収録されているのは珍しいことではないにしても、2種類入っているというのは珍しいと思います。そういえばこの全集、第5の「アダージェット」とか第8の第一楽章とかも入っていて、まぁ、サービス満点というとこなんでしょうね。

 さて、ベイカーの「亡き子をしのぶ歌」ですが、ジェニー・トゥーレルが割とこの曲の浮世離れした美感のようなものを超然と表現していたに比べ、ベイカーはもう少しウォームでウェットな情感を表現をしているように思います。この曲はご存知のとおり原詩を作ったリュッケルトの子供が16日の内に相次いで死ぬという悲しい出来事に端を発して作られた詩篇集の中からマーラーが5つ選んで歌曲化したものですから、子供の死を悼むという感情が全面に出ている歌曲集な訳ですけれど、そういう悲しみとか絶望感のようなものはベイカーの方がストレートに伝わってくると云いかえることもできるでしょう。また、ベイカーは豊かな声量があり、割とオペラティックなドラマを感じさせる歌唱も随所に見せ、起伏という点でもトゥーレルよりメリハリがあります(音質も72年で物理特性がそもそも良いのかノイズのダクションがほとんどなしで、生々しい鮮度があります)。

 それと今調べてみて分かったんですが、ジェニー・トゥーレルってこれを録音した時、既に60歳を超えた大ベテランだったんですね。この時期は晩年のワルターみたいに音楽活動といえばレコーディング(それもバーンスタインとの共演のみ)だけだったようですが、てっきり当時のバーンスタインに気に入られたアメリカの中堅ソプラノくらいに思っていたので意外でした。ベイカーと比べても、むしろモダンと形容したい、プロポーションの良い彫像を思わせるスタティックな美声はとても魅力があります。 
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マーラー 亡き子をしのぶ歌/トゥーレル,バーンスタイン&ニューヨークPO

2007年02月26日 00時05分01秒 | マーラー+新ウィーン
 今回のマーラー第5特集の副産物として、これまでどうにも馴染むことの出来なかった「亡き子をしのぶ歌(Kindertotenlieder)」を何となく好きになれたことがあげられます。この曲はマーラーの中期交響曲と主題とかムードとか比較的密接な関係があるそうですから、第5を集中的に聴いたせいで、この連作歌曲を好きになれる下地ができたと、勘ぐって勘ぐれないこともないですが、恐らくあまり関係なく、単なる偶然でしょう(笑)。ともあれ、この全編に渡って沈痛なムードが充満し、これといった起伏のない冴えない作品と思っていたこの連作歌曲集がしっくりと耳に届き、「あぁ、いい曲だなぁ」と思えるようになったのは、私としては快挙です。という訳で自分用のメモとして、この連作歌曲集の5曲を内容をちょっとメモっておきたいと思います。

1楽章「いま太陽が燦々と昇ぼろうとしている」
 クラリネットのもの悲しい旋律で幕を開けることの曲は、どことなく厳かでそこはかとないエキゾチックなムードがあって独特な美しさがあるけど、それは第6番の第3楽章のそれに酷似している....というかそのものである。どうしてこれまで気がつかなったのだろう。ついでにいうと第5番の第一楽章の終盤近く、この曲と同一テーマが出てくるのは有名な話。

2楽章「いま私はわかった。なぜそんな暗い炎を」
 前曲が第6番の緩徐楽章に似たムードだとすると、こちらは第5番の「アダージェット」に近いような気がする。また「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲に似た緊張感のようなものもある。全体としては既視感と官能が交錯する流れの中で、歌は何度か絶叫しかけるが、その都度諦めの中に消えていく。

3楽章「おまえたちのおかあさんが戸口から歩み入るとき」
 哀愁のある旋律でムードもオーケトレーションも1楽章に近い感じ。寂寥感感あふれる木管楽器とボーカルの絡みが絶妙。重い足取りを感じさせる律動がちょっと「さすらう若人の歌」の第3曲を思い起こさせるものがある。

4楽章「よく私は子どもらはただ散歩に出かけただけだと考える」
 これも第6番の緩徐楽章に非常に似たムードがあるが、色彩的にはやや明るめ、楽曲の推移としてもこの曲あたりで曙光が見えてくるというところなんだろうか。

5楽章「こんな嵐のような天候の中へ」
 こちらは第6番の第1楽章のダイナミズムを思わせるオーケストレーションが特徴か、これまでずっと抑圧してきて、ここに来てそれが解放されるような趣があるけれど、明るい結末というよりは、暗い決意のようなものを感じさせるが、最後の最後でなんとか長調で安寧なムードで結ばれるにはほっとする。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」 +「花の章」/小澤&ボストンSO

2007年02月24日 20時16分14秒 | マーラー+新ウィーン
 こちらは小澤がボストンと77年に入れた演奏。小澤はフィリップスで全集を完成していますから、このグラムフォン盤は旧録ということになるんでしょう。やはり「花の章」をつけた5楽章版として演奏しているのが「売り」ですが、先ほど聴いてイマイチだったメータとイスラエル・フィルによる演奏に比べれば、よほどこちらの方がしっくりときます。もっとも、この演奏の「あっさり感」のようなものは、実はメータ以上だったりするんですが(笑)、小澤の場合、その「あっさり感」は、まるで絹ごしの冷や奴を食しているような感じで、これはやはり同胞人の強みなんでしょうね、全く違和感ありません。また、ややストイックではありますが、この頃の小澤にはまだ60年代の若武者時代にあった気っ風の良さみたいなものが残っていてますから、リズムのキレ、メリハリも必要にして十分なものがありますから、安心して聴いていられます。うーん、最初からこっち聴いてればよかったな。

 聴いていて、まず気がつくのはストリングスの透明感ですね。これは録音というのも大きく影響しているのかもしれませんが、メータとイスラエルの演奏が割と厚手の音色に特徴があったとすると、こちらはボストンらしいというべきなのか、小澤の個性なのか、いまいち判然としないところもありますが、ともかくシルクのような光沢をもち、いくら音を重ねても見通しのよい立体的なオーケストラ・サウンドは印象的で(音質的にはフィリップスのサウンドに似ているような気がします)、前述の「さっぱり」、「あっさり」といった形容詞を使いたくなるのも、そのあたりも大きいんだろうと思います。あと、もちろん、小澤らしくあまりこねくり回さず、ストレートに歌っているのも、そういった印象を倍加しているといえます。
 まぁ、そういう演奏なので、どちらかというと第2楽章の絵画性、第3楽章のトラッドっぽさ、第4楽章の情緒たっぷりの哀愁とかいう場面になると、ややくいたりないところがないでもないですが、両端楽章を造形的にもきっちり押さえつつさっそうと乗り切っていますから、全体のメリハリは十分、全曲を聴き終えると、なんともいえず交響曲を聴いたという充実感を感じさせてくれのは、やはりさすが小澤とボストンというべきなんでしょうね。私は小澤の振ったマーラーというのは、実はこれしか持っていないのですが、他はどうなんでしょうね。この演奏から推測するに、第4番くらいまで、かなりイケそうな気がするのですが....。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」 +「花の章」/メータ&イスラエルPO

2007年02月24日 11時50分16秒 | マーラー+新ウィーン
 やっぱメータの演奏って、自分とは合わない....今さっき、休日の午前というリラックスした気分でもあり、最近ではめったに聴かない初期型マーラーでも聴こうと思い、メータとイスラエル・フィルによる第1番の演奏を取り出してきたんですが、それを聴きつつ、随所でそう思ってしまいました。もう何度も書きましたが、メータの演奏って妙な違和感があるんです。うまく表現できないんだけど、この人のつくる音楽のメリハリが微妙に自分の望むメリハリとズレているような感じがするというか....。今回は第1番自体聴くのが久しぶりでしたし、演奏内容などあまり関係なく、曲そのものを再確認する方が大きいと思っていたのですが、やっぱダメ。本当に相性が悪いと思います。思えば、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」、R.シュトラウスの「家庭交響曲」、先日のマーラーの5番、ウィンナ・ワルツとか、この人の演奏ってみんなそうなんだよなぁ。

 ついでに書くと、この演奏はメータにとって3回目の第1番ということにになるようですが、なんかいつものメリハリすらなくて、妙におとなしくて軽い、ある意味古典派の交響曲でも振るような演奏になっているのも不満です(そういえば、第1楽章は主題のリピートを敢行してます)。そもそも、この演奏は「花の章」を付けて、より原点の交響詩に近づけるコンセプトのはずで、第1楽章の幸福感、第2楽章の天上的雰囲気、第4楽章の叙情、そして最終楽章のドラマティックさなど、演奏も相応に劇的なものでなければならないはずなのに、意図的にあっさりした演奏を指向しているのは明らかで(だとしか思えない)、このあたりも納得しがたい....というか、正直いってほとんど意味不明な感じすらします。
 ちなみにテラークみたいな厚めのホールトーンを取り入れた録音も、この演奏の場合、その平坦な印象に拍車をかけちゃっているようで、これまたイマイチでした。最終楽章の大太鼓の迫力はなかなかですけど....。
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