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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

シェーンベルク 室内交響曲第1番/シェルヘン 他

2007年06月20日 00時02分44秒 | マーラー+新ウィーン
 難解を極めた弦楽四重奏曲第1番(作品7)、「グレの歌」の番外編のような「6つの管弦楽伴奏付き歌曲(作品8)」に続く作品がこれ、この3つの作品の中では最も有名な作品であり、それまで浸っていたこってりとした後期ロマン派の世界から跳躍しかけていることを如実に感じさせる作品でもある。とにかく、いろいろな意味で「過渡期」を感じさせる作品であり、従来からのロマン派的な作風を維持している一方、斬新なところも随所にみせ、その混在ぶりがなんともおもしろい。形式的には従来の4楽章制の交響曲を一楽章にまとめた複合的なものだが、変奏時間は全体で22,3分と大幅に短くなり、編成も15の独奏楽器からなる小編成に縮小している。しかも聴こえてくる音楽が、非常にユニークなのである。音楽理論的な面はよくわからないが、冒頭でいきなり聴こえる和音、音の跳躍が、従来の三度を基礎とした響きとは明らかに違っていて(完全4度らしい)、「調子がはずれている」ように聴こえてくる点がとにかく大きい。これによって、従来のロマン派の音楽とは明らかに異質な音楽に聴こえてくるのである。

 曲はこの和音、跳躍によって構成された主題が全編に渡って循環する訳だけれど、これに加えてオーケストラの響きが従来の弦楽器主体ではなく、管楽器主体で進んでいく点もこの曲をユニークに聴こえさせる原因のひとつになっていると思う。時代はまだ先だが、早くも新古典主義的な乾いた響き、シニカルな表情といったものが感じられるのだ。また、提示部-スケルツォ-展開部-緩徐楽章-再現部という豊富な情報量を、コンパクトにまとめた点も、弦楽四重奏曲第1番のようなしつこさがなくていい。前述の主題部に続いてすぐさまスケルツォが登場これも実にスピーディーに進み、ほとんどボーダレスに展開部に以降してめまぐるしく進行し、緩徐楽章では「浄夜」の雰囲気にしばし戻って、ロマン派的な音楽に回帰すると、やがてこれまで登場した要素が複雑に錯綜しつつ、まるで沸騰するようにコーダまでなだれ込んでいく再現部のスピード感も素晴らしく。全体としては緩急自在、だれ場が一切ない、精緻でかつスリリングな逸品というところだと思う。シェーンベルクの作品は難解なものが多く、私には理解不能な作品も少なくないのだが、私にとって、この曲は一度聴き始めると思わず最後まで聴かずにはいられない、そんな名曲になっている。

 今回聴いた演奏はシェルヘンがウィーンのメンバーを集めて64年に録音した演奏を聴いてみた。私の持っている同曲の演奏では一番古いものだと思う。シェルヘンといえば、新ウィーンの名曲の初演を担当している人だから、さぞや表現主義的な激しい、キリキリした演奏なのかと思ったら、意外にもとても落ち着いた、いってしまえばロマン派的なところを全面に出し、しかもウィーン風な格調さを感じさせる高い演奏であった。ただ、まぁ、曲が曲なだけに、後年の演奏になればなるほど強調されるリズムのキレの良さだとか、スポーツ的なスピード感。複合的なおもしろさといった点ではどうしてももっさりとした印象を受けてしまうところもあるのだが....。
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シェーンベルク 6つの管弦楽伴奏付き歌曲/ドホナーニ&ウィーンPO,シリア

2007年06月11日 00時01分04秒 | マーラー+新ウィーン
 シェーンベルクの6つの管弦楽伴奏付き歌曲、こちらは最初に聴いたアニア・シリアがドホナーニ指揮のウィーン・フィルをバックに歌った80年代初頭のパフォーマンスだ。前回も書いたおとり、この組み合わせとしてはカップリングされていた表現主義なモノドラマ「期待」の方は良かったのだが、こちらの方とシリアの歌が激しすぎ、また不安定に感じらるところもあって、もっと「普通にロマン派している演奏」が聴きたくてシノーポリがアレッサンドラ・マークというソプラノと組んだ演奏を聴いた訳である。
 ただ、シノーポリの演奏を聴くにつれ、皮肉なものでシリアの歌声が懐かしもなってきたのだから皮肉なものである。この曲に萌芽のように感じられる表現主義的なところを拡大したようなシリアの歌に比べ、マークの方は伸びやかでオペラティックでもあり、時に「グレの歌」を聴いているような感じにとらわれるほどだけれど、声そのもの美しさはやっぱシリアにはかなわないという気かしてきたのだ。マークの歌は格調高さとか理知的な面はいいのだけれど、ちょっと暗い感じもするのがたまにきずだ。両者の中間をいくような演奏なら調度いいのだが....。以下は、この6つの曲について自分用に軽くメモ。
 
1.自然
 前半はちょっとワーグナーの「タンホイザー」を思わせる荘厳さが印象的で、後半はやや動きが激しくなり、半音階でくねくねしながら上昇し、まるで「グレの歌」のような雰囲気になる。
2.紋章の描かれた盾
 嵐ようなオーケストレーションで描かれる激しい曲。マーラーの「さすらう若人」の第3曲「僕の胸の中には燃える剣が」に近い感じだが、さすがに後発だけあってマーラー以上にダイナミック・レンジの広いダイナミックスな仕上がりで、かなり飽和したような響きも散見する。
3.恋心
 やや暗い叙情に彩られた曲で、あれこれ逡巡しているような雰囲気の中、あっけなく終わってしまう。
4.決して私は倦むことなく、女主人よ
 前曲の雰囲気をそのまま引き継いで、やや低回したような雰囲気で進む。ソプラノとオーケストラの絡み合いが美しく、途中シェーンベルクらしい表現主義、無調的な響きに近づく部分もある。
5.あの甘美さのみなぎり
 タイトルとおり、非常に甘美な美しさに溢れた曲だ。トリスタン流の半音階手法で官能的に進んでいくが、壮麗なスケール感と相まって、この曲もまた「グレの歌」に非常に近い雰囲気がある。
6.小鳥が嘆き
 鳥の鳴き声を模倣したような歌い方が印象的。曲はややメランコリックでやや物憂い感じで進むが、鳥が嘆く....という点で、「グレの歌」の「山鳩の歌」が当然思い起こされる雰囲気が強い。
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シェーンベルク 6つの管弦楽伴奏付き歌曲/シノーポリ&Sドレスデン他

2007年06月04日 23時42分44秒 | マーラー+新ウィーン
 本日届いたボックス・セット。シノーポリがドレスデンを振って、まとまって録音した新ウィーン楽派の音楽を集成したもので、CD7枚組というボリュームである。関連作品の全てを網羅している訳ではもちろんないし、これはこれでシノーポリの死とは関係なく、完結したシリーズらしいので、あくまでも選集ということになるのだろう。これを購入したのは、シェーンベルクの「6つの管弦楽伴奏付き歌曲」が入ったアルバムを探しているうちに見つけたものだが、シノーポリがこんなにまとめて新ウィーン楽派の音楽を録音していたとは意外だったし、なにしろ新ウィーン楽派となれば目がない私であるので、とるものもとりあえずショッピング・カートに入れたという訳である。

 さて、今早速ディスク1の「6つの管弦楽伴奏付き歌曲」を聴いているところだ。この曲はアナログ時代にドホナーニとウィーンが伴奏しアニア・シリアが歌ったレコードで知った曲だった。確かメインはモノドラマ「期待」で、こちらは旧B面に収録されていたものだったと思う。表現主義的音楽の典型ともいえる「期待」に比べると、こちらはごくごくまっとうなマーラーやリヒャルト・シュトラウスの同系統の歌曲と共通するような爛熟した後期ロマン派風な雰囲気が濃厚な作品だったが、「期待」とか「ルル」では役に見事にハマるアニア・シリアがこうした曲だと、どうもヒステリックな歌い方になってしまい、落ち着いて聴けないようなところがあった。先日、ちょっと前にレビュウしたメータの「浄夜」が入った2枚組のCDには、このシリアが歌った「6つの管弦楽伴奏付き歌曲」が入っていて、「浄夜」を沢山聴いていたころ、実に久しぶりに聴いたのだけれど、やはり印象は変わらなかった。だから、もっと「普通にロマン派している演奏」が聴きたくて、あれこれ探していたのだ。

 ここに収録された「6つの管弦楽伴奏付き歌曲」は、案の定、ごくごくまっとうなロマン派の音楽として演奏している。前述のドホナーニ&シリア盤のような迷わず表現主義に突入してしまったような、激しさ、荒々しさ、不安定なほどゆらぐ勘定の振幅といったものはほとんどない。難解を極めた弦楽四重奏曲第1番の次の作品ということを考慮すれば、その親しみさは意外なほどで、まさに心安らかに聴ける演奏だ。そもそそういう曲なんだろうし....。
 ただ、オケの壮麗さカラフルさではさすがにドホナーニが振ったウィーンはかなわないような気もするし(シノーポリ的個性なのかもしれないし)、シリアの瑞々しくチャーミングな歌い振りからすると、ここで歌っているアレッサンドラ・マークのソプラノはやや落ち着きすぎ感もなくはないので、客観的にみれぱ一長一短というところなのかもしれない。
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マーラー 交響曲第10番 他/オーマンディ&フィラデルフィアO

2007年06月03日 23時27分19秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの10番の補筆全曲盤をいろいろ買い込んで話は、先日書いたばかりだけれど、これはその中でももっとも最近購入したものである。エディションはクック第二稿で、レコーディングされたものとしては、確か唯一のものだったと思う。クック版は最終的に第三稿で終わるのだけれど、第三稿はどちらかというとゴルトシュミットとマシューズ兄弟がメインに手をいれているらしく、純正クック版としては第二稿が最後という見方もできるらしい。現在クック版といえば例外なく第三稿を演奏するらしいので、これまた歴史的には貴重な記録であることは間違いないし、演奏がオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団という超一流コンピである点も、前回取り上げたセルとクリーブランドによるクルシェネク版と並んでポイントが高いところだ。

 さて、マーラーの10番である。私はこれの補筆全曲版は何種ももっているし、それなりに聴き込んでもいると思うのだが、正直に告白すると第2楽章以降はどうも印象が薄い。他人の手が入っている云々という先入観はほとんどないつもりだけれど、どうも「マーラーらしさ」が希薄なような気がするのだ。これは補筆全曲版を聴く前に、第10番といえば単一楽章の作品として、第1楽章ばかりを聴き過ぎたという理由もあると思う。したがって第一楽章は、「交響曲第9番に続くマーラーの音楽」として、多少音が薄いことなどほとんど気にすることなく聴くことができるし、事実マーラーの数ある音楽の中でも大好きな作品で分類できるくらいなのだが、それ以降の楽章となると、どうも音楽のヘソが見えてこないというか、マーラーの音楽らしき感触は全編に渡って感じられはするものの、それぞれの楽章の聴くべきポイントがみつからないという感じなのである。

 という訳で今回このアルバムを開封したのを幸いに、これからしばらく全曲をもう少し聴き込んでみることした。ちなみに今回のオーマンディ盤を聴いて感じたのは、この補筆全曲版がどうにして馴染みにくいかというと、似たようなスケルツォ風な楽章が真ん中で3つも続いていて、どうもメリハリという点で今一歩に感じるということと、第5楽章の途中にアレグロ風な部分が挿入されていて、両サイドを緩徐楽章ではさみこむ構成という点でみると、どうも違和感があるというのでは....というあたりを感じた。ちなみに演奏はすっきりと早めのテンポで進むオーマンディらしい客観主義が感じられるものだが、このアルバムもリマスタリングのせいか、やや音がぬるくなってしまっているように思う。フィラデルフィのサウンド、特にCBSの頃って、もっと金ピカでブリリアントな感触だったと思うのだが....。
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マーラー 交響曲第10番 他/セル&クリーブランドO <SACD>

2007年05月30日 21時06分31秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの交響曲第10番は、未完成であるが故に興味深い曲だ。通常、演奏されるのはマーラー自身がまがりなりにも総譜を手がけた第1楽章だけだが、毀誉褒貶はあるものの、イギリスのデリック・クックが補筆完成させたヴァージョンがあるせいで、比較的新しい指揮者はこの全曲を「マーラーの曲」として全曲演奏することも多くなってきたという経緯がまずおもしろいし、この補筆完成版というのも実はクックの他にも、マゼッティ、フィーラーなど様々な人が挑戦していて、それもかなりの数CD化されているである。

 私のような楽譜音痴の場合、クラシックの版違いというのはロクに違いもわからないことが多いのだが、版違い、ヴァージョン違いの類はジャンルを超えて好きなので、けっこう買い込んでいたりもする訳だ。このジョージ・セルとクリーブランドの演奏は、広い意味でその一種である。広い意味で....と書いたのは、実はこの演奏、デリック・クックが補筆完成させる前のもので、クルシェネック版といわれているものを用いたものだからである。詳しい事情は省くが、クック版がでるまでは、マーラーの交響曲第10番といえば、とにもかくにもここで聴かれる第1楽章と第3楽章しか存在していなかったからだ。

 さて、この補筆クルシェネク版だけれど、彼はアルマはの娘婿にあたる作曲家らしく、また一部シャルクやツェムリンスキーなども強力しているらしい。いわば濃い血筋での補筆ということになり、当時としてはそれなりに正統性を主張しうるものだったのだろう。だからこうしてジョージ・セルのような大指揮者がレコード演奏を残した訳だ。ところがこのクルシェネクによる補筆も、クックの見識ではかなり誤りがあったらしく、補正をほどこしているとのいうことで、そういった経緯もあって、クルシェネク版は現在ではまったく演奏されなくなった。逆にいえばその意味でもこの演奏には歴史的な価値があるともいえる。

 では、両者では何が違うのだろうか。そこであれこれ分析できればよいのだが、実は私にはよくわからない。じっくりと聴き比べれば、細部の違いはわかるかもしれないが、一聴した感じでは全く同じように聴こえるのが哀しい。むしろ、セルらしい、直線的でベタベタしない、すっきりとクリアな演奏が、この曲に潜む情念のようなものをあまりに希薄にしてしまっているという、演奏に係る印象の違いの方が強かったりするのだ。また、晩年のマーラーの心境を色濃く伝える第1楽章にくらべ、第3楽章「プルガトリオ(煉獄)」はなぜだか初期型マーラーに先祖返りしているような音楽で、続けて聴くと妙に座りが悪かったりするのも気にかかるところで、どうも版違いということをポイントに聴くとこの演奏あまり印象に残らないというのが正直なところだ。

 
 ちなみにこれは58年の録音だから、音質はけっこうナロウだし、いささかもやもやしたところがないでもない。メディアはSACDだから、マスターのクウォリティをそのまま伝えるクリアさや柔らかな透明感といった器そのものの品位の良さは感じるものの、逆に元ソースのクウォリティ的な限界も感じさもしてしまう。
 という訳で、なんか気紛れで取り出してきたアルバムだけれども、こうなるとクックの全曲版の方も聴きたくなってきたな(笑)。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第1番/新ウィーン弦楽四重奏団

2007年05月23日 23時32分06秒 | マーラー+新ウィーン
これもしばらく前に購入して放置してあったもの。今回聴くために改めてクレジットをみてみると録音は60年代後半で意外と古いのには驚きました。シェーンベルクの弦楽四重奏曲全集といえば、この時期ではラサールの演奏が唯一なんじゃないかと思ってましたけど、こういう団体もしっかり演奏していたんですね。ところで、これを演奏している新ウィーン弦楽四重奏団なんですが、いったたいどんな団体なのか、ネットで調べたものの、他にCD化されている演奏もないようですし、彼らを扱った記事も出てこなくてよくわかりませんでした。この団体名やレーベルからして、たぶんウィーン・フィルのメンバーにより編成されたものだろうとは思うんですが、本家ウィーン弦楽四重奏団とはどんな関係になっているんでしょうね。

 さて、演奏ですが、これはもう見事なくらいにウィーン訛りが出た演奏という他はありません。この曲は私にとって非常に難解な曲であることは、もう何度も書いたとおりですが、そうした頭によく入っていない楽曲でも、この演奏の独特なウィーンクセというかサウンド、つまり長目のシンコペーションとくすんだような響きはとてもよくわかります。この曲の精緻な構造を解析したというに相応しいシャープなラサールの演奏や今時な軽さと流麗さをもったシェーンベルクの演奏に比べると、そのとつとつとした感じはいささか古くさい趣すらありますが、ある意味この曲にはこういう辛気くささみたいなものが元々あるんだろうという気もしますし、この曲はかなりブラームス的なところすらある作品ですから、緩急を割と大きくとって主題を明確に対照させたり、ちまちましたところはあまりこだわらず、一気に押し切ったような趣があるのは、ひとつの見識だろうとも思いました。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第1番/ラサール弦楽四重奏団

2007年05月14日 23時55分16秒 | マーラー+新ウィーン
 私のとって非常に難解な第1番ですが、ほとんど毎日のように聴き続けているおかげか、多少は「解りかけて来た」ような気がします。いや「いいなぁ、この曲」なんて思えるような段階でもないですが、まぁ、とりあえず曲の登場人物の顔をうっすらと覚えてきたというようなところです。実はこの曲、ラサール弦楽四重奏団による「新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲集」を購入した時、やはり似たような聴き込みをして、作品番号のないシェーンベルクが作った一番最初の弦楽四重奏曲(こちらもかなり晦渋な作品でありましたが)を聴いて、次にこの第1番に挑戦してすっかり玉砕したことがあったので、実は今回で2回目のトライとなる訳で、今回は少しはものにしたいとがんばっているのです(笑)。

 で、この曲これまではシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏を聴いた訳ですが、今度は前述のラサールの方の演奏をひっぱり出してきました。シェーンベルク弦楽四重奏団の演奏は「浄夜」の時に書いたのと同様、刺々しいところの全くないとても滑らかな演奏で、そのおかげで、この曲の構造面の巧緻さ、あるい知的楽しみみたいなところを、あまり表に出さず、大きな流れの中に様々な要素をごく自然に収束させたような趣がありましたが、さすがにラサールの方は、60年代後半~70年代前半という収録時期のせいなのか、現代音楽専門集団の特徴なのか、ともかくそのあたりをきっちりシャープに表現しています。リズムの鋭いアクセントもそうですが、ともかま譜面の意味するところをきっちり伝えるという意気込みが、きいていてビシビシと伝わってくるまさに真剣そのものといったシリアスな表情は息苦しいほどです。

 もっともそのおかげで、曲の緩急だとか、振幅といったものがかなり明確に対照されているので、各部分は非常にわかりやすいです。あまりにすーすーと流れてしまい、「あれ、ここもう第2主題だっけ?」とかいう風に、曲をポジションを見失いがちだったシェーンベルク弦楽四重奏団に比べると、ある意味解説的というか、わかり易い演奏にともいえるように思いました。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第1番/シェーンベルク弦楽四重奏団

2007年05月04日 21時08分37秒 | マーラー+新ウィーン
 とにかく筆舌に尽く難く難解な音楽だ。この作品番号7だから「ペレアスとメリザンド」のたった2つ後である。作曲年も1905年で「ペレアス」から再来年の作曲ということになるから、無調だの12音だのという新しい概念を導入した訳ではない。この時期のシェーンベルクはまだまだロマン派の範疇で作曲をしていたはずだし、複合的な要素を単一楽章に流し込むという循環形式のはヴァリエーションは「ペレアス」だって同様だった。なのに非常に晦渋さ、とっつきにくさはいったいなんなのだろうと思ってしまう。なにしろテーマは全曲に循環するテーマがやけ地味でほの暗いもので、ちょっと展開だのなるとすぐに主題を見失いがちだし、緩徐楽章やスケルツォに相当する部分も私には抽象度が高すぎて、なにか無味乾燥なものに感じしまうののだ。

 資料で調べると、「浄夜」とか「ペレアス」のような標題性の強い音楽は止めたということらしい。要するにこの作品からは、例えばブラームスみたいなより抽象度の高い絶対音楽みたいなもの作風を狙いはじめたということで、弦楽四重奏というフォーマットはまさに格好のものだっただろうが、その狙いはともかくとして、肝心の音楽の仕上がりといえば大傑作というにはちと厳しいのではないだろうか。自分は作曲などとは全く縁がない人間だが、そういうものを志す人がこの譜面を読むと、非常によく書けていると感心するのではないか、しかしよく書けているからといって、音楽として楽しめる訳でもないという典型的な例ではないだろうか。

 ちなみにこの作品、全体を自分なりに分けみると

・第1部 主題提示部-展開部
・第2部 スケルツォ-第2展開部-第1主題再現部
・第3部 緩徐楽章
・第4部 第2主題再現部

と、まぁ、大体こんな感じになると思う。難解さとしては第2部の後半あたりが最高潮で、このあたりで大抵音楽の行方を見失ってしまう(笑)。時に後の「室内交響曲第1番」あたりを予見するようなアブストラクトな音響的な場面も出てきたりするのが、そのあたりも難解さに拍車をかけていると思う(第2部の最後でようやくテーマが回帰した頃には、なんで、今頃?みたいに思ってしまう-笑)。第3部ではようやっとロマン派らしい普通の音楽になるのもつかの間で、いつの間に第2主題が再現されたのかもよくわからないうちに音楽は終わってしまうとい感じなのである。

 ちなみ今回聴いたのは、シェーンベル弦楽四重奏団による演奏で、「浄夜」をあれほどしっとりと、何気なく弾いた今時の楽団だから、ひょっとすると、この曲も非常に分かり易い普通の曲に聴かせてくれるのではないと期待もしたのだが、残念ながら難解なままである。不遜なことを書かせてもらえば、この曲、主題操作とかそういったものをもっと切りつめて、せめて時間的に半分、いや30分以内くらいなら、作品としてまとまりが出た思う。標題も切れ目もなしで、全体が45分の単一楽章というのは聴く方の集中力も限界を超えているように思うえるのだが....。ともあれ、私のような人間が、こういう曲に慣れ親しむには、それこそ吐くほど聴くしかないということなのだろう。
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シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」他/ティーレマン&ベルリン・ドイツ・オペラO

2007年04月30日 23時03分43秒 | マーラー+新ウィーン
 私が持っている「ペレアスとメリザンド」としては、これが8枚目で最後のものとなります。かれこれ2年に彼とフィラデルフィア管のワーグナー集を聴いて感心したもので、その直後に購入したので、例によって放置してあり(困ったもんです。ティーレマンで放置といえば、「トリスタンとイゾルデ」あるんですよね-笑)、本日ようやっと開封して聴いたという訳です。この演奏は、99年にベルリン・ドイツ・オペラを振っての演奏となりますが、前述のワーグナー集と同様、奇をてらったところのない正統派の演奏で、現代に甦った独襖伝統の解釈という感じがします。

 ともかく、非常に安定感のあるピラミッド状のオーケストラ・サウンドと瑞々しいフレージング、ハーモニーが印象的な演奏で、もう何度も書いていることなので気がひけるのですが、この作品の前衛性やエキセントリックなところは全て解決して、ワーグナーからマーラーやリヒャルト・シュトラウスと続いたドイツの後期ロマン派的な音楽のロジックに、この作品を無理なく収めきった演奏ともいえるかもしれません。ひょっとしたらリヒャルト・シュトラウスより保守的に聴こえるくらい伝統的な表情、雰囲気が感じられるほどです。このあたりは、年月の経過による作品の熟成ということもあるでしょうが、作品の中から大きなうねりのようなものを見いだして、大河的な流れの中、伝統的な表情でこれを演奏したこの指揮者のセンスというのもやはり看過できないところだと思います。

 ちなみにこのアルバム、フィルアップにはワーグナーの「ジークフリート牧歌」が収められていますが、続けて聴いても全く違和感がないのは、ティーレマンがまさに「ジークフリート牧歌」と同類の音楽として「ペレアス」を解釈しているからでしょう。それも無理してそう解釈しているのではなく、ごくごく自然にそうなっているところが、この指揮者の世代でもあり、また優れたところでもあるんでしょうね。 
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シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」 聴きくらべ [3]

2007年04月30日 13時56分44秒 | マーラー+新ウィーン
・ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団
 91年にシカゴを振ったもの。ブーレーズはその後、グラムフォンでマーラーを振って時ならぬ再ブレイクをする訳ですが、この演奏もその後のマーラーと共通するような、かつての戦闘的で研ぎ澄まされたシャープさのようないく分後退し、多少角がとれて自然な流れで音楽を作っているように感じます。
 加えて、これもマーラーと共通している点なのですが、とにかくテンポが早く、ある種の軽さのようなものかあります。60~70年代に振った「浄夜」にあった、狂おしいような激しさはほとんどなく、この曲の音色のおもしろさ、あえていえば印象派風なところ(第3部なんてドビュッシーの「海」のよう...)をクローズアップして、さっさと音楽を進めていくという感じです。
 オケのシカゴは相変わらずの名人芸で、各パートの精妙さシャープさはさすがですが、指揮がブーレーズなせいか、やや腰高なところが気にかかります。音質はややナロウで91年にしては、ちょいクウォリティ低めです。

・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 私はこの演奏でもって「ペレアス」を知ったせいか、実にしっくりとくる演奏です。冒頭から雰囲気満点、まるで怪奇映画の始まりみたいな雰囲気ですが(笑)、70年代にこの曲を演奏するということは、やはりこうした不気味さをクローズアップせずにはおられない時代だったんでしょうね。
 ちなみにメインのテーマもいかにも物々しくてワーグナーみたいだし、図太いバスを底辺置いたピラミッド状のサウンドもいかにもドイツ風で、先のブーレーズとはあらん限り対照的な音楽作りになっています。カラヤンとしては、ほぼR.シュトラウスを振るような感じでこの曲に対応していることは明らかで、流れるような美しさ、オーケストラ・サウンドの色彩感の華麗さなどはいつものこととはいえ彼の独擅場となってます。
 あっ、あとけっこう久しぶりにコレ聴いたのですが、意外にもそれほど「激しくない」ですね。もうちょっと壮絶な演奏というイメージあったのですが....。

・レヴィ指揮アトランタ交響楽団
 こちらは94年の収録で、いかにも今時な流れるようにスムースな「ペレアス」です。ブーレーズのように早過ぎることなく、私にとって調度良いぎりぎりくらいの遅さ、堅牢なバランスで、やや歌い回しとかがそっけないところはありますが、ひとまずゆったりと安心して楽しめる演奏という感じですかね。
 「ワーグナー」のトリスタンのような第3部では、テラーク特有の澄み切った音場の中で、高解像度の音楽が展開され、さながら映像的ともいいたいようなサウンドになっていて、なかなか聴きものです。まぁ、ここまで当たり前に刺激のない甘目なロマンチック・サウンドに仕上げられると、もはや1940~50年代のハリウッド映画みたいな雰囲気すらありますけど。
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シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」 聴きくらべ [2]

2007年04月27日 22時06分18秒 | マーラー+新ウィーン
・バルビローリ指揮ニュー・フィルーモニア管弦楽団
 67年の録音で、私が持っている「ペレアスとメリザンド」としては一番古い演奏です。おそらくカラヤンとベルリンの演奏が出るまでは、ほとんど唯一といってもいいような演奏だったのではないでしょうか。演奏の方はといえば、この作品が未だ海のものとも山ものつかった時代のものだけあって、非常に激くかつ陶酔的なものです。
 バルビローリというと良く旋律を歌わせ、全般に柔らかいタッチの音楽を作り上げるイメージがありますが、この演奏では「トリスタン」の如く陶酔的なところは確かにそういう特色を良く発揮しているものの、不協和音を叩きつけるようなところやSE的といいたいような音響的な部分では容赦ないタッチ激しい音楽を演出しています。その様は表現主義というより、むしろアシッド....いや、サイケデリックといいたいような色彩感があってなかなか凄いです。
 ちなみに、この録音はデッカのフェイズ4のEMI版ともいえるマトリックス6という録音方式がとられているようですが、かなりハイ上がりのデモ効果満点の高解像度ぶりが、この演奏のサイケデリックさを否応なく盛り上げています。

・シノーポリ指揮フィルーモニア管弦楽団
 こちらはバルビローリ指揮のものから四半世紀後の91年の録音。オケは同じフィルハーモニア管弦楽団ですが、四半世紀という年月がこの作品を熟成させ、ロマン派の名曲として古典化したのを如実に物語る実に落ち着いた演奏といえます。同じオケとは思えない角のとれた柔らかい音色は録音の違いあるんでしょうが、やはり解釈という要素も大きいのだと思います。シノーポリ指揮の演奏は先日のマーラーや「浄夜」でもそうでしたけど、ことオーケストラ・サウンドということに関しては、割とダークでモノトーンな雰囲気が強いのが特徴ですが、今回はバルビローリの極彩色の演奏を聴いた演奏ですから、なおさらそうした特徴を強く感じさせます。
 また、他の演奏だとあまり聴こえてこないディテールを、妙なところで浮き上がらせたりするところもこの演奏の特徴かもしれません。全体としては非常に落ち着いた渋い演奏なのだけれど、時々妙に微細なところをクローズ・アップする....そういうところが、昔、この人が精神医だったところに関連づけられたりしたのかなぁ。
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シェーンベルク 「浄夜」 (まとめ)

2007年04月26日 23時59分01秒 | マーラー+新ウィーン
 数えてみたら「浄夜」も16枚レビュウしてました。私は新ウィーンの新譜なら再発なりで自分で持ってないものを見かけると、かなりの確率で購入してしまうのですが、この曲の場合、交響曲のフィルアップとか、組み合わせのソースとして選曲されることも多いためか、けっこうな種類があったというところでしょうか。まぁ、10種以上はあるとは思ってはいたものの、まさかこんなにあったとは....。この曲、同じ弦楽合奏ということで、よく引き合いに出すチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」などより、現在ではよほど人気曲なのかもれませんね。

 さて、今回まとめて聴いた印象としては、70年までの演奏は弦楽六重奏版でも弦楽合奏版でもそうですが、とにかく狂おしいまでに激しさと、忘我の境地で陶酔する甘美な部分の落差がやたらと大きくとった典型的な表現主義芸術というか、たたずまいをもっているの特徴といえるでしょう。具体的にいえば、ブーレーズの弦楽合奏版では激しさが、カラヤンでは陶酔的な甘美さが、アサートンは音響的なエキセントリックさが全面に出されていましたし、弦楽六重奏版ではラサールがやや突き放したような冷徹なバランス、また、ブーレーズの弦楽六重奏版では弦楽合奏の時とは逆にロマン派的な陶酔感が全面に出していたといえますが、いずれにせよ、どれも緊張感の高い、息詰まるような雰囲気の中で演奏が進んでいくものでした。

 ところが、80年代降の演奏では演奏がかなり様変わりして、この曲の伸びやかな美しさのようなものを全面に出し、不協和音や耳障りな音響が使われる部分は解決済みの問題として、さらりと流すというスタイルになっているようです。あえていえば「リラックスした演奏」に聴こえる演奏がにわかに増えていたように感じですかね。その代表格はこの曲の明るい色彩感と甘美な旋律を全面に出したシャイーの弦楽合奏版とシェーンベルクSQの演奏ということになるんでしょう。更にいえば、こうした傾向は90年代になるといっそう加速しているようで、サロネンだとか湯浅の振った演奏となると、もうムーディーといいたくなるような、耳障りの良い「当たり前に美しい音楽」になっていくように聴こえました。

 ちなみに80年代以降の演奏でも、オルフェウスCOはかなり緊張感の高い演奏でしたけど、独特なリズムのキレから来る「軽さ」のようなものは、やはり今時を感じさせました。また、私の聴いた演奏で一番古いものだったストコフスキーはややハリウッド映画のサントラみたいなムードがやや古くさい感じがしたのが難点だったですかね。
 という訳でいろいろ聴いてきて、特に印象に残ったのはラサールのパーフェクトさ、シャイーのみずみずしさ、サロネンの流麗さといったところですか、前まで完璧だと思っていた演奏だと思っていたカラヤンの演奏が少々古くさいと感じたのは、やはりその後のリラックスしたスタイルが一般化して、そういう演奏を沢山聴いてしまったせいかもしれませんね。
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シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」 聴きくらべ [1]

2007年04月25日 00時05分09秒 | マーラー+新ウィーン
 実は「浄夜」と平行して、これの次の作品である交響詩「ペレアスとメリザンド」もぼちぼちと聴いていたりもしました。この曲も「浄夜」同様、濃厚な後期ロマン派な情感に満ちた官能的な作品ですが、オーケストラは4管、演奏時間は45分と「浄夜」と比べてより大規模で大きなスケールをもった作品になっています。曲は大別して4パートに分かれていて、第1部は主題提示部、第2部がスケルツォと緩徐楽章に相当し、後半の第3部は展開部、そして第4部が主題再現部と、4楽章制の交響曲を構成する要素を巨大な単一楽章としてまとめた構成となっています。プログラムは有名な北欧の伝説「ペレアスとメリザンド」をメーテルランクが戯曲化したもので、メリザンドという女性を巡るゴローとペレアスという兄弟の三角関係がストーリーの流れになっていますが、本日、聴いたのはとりあえず2種類ですが、「浄夜」と似たような感想になると思いますので、とりあえず簡単に....。

・バーメルト指揮スコッティッシュ・ナショナル管弦楽団
 イギリスのマイナー・レーベル、シャンドスから出たもので、バーメルトはシャンドスのハウス・コンダクター的存在で同レーベルではストコフスキー編曲のワーグナー集とかいろいろおもしろいレパートリーを収録しているスイスの指揮者。スコッティッシュ・ナショナル管弦楽団はヴァレーズ・サラバンデのサントラ(スコア)録音の常連です。この演奏は87年の収録で、カラヤンが以降の「ペレアスとメリザンド」としては、けっこう早い部類になるとと思いますが、カラヤンが引きずっていた表現主義的だとか世紀末といった同時代性とはある程度決別した「古典化したレーパートリー」を目指した演奏といえます。またこの指揮者の個性なのか、表情も淡泊で全体にあっさりとした流れでもって、瑞々しさを湛えた演奏になっているのが、そうした印象を倍加している気がします。オケも好演ですし、録音も色彩的ななかなか楽しめる演奏になっています。

・メータ指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
 90年の収録、ロスとの「浄夜」はそうでもなかったですが、こちらはメータのアクのようなものがよく出ていて、私の好みとはどうもしっくりきません。前にも書いたとおり、じっくりと描写して欲しいところではなぜかすーすー流れ、逆部分ではなぜか弛緩気味になってしまうあたりがそうなのですが、この人の作り出す色彩感というのも、こちらの先入観かもしれませんが、どこか東洋風にエキゾチックなところがあったりして、そのあたりもそこはかとない違和感を覚えます。とはいえ、そのスケール感と大柄なプロポーションはこの「音の饗宴」と呼ぶに相応しい曲にはマッチしていますから、客観的にみれば、この曲を楽しむには不足のない演奏といえると思います。事実、今回はこの演奏を一番持ち出してきて、Walkmanなどでも頻繁に聴いていたのですが、ある程度比較する演奏ががなければ楽しめてましたから....。ちなみにこの録音、大太鼓の迫力が凄いです。
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シェーンベルク 浄夜(ピアノトリオ版)/トリオ・コン・ブリオ

2007年04月24日 22時00分50秒 | マーラー+新ウィーン
 自宅にある「浄夜」の演奏も先日の湯浅とアルスターのものが最後かと思っていたら、肝心なのを忘れてました。なにしろこれを買ったもんで、どうせならいろいろ聴き返してみようということで、このところ連続して「浄夜」聴いていた訳ですが、「浄夜」を探してCDラックのあちこちをひっくれそのうち、当初の目的を忘れてしまったというところです。さてこの演奏はエドゥアルト・シュトイエルマンという人が編曲したピアノ三重奏による「浄夜」です。シュトイエルマンという人はピアニストで、かつシェーンべルクの同世代、そしてある程度その進歩的な音楽観も共有していたようなので、この編曲もベルクやウェーベルンが編曲したも作品の次くらいには「正統派」としての価値があるんじゃないでしょうか。

 さて、肝心の内容ですが、基本的には「浄夜」の世界を3人で忠実に再現してはいます。特に致命的な欠落感を覚えることもないし、妙な違和感もありません。非常に精巧に出来た「浄夜」のミニチュアワークといったところでしょう。ただし、この曲は「いくつかの線が複雑に絡む音楽」という側面が確実にありますから、いくらピアノは2本の手で弾くとはいえ、本来6人でやるべき音楽を3人でやった寂しさはぬぐえません。特に心の葛藤を描いたような動的な部分だと、主たる旋律はオリジナルと同じように弦が歌っているのに、バイオレンとチェロの間隙を埋めるピアノがリリースの短い減衰系の音であることも手伝ってか、あまりにこじんまりとまとまってしまった感がつきまといます。結果として、この曲のどろどろした情念だとか、後半の魂が浄化されるような壮麗さだという点になると、多少食い足りなくなるという訳で....。

 そんな訳で、オリジナルが世紀末な主人公たちのドラマを生々しく再現したのだとすれば、こちらの編曲版その主人公たちを遠くで眺めているみたいな(笑)、割とサロン・ミュージック的な気分でさらりと描いたところでしょうか。その意味ではこちらも割と軽い気分で楽しむべきかもしれませんね。あっ、そうだ、こういう例えははどうでしょうか。弦楽合奏版がカラー映画で、弦楽六重奏版はモノクロ映画だとすると、このピアノ三重奏は同じストーリーを描いたオシャレな写真集みたいな感じ。だめ?。
 あっ、そうそう、余談ですが、ピアニストのアルフレッド・ブレンデルは、これはを編曲したシュトイエルマンの弟子だそうな。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/湯浅&アルスターO

2007年04月23日 00時05分29秒 | マーラー+新ウィーン
 湯浅とアルスター管弦楽団の組み合わせによる新ウィーン楽派の音楽は調度2年前の今頃にウェーベルンの作品集を取り上げたことがありましたけど、新ウィーン以外にも日本作曲家選輯(先日取り上げた山田耕筰もこのコンビです)とかアメリカン・クラシックスなんかもナクソスで沢山振ってますから、さしずめ「ナクソスの20世紀音楽専用ハウス・コンダクター」といったところなのかもしれません。ちなみに湯浅卓雄は1949年生まれですから、目下58歳(もっと若いかと思ってました)、指揮者の世界では世代的にも中堅といったところでしょうが、彼が専属契約したナクソスは現在世界で一番売れているクラシック・レーベルですから、ひょっとすると、小澤という別格を除けば、彼は現在世界で一番CDの売れている日本人指揮者ということになるのかも....?。

 さて、このコンビによる「浄夜」ですが、これまたずいぶんとさっぱりとした演奏となっています。これが収録されたのは98年ですから、私がもっている「浄夜」の演奏でも最も新しいものになりますが(したがって、今回の連続レビュウもこれが最後の演奏です)、もはや全くといってほど、声高になったり、激高することない、実にさっぱりとした「浄夜」という感じがします。また、これは指揮者が日本人というせいもあるでしょうが、とにかく全体が実にあっさりとし、さりげなく繊細さが行き渡っているみたいな感触があって、調度小澤が指揮したマーラーなんかと共通する、まるで冷や奴食べてるみたいな感覚がある音楽になっているような気もします。
 ちなみにオケのアルスター管弦楽団ですが、アイルランドの比較的新しいオーケストラのようで、ほとんど無名なローカル・オケですから、超一流のアンサンブルという訳にはいきませんが、良く歌いなかつ柔軟さが感じられるオーケストラ・サウンドはなかなかのもので、「浄夜」を堪能するにはなんの問題もありませんでした。それにしても、このサウンドは湯浅だからこうなったともいえなくもないと思いますから、他の指揮者がこのオケを振るといったいどんなサウンドになるんでしょうね?。
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