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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ストラヴィンスキー 三大バレエ/アバド&LSO

2008年10月25日 14時35分02秒 | クラシック(20世紀~)
 70年代中盤頃のアバド壮年期の名演奏。私がクラシックを聴き始めたのは80年代初頭くらいからだけど、80年代中盤頃だったと思うが、当時廉価盤ばかり購入していた私がこれについては、珍しく大枚をはたいてボックス・セットを購入した記憶があるくらいだから、よほど高く評価されていたのだろうと思う。それからぐっと下って、とはいってもこれも大分前になるが、三大バレエから「火の鳥」と「春の祭典」が収録された1000円盤をめっけてきたので、聴いてみたところ、LP時代とあまりに違う音になっているのに愕然とした。CD化されたアナログ音源を聴くときに、ままある現象なのだが、テープのヒスノイズを抑え込むの腐心した結果なのだろう、この時期のアバドらしい鋭角的なサウンドがすっかり影を潜め、なにやらぼんやりとした「ぬるい音」になってしまっていた。

 なにしろこの時期のアバドといったら、やや骨張ってはいるがモダンでスマートなシャープさが売りだったはずである(マルチマイクで楽器に近接した録音というのもそれに大きく荷担した)。そのあたりに惚れ込んでアバドという指揮者のイメージを作り上げた人も多いはずだ、もちろん私もそうである。ところが聴こえてきたのは「元は絶対、こんな寝ぼけた音じゃねーよな」と思わずにはいられないほどに腑抜けた音だったので、私はいかにもがっかりしてしまい、もうほとんどこのCDを取り出すことがなくなってしまったのだ。このアルバムはこのところ三大バレエを頻繁に聴いている関係から、そのリベンジとばかりに数日前に購入したものだ。こちらは「ペトルーシュカ」もはいってるし、なにしろOIBPというドイツ本国でリマスタリングなのが強み、日本国内したリマスタリングに比べれば多少は聴き映えがするのでは?と思った次第である。

 で、実際聴いてみると、ディテール表現など国内盤よりは遙かにいいが、やはりアナログ盤とは根本的に感触が違うように感じた。あのざっくりとした感じがどうも伝わってこないのだ。特に72年に録音された「火の鳥」は、三大バレエの中では当時にしてから、あまり記憶に残るような演奏でもなかったのだが、今聴くと更に普通な演奏にしか聴こえない。一方、「春の祭典」は耳を澄ませば、当時の感覚がフラッシュバックするくらいの音にはなっている。第一部後半、第二部中盤あたりの荒れ狂うような場面、まさにアバドの楽器と化したLSOが、狂乱の一歩半くらい前で音楽を躍動させていく様はいかにもアバドらしいところだと思う。もちろんこういうバランス感覚が煮え切らないと思う向きもあるだろうし、スマートで理知的な現代性を感じさせて好感をもつ人もいるとは思う。私の場合、「春の祭典」についていえば後者だ(とはいえ、この演奏ですら、今の耳からすると、けっこう当たり前の演奏になりつつあるとは思う)。

 「ペトルーシュカ」は多分、アバドのデジタル録音のもっとも最初期のものだったと思う。したがって、三大バレエの中では録音が一番新しく、たんに聴こえてくる音だけで判断するならこれが一番リッチで絢爛たる響きがする、最新録音に比べてもさほど遜色ないと思えるほどだ。演奏についてもほど良いドライブ感とシャープ感覚が渾然一体となっていいムードを出していると思う。曲の骨格をがっちりと表現しつつ、アバドらしく律儀なほどに克明さも追求し、トラディショナルな旋律部分は思い切りよく歌う....とほとんどアバドの美点をもれなく表現しているといっていいと思う。もっとも、この曲の持つファンタジーとか哀愁のようなものとなると、いささか雲散霧消状態なところはないでもないが、30年前の「ペトルーシュカ」演奏としては、ほとんど満点に近い演奏だったのではないだろうか。という訳で、今回聴いた3曲の中で一番良かったのは文句なく「ペトルーシュカ」であった。
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ストラヴィンスキー 三大バレエ/アンセルメ&スイスロマンドO

2008年10月23日 21時43分58秒 | クラシック(20世紀~)
 こちらはアンセルメが50年代後半に、当時彼が手塩にかけて育成した手兵、スイスロマンド管弦楽団を振ったストラヴィンスキーの三大バレエである(他に「結婚」もはいっている)。アンセルメといえば、後に喧嘩別れしてしまうとはいえ、ストラヴィンスキーと親交もあり、名実ともにストラヴィンスキーのスペシャリストとして名を馳せた人だから、おそらくここに収録された演奏も、私がクラシックを聞き始めて80年代くらいまではまだまだスタンダードな演奏として価値があったように記憶している。が、ストラヴィンスキーの三大バレエのようなオーケストラのテクニックが巧ければ巧いほど聴き映えするような曲だと、なにしろ次々に巧い演奏が出てきしまうせいか、さすがに最近はこれらの演奏もほとんど忘れられられかけているのではないか。忘れられられ....といえば、「80年代のアンセルメ」として、デッカが大々的に売り出したデュトワとモントリオールのコンビすら、今は忘れさられようとしている気がする。時の経つのは早いものだ。

 さて、久方ぶりに聴くアンセルメの三大バレエだが、予想通り....いや、予想以上に古色蒼然とした演奏に感じられた。昔はもっと整然とした、やや温度感は低いものの、端正な演奏というイメージがあったのだが、今聴くと熱演しているのは分かるのだが、オケの鳴りきっていないは、リズムの縦線は豪快に不揃いだはで、気合いというかテンションの高さは伝わってくるだけに、逆に大昔のオーケストラの限界みたいなものを感じてしまうのだ。もちろん作品自体が当時生乾きだったこともあるだろうが....。
 「春の祭典」の前半「春のきざし」など、正体不明な異形の音楽をおそるおそる演奏しているという風情で、聴いているこちらまも、まるでモノクロのゴジラ映画を観ているような気がしてしまう。また、全編を通じ随所の鳴るシグナル風な金管モチーフなども、音楽のパートというより、まるで効果音のように聴こえてしまったりする。「ペトルーシュカ」は、おそらくこの曲の沢山含まれるロシア民謡の旋律だとか、リズムチェンジのようなものを、おそらく扱いあぐねているのだろう、いかにも昔堅気な律儀さがあってちと窮屈に感じてしまったりもす。リズムの切れ、推進力、ドライブ感といった点でいうとまさに隔世の感があるといったところか。

 その意味で一番違和感がないのは「火の鳥」か、ムーティのところにも書いたけれど、この曲はまだまだ伝統的ロシア音楽みたいなイメージが強いので、オケの技量、リズムのモダンさみたいなところばかり解決できないのが幸いしているのだと思う。詩的なリリシズムや各場面の描き分けなどさすがアンセルメである。声を荒げることなく実に老獪に仕上げている。ただ、「火の鳥」はこの録音から数年後、フィルーハモニアと再録があって、こっちは演奏も録音もこれの更に上をいく演奏なのがたまにキズなのだが....。
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ストラヴィンスキー 三大バレエ/ムーティ&フィラデルフィアO

2008年10月12日 18時42分33秒 | クラシック(20世紀~)
 ここ2週間くらい頻繁に聴いているのが、ストラヴィンスキーの三大バレエ、つまり「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」の三作品。これらの作品はなにしろ古今の管弦楽曲に屹立する有名作だし、私も大好きな作品群なのだが、自分のブログを読み返してみても、ストラヴィンスキーそのものがあまり出てこないから、多分、ここ3,4年はほとんど聴いていなかったのだろうと思う。なので、このところのiTunesライブラリ構築作業中に、当然ストラヴィンスキーということになって、ふと「ペトルーシュカ」を流してみたところ、「あぁ、「ペトルーシュカ」ずいぶん聴いてなかったな、やっぱりいいね」ということになって、あれこれ聴き始めたというところなのだろうと思う。iTunesライブラリの構築とかには限らないが、自分のストレートな欲求以外の要因でもって音楽を聴くと、思わぬ新鮮さがあったり、自分が聴きたい音楽がみつかったりもする副産物がある。

 さて、今回聴いているのは、ムーティがフィラデルフィアを振った演奏である。例のブリリアントから出ている2枚組だが(三大バレエの他にもマリナーが振った「プルチネルラ」全曲版や組曲なんかも入っている)、70年代終盤から80年代にかけてムーティがその後主席となるフィラデルフィアと組んでEMIから出した一連の作品をまとめたものと思われるが、私はこれまで未聴だったので、とにもかくにもこういう形で廉価にまとめてくれるのはありがたい。
 演奏はどれもこの時期、飛ぶ鳥を落とす勢いだったムーティらしさ全開、若さあふれる直線的な勢いとャープなドライブ感をもったものだが、おもしろいのは当時まだまだオーマンディのご威光が残っていたフィラデルフィアのブリリアントだがやや腰の重いゴージャスなサウンドが合いそうでいて合わなそうところがあるところで、金ぴかのアメ車がサーキット走ってみるみたいな、一種独特な様相を呈していると思う。

 まぁ、そのあたりはともかくとして、ここでのフィラデルフィアはやっぱ凄い。「春の祭典」第一部の激しい部分など、録音だとそうでもないが、実際のホールではさぞやバカでかい音がもの凄い勢いで鳴っていたんだろな、と思わす凄まじさがある。これより数年前にショルティはシカゴと「春の祭典」をレコードにしているけれど、あれほどの凄みはないにしても、まぁ、けっこう似ている演奏のように感じた。まぁ、こちらにはカラフルな色彩感とある種のスウィング感がある分むしろ勝っているといいたいくらいだ。「ペトルーシュカ」も猪突猛進、駆け抜けるような演奏で、この曲のワビとかサビのようなあまりこだわらずスポーティーに最後まで演奏しきっている。フィラデルフィアの演奏もオーマンディの時に比べれば、精一杯俊敏さをアピールしているのだが、やはり少しばかり重い、そのあたり齟齬がおもしろいといえばおもしいろいのだが....。前2曲に比べれると「火の鳥」はごくごく普通のロシア物に近い曲だけあって、指揮も演奏もけっこうオーソドックスなように感じた。
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ボストン・ポップス・オン・クリスマス

2007年12月24日 02時47分07秒 | クラシック(20世紀~)
 ライトクラシック系のクリスマス・アルバムはいうまでも沢山あるけれど、ジョン・ウィリアムス指揮ボストン・ポップスによるこのアルバムは、さしずめここ四半世紀のこの手のアルバムの決定版といえるのではないか。フィードラーやマントバーニといったところを聴くとちと古くさく感じるが、かといってフュージョン・スタイルやニュー・エイジといった今時なスタイルよりは、もう少しスクウェアな気分でクリスマス・ミュージックを味わいたい向きには格好のアルバムといえる。収録曲は単独曲が4つ、そして、中心をなすのは3つの-どれも10分前後-の大規模なクリスマス組曲となる。いずれも素晴らしい出来だが、とりわけ3つの組曲が素晴らしい出来だ。

 この3つの組曲だが、最初の「クリスマス・フェスティバル」は有名どころのクリスマス・ソングをボストン・ポップスというオケが演奏する魅力を満喫させる9曲。次の「クリスマス・グレーティング」はタングルウッド祝祭合唱団をフィーチャーしたアルバート・アート作曲のクリスマス・キャロルが6曲、そして3曲目の「ホリディ・チアー」はアメリカで生まれたクリスマス・スタンダードをジャズ・オーケストラ風に演奏した7曲....という具合に特徴をはっきりを描き分けているのがいい。まず「クリスマス・フェスティバル」では、超有名なクリスマス曲をまるでひとつの曲の如く流麗なアレンジでまとめで上げているのが聴き物だ。前半は3曲ではアップテンポで軽快に進み、徐々にテンポを落とし、後半の「牧人ひつじを」~「きよしこの夜」でぐっとテンポを落としてじっくりと歌い上げるあたりがハイライトだ。こういう曲順、構成で聴くと耳タコな「きよしこの夜」もぐっと感動的に聴こえる、さすがルロイ・アンダーソンの編曲というべきか。また、締めくくりは再び華やかさがもどり「ジングルベル」~「神のみ今宵しも」では「スターウォーズ」ばりの賑々しさで盛り上げるあたりジョン・ウィリアムスらしくていい。

 「クリスマス・グレーティング」は前述の通りアルバート・アート作曲のクリスマス・キャロルが6曲演奏されているが、私は寡聞にして「アルバート・アートって誰?」って感じなのだが、曲そのものはどれもお馴染みのものだ。タングルウッド祝祭合唱団をフィーチャーしているが、かなりリズミックに歌っており、合唱団主体とはいえかなりモダンな印象なのは、やはりジョン・ウィリアムスのセンスなのだろうか、最後まで一気に聴き通せる構成もいい。「ホリディ・チアー」は名匠ビリー・メイのアレンジ、メドレーとはいえ、私の好きな「ザ・クリスマス・ソング」と「ハブ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス」がそれぞれ前半と中盤のハイライトになっているのはうれしい限り。中盤ではオケもけっこうスウィングしていて楽しい。
 単独曲としては、オープニング「ウイ・ウィッシュ・ユー・ア・メリー・クリスマス」の華やかさ、とてもアイヴズとは思えない「クリスマス・キャロル」の敬虔さもいい。そんな訳で、このアルバム、個人的にはクリスマスのマスト・アイテムである。
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日本作曲家選輯/大澤壽人

2007年11月02日 23時15分35秒 | クラシック(20世紀~)
 大澤壽人は1907年生まれだから、伊福部先生より7歳年長である。神戸に大ブルジョア家庭に育ち、青年期から海外へ音楽留学など度々行ってきた恵まれた環境にあった人らしい。私はこの人の名前は全く初めて聞くのだが、おそらく一般的にもほとんど無名の存在だろう。CDの帯に「知名度の高さを分母に、未知の音楽との出会いの喜びを分子にとれば、恐らくは最も高い数字が出る邦人作曲家」とあるのはそのあたりを逆に売りにしているような気配すらある。収録曲は2曲、ピアノ協奏曲第3番「神風協奏曲」と交響曲第3番でどちらも1930年代の後半に作られた作品である。とりあえず、ざっと聴いてみた印象をメモっておきたい。

 まず、ピアノ協奏曲第3番だが、一聴してモダンな響きに満ち満ちた作品になっている。多分、大澤の海外留学の経験がものをいっていると思われるが、第1楽章はプロコフィエフのダイナミックさとラベルの流麗さが混在したような趣があり、第2楽章はガーシュウィン的なジャズ風味とやはりラベル的な叙情がある。また、第3楽章はバルトーク風なテクニカルさとプロコフィエフ風なバーバリックな野趣が横溢しているという感じで、とにかく「1938年の日本」という時と場所では、あまりに早すぎた作品という感じだったのだろう。当時全く評価されなかったのもよくわかろうかというものだ。ちなみにこの作品、朝日新聞社所有の飛行機神風号にあやかったって作曲されたらしい。ある種のメカニック賛美みたいなところは、この時代の様相だったのだろう。

 一歩、交響曲第3番は、橋本國彦の交響曲第1番同様、戦前の皇紀2600年を記念した作られた作品だが、こちらは「皇紀2600年」というトラディショナルなムードはにわかに想像しがたいモダンな仕上がりになっている。第1楽章はオネゲル風な音響やショスタコ風な諧謔味をベースに多少日本的な風情が入り混じっている程度、短い中間の2楽章では日本的な雅の感覚を非常にモダンに表現しているという印象で、時にバルトークの緩徐楽章の妖しさや印象派に衣替えした童謡風なところがあったりする。最終楽章はバルトークのオケコンの最終楽章を思わせる明るさとダイナミックさを縦横に展開しつつ輝かしく終結するといった感じだ。
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日本作曲家選輯/大木正夫

2007年09月23日 20時30分32秒 | クラシック(20世紀~)
 大木正夫という人は名前すら初めて聞く人だが、ネットで調べてみると、日本プロレタリア音楽運動の第一人者で、60年安保闘争の頃作られた全二部のカンタータ「人間をかえせ」は、当時けっこうなベストセラーなったというから、かなり有名な人ではあるらしい。世代的には1901年生まれ、伊福部先生より一回り半くらい年長、諸井三郎より2歳上といったところで、キャリアとしては戦前からワインガルトナー賞などとっているというから、そこそこ知名度も高い人だったということになるのだと思う。収録作は戦前の「日本狂詩曲」と戦後の交響曲第5番「ヒロシマ」の2曲となっているが、まずはこの両作品のあまりの作風の違いに驚いてしまう。

 「日本狂詩曲」はタイトルから伊福部先生のデビュー作と同じだが、ロシア・スラブ系の作曲家がよくやった自国の民族音楽を西洋流に翻案するというスタイルをそのまま日本でやったという趣である。素材的にはに日本のものだろうか、音楽的には極めて西洋的なもので、オーケストレーションなども非常に練達な印象だ。ボロディンとかスメタナ的な方法論をもうすこしモダンにした印象とでもいったらいいか。具体的にいえば、リズミカルなピアノが途中出てきたり、打楽器が活躍する錯綜するリズム....といった点は、誰が聴いてもストラヴィンスキーの「ペルーシュカ」を思わせることと思う。まぁ、ストラヴィスンスキーなどまだ前衛以外の何者でもなかった戦前の日本でこうしたモダンな作風を持っていたというのは、ある意味かなり驚異だが、まぁ、器用な日本人の面目躍如といったところなのかもしれない。

 一方、交響曲第5番「ヒロシマ」は原爆投下された広島惨状を描いた絵画にインスパイアして作曲された8つのパートからなる一種の音画である。基本的には無調以降の非常にシリアスな感じの「現代音楽」で、全編に渡りうごめくような音響のうねり、不協和音による強烈なダイナミズム、そして沈痛なムードが充満した、非常にシリアスな音響作品になっている。ただ、不遜ないい方かもしれないけれど、私のような後発のリスナーの場合、この作品の内包する重さのようなものはあまり関係なく、例えばジェリー・ゴールドスミスあたりがSF映画でよくやる音楽を楽しむが如く、緊張感が高く、確かに設計された音響美の手応えを素直に楽しん聴いた。まぁ、少なくともこの手の左翼的スタンスでありがちな、ちょい気恥ずかしくなるような説教臭い教条主義的なヒューマニズムだの、お涙頂戴式な情緒の垂れ流しみたいなものとは無縁仕上がりなのは、安心したところでもである。
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20世紀アメリカ音楽の古典/ピアノ三重奏曲集(シフリン他)

2007年07月06日 00時18分36秒 | クラシック(20世紀~)
 現代アメリカの作曲家による3つのピアノ三重奏曲を収めたアルバム。いずれもここ20年くらいの作品で、ジャズ的な語法が曲に見え隠れしているところを共通点として選曲されたらしい。いずれも80年代以降の「現代音楽」ということで、きりきりとしたシリアスさはそれほどでないし、アメリカ作曲家らしいある種の開放感がどの作品にもあり、現代音楽が苦手な人でも比較的(あくまでも比較的に....だが)聴きやすいのが作品集ともなっている。では、ざっと収録曲をメモしておくとしよう。

・シフリン/ラヴェルをたたえて
 シフリンは、ヴァーブ・レーベルでアレンジャーとし、映画音楽でも名を上げたてあのラロ・シフリンのことである。彼はプレヴィンほど成功した訳でいが、クラシックとジャズの二足のわらじで活躍しているらしく、この作品はそのクラシックの方の分野でのものといえそうだ。タイトル通りラヴェル的な語法でアルゼンチンの音楽をモダンに仕立て直したような趣だが、比較的軽い最初の3つの楽章に対して、終曲はバルトークやヒナステラを思わせるダイナミズムとエキゾチックさをもったアグレッシブな音楽となっている。

・シュラー/ピアノ三重奏曲
 3曲中ではもっとも「現代音楽」した作品。ただし、ブーレーズのような過剰に理知的な音楽という訳ではなくて、どちらかという新ウィーン的なニューロティックな面も強い。つまり怪奇映画のサントラのようなムードもあるのだが、それが3楽章になると突如タイトル通りリズムはやたとスウィングしているものの、アブストラクトな音響作品となってしまう。このあたりユニークというか私としては意味不明だ。

・シャピロ/ピアノ三重奏曲
 古典的な4楽章制をとっているものの、基本はミニマム・ミュージックという気がする。全編に渡ってミニマム的な平穏さとユーモラスな表情、としてドラマチックな旋律のちゃんぽんで構成されていて、坂本龍一の映画音楽を愛聴している私のような人間だと、ごくごく自然に耳に入ってきて、とてもわかりやすい....というか、この作品、ほとんど坂本龍一の音楽のように聴こえてしまう。シャピロは42年生まれということだから、坂本が影響を受けたのだろうか、それともミニマム系共通の特徴なのだろうか?。
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日本作曲家選輯/諸井三郎

2007年06月17日 19時30分39秒 | クラシック(20世紀~)
 諸井三郎というと、「戦前~戦中にかけての重厚なドイツ的作風の諸作品でもって、日本楽壇の君臨した重鎮」みたいなイメージがあるけれど、実際の音楽を聴いたのはもちろんこれが初めてだ。収録されたのは「こどものための小交響曲」、「交響的二楽章」、「交響曲第3番」の3曲で、いずれも1940年代前半の戦時下における作品だ。ライナーなどを読むと、この時期の諸井はベートーベン的なドイツ風味をベースに新古典派の洗礼を受けたかなり晦渋な作品を作っていたらしく(日本のレーガーみたいなもんか?)、「交響的二楽章」などがその代表作ということになるのだそうだ。また、その後の彼は、やや日本的な叙情を曲中に見せる作風へと変貌したようで、残りの2作品はそうした作風を反映したものでもあるらしい。とりあえず、まだ一聴しただけだが、それぞれの曲から受けた印象をメモしておくことにしたい。

・「こどものための小交響曲」
 「こどものための....」というコンセプトで作られたせいか後に出てくるふたつの作品に比べるかなり分かり易い、親しみやすい作品だ。晴れ晴れとした雰囲気やストレートな躍動感、節々に感じられるモダンさなど、聴いていて何故だかプロコフィエフの交響曲第7番を思い起こさせた。ちなみに曲はややエキゾチックな雰囲気に始まり、第2楽章ではスラブ風、そして第3楽章では日本の童歌のような旋律でゆったりと締めくくられるが、この構成はなかなかおもしろい。

・「交響的二楽章」
 ふたつの急速な楽章でもって構成されている(第2楽章はスケルツォ的)。どちらの楽章も、前述のとおりいかにも新古典派の洗礼を受けたような、一筋縄ではいかない晦渋な作風で、聴いていると先を予測できない、いつまでたっても先が見えてこない、クラマックスが理解できない....みたいな点でヒンデミットを思わせたりする。もちろん、ヒンデミットほど難解でもモダンでもなく、基本的にはブルックナーあたりの音楽がベースになっているようなのだけれど。

・「交響曲第3番」
 3楽章制の交響曲で、最後が緩徐楽章で終わるというちょっと変わった構成になっていて、曲の座りとしては交響詩と交響曲の中間くらいな感じがする。第1楽章はブルックナー風な壮大さとフランク的な暗いロマン性をやや淡泊にして全体を構成したような印象で、第2楽章は新古典派的なややアブストラクトなテーマが非常にモダンな感触を与えている。第3楽章はこの交響曲の眼目となる楽章で、荘厳な幕開けから、痛ましいような雰囲気で音楽が進み、やがて魂が浄化されるように終わる。やや後期ブルックナーの緩徐楽章を似た感じだが、闘争との対照物として平安が設定されていない感性はやはり日本人だ。
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20世紀アメリカ音楽の古典/ギターとフルートのための音楽集(ライリー他)

2007年05月07日 21時03分45秒 | クラシック(20世紀~)
 自分で勝手に「20世紀アメリカ音楽の古典」と名付けているシリーズの一枚。フルートとギターのデュオのための作品を集めたもので、テリー・ライリー以外は3人は私の知らない作曲家ばかりですが、フルートとギターのアンサンブルは独特な感触を持つせいか、それともアメリカという地域性なのか、はたまた20世紀の音楽という時代性なのか、そのあたりはよくわかりませんが、とてもユニークな作品集となっています。簡単に収録曲をメモっておきます。

・ビーザー/「山の歌集」より
 非常にノスタルジックな曲で、よくわかりませんがアメリカン・トラディショナルな世界を彷彿とさせる出来です。夕暮れ時の荒野でたき火を囲んで、「そういゃぁ、昔、オレにも女房がいたよ、エリザベスって柄にもない名前でな....それからプイと家を出てしまったのさ」みたいな西部劇のシーンが似合いそうな音楽です(伝わってないか-笑)。まぁ、ある意味ウィンダム・ヒルなんかにも近い感触ですね。

・タワー/「雪の夢」
 隙間だらけのサウンドがなぜかシュールな既視感を誘う不思議な曲です。音楽的には無調的な感じですが、切れ切れのモチーフが空間のさまような様はかなりモダンなものですし、途中の両楽器の絡みなどなかなかスリリングですが、ギターとフルートという丸くてウォームな楽器故なのか、この手の曲にありがちな冷たい無機質な感触がなく、奇妙なぬくもりを感じさせるあたりが魅力です。

・ライリー/「見捨てられた歌」
 ミニマム・ミュージックの大御所の作品ですが、例のシンプルなモチーフの繰り返しによるサイケな音の幾何学紋様というよりは、乾いた情感とエスニックさが全面に出ているあたりがおもしろいところですかね。この人の作品はガチガチにシリアスなところよりは、リラックスして妙にユーモラスな音がむしろ魅力だったりするところある訳ですが、そういう特徴はこの作品にもよく出ています。構成する5曲の中では、2曲目の「夢見る人」が一番ミニマムっぽく、8曲目の「悲しみ」のどろーんとしたけだるいムードや9曲目の脱色されたようなタンゴのムードも印象に残ります。

・リーバーセン/「フルートとギターのためのソナタ」
 私と同世代の作曲家の作品だけあって、ゲンダイオクガク的な理論先行の難解さのない、リラックスした作品になっています。「夜想曲」は奔放なフルートとしっとりとしたギターのアルペジオの絡みがどこか神秘的なムードを醸し出していますし、「アレグロ」は文字度通り早いテンポで進む。エキゾシズム+テクニカルなインタープレイといった趣のある曲ですが、このあたりまでくるとなんとかなくマクラフリンとシャクティの演奏を思い出したりもしますね。

・シックリー/「窓」
 1~2分と短い曲三つで構成された作品。これもニューエイジ風な淡い心地よさがある作品で、東洋風でもあり、中近東のようなでもあるような無国籍なエキゾシズムとヨーロッパ的な透明感が心地よい作品です。
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日本作曲家選輯/山田耕筰 vol.2

2007年04月06日 23時01分51秒 | クラシック(20世紀~)
 日本作曲家選輯シリーズの山田耕筰編第2巻です。収められたのは長唄交響曲「鶴亀」、「明治頌歌」、舞踊組曲「マグダラのマリア」の3曲で、前巻が1910年代前半の作品群だったのに比べ、本巻はそれ以降、つまり1910年代中盤から1930年代までの作品となっています(アルバムには新しい順で作品が並んでいますが)。前巻はベートーベンばりの「序曲」、シューベルト風な交響曲、リヒャルト・シュトラウスやスクリャービンを思わせる交響詩と、山田がベルリンでどん欲に学んだであろう、西洋音楽の受容体験をそのまま音楽にしたようなところもありましたが、本巻ではそこから一歩踏み出して、自国の音楽と自分が学んだ西洋音楽とをどう折り合いをつけるかみたいなところに、山田の主眼が移っていることを感じさせる作品がそろっています。

 まず、このアルバムでは一番古い1916年作である舞踊組曲「マグダラのマリア」ですが、これは前巻のふたつの交響詩の延長線といった感じの音楽で、ワーグナー的な情景描写、R.シュトラウス風なオーケストレーションで出来上がっています。ただし、前述の交響詩と同様、やや音に隙間が多く、起伏もなだらかなので、オペラのカラオケのようでもあり、また本当のドラマが始まらないうちに音楽が終わってしまったというか、..みたいなやや食い足りないところもないではないです。まぁ、こういうのは日本的美質というべきなのかもしれませんが....。
 「明治頌歌」(1921年)は、黒船の襲来から大正時代までの日本と西洋文明と対立と和合を綴った交響詩的な作品で、幕末の雅な江戸の風景から黒船の襲来、明治維新の活気、明治天皇崩御、大正デモクラシーと進んでいくようです。これは歴史的絵巻であると同時に、多分山田の個人史でもあるんでしょうね。ちなみにここで初めて(?)オーケストラによる和風な響きが登場し、ようやく山田も西洋音楽の修得を追え、自国の音楽に対峙しはじめたことを感じさせます。ちなみに黒船が襲来しても、闘争の音楽にならないのは、さすが日本人というべきでしょうか。まぁ、実際ドンパチもしなかった訳ですが(笑)。

 歴史はぐっと下って1934年の長唄交響曲「鶴亀」は、純和風な世界に突入しています。なにしろ長唄と西洋の管弦楽の融合ですからね。今、聴いてもけっこう凄い。私は長唄のことなどさっぱりですが、どうやら長唄そのものは既成の作品らしく、それに管弦楽の伴奏をつけたような作曲プロセスだったようです。なので聴こえてくるのはまさに長唄そのもの。管弦楽はオブリガードの一種として長唄にからみついてくるという格好ですかね。まさにジャパン・ミーツ西洋といった響き充満しています。さながらアメリカで作った日本を舞台にした映画の一場面のようです(例えば芸者が三味線を弾いている場面で、別動の映画音楽が流れるみたいな感じ)。しかも音楽そのものは実験的でも前衛でもなんでもなく、極めて音楽的な充実感に溢れてますから、山田の音楽的見識の高さはさすがだったというべきでしょう。しかし、昭和9年という時代に日本では既にこんな音楽まで作ってたいたんですね!。 
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20世紀アメリカ音楽の古典/ジョージ・H・チャドウィック

2007年03月08日 00時30分06秒 | クラシック(20世紀~)
 ナクソス・レーベルの日本作曲家選輯シリーズは、日本人にとっては大変有り難く、貴重なもので、一種の文化事業としても素晴らしい価値があるが、だからといって、特段ナクソスが日本贔屓だという訳ではない。ナクソスにはいろいろなシリーズがあり、例えば「20世紀アメリカ音楽の古典」(これは私が勝手に命名したもので、オリジナルは単に「アメリカン・クラッシクス」である)というのもあって、これは日本作曲家選輯シリーズのアメリカ版みたいな企画で、さすがに私はここまでは追いかけていないが、おそらくこのシリーズなど、日本作曲家選輯以上に頻繁にアルバムがリリースされているのではないだろうか。もちろんこれもその一枚である。

 ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィックは、Wikiによると「1854年に生まれたアメリカ楽壇の重鎮で、ホレイショ・パーカーやマクダウェルと並ぶ19世紀アメリカ人作曲家の代表者(要旨)」らしい。ここに収録されたのは3つの序曲と2つ交響詩で、多分彼の代表作なのだろう。いずれも20世紀初頭に前後した作品であるが、内容としてはほぼ後期ロマン派を全面的に継承した音楽で(タイトルから分かるとおり、ギリシャ神話を題材にとっているようだ)、12音はおろか、無調にもほとんど接近せず、平易な旋律と展開でもって、重くも軽くもなく、ほどほどに芸術的で、通俗性もあるといった世界を構築している。言い方を変えると、音楽における実用主義というか、意義面よりもっぱら機能面を重視した音楽ということで、そのあたりになんともアメリカらしさを感じさせる。

 収録曲では序曲「メルポメネ」は、タイトルとおり悲劇的なムードの中ドラマチックな展開を見せる作品で、ちょうどブラームスと初期~中期のワーグナーとの中間といった感じの仕上がりとなっている。同じく「タレイア」は「メルポメネ」とは対照的にラプソディックでのどかな民族風なムードがある作品で、こちらはドボルザークとかスメタナあたりの交響詩を思わせる仕上がりとなっている。更に「エウテルペ」は「メルポメネ」同様悲劇的なムードを湛えたドイツ的な作品で、こちらはベートーベンの序曲をもう少しロマン派的なスケールに拡大したよう趣だ。一方、交響詩となる「死の天使」と「アフロディーテ」は、作曲年代が1910年代と新しいせいか、前3曲に比べると多少モダンな仕上がりになっていて、前者はR.シュトラウス的な「ティル」を思わせるモダンなオーケスレーションやスケール感があり、後者は「トリスタン」風な起伏にはじまりじわじわと盛り上がり、ハイライトでは嵐のようなアレグロに発展していくスケール大きな作品となっている。

 という訳で、このチャドウィックの作品。全体に充実した管弦楽の響き、重厚なサウンドである反面、親しみやすさのようなものもあって、聴き応えは十分なのだが、どうも作品の随所にピューリタン的なストイックさ、教師然とした生真面目さがちらほらしていて、こういう題材ならあってもおかしくないエロスだとか開放感、そして官能のようなものが、作品からあまり感じられないのは、チャドウィクという人の個性なのだろうが、私にはそこがいささか不満であった。
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日本作曲家選輯/山田耕筰

2007年03月07日 00時03分42秒 | クラシック(20世紀~)
 山田耕筰は「赤とんぼ」などの童謡で有名ですが、実は日本の近代音楽のパイオニアです。明治19年(1886年)生まれの彼は、20代中盤頃ドイツへ留学して、またたくまに西洋音楽を吸収し、かの地で日本初の管弦楽曲や交響曲などを作曲することになる訳ですが、ここにはこうした山田の初期の作品「序曲ニ長調」、「交響曲-かちどきと平和」、「交響詩-暗い扉」、「同曼荼羅の華」の4作品が収められています。とにかく山田という人は、非常に柔軟で器用、そして吸収の早い人だったらしく、当時国を上げて西洋文化を吸収していく最中という時代的な背景を考慮しても、渡欧後、約2年でこれらの作品をものにしてまうのは-やや習作くさいところはありますが-、やはり驚異という他はありません。

 メインとなる「交響曲-かちどきと平和」は4楽章からなる交響曲で、やはりドイツ流のきっちりと構築されたスタイルを持ちますが、こちらはどちらかというとベートーベンというよりは、シューベルトの「グレートみたいななだらかに拡がるスケール感と、よく歌うテーマの歌謡性が特徴となっているようです。第一楽章はモデラートで始まりますが、主部になってテンポが上げずゆったりと進んでいくあたりシューベルト的です。第2楽章もベートーベンやシューベルトの緩徐楽章を思わせる雰囲気を持っていますが、そこから浮かび上がってくる風景は、ドイツ~ウィーンのそれというより、もう少し淡彩で鄙びた風景のようにも思えます。
 第3楽章はスケルツォのようですが、スケルツォというより、田園的でラプソディックな舞踏音楽という色彩が強く、やはりシューベルト的ですが、音の隙間から立ち上る寂寥感のようなものは日本的といえるかもしれません。最終楽章はアダージョの序奏がつき、ここでようよくアレグロらしい音楽が現れるという趣向になってます。この主部は全体に前曲の「序曲ニ長調」と似たような軽快な推進力がありますが、フィナーレならもう少しパンチを効かせてもよかったかと思ったりますが、ブラスの咆哮にせよ、テーマの展開にせよ、これでもかという程には、くどくもしつこくなれないのは(笑)、やはり日本人だからなんでしょうね。

 冒頭の「序曲ニ長調」は初期~中期頃のベートーベンを思わせる壮麗さと高揚感を持った曲で、規模は小さいもののソナタ形式をきっちり守りつつ一気に進んでいく、小気味よい曲。二つの交響誌は、前述の2曲の翌年につくられたものらしく、山田の学習の対象となっているのが、ドイツ過去の遺産から現在(20世紀初頭頃)のトレンドになっていることを感じさせる作品になっています。「暗い扉」はリヒャルト・シュトラウスの「死と変容」を思わす静と動の対比、あるいは表現主義的な激しさ、無調的なトーンが印象的な作品で、もうひとつ「曼荼羅の華」はスクリャービン的な色彩感とエキゾチックな旋律が解け合う、時にオペラ的な描写も取り入れた作品となっています。
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日本作曲家選輯

2007年02月13日 21時32分50秒 | クラシック(20世紀~)
 確か2001年に始まったナクソスの日本作曲家選輯シリーズですが、すぐにポシャるかという危惧をよそに、もう6年目に突入しています。こんな勇気のある企画は本邦ですからなかなか難しいことですから、邦人としてナクソスの英断には拍手をおしまないつもりではあり、気がつくとまめに購入しているものの(なにしろこの手のシリーズをいろいろと平行しているナクソスなので、速攻買わないとすぐに廃盤になってしまいそう)、年間数枚づつ5年以上経過してきたことから、なにがどれだけ出て、自分はそのどれをもっているのか、そろそろ分からなくなってきました。

 で。先ほどいろいろ調べてみたところ、もうすぐ発売になるらしい安部幸明を入れて19枚であることが分かりまして、その中で私の持っていないのは、武満の2枚目だけでして、実はもうすこし持っていないのもあるかとも思っていたのですが、とりあえず私のコレクター的嗅覚はまだ大丈夫そうです(でも昔だったら、一枚ももらさないかもなぁ-笑)。で、これについては、さきほど発売予定の安部作品集と一緒に注文しましたので、とりあえずコレクター的物欲は満足したとしても、困ったのはこのシリーズの私はその中身をとんど聴いていないことなんですね(おいおい-笑)。

 一応、開封したのですら、日本管弦楽名曲集、橋本國彦、山田耕筰、大栗裕、伊福部先生くらいのものじゃないかと思います。戦前の日本のクラシック・シーンが垣間見れる橋本や山田作品など、聴けば味わいも深かったし、発見もあったりして、楽しく聴けることこの上ないのですが、どうも未知の分野には腰がひけてしまうのもまた事実....。
 という訳で、今年はこのシリーズを集めるだけじゃなくて少しは内容を味わってみたいと思います。一応、先生と橋本のアルバムはレビュウ済みですから、次は山田耕筰でもレビュウしてみようかぁな?。

■ 日本作曲家選輯シリーズ
01 日本管弦楽名曲集 8.555071J
02 大栗裕   8.555321J
03 山田耕筰  8.555350J
04 矢代秋雄  8.555351J
05 武満徹   8.555859J
06 橋本國彦  8.555881J
07 松平頼則  8.555882J
08 芥川也寸志  8.555975J
09 諸井三郎  8.557162J
10 大澤壽人  8.557416J
11 伊福部昭  8.557587J
12 深井史郎  8.557688J
13 黛敏郎   8.557693J
14 武満徹 II  8.557760J
15 別宮貞雄  8.557763J
16 早坂文雄  8.557819J
17 大木正夫  8.557839J
18 山田耕筰 II  8.557971J
19 安部幸明  8.557987J
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ラベル ダフネとクロエ/ラトル&バーミンガム市立交響楽団

2006年05月24日 23時23分37秒 | クラシック(20世紀~)
 私はラテン系の音楽は、ポピュラー・ミュージックにしてもクラシックにしたところで、あんまし得意じゃないので、ラベルやドビュッシーあたりの印象派の音楽は実のところほとんど興味の範疇外なんですが、第2組曲冒頭の海面がキラキラと輝くような場面が、なんか無性に聴きたくなってしまったので、つい先ほど買ってしまった作品。
 ただし、クリュイタンスとかデュトワとかの、やれフランスのエスプリがどうの、極上のセンスがどうで....といった演奏はごめんだったので(笑)、ちょいと絡め手でラトル&バーミンガム市立交響楽団という若手英国コンビによる演奏を買ってきた。予想とおり明晰かつ変に雰囲気に流れない、辛口な演奏で、リズムのキレも良いのも特徴かも。、「これならいいかも」という感じ。
 ちなみに録音は広大なダイナミック・レンジを誇る良質なものなのだけれど、冒頭のピアニッシモなど本当のpppなので、通常のオーディオ・スピーカーからきちん鳴らすには、よほど周りの雑音を遮へいできる部屋でないと無理。ほとんどエアコンの音で聴こえないくらいのローレベルというのも考え物だろう。(1998年)
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ハンソン 交響曲第3番/ハンソン&ロチェスター管弦楽団

2006年05月22日 23時25分20秒 | クラシック(20世紀~)
 ハワード・ハンソンは20世紀前半にアメリカで活躍した北欧系の作曲家で、同時期のアメリカの作曲家のほとんどがそうだったように、当時の音楽的なトレンドからすると、ほとんどアナクロとしかいいようがない、ロマン派的な大仰さをもった管弦楽曲を多数残している人らしい。これは彼が50年代にマーキューリー・リヴィング・プレゼンスに残した自作自演シリーズの一枚で、7曲残した交響曲のうち第3番が収録されている。

 作品そのものは、ごくごくまっとうなロマン派的な交響曲という感じ。やや晦渋ではあるが、オーソドックスな雄大さと西部劇的な叙情が支配しているあたりは、ハリウッドの映画音楽にもかなり近いセンスを感じさせたりもする。前述のとおり当時ヨーロッパではばりばりの前衛音楽が一斉を風靡していたにも関わらず、アメリカではこういう作品が依然として幅を聴かせていたというのは同国のお国柄がわかっておもしろいし、実はヨーロッパのロマン派というは20世紀初頭に消滅したのでなくて、アメリカという地で多少毛色をかえて継続していたという見方もできるんだろうと思う。

 ともあれ、この手の発表当時アナクロという烙印を押された-に違いない-、こうした作品こそ、流行だトレンドだの切り離され、時代が完全に二回りした今でこそ、その音楽面のみで再評価すべき作品だろう。ちなみに録音だが、50年代とはいえマーキューリー・リヴィング・プレゼンスによるものなので、その生々しさ、音のエグさはほとんど50年代の録音とは信じがたい鮮度の高さがある。
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