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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

バレンボイム、メデーロス、コンソーレ/わが懐しのブエノスアイレス

2006年05月19日 23時59分02秒 | クラシック(20世紀~)
 バンドネオン、ピアノ、コントラバスのトリオによるアルゼンチン・タンゴ作品。ピアノのダニエル・バレンボイムは、もちろんクラシックの世界では中堅を通り越してもはや大物といってもいい指揮者&ピアニスト、バンドネオンのロドルフォ・メデーロスは本国タンゴ界の大物で、コトンラバスのエクトル・コンソーレはクラシックとタンゴをクロスオーバーして活躍しているベテランらしいが、ともあれこのクラシックの陣営が絡んでいるだけあって、鉄壁といいたいようなアンサンブルで、格調高くピアソラ等タンゴの名曲を演奏している。

 まぁ、こういうメンツによる演奏なので、おそらく本場物のタンゴというには、いささかキャバレー・ミュージック的な下世話な感覚か希薄であり、案の定、室内楽風に整然かつノーブルに演奏しているきらいはあるものの、それでもタンゴのもつそこはかとない場末な哀感みたいなものは、そこはかとなく伝わってはくるのはさすがというべきかもしれない。ともあれ、観光客気分で、空調のバリバリきいた高級ホテルの窓から、場末に広がっている広がりを眺めているようなスタンスで聴けば、ある種エキゾチックでちょっとした異邦人気分を満喫できる作品だ。
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ショスタコヴィッチに挑戦中!

2006年04月13日 22時38分02秒 | クラシック(20世紀~)
....って、別に現在挑戦中な訳じゃぁりません。これも先日アップロードしたショスタコーヴィチ関連の駄文です。当時のことを思い出すと、どうも97年の夏頃、自分のホームページを作ってそこでクラシックのコーナーを特集をやろうと思っていたらしく、いろいろ文章を書きちらしていたようで、見出しには「FILM MUSIC~レベッカのスコア盤、ついに発見」、「JAZZ / FUSION~ジャズ事始め」、「ELTはアムロの居るドリカムか?」なんていうのが並んでいます。リンク先が切れているので、本体が見あたらないのが個人的には残念なんですけど。唯一残っていたのが、この「ショスタコヴィッチに挑戦中!」という文章なワケ。順番としてはこれが頭に来て、その後、先日の第1番と続いていくように構想していたようですが、読み返してみると、10年前も今も考えていることはほとんど変わらないのは笑えますね。

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 ショスタコの交響曲を1ヶ月1曲のペースで全部制覇しようと思いついたのは、ちょうど一ヶ月前。秋葉原の石丸電気で、わずか数千円で購入できるナクソスのショスタコーヴィチ交響曲全集を見つけた時だった。
 私がクラシックの世界に猛烈に耽溺していたのは、20才くらいからの数年間だったが、その時期は、それこそハイドンからピーエル・ブレーズまでの作品群を、クロノジカルで体系的かつ網羅的に聴きまくったものだった。

 だがその過程で、どういう訳かショスタコーヴィチの作品だけは、置き去りにされた。理由はよく憶えていない。おそらく彼の国策音楽的な威圧感にうんざりしたのか、さもなくば交響曲だけで15曲という物量に圧倒されたのだろうが(多分その両方だったのだろう)、ともかく、彼の作品は「手つかず」のまま放置されたのだった。いわば、私にとってショスコとは「長年に渡りやり忘れていた宿題」だったのだ。

 そんな私に、長年の宿題に取り組もうと思わせたのは、やっぱりナクソスの値段だ。なんたって、7千円足らずで交響曲全集(CD11枚組だぞ、おい!)が入手できるだから、これをお気軽といわずしてなんであろうという感じである。実をいえば、「7千円でショスタコ全集?。ったく、音楽の価値も下がったものだぜ」と思わないでもないのだが、ショスタコのような作曲家の場合、デジタルの新録で廉価盤の全集というのはやはり快挙には違いない。ベートーヴェンやブラームスとは訳が違うのだ。そう考えれば、この気軽さ、つまりナクソスのレーベル・ポリシーは、確かに「おいしい」ところを突いていると思ったりするのだが.....

....おっと、閑話休題。そんな訳なので、このクラシック・ページでは、とりあえず1カ月に1曲のペースで、私のショスタコ交響曲の体験記を連載的に書いてみることにしてみた。私のショスタコについての知識はほとんどゼロだし、資料、書籍等も全くないに等しいので、的外れなことを連打するかもしれないが、よろしくお付き合いのほどを.....。
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ショスタコーヴィチ 交響曲第1番

2006年04月09日 15時00分40秒 | クラシック(20世紀~)
 古いデータあれこれ整理していたら、なんだか妙に懐かしい駄文が出てきました。おそらく当時やっていた自分のホーム・ページに自分自身のショスタコ入門も兼ねて特集でも組もうかと思って、つらつらと作りかけたものだと思いますが、第1楽章のところまで書いたところで終わってます。97年の9月5日に書いたことなってますから、もう十年近く前になるんですね。結局、ショスタコの交響曲は4番くらいで止まってます。演奏はラディスラフ・スロヴァーク指揮のチェコスロヴァキア放送ブラティスラヴァ交響楽団だの、デュトワ、ザンテルリンク聴いていたはず。ちょっと引用してみますね。

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 ショスタコといえば交響曲を15曲も書いていることでもあり、かなりスクウェアな交響曲作家というイメージがあったのだが、この第1番では第1楽章からいきなり驚かされた。

 なにせこの楽章の冒頭ときたら、あのR.シュウトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」にそっくりなのである。また、それに続く各種管楽器を中心に様々な楽器がドラマの登場人物をよろしくちょこまかと動きまわるあたりも、酷似というに相応しいたたづまいだし、楽章全体の進行(ユーモラスな主人公が逡巡しながら旅をしているかのような)なども、かなり「ティル」っぽいといえる。要するに交響曲というよりは、ほとんど交響詩的な感じがするということなのであるが、もう少し重厚長大ものが登場することを漠然と予想していた私としては、「かなり予想と違ったものが出てきたな」というのがこの楽章の第一印象であった。

 次にこの楽章では諧謔的というか、シニカルというか、要するに「乾いた情感」のようなところが、とにもかくに印象に残った。ロマン派の時代だったらスケルツォにでもならなければ使えなかったような「斜に構えたようなムード」だとか「悪ふざけしているような感覚」がこの楽章には一杯なので、例えば、マーラーなどと比べてみても非常に奇妙な感じが強いのである。
 おそらくこれは、息の長い旋律を極力排し、短いまるで信号みたいなモチーフを沢山使っていること、また、それを立体的かつアブストラクトな感覚でもって組み立てていることなどに関係があるのかもしれない。まぁ、私としては、このあたりを称して「ショスタコーヴィチ的個性」として、早々と結論してしまいたい気もするのだが、いくらなんでも時期早尚にすぎるので、おいおい確かめていくとしたい。

 ともあれ、交響曲の第1番のとっぱじめから、こうも裏をかいた音楽を書くとはショスタコという人はかなりおもしろそうな人ではある。4分半あたりで突如大音響になるあたりのアブストラクトなセンスは凄いし、後期ロマン派の飽和したオーケストレーションとは無縁なすっきりとした簡素な響きはものすごく新鮮だ。こういう感覚って、当時としてはかなりモダンなものだったのだろうな。

 スケルツォに相当する第2楽章楽は、いささか気負った感じの前楽章に比べると、ピアノがなだれ込んでくるあたりはなんとなくストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」みたいだったりするのだが、大筋としては割と普通なスケルツォという感じ。特に一番最初のトリオでは、リムスキーとかボロディンなんかと共通するオーソドックスなロシア風味があって、しっかりとロシア音楽の伝統を感じさせたりして、かえってほっとしたりもする。
あと、おもしろいのはコーダで、主題はスケルツォ、雰囲気はまるで2番目のトリオみたいになっている。このあたりの複合技はなかなか知能犯的なセンスを感じさせる。

 そっかマーラーの次は、こういうひねくれたヤツが交響曲を15曲も書いたわけだ。

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伊福部昭の芸術7 わんぱく王子の大蛇退治/本名&日本PSO

2006年03月15日 00時47分50秒 | クラシック(20世紀~)
 シリーズ第7作は映画音楽からの編曲もの2つ取り上げています。ひとつは91年の「ゴジラvsキングギドラ」で、もうひとつは63年の「わんぱく王子の大蛇退治」となる訳ですが、前者は交響ファンタジーと名付けられているとおり、パート3まで作られた交響ファンタジー・シリーズのある意味完結編ともいえる内容です。後者は東映のアニメに付けられた音楽ですが、「ゴジラ伝説II」で取り上げたのがきっかけだったのか、近年、著しく再評価の機運が高まってきたことから、先生を拝み倒して(?)交響組曲としてまとめられたもののようです。

 まず交響ファンタジー「ゴジラvsキングギドラ」ですが、同名映画からの音楽が6曲ほど選ばれ、これまで同様接続風に並べられています。おもしろいのは、映画には出てこなかった「倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク」のショートヴァージョンが途中何故か出てくることです。いかなる意図でこれが入ったのかはわかりませんが、ともあれ、これが入っていることをアリバイに SF交響ファンタジーの第1~3番の後にこれを置いて聴くと、「倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク」で締めるより、遙かにSF交響ファンタジーの完結編として相応しい印象を受けるんですね。第1番には「地球最大の決戦」でギドラのテーマやキング・コング輸送作戦の音楽が出てきますから、それらを流用した「ゴジラvsキングギドラ」は調度、主題再現部のような趣があるし、オーラスは第1番の冒頭と同じゴジラのテーマになりますからなおさらです。ひょっとしてこれは意図的なものだったんじゃないかと邪推したりもしているのですが、ともあれ、暇があったら「SF交響ファンタジー」是非この構成で聴いてみてください、楽しめること請け合いです。

 次に交響組曲「わんぱく王子の大蛇退治」ですが、こちらは時間にして30分近い大作です。前述の通り「ゴジラ伝説II」の冒頭にメインタイトルが収録されをきっかけで評価が高まった作品だと思うのですが、メインタイトル以外をきちんと聴くのは多分初めてでしょう。この映画はアニメであることから、一般映画に比較して、音楽による情報量に依存する部分が大だったらしく、先生が単なる劇伴以上の音楽を作らねばならなかったこと、またテーマが日本神話に属するような話だったため、日本の古代を想起させるような音楽が要求されたこと、などを併せて先生の純音楽の分野での諸作品に近い語法が多数取り入れらることになったと推察されます。ともあれ、随所に「日本狂詩曲」や「土俗的三連画」等を思わせる響きが聴かれるのは、ちょっとはっとするような楽しさがあります。また、第三章の「アメノウズメの舞」は短いながら雑多な音楽語法が特異なリズムにのって展開される極めて伊福部的な音楽になっていますし、2回ほど歌曲風に登場する「子守歌」の美しさなど、全編を通じて聴き所満載というべきでしょう。先生が存命中にこうした形でまとめられたことに、我々は感謝しなければいけません。

 そんな訳で、2本の映画音楽から組曲風にまとめた作品を聴いた訳ですけど、こういうのは先生の物故に伴い打ち止めになるんでしょうかね。個人的には無闇にスコアに手を入れないことを前提として、作品単位で再録音をし続けてもらいたい。欧米では散逸したスコアは修復したり、再構築したりして再録音することだって普通な訳ですから、特撮物はもちろん、一般映画の方もこれからはぜひ再録音してもらいたいものです。ただ、まぁ、やはり先生の遺志としては、もうこれ以上映画音楽の方はあれこれほじくり返さないで欲しいということなんだろうなぁ。
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伊福部昭の芸術6 交響的エグログ/大友&日本PSO

2006年02月19日 14時26分26秒 | クラシック(20世紀~)
 伊福部昭の芸術第6巻は、バレエ音楽「日本の太鼓」、二十絃箏とオーケストラのための「交響的エグログ」、フィリピンに贈る祝典序曲という、いずれも私にとっては馴染みが薄い曲が3曲ほど収録されています。もちろん初めて聴く訳ではありませんが(最後の曲は除く)、先生追悼記念ということで、今回はじっくりと聴いてみました。

 「日本の太鼓」は全4部に分かれ、総演奏時間に30分を要する大作です。初演は1951年とのことですが、第4巻に収められた「サロメ」は1948年ですから、時期的にはけっこう近接している訳ですが、扱う題材が全く違うことの反映でしょうが音楽的傾向もかなり違います。「サロメ」の方はどちらかといえばストラヴィンスキーの各種パレエ音楽と共通するような舞踏付随音楽というという感じでしたが、「日本の太鼓」は、音楽そのものの自立性が非常に高いというか、ほとんどストーリーやシチュエーションを考慮せず伸び伸び作った音楽という感じで、ちょっと大げさにいえば、まずは音楽があって、そこに舞踏がくっついてくるみたいな支配関係の逆転を感じたりする訳です(本当のところは違うんでしょうけど)。

 第1章と第4章は和太鼓の圧倒的な野太い打撃音とどこか北方的な響きやのどかで田園的な音楽が交互にフィーチャーされつつ音楽が進行していきますが、いかにも先生らしい日本的としかいいようがない音楽ではあるものの、ここでは特にそれが濃厚であり、ある意味、先生の管弦楽作品でも最も非西洋的というか、ドメスティックな響きが強いような気がします。第2章は「日本狂詩曲」の「夜曲」を思わせるような静謐で郷愁を誘う音楽を両端においた3部形式で、中間部は各種特撮映画でお馴染みの伊福部マーチ的な勇壮な音楽と和太鼓の共演という感じの音楽になります。第3章は鄙びたムードで演奏される間奏曲的な楽曲。ちなみに第4章は雄大に盛り上がった後のフィナーレは映画音楽のエンディングでお馴染みの全てが浄化されるようなあのムードです。

 二十絃箏とオーケストラのための「交響的エグログ」は、いってしまえば先生が作った1楽章制の箏協奏曲です。音楽的にはその他の協奏曲とほぼ同じような世界観をもってつくられているようで、北方の厳しい自然風景を想起させるような冒頭から、箏とオーケストラの絡みでドラマチックに進行していくというものです。中間部にはかなり長い緩徐楽章的なパートがあって箏が存分にフィーチャーされています。箏という楽器は一般には琴と書かれているようですが、箏と書くのが正解のようで、これを20弦まで拡張した二十絃箏という楽器がソリストとして登場する訳ですが、和楽器であるにもかかわらず、今時の日本人には馴染みが薄いせいか、ピアノとギターとハープを併せたような楽器に聴こえてしまうのか哀しいところでありますが、割と「雅やかな」みたいなイメージがあるこの楽器から、意外なヴェルトゥオーゾ風なフレーズを演奏させたりすることも影響しているんでしょう。
 なお前述の中間部では、何度か箏とハープが被さるところがあって、「東洋ミーツ西洋」などといったら先生に怒られるかもしれませんが、その音響はなかなか斬新なものがあります。

 フィリピンに贈る祝典序曲は近年発掘された作品で、「兵士の序楽」同様、戦時下に作られた一種の国策音楽です。2台のピアノが入っていることから協奏曲的なところもあり、全般に打楽器的なダイナミズムをメカニックに展開していくことなどと併せて、第5巻に収録された「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」にちょっと近いムードもあります。後、2台のピアノで冒頭から鳴り続けるガムラン風のフレーズがあるせいか、ミニマム・ミュージック的なモダンさが期せずして感じられるのはおもしろいところでしょう。
 あと、こういう機会音楽故の類似なのかもしれませんが、はるか後年、坂本龍一がバルセロナ・オリンピックのためにつくった「地中海のテーマ」と、その構造といい、コンセプトといい、極めて類似していると感じるのは私だけでしょうか。
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伊福部昭の芸術5 協奏風交響曲 協奏風狂詩曲/大友,広上&日本PSO

2006年02月14日 23時46分53秒 | クラシック(20世紀~)
 第5巻は「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」(独奏:館野泉、指揮大友直人)と「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」(独奏:徳永二男、指揮広上淳一)というふたつの大規模な協奏曲的な作品が収録されています。後者については先生の傑作のひとつですから、かなり有名な作品といえますが、前者については近年スコアが発掘されて蘇演された、いわば「戦時下における先生の幻の大作」といったところでしょうか。

 「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」は全三楽章で、総演奏時間が40分近い大作です。「協奏風交響曲」とあるように、ピアノ協奏曲的な作品であると同時に、先生にとって未開のジャンルである交響曲に初めて挑んだ作品ともいえ、特に両端楽章は重量感といいスケールといい、いかにも構えの大きな大作という風情が漂っています。また、バルトーク風に打楽器の如くピアノを使っているところや、ある種メカニックな雰囲気が濃厚なリズムをモチーフを使っているあたり、先生らしくないともいえますが(実はこのあたりは感覚はその後、映画音楽で再現されることになる訳ですが)、これが作られた1941年という、ある種時代の雰囲気の反映なのかもしれません。
 ちなみに第二楽章については、いつも先生のペースで押し切った、鄙びた郷愁を誘うムードと峻厳な自然風景が交錯する非常に味わい深い音楽。中間部で弦のトレモロにオーボエがのって歌われる部分は、先生らしい北国の寂寥感に満ちた音の風景で、けだし絶品です。

 ところで、この作品を聴いて、ファンなら誰でも驚くのは、随所に「シンフォニア・タプカーラ」、「リトミカオスティナート」といったお馴染みの楽曲で使われたモチーフが登場する点でしょう。第1楽章の第一主題は「リトミカオスティナート」ですし、第二主題は「シンフォニア・タプカーラ」とほぼ同一です。また、途中「倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク」の前奏部分や「ゴジラのテーマ」のやはり前奏にあたる部分なども登場するのです。このあたりの事情はライナーに詳しいですが、この作品のスコアは戦争で焼けたことになっており、先生自身はもうすっかり「喪われた作品」として認識していたことから、ここで使ったモチーフは、その後他の作品で流用されることになった訳ですが、お馴染みのモチーフのヴァリエーションとして聴いても、これらの作品のどこが先生にとって流用する価値があったのか....などと考えてみても、この作品は非常に興味深いものがあります。

 モチーフの流用といえば、1948年の「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」には「ゴジラのテーマ」の主要主題がほとんどそのまま現れれますが、これにはさすがにぎょっとします。もちろんここでもオリジナルはこちらであり、「ゴジラ」のテーマとして流用されたに過ぎない訳ですけど、まさか「ゴジラ」という映画とともその音楽が歴史の1ページに名を残すことになるなど、さすがに先生も「ゴジラ」このモチーフを流用した時点では予想だにしていなかったと思いますので、途中に「ゴジラ」が登場するということで、心血注いだ「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」が有名になったしまったというのは、やはり先生としては複雑な想いがあったに違いありません。ちなみにここで聴ける音楽は、前記「協奏風交響曲」や「交響譚詩」のような西洋的なところはあまりなく、ある意味「日本狂詩曲」の世界を高度に洗練させたような、まさに日本的としかいいようがない世界になっています。
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伊福部昭 SF特撮映画音楽の夕べ/汐澤&東京SO

2006年02月11日 19時03分47秒 | クラシック(20世紀~)
 1983年の「SF交響ファンタジー」の初演の記録です。『我々、伊福部ファンは耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、この日を一体何十年と待ったのであろうか。それがついに長年の夢が実現したのである。伊福部昭の特撮映画音楽をフル・オーケストラで聴けたのだ』当時の興奮はこのライナーの一文が全てを物語っています。先生の映画音楽をフル・オーケストラで聴きたいというのは、今なら十分に実現可能な企画ですが、当時は全くそうではなかったんですね。いくつかの特撮映画がオールナイトにかかり、異常なほど人気が高かったため、昼間にロードショー扱いでシリーズ的に上映される、何種類かのサントラの発売、井上誠のシンセによる伊福部作品集「ゴジラ伝説」の登場、そして「ゴジラ」の復活....という流れの中で、このコンサートは実現したのです。これはその時のライブ盤です。

 選曲は、先の「伊福部昭の芸術4」と全く同じで、おそらく演奏の質や解釈、音質といった意味でも「芸術」の方が、より普遍的な伊福部音楽に近づいた、格調高いある意味スタンダードな演奏といえますが、個人的にはなんといってもこのライブ盤の演奏がしっくりきます....というか、初めて聴いた時の衝撃が大きく、またその後、長いことこの演奏による「SF交響ファンタジー」に馴染んでしまったというべきかもしれませんが、とにかく個人的には「SF交響ファンタジー」といえば、このアルバムに尽きるという感じなんですね。
 演奏はひとくちにいって非常にエキサイティングなものです。「芸術」の演奏をスタンダードだとすれば、こちらは早いところfより早く、遅いところは悠々と歌うという振幅が大きなところに特徴があります。おそらくこれはこの曲を「伊福部音楽」というより、「特撮映画音楽」として解釈したことによるものと思われますが、第1番の後半、有名な「宇宙大戦争」と「怪獣総進撃」が交互に現れる部分をやや前のめりなリズム感でもって煽るように演奏しているあたりにそれがよく現れています。

 それにしても、第1番でいきなり「ゴジラ出現のテーマ」が鳴り出した時はまさに衝撃的でした。それまでの私はモノラルで収録されたお世辞にも良好とはいえないサントラで聴いていた訳で、当時はしりのデジタル録音でワイドレンジに収録されデモ的効果を眩惑された点はあったにせよ(ライブで、かつ2ch一発録りだったらしくスタッフもかなり気合いが入っていたようです)、全合奏のマッシブな迫力、各種打楽器の存在感ある意味違和感すら感じましたし、異常なほどの解像度で再現されたオケの細部を聴くにつけ、こんなに「こんなにも情報量があった音楽だったのか」と驚嘆したりもしました。第1番の中盤あたりに登場する「地球最大の決戦」の部分は、個人的に非常のノスタルジックな気分になるところですが、弦のトロモロ、ハープが絡んで華麗に展開するあたり、単にバーバリックなだけではない、この曲の別の側面を見たような思いがしたものです。ともあれ、こういうの発見や驚きが、第1番から第3番まで延々と続いた訳で、当時の興奮はまさに尋常ならざるものがありました。おそらく当時の伊福部ファンはみんなそうだったのだと思います。

 ともあれ、このレコードがそこそこのヒットを記録したおかげで、その後、オケによる先生の映画音楽をぼちぼちと制作されることになり、「ゴジラ対キングギドラ」では遂に先生が現場に復帰して、そのサントラも続々とCD化されるなど、先生の映画音楽を今日的音質で聴くことも珍しくなくなっていった訳ですが、それもこれも全てはこのアルバムが出発点だったということになるんでしょう。その意味でこれはやはり忘れられないアルバムであり音楽です。
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伊福部昭の芸術4 SF交響ファンタジー/広上&日本PSO

2006年02月11日 17時49分47秒 | クラシック(20世紀~)
 こちらは目下先生の作品ではレコード化、演奏会とも頻繁に演奏される知名度という点では最も高いものといえるでしょう。先生が50~60年代に残した膨大な東宝特撮映画の音楽を接続曲風に構成して、各々十数分程度の3つの組曲にしたものです。特に第1番は現在までおそらく10種類以上の演奏がCD化されているようで、もはや現代日本の人気オーケストラ・ピースといってもいいような作品になっているとすらいえるかもしれません。この曲が初演された83年の頃の先生の作品、特に映画音楽の評価の低さ、不遇さから思えば、隔世の感があります。

 もっとも、この曲に対する先生の想いは、おそらく複雑なものがあったであろうことは想像に難くありません。先生の創作の中心はあくまでも「シンフォニア・タプカーラ」 等の純音楽の分野であって、片手間といっては語弊があるものの、この種の音楽はやはり収入源としてやっていた面が大きかったはずです(とはいえ、先生なりに音楽として筋を通したエピソードには事欠きませんが)。
 そもそも映画音楽はその性格上、本来の創作であれば、当然自分が扱わないであろう感情や心理、風景やシチュエーションといったものが要求されます。先生のような音楽的自我が強固な音楽家の場合、こうした「音楽的枠」は非常に厳しいものがあったはずですが、意外にも先生はモチーフの再使用や自作からの流用なども含めて実に大らかに音楽を作っています。当時はよほどのことがなければ、サウンドトラックがレコード化などされなかった事情もあるかとは思いますが、やはり先生にとってこれらの音楽は「上映中のみに有効な映画のパーツ」というか、ある種「消耗品」として、ある種の割り切りの上で創作されたと思います。だからこそ、これらを他の伊福部作品と並べて、演奏会やアルバムとして公表にするには、抵抗感があったと思うんですね。

 そんな訳で、先生にとってはある種複雑な想いにかられる作品ではあるとしても、この作品はあまりに抗しがたい魅力に溢れています。私のように高度成長期にゴジラ映画をリアル・タイムで体験できた人間にとってはある種のノスタルジーという側面もあるでしょうが、こうして20余年に渡って、演奏され続けられているのは、もはや音楽そのもの魅力があったとしかいいようがありません。
 評論家風にいえば、先生の特撮映画の音楽というのは、伊福部音楽に内在する様々なダイナミズムを極端な形でデフォルメし、それを通俗化、単純化したものといえます。この作品が映画を離れてなおかつ魅力があるのだとすれば、どうもそのあたりに人気の秘密があるのではないかと、ここ10年くらい私は思っているのですが、これはいずれ詳しく書くこともあるでしょう。ともあれ、様々な先生の作品に接しつつも、気がつくとここに戻ってしまうという、私にとってはまさにバイブルのような作品がこれなのであります。
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伊福部昭の芸術3 舞踏音楽の世界/広上&日本PSO

2006年02月11日 12時27分49秒 | クラシック(20世紀~)
 第3巻は舞踏音楽の世界と題して、1948年の「サロメ」が収録されています。題材がオスカー・ワイルドの「サロメ」というお馴染みのものに加えて、その後、舞踏家貝谷八百子とのコラボレーションということで、何作かある先生のパレエ音楽の中でも(ちなみにこれは第3作目)突出して記憶に残る作品といえるでしょう。また、先生の諸作の中では、純音楽作品と馴染み深い映画音楽とのほぼ境界線にあるような作品上の性格もあり、近年にわかに評価を上げている作品のような気もいたします。私はこの曲については、それほど聴き込んでいる訳ではないので、自分用のメモということで主要な曲を拾っておきます。

 01「前奏曲」は勇壮ですが悲劇なムードに満ちたファンファーレ風な音楽、続く02「ヘロデ王宮殿内の広いテラス」は弦のトレモロにオーボエがデジャブを誘うような短い旋律を歌う短いものの先生らしいもの。03「サロメの召使、ユダヤ人、ナザレ人など 」は、東洋風にエキゾチックな旋律をメインにしたゆったりとした音楽で前半部分のしめやかなハイライトとなるんでしょうか。ちなみにこのムードは映画音楽でいえば、「ファロ島」とか「ムー帝国のテーマ」あたりと共通するものです。場面が替わって05「ヘロデ王と王妃ヘロディアス、及び廷臣たちの登場」は、「黒部谷のテーマ」と「海底軍艦竣工テーマ」の併せたようなファンファーレに始まりますが、バレエのドラマ的な要請だったんでしょう以降は心理劇風な音楽になります。06「サロメ登場」のは、先生の静の部分が良く出たハープと木管の絡みを中心に続く非常に美しい音楽。07「ヘロデは、もうサロメから目線を外さない}は「キンクコングの逆襲」でファンには忘れがたいあの陶酔的ともいえる旋律です。09「ヘロデ、サロメ、ヘロディアス」はいかにも先生らしい律動を感じさせる激しいアレグロ音楽です。

 11-17はRシュトラウスの音楽でも有名な「7つの踊り」の部分となります。「第1の踊り」と「第2の踊り」は、02と同様な弦のトレモロに木管がデジャブを誘う旋律を奏でる幻想的なもの。「第3の踊り」と「第4の踊り」は「ゴジラのテーマ」だとか「海底軍艦の挺身隊のテーマ」が今にも出てきそうなダイナミックに躍動して、先生の映画音楽が好きな私のような人間なら驚喜しそうな音楽です。「第5の踊り」は一旦静まって、エスニックでエキゾチックなテーマがワルツっぽいリズムを伴って優美に演奏されます。「第6の踊り」と「第7の踊り」は再びダイナミックな律動が支配する音楽で、後者はおそらくバレエのハイライトとなるべき場面でしょう。
 20-21は例のヨカナーンの首のシーンですが、これはファンにはお馴染みの「ラドン」の登場する音楽とほぼ同位置なのにぎょっとしたりしますが、全体は急緩の繰り返しでドラマ的なハイライトが形成されているようです。2回目の緩の部分は非常に美しい音楽でとても印象的です。そのまま続く、22-26は狂乱するサロメが殺されるまでの音楽で怒濤のような勢いで進んでいきます。オリジナルではここでダンサーが踊る場面が入れられてしたようですが、この改訂版では一気にエンディングで雪崩れ込んでいくのは、確かに音楽的には正解だと思います。

 フィルアップに収録された「兵士の序楽」は、その詳細について先生も余り語りたがらない、陸軍に委嘱されたらしい一種の国策音楽のようですが、内容的には「バラン」で初めて登場し、その後いくどとなく登場する伊福部マーチそのものですから、ファンには至福の8分間といえましょう。

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伊福部昭の芸術2 交響楽の世界/広上&日本PSO

2006年02月10日 23時43分08秒 | クラシック(20世紀~)
 第2巻は「交響楽の世界」という副題が付いていて、先生が作った唯一の交響曲ともいえる「シンフォニア・タプカーラ」と先生の処女作「ピアノ組曲」を1991年になって管弦楽化した作品「管弦楽のための日本組曲」が収録されています。演奏は第1巻と同じく広上淳一指揮による日本フィルハーモニー交響楽団で、録音は1995年となっています。それではさっそく聴いてみたいと思います。

 前述のとおり「シンフォニア・タプカーラ」 は、三楽章で構成された交響曲というべき内容です。昨日レビュウした「交響譚詩」もいってしまえば通常の交響曲の前半部分のみで構成されたような曲でしたが、こちらは三楽章とはいえ、急緩急のというオーソドックスで簡潔で古典的な楽章構成をとっていて、「日本狂詩曲」から十数年、先生もいよいよ交響曲というフォーマットで勝負をかけた....といった意気込みがあったと思われます。第1楽章は主要主題をモチーフにした雄大な序奏部から始まります。資料によれば51年の初演の時はこれがなく、いきなりアレグロで始まったそうですが、後年こうした序奏をつけたところから、やはり先生としてはこの曲は交響曲なのだから、それに相応しい偉容を感じさせる序奏が必要だと感じたのでしょうね。本編ですが、荒れ狂うようなダイナミズムと壮麗な広がりを併せ持つ、まさに伊福部的な律動音楽を両端に置き、中間部にやや鄙びた趣きをもち、北国の峻厳な自然を思い起こさせる音楽をもつ構成。

 第2楽章はもちろん緩徐楽章にあたるなだらかな起伏をもった音楽で、おそらく先生が作った最も美しい音楽のひとつでしょう。ハープの寡黙だか美しいアルペジオにのって、各種楽器群が様々に表情を変えつつ、あえていえば非常にロマンティック旋律を奏でていくあたりは絶品です。最終楽章は民族的で野卑なリズムが縦横無尽に発揮された、エキサイティングなヴィヴァーチェです。ちょっとバルトークの「オケコン」の最終楽章を思わせる華々しさもあります。一旦静まり、徐々に加熱していきながら最後には狂熱のハイライトを築くあたりの素晴らしさはまさに筆舌に尽くしがたいスリリングさがあります。いや、やっぱ最高です。

 フィルアップされた「管弦楽のための日本組曲」は4つの曲からなる組曲で、原曲である「ピアノ組曲」が割とインティメートなムードで、いってしまえば絵はがきに描かれた日本の風景だったとすると、こちらは大管弦楽を用いて大きなキャンバスに描かれた4つの風景という気がします。第1曲は「盆踊り」で、盆踊りというの昔からある日常風景を題材に、その背後にある太古の歴史を拡大したかのような音楽です。また、無窮動なリズムやエンディングがちょっとラベルの「ボレロ」を思わせたりする音楽でもあります。第「七夕」はレスピーギやファリアを思わせるオーケスレーションで表現された七夕の幻想的風景です。第3曲の「ながし」は、これはもう日本的としかいいようがないリズムと旋律で構成された、聴いていて切なくなるくらいに懐かしい音楽ですが、中間部では「シンフォニア・タプカーラ」を思わせる律動が聴こえてきます。第4曲の「ねぶた」はねぶた祭りのねぶたのことでしょうか....って、私はねぶた祭り自体よく知らないので、音楽的な相関はよくわからないのですが、ともあれマーチのリズムにのってダイナミックに展開する、これまた伊福部的メルクマールに満ちたダイナミックな音楽になっています。
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伊福部昭の芸術1 初期管弦楽/広上&日本PSO

2006年02月09日 23時56分26秒 | クラシック(20世紀~)
 キング・レコードによる「伊福部昭の芸術」シリーズは先生の代表的音楽を概観すべく95年から始まった企画です。現在まで8枚ほど出ていていますが、監修に先生自身が関わっていることもあり、亡くなった先生の音楽をレトロスペクティブするには最適なものでありましょう。私も先生の追悼記念としてこのシリーズを中心に先生の作品を少しばかり振り返ってみたいと思います。

 第1巻は副題に「初期管弦楽」とついているように、戦前の作られた先生の代表的管弦楽作品、つまり「日本狂詩曲」、「土俗的三連画」、「交響譚詩」が収録されています。
 「日本狂詩曲」は、日本のアカデミズムとはほとんど無縁な位置に居た当時21歳の先生が、1936年の開催されたフランスのチェレプニン賞の第1位を獲得したという今となっては伝説的なエピソードに包まれた先生の処女作とでもいうべき作品です。前半の「夜曲」はヴィオラで奏でられる日本的としかいいようがない独特の節回しやそのヴィオラが一段落した後に続く木管楽器を中心にちょっと印象派風に展開する旋律からして、ある種の郷愁やユング的な太古の記憶を想起させるような、独特の伊福部ワールドの世界を展開していきます。後半の「祭」では先生のもうひとつの特徴であるリズムの反復を「祭」というキーワードで開陳した曲といえましょう。ここで聴かれるリズム反復は、発表当時はおそらく極めて粗野でバーバリックなものに聴こえたでしょうが、現在の耳には非常に格調高い極めて音楽的な響きに満ち満ちていると感じられるのは、この作品が古典化したという証明のようなものでしょう。

 1937年の「土俗的三連画」は14人編成の室内オケ風な編成で演奏される作品で、第1部はヴァイオリンを中心としたトラディショナルな旋律が、先生らしい力強いが極めて複雑なリズムの反復の中で展開。第2部は各種管楽器で郷愁を誘う旋律を歌う緩徐楽章的音楽。第3部は冒頭のリズミカルで曲調が回帰しつつ、急緩急をめまぐるしく展開するあたりが聴きどころになっています。

 「交響譚詩」は1944年の作品で、「日本狂詩曲」と同様2部から成る先生の代表作のひとつ。第1部では猛烈にドライブしてまさに疾走するような第一主題とそれとは対照的に旋律的な第二主題がワンセットになって展開を経て再現されるソナタ形式をとっているあたりがミソ。また、再現部でハープが華麗に絡むあたりは、まさにに西洋の鋳型(形式、管弦楽法)に流し込まれた伊福部ワールドといった感じでしょうか。
 第2部は、もともと「日本狂詩曲」の第1部として作られた「じょんがら舞曲」をベースに作られた緩徐楽章で形式的にはごくごくまっとうな3部形式。中間部に弦で奏でられる北国の荒涼とした自然と漂泊する寂寥感のようなものを絶妙に表現したこの上なく魅力的な音楽です。なお、コーダで循環主題よろしく第1部の主題が一瞬回帰するあたりも西洋音楽的ですが、それならば第3,4楽章も作ってもらいたかったと思うのは、西洋音楽に毒され過ぎた私の勝手な願望なのでしょう。
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伊福部先生 死去

2006年02月09日 14時41分24秒 | クラシック(20世紀~)
 おそらく世界的に認められた日本初の作曲家であり、ゴジラを始めとする映画音楽でも有名な伊福部先生がお亡くなりになりました。91歳といえば、ある意味天寿を全うされたともいえますが、私は先生の音楽の全てを自分の血となり肉となるほどに聴く....ということをライフワークにしている、自他共に認める伊福部フリークなもので、今回の訃報はやはりとても残念であります。

 先生とは取材も兼ねて自宅でたった一度だけお会いしたことがありますが、「ペトルーシュカ」の出典元になっている民謡の話だとか、自らの作品に対する批評とか、穏やかな口調の中、鋭い音楽的審美眼を随所に発揮していたことがとても印象に残りました。あと、ご自宅の純和風の庭先に何故だか場違いのようにゴジラの人形がひょっこりおいてありまして、それを先生に聞いたところ、「あれは孫が置いていったんだ」と笑いを浮かべていましたけど、その時の柔和な表情が忘れられません。

 ご冥福をお祈りいたします。


○読売新聞の記事
 http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060208it15.htm
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ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲全集/ルビオ弦楽四重奏団

2006年01月07日 23時15分41秒 | クラシック(20世紀~)
 またまた箱であります。ショスタコの弦楽四重奏曲なんかいつ聴くんだ。ベートーベンやバルトークだってまばらにしか聴いてないこのジャンルを箱で買ってどうするという感じなのでありますが、例によって「安心感を購入する」というのをエクスキューズにHMVでこの年末購入してきたものです。レーベルは例によってオランダのブリリアントで5枚組で2000円、しかもこちらは昔の音源のOEMではにく、れっきとしたデジタル新録ですから、もう安過ぎですね。いったい演奏者にはこれでいくらくらいのギャラがいくのか、こちらの方が心配してしまうくらいですが。

 さて、ショスタコについては、実のところ交響曲ですら全部聴いていないので、一応そのあたりを征服してから聴くというが、割と自分的なパターンなのですが、そんな悠長なことをいっていると、この箱などもう永遠に開封することがないかもしれないので、正月にとりあえず1番の入っているディスク5を聴いてみました。
 でこの一番ですが、あっけないくらい分かりやすいです。ショスタコの音楽的個性というのを、そもそも私はよく分かってないところありますが、それにしてもショスタコ的な晦渋さ、諧謔味みたいなところがあまりなく、全4楽章で演奏時間も14分と簡潔、感触としてもごくごく普通なロマン派的な弦楽四重奏曲という印象なのが意外です。これなら気取ったティー・ハウスのBGMとしても使えそうです。

 ただ、残り14,15番については、予想通り作風で、斜に構えたような情感とモダンな音の動き、そして掴み所のないムードと一筋縄ではいかない作品ですね。バルトークの後期の弦楽四重奏曲を楽しめるなら、こういう作品も受け入れやすいと思いますが、いかんせん当方にはこの手の難解さに対して免疫ができていないといったところですか。シェーンベルクなんかだと、それなりにこっちも音楽的パーソナリティー知ってますから、多少難解でも雰囲気でOKみたいなところあるんですけどねぃ....。
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坂本龍一/Life in Progress(Disc.2)

2005年10月18日 23時37分47秒 | クラシック(20世紀~)
 ディスク1は無調音楽から1960~70年代のミニマム・ミュージックまでの、20世紀の「ゲンダイオンガク」をクロノジカルにダイジェストしたという内容だったのに対し、ディスク2はワールドミュージックを地球規模で坂本流に俯瞰したといった趣である。ワールド・ミュージックというのは、私の苦手な音楽なので、よくわからないところもあるのだが、ざっとメモしておきたい。

 1曲目の「Evolution of Life」は、冒頭で女性ヴォーカルをフィーチャーし、ゆったりとしたインド風(中近東?)な、エスニックなアシッド感に満ち満ちた雰囲気に始まる。やがて流れるように沖縄音楽が登場し、これがゆったりとした盛り上がりを築き、ひとつの印象的なハイライトを形成しているようだ。続いてロマンチックでアンビエントくさいムードの中、パンルート風な笛をフィーチャーしたフォークロア風な音楽となり、荘厳なコラールでしめくられる。
 2曲目の「History of Gaia」はインドの世俗音楽のような雰囲気をもった女性ヴォーカルから始まり徐々にスペイシーなアンビエント・サウンドに変貌していき、後半は美しいアダージョ風な音楽になる。浄化されるように美しい雰囲気が次第に暗雲がたちこめるような気分に変化していくあたりが聴き物だが、これも再びコラール風な音楽でしめくくられる。
 3曲目の「Art」は、ディスク1冒頭の雰囲気にもどり、無調風なアコピをバックに様々な声がコラージュされる。日本語による「最後の審判....云々」の部分はなかなか凄みのあるコラージュだ。続く「Response」は、いくつかの声、歌が重層的に錯綜する、さながら世界各国のエスニックな歌声のコラージュといった趣で、ちょっとメシアン的な極彩色の世界を思わせたりもする。最後の「Light」は、再びコラール風な音楽で、ちょっと映画音楽での坂本を思わせるムードと12音風なアブストラクトな音響が交互に登場させつつ、再び声のコラージュされると、マーラー風なコーダで結ばれる。

 といった感じだが、ディスク1は時間(縦)軸で構成された音楽であったの対し、こちらは水平(横)軸で広げた音楽ということができるかもしれない。総体的には坂本による20世紀地球音楽レポートといったところなのだろうか。こういう音楽での坂本のホギャブラリーの多彩さはやはり凄いものがあるし、その料理も仕方も水際だったものがあるが、「だからなんなの?」という感も正直申してなくはない。沢山の音楽的情報がここにあり、それが要領よくまとめられていることは感じられても、それ以上の胸に迫るものがないという感がつきまとうのである。ついでにいえば、もう少し刈り込んでCD一枚に収まるくらいの長さにした方がよかったとも思う。
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坂本龍一/Life in Progress(Disc.1)

2005年10月17日 23時42分14秒 | クラシック(20世紀~)
 坂本龍一のサントラを何枚か聴いていたら、何故だかアート・オブ・ノイズの「ドビュッシーの誘惑」を思いだし、それについて昔書いたレビュウを読み返してもたら、これと同じコンセプトで、本作が作られていたことを思い出したので、これまた久々に聴いてみた。ご存じのとおり、本作は彼が1999年につくり、それなりに話題にもなった例の現代オペラ「ライフ」のシンセ版である。おそらく、制作ブロセスで本番前にとりあえず譜面をシンセで演奏してみました....みたいなものだと思うが、とりあえず、箱庭的に20世紀の音楽を振り返るというコンセプトからすると、シンセを使った疑似本物的なチープな音色の方が、個人的にはあっていると思う。もっともオペラの方はほとんど聴いていないので、あまり胸を張って断言はできるものでもないのだがいのだが。

 アルバムは2枚組で、前述の通りこの作品には「20世紀の歴史を音楽の変遷と共にに振り返り、後半でその未来を展望する」みたいなコンセプトがあったように思うのだが、今回聴いても素晴らしいのはディスク1の「20世紀の歴史を音楽の変遷と共に振り返る」である。このディスクは大きく分けて3部に分かれていて、一曲目は19世紀末の音楽的革新のひとつである無調音楽を再現したと思われる「Door Open」かなら始まる。ほとんどピアノ・ソロだが、もろにベルク風な退廃的ムードが充満した曲調で、ここで一気に20世紀初頭のウィーンかなにかに連れていかれような気になる。
 2曲目の「序曲」はドビュッシー的な香りのするピアノ・ソロに始まり、それがオケに引き継がれる序盤から、ストラヴィンスキーの「春の祭典」のパロディみたいな音楽になり、そのまま新古典派風に音楽の温度を下げたところで、お次はヴァレーズ的な音響となったところで終わる。時代的には第二次大戦前といったところだろう。
 3曲目の「戦争と革命」では、モノローグ風なSEをコラージュしつつ、ブーレーズやノーノを思わせる12音音楽、バルトーク風に沈痛な音楽やトーンクラスター風な表現が続く、このあたりは戦争の負のダイナミズムを象徴しているのかもしれない。その後、けっこう長目のフランス語のSEが続くとコラール風というか鎮魂歌のような旋律が登場、これは終戦を意味しているだろうか。
 4曲目「科学と技術」では、SEとチェロが奏でる物憂げな旋律をバックにした、タイトルとは裏腹なちょいとロマンティックな曲調だ。やがて、曲は再び12音風な音楽となる。ミュージック・セリエルとかああいったスタイルに近い音楽かもしれない。お次はいわゆるケルン放送局でお馴染み?の「電子音楽」となり、シュトックハウゼンみたいなトーンクラスターも登場し、それが矢継ぎ早にミニマム・ミュージックに変移したところで終了。時代は戦後をどんどん進んでいったところで終わる。

 というワケで、このティスク1、いろいろな解釈は可能だと思うが、やっぱこれはどう聴いても20世紀の音楽のレトロスペクティブだ。おそらくこれは坂本の意図もそうだったのであろう。その意味でこれは「現代音楽図鑑」なのだろうと思う。
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