孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人間の本能&欲望に支配されやすいのがその人間関係の中にあるのは事実です。

2013年04月21日 | Weblog
私たち人間には物欲・金銭欲、名誉権威権力を欲しがり、見栄・世間体・プライドを持っており、私は正しいの自己主張や自己顕示もします、そして否定反発・排除することにもなっています。

またそれらからして守り意識を持っており、その守るために闘う事になっている事実もあります。
そして私は正しいからして守り闘うことは正当な正義だと思っています。

また義理人情愛情恩義からしてその優しさ思いやりが言われその恩に報いることが言われていますが、それを怠ると人間味の劣る薄情者や恩知らずの裏切り者呼ばわりまでされます。

これらが人間関係の中にあります。


と言うことからしてその苦楽&自己満足とその不平不満の喜怒哀楽で生きることになっています。
その中に趣味嗜好娯楽が含まれていますが、それとはまた違った人間の本能の性欲もありますから、それら変化刺激快楽を追い求めることにもなっています。

ところがもしも人間一人だったら「食って寝て糞をして」生きているだけで十分になります。
それが男女の二人になれば本能からして性欲が伴います。

それからすると私たちは<変化刺激快楽>を味わうためにその人間関係があることになります。

そうなると義理人情愛情恩義&恋愛結婚家族関係はその言い訳正当化や美談美化になりませんか、

そして同じ人間関係が長く続くと(変化刺激を求めているだけに)それが当たり前になるとその変化刺激が乏しくなり飽きてくるところがあります。
だから失恋することになったり、また浮気や不倫もあるし、それが離別・別居・離婚でその関係の破綻崩壊にもなります。


また変化刺激快楽を夢の如くに求める願望があるものの大方の人が自分には出来そうもない不可能なことからして、その変化刺激快楽の願望の代替となるその変形したものがあります。

それが自らの相手を必要としない仮想の世界の映画ドラマ芝居であり、その自分には出来ない(その真似をしたくてもできそうもない)その純愛・不倫・三角関係のメロドラマやセックスシーンを自分に置き換えてその成り行きを興味深く観ることであったり、またそれらを含めた活劇アクション・過激過酷残酷冒険探検や未知なる謎解きや策略陰謀を見破る推理物や一般的な娯楽物でもってして、
その仮想空想の変化刺激快楽を味わうことになりますが、ところが本物ではないからその場限りの単なる娯楽&時間つぶしになります。

そこで映画ドラマの主役のように(波乱万丈の主役のように)世直し人救いをしたくても自力を超えています。
また大ごとになって困っている人を助けたくてもそれに似合う人が身近にいませんしまたその機会が一生の内に一度もないかもしれません。

そこで代替に献金寄付をしたり、また自らが人様から寄付を集める役目をするくらいなら出来そうです。
また時たまに起こる大災害の現場や開発途上国へ(思い切って)出掛けていってお節介することも出来ます。
しかしこれ等も一時の自己満足と不平不満のための時間つぶしになります。


そんな不完全意識の複雑厄介な人間関係から離れて自分一人なら何とか食って寝て糞をするだけですみますが、それでもやはり変化刺激が無ければ暇で退屈します。

そこで趣味嗜好娯楽が必要になりますが、ところが自分一人だと比較競争の喜怒哀楽&変化刺激に乏しくてすぐに飽きてきますから、何をやるにもやがてそのやる気さえも失せてきます。
すなわち必要でもあるのに(一人だと)それを必要としなくなるのです。


と言うことからして言えば先程の<変化刺激快楽>のための人間関係であり、また人間の本能である闘争心や支配欲を満足させるためにも人間関係が必要なわけです。
それが善悪優劣損得で比較競争差別し合う形の中の勝敗(勝者・敗者)関係になります。

だからこの世は勝者と敗者の関係でもあり、また勝てば官軍負ければ賊軍の関係でもあり、善人と悪人の関係にもなり、支配者と奴隷の関係にもなりますが、それがひっくり返って一変することもあり、またその繰り返しもあります。
すなわち「不確かな」関係・形が続くのです。

またその闘争心を満足させるために手っ取り早いのがスポーツ格闘技であり、また将棋・囲碁・麻雀・花札・カルタ、そして競輪競馬競艇やパチンコがあり、また電子映像ゲームもあります。

私はその中で人様を巻き込まない電子ゲームを当初はやっていましたが相手が仮想なのでそれに飽きて実在実質的なパチンコに戻りました。


と言うような人間の本能&欲望を味わい知るだけの人生で終わるよりも、その裏表を味わい知ってその中に隠された真実を見極めることができる、その精神力を高める必要性があると思いませんか、
しかも未知なる部分が永遠に続くことからして「飽きる」ことはなりませんし、その未知なることを事実として学び知り気付くことになればそれが(人間としての)やり甲斐にも感じられます。

そこで巷の人間として生きることに飽きないための趣味嗜好娯楽&喜怒哀楽&変化刺激快楽の味わえる、その巷の人間関係の中にいながらにして完全な宇宙・神・愛の見えない世界&精神世界の真実事実に気付くことが出来れば申し分ありません。

だから私のように過疎地で暮らす必要はありません。

ところが人間の本能&欲望に支配されやすいのが巷のその人間関係の中にあることも事実です。
だから巷の人間から脱するために信仰宗教に入信したり艱難辛苦の修練修行をする者が後を絶たないわけでもあります。

そこで皆さんは人間の本能&欲望のままに生き続けて自らの意識からしてその喜怒哀楽&変化刺激快楽を味わいそれを求め続ける生き方で大丈夫なのですか、と問いかけることにもなっているのです。

趣味嗜好娯楽が好きなのは単純ですが人間関係で好きになると厄介になります。

2013年04月20日 | Weblog
この世は矛盾で満ちていますから善をいえば裏に悪があります。
また損得や優劣もあります。

また生きることに希望があれば今は「死にたくない」という裏を持ちます。
ところが食って寝て糞をして生きているだけならその生も死も成り行きに任せることが出来ます。

そうなると病気になることも事故や災害などの有事を心配したり恐れたりしなくなります。
そして死にたいわけでもなく、また死にたくないわけでもなく、ただ今を生きていることを味わっているだけになります。
それでも「生きている」事は皆同じです。

だから精神世界で「あるがまま」「自然体」「無心」が言われますが、その言葉が先走りするものの不完全意識がゆえにその境地にはなかなか到りませんが、それでもそのイメージ感覚として実感を伴うようになりましたからそれらをブログに書いています。

また持ち前の不信感からして人間関係がおかしな事になっているその事実も書いていますし、また臭い汚いの否定反発や潔癖症を持つことにもなるしまた暗い寂しいが孤独感&恐怖感にもなるし、しかもそれが正しいと思い込んでいればそれらを否定反発するだけではなくして、それらから自分や身近な人を守りたがる(守るために闘う)守り意識まで出てきますし、更にそれが正しいことに思えればそれが悪と思えるものを排除したがる潔癖完璧主義や正義感まで持つことになるとその事実を書いてきました。

と言うことはやはり不完全意識ながらも前もっての思い思惑やその期待を持たないままに己が原因の意識からして仕組まれるその成り行きの必然ご縁でもってそれに係わるのが自然体だと悟ったわけです。

それでもやはり何か好きなことをしながら生きていたいわけですが、その好きなことにもやがて飽きが来ます。
すなわち好きではなくなるのです。
またそれが不完全意識の人間の本性なのです。

だから様々なことをやっては止めるその繰り返しをしてきましたが未だにパチンコだけは続いています。

しかしパチンコが好きでもそれに依存していませんから、そのパチンコをしなくても何ら問題ありません、それでも何もすることがない時間が長く続くと(他に好きなことが無いから)好きなパチンコに行って時間つぶしをしたくなるわけです。

そのパチンコのような趣味嗜好娯楽が飽きて嫌いになるのは自分独りのことですみますが、しかし人を好きになると人様が相手ですから、例えば自分が一方的に好きなだけでは俗に言う片思いになり心中穏やかではありません。

また互いが好き同士になってもやがてその熱が冷めればその関係は冷ややかな関係になり、その恋愛関係の破綻で失恋が取り沙汰されるようになります。
しかも双方共に自分独りだけの問題ではありませんから、互いの意見の相違からして共に(恩や義&人情愛情の)裏切り関係が取り沙汰されます。
しかも結婚して家族でもいればそれら関係者を巻き込みますし、しかもそれを(過去&柵を)いつまでも引きずっていくことにもなります。

だから人間関係ともなると厄介になるその事実を何度も書いています。
だからこそ必然ご縁のままに「来るものは拒まず去るものは追わず」の自然体&成り行き任せにすることが必要なのです。

とにかく趣味嗜好娯楽であれ恋愛関係であれ人間関係であれ精神世界であれ、そのことに「執着」しないこと。
そして相手に<与える>ことがあってもその相手に「依存」しない「求めない」、そして必然ご縁からして(与えられるまで)<待つ>、その「成り行きに任せる」ことが基本になります。

そしてその執着しない依存しない求めないためにも「自力と自信」の精神力が必要だと書いているのですが、それがなければ必然ご縁の成り行き任せに出来るはずもありません。

ところが成り行き任せにしていると自己満足も不平不満も少なくなるが、その裏が出て心身ともに暇で退屈することになります。
何故ならこの世の矛盾&喜怒哀楽&変化刺激を味わうことが少なくなるからです。
だから執着しない求めない頼らない程度の趣味嗜好娯楽も必然になるのです。

しかしそれを人間関係に求めると相手があってのことですから、それでややっこしい厄介な問題&複雑な関係にもなるのです。
だから孤独の自由と執着のない成り行き任せにほっとくしかありません。

何か他に良い手立てがあれば教えてください。

自らの意識が原因からして仕組まれる、その仕組まれに自らが気付かなければなりません。

2013年04月19日 | Weblog
この世を創造した全知全能の仕組みからして気付くことがあります。
すなわち己の意識が原因からして仕組まれて気付くことです。

ところが人様に言われて気付くことになればそれも仕組まれたことにはなりますが、それには他力が加わっていますから自力で仕組まれた本物とは違ってきます。
だから他力よりも「自力」が必要として書いているわけです。


ところで妻や夫から好き&愛していると言われると悪い気はしません。
だから優しさ思いやりの言葉やその行為を受ければ嬉しいことでありその感謝の心も頑張りも出てきます。
だからその人情愛情・義理や恩義も人間関係に必要だと書いています。

また「子供は褒めて育てよ」と言われるように、人から褒められれば誰でもが嬉しくなりもっと頑張るその気にもなります。

ところがそれらに他力が絡んでいます。
すなわち人様から言われたことがきっかけ&原因になっているからです。

ところが先に書いたように、
自らの意識が原因からして仕組まれ気付きそれを即座に実践行動することになればその結果は自力・自信・精神力でもって成した本物になります。
また自分に出来る当然の事を当たり前にしたことになりますから(特別ではないから)それを恩着せに思うほどにはなりません。

ところが人様に言われて同じ事柄を成した時は、
その人様の思いに私の思い(人情愛情・義理や恩義)でもって応えますから、その私の特別な思いでもってその努力をしたという経緯結果が加わりますから、そこで何がしの恩着せに思うことにもなります。

となれば同じ自力で成したことであってもその恩や儀の返礼を思惑期待するようになるし、その恩返し義理返しが無ければ(思惑が外れて)不平不満にもなりますから、自力で成したことのその裏が出て自らが不満になる原因にもなります。

すなわち自らの意識からして自らが不満になるのです。
だから誰の性でもなくすべては自らの意識が招いた自己結果&自己責任だと書いています。


ちなみに私のパート先で自らが気付きそれを創意工夫しながらその自力を使って成していることが多いことからしてオーナーから事細かく指導指摘注意されることは殆どありません。
それだけにオーナーも気分よく接してくれますし色々と過分の心尽くし施しもしてくれていますから私とて気分よく勤めることも出来ます。

もしそこで気付いたことを後回しにしたり、そのままにほっといていればその分だけオーナーが気付くことになり、その見過ごし放置が(私の手抜きが)気掛かりになり私に対する信用度が下がり不信感が上がります。
また指摘されなくても最初からやる気になっていたとして(後回しにしていたことを弁明し)それなのに指摘されたことからしてその人を憎み恨む場合もあります。

それが不完全意識の私たちなのです。

だから何気なくふと気付くことも仕組まれたことですから、その気付きを疎かにしないでその取り組みをしっかりすることからして、それが結果的には自らの心身の安心と安全にもつながっていくわけです。

だから暇で退屈する(心と時間の)余裕も必要なわけです。

また他力が介在しなくても早々と自力で気付きそれを自らが率先して成せるだけの自力(心と時間)も必要になるのです。

ゆえに仕組まれに気付くその精神力&自力と自信が重要なことを書いているのです。

またその気付きこそが人間の役割使命に欠かせない重要なことだと書いているのです。

様々な「結果」の出るこの世はその「原因」意識を知るための<精神の学びの場>なのです。

2013年04月18日 | Weblog
このブログを読まれている人もそのブログを書いている私も同じ不完全意識であることに間違いはありません。
だから私が思うがままの自由勝手&呑気気ままに暮らしている中にも不完全意識をもっていますから、パートに行けばオーナーの雑な仕事や作業道具の散らかし放題の後始末で不満が出てきますし、オーナーに気に入られたくて少しでも見栄えよく見せ掛けたがりますし、作業の手間を省いたときはそれを指摘されたわけでもないのに前もって自分の中で言い訳正当化したがりますし、性の悪い牛に腹を立てその仕返しに罰を与えたり懲らしめることもあります。

だから皆さんもこのブログを熱心に読んだところで(私同様に)不平不満とその自己満足の繰り返しで生きていることに変わりはないし、時には不信感を持つことになったりそれが不安心配になることもあるし怒りや仕返し復讐心が出てくることもあると思います。

それでも私の場合は人間関係のしがらみから離れている分だけその不完全意識が出てくることが少ないのです。
だから皆さんも同じでして人間関係のしがらみが気にならなければ持ち前の不完全意識が出てくることも少なくなるのです。

また成るようにしか成らないのだから前もって思惑期待する事無くそのままの成り行き任せに生きることが出来れば先々の不安心配が出てくることにはなりませんが、しかしその成り行き任せに出来ないからこそ不安心配が出ているその矛盾・事実に気付いていますか、

また夫や妻を信じたがるのもその裏心に不信感があるからです。
そしてその不信感を持ったままでは何かと生き辛いことからして、そこで自らが信じている振りを見せたいがために、それを言葉に出して相手に伝えようとしているのです。

だからあなたの為よが私の為よにもなるのです。
だから言葉に出せばその裏が必ずあるのです。
そして好き同士の内は言葉も要らないがその熱が冷めると不安からして互いに確かめ合う言葉が必要になるのです。

またそれだから尚更に不信感が出てくるのです。
だから人間関係だけはどうしようもないわけです。
それなのに何とか成っていると思い込みたいわけです。

またそうでなければ人間関係が簡単に崩壊してしまうからです。
と言うよりも(不完全意識がために)(その意識からして)既にその人間関係は崩壊しているのです。
しかもその事に内心気付いているのにその外見・対面を保っていたいのです。

と言うことからして書き加えれば、人間関係を気にする事無く精神世界を意識した生き方に方向転換すればその不完全さに気付く事にもなりその過去が無駄にならずに精神面で活かされるのです。

ゆえに結果の出るこの世はその原因意識を知るための「精神の学びの場」になるのです。

人生&生涯の時間を単なる「時間つぶし」で終わるのですか、

2013年04月16日 | Weblog
自己拡大をしていた頃の私は「寝る」時間も「食う」時間も「糞する」時間も惜しんで仕事に集中していましたが、今は一日二回の合計四時間のパートと衣食住に係わる時間で一日が終わります。

ところが過去の生き方よりも今の生き方が人間本来の生き方に思えているのですが、その裏では暇で退屈な時間を如何に過ごすかにかかっています。

ところでこの世で生きていくために何が必要でしょうか、
それを私に言わせれば、先ずは読み書きソロバンが必要なこと、そして皆で衣食住を作ることが出来ること、そして創意工夫できること、それだけで十分です。
それ以外の知識教養や特別な技術能力も必要ありません。

ところが時代が進化した現在では車を乗り回すのも携帯電話を使いこなすも当たり前になりましたから、その分だけ効率よくなりその分だけ成果を上げることにもなりました。
そしてその分だけ快適便利な生活にもなりました。

ところがよく考えてみると(併せて過去を振り返ると)
生きていくために音楽は必要ありません、時には意識していることの妨げとなるその雑音にもなります、すなわち表と裏がります。
生活に直接関係ない創作芸術に関心が無くても何ら支障ありません。
また人為的に創作された仮想の映画やテレビドラマが観れなくても平気です。
また本番の冒険活劇や未知の謎解き解明や芸能やトーク番組やスポーツ・ニュースも同様です。

※ちなみにそれらから「癒された」と思うのは事実ではなくして人工的な刺激を受けたことが自分の都合に良かったその自己満足&思い込み&自己陶酔になります。
だから裏が出れば癒されないで不愉快(否定的)にもなる事実があります。

なのに私の過去はそれらを必要としていました。
何故なら(今考えれば)(忙しく立ち回っている中でも)暇で退屈したときのその時間つぶしになっていたのです。
すなわち生きるために忙しく動き回っている人にも時間つぶしをする形が必要だったのですから何やら矛盾しています。
それが先に書いたような事例です。

何故そうなるのか、それは基本的な衣食住に係わる時間よりも趣味嗜好娯楽に係わる暇つぶしの時間が多いほうが(仕事を含めて)自己満足の生き甲斐に思えるからです。
だから主婦ともなれば大半の時間が衣食住に係わっていますから、その衣食住に係わらないで生活できれば如何に幸せかと思うこともあるでしょう。

ところがその暇つぶしの中に自己満足と不平不満があるのです。
そして生きていくために必然とすること以外は時間つぶしをしていることになるのです。

その満足や不満でもないその中間であれば、(大した事をするでも無く)何となくやり過ごしている時間がある、その事実だけになります。
その時間帯が私の場合なら(不完全で未熟なだけに)その精神世界&完全真理を意識している時間になっているのです。

どうですか、同じ時間つぶしをするのなら精神世界&完全真理の気付きになる(独自独歩&自問自答の)時間にしたらどうでしょうか、
そうなればその分だけお金と時間の省エネになるし、また他ごとに意識を使うことにもなりませんから(気にもなりませんから)その不満と満足を味わうことにもなりません。

しかし(正直なところ)(同じ仲間がいないし)(ご褒美&魅力がなくて)何だか面白さに欠けていると思っていませんか、何たってまだ実践していないから、
とにかく良くも悪くも無い、天国でも地獄でもない、ただ生きているだけに思える(気にもならない)(判断する必要も無い)その中間を当たり前が如くに味わってみなければその答えは出てきません。

そこで確かな実践をしていれば今までとは違う新たなことに気付き知り味わえますから、それが何かしら喜びや楽しさにもなりそれが自力自信にもなります。
ところがそうなると先程のように過去に味わっていた諸々が色あせて面白さに欠けてきてどうでもいいことになりますから、(他に意識することが無ければ)その分だけ精神世界&完全真理を意識した時間が増えてきます。

そうなると時代の進化を意識した生活ではなくなり内なる心精神&意識の進化に向けた生き方に変わっていくのです。

過去の弥生時代や戦国時代や明治昭和平成の時代もその形が違えども喜怒哀楽で生きていたことは同じなのですから、その同じ繰り返しとなるこの世の形外面やその価値観で生きることだけではなくして、今の時代を生きていることからして内面の精神の学び気付きにするのが本来なのです。
それが地球に生まれた人類の役割使命なのです。

しかも此れまでの時代の進化&自己拡大を味わっていたからこそ裏の自己縮小の実践によってその価値・真価に目覚め気付くことにもなりそれが精神力&意識の進化につながるのです。
太古の生物が水から陸に上がったことで(人類誕生に向けて)大きく進化したようにです。

見えない世界&精神世界を「信じるか否か」では無くしてその<事実>を知ることです。

2013年04月14日 | Weblog
過去の釈迦やイエスを含め此れまでに様々に精神世界を説く形がありますがそれら全てが矛盾しているだけにそれを信じるか否かの形になっています。

その信じるか否かの矛盾があればそれは不確かなことですから絶対の事実にはなりません。
ならばその絶対の「事実」を学び知ることに意識が使われるのが当然なのに、
それが何でか宗教家・教祖や超能力者の言うことを信じて、それに「従おう」とする人が多いことからして、
この世がおかしな事になったといっても過言ではありません。

その信じて従うことからしていつの間にやら人集め金集めの協力者や宣伝広告塔の役目に精出しているのに、それで何で精神世界の真実事実を知り気付くことになるでしょうか、

私は完全真理が説く中のその矛盾も無い真実事実を知ったからこそ、その実践意識で暮らしながら、その矛盾の無い真実事実に何かと気付いていますが、その事の始まりの中に霊魂の世界・精神世界や完全真理&耕栄さんを「信じて」「従い」私がそれを実践行動に移したことによるその原因の結果ではありません。

何度も書いているように必然ご縁の巡り会わせからしていつの間にやら過疎地で単身生活が始まっていた中でその完全真理を知りそして自己縮小の必要性が説かれていたのが私にマッチしていただけのことです。

また私は(自他共に)成り行き任せにしていただけに相手を「信じる」とか「愛している」とかの思いが出てくることが無かったことも事実です、
ゆえにその優しさ思いやり人情や愛情やその恩や儀なども(この世の人間関係に必然であっても)私には納得理解できずに何やら判らないままにそれが違和感になって残っていたその事実も何度と書いています。

その成り行き任せの中にも私の性格個性からして、何でも「知りたがる」「やりたがる」ことからして、不確かなことを信じることよりもそのまま(違和感)にしておき、また他力を信じて頼ることもなく自らして取り組んでみて(実践行動して)まだ知らない事実結果を味わい知ろうすることになったわけです。

そして完全真理の学びからしてこの世の形やその人間関係が不完全意識が原因の裏表のある矛盾だらけだと学び知ったことからして、私の中にまだ残っていた違和感の多くが解決し納得確信にも至ったわけです。

また私の意識の中にこの世で生きているからには楽しくしていたい思いがあっただけに、その実践行動からしていつも熱中集中しているものがありましたから、今も尚、私自身は納得のいく生き方になっています。
それらがこのブログの内容になっています。

だからこのブログに来られている人なら不確かなことを「信じる」ことではなくしてその<事実を知る>ことが人間の役割使命だと気付いていると思います。

だからこのブログの中に信じるか否かも嘘も方便もありません。
得と損&ご褒美と罰&飴と鞭の使い分けもありません。
しかし何も無いようで何かがあります。
それが特別でも何でもない一般的ごく普通の中の裏と表の事実を知ることになったことです。

だから釈迦やイエスや教祖指導者の言う事を信じてそれに従えるくらいの精神力・力量(金銭と時間の余裕)を持っているのであれば、その中から「ちょこっと」出せば何とかなる、その無理の無い素朴に生きる実践くらい容易はずです。

しかも明確な事実の結果が絶対に出るのですから迷うことも無いと思います。
ただその事実を味わったことがないだけに不安なのです。

すなわち真実事実を頭で理解できても意識心の中では持ち前の不信感が出てくるのです。

と言うよりもやはり目の前の実生活を意識することが基本になっている方々には精神世界の実践は無理なわけです。
だから(真実事実を知ることよりも)神仏霊魂を信じていれば何とか成るだろうと御守札にしているようなものです。

※このブログの中に事実とは言えない嘘や信じるか否かの矛盾する事柄が書かれていたりまたこのブログに書かれていること以外に何か新たな事実を知っていればそれを教えてください。

今世紀の「時代の進化」を味わっただけで<人間意識&命>をそのままに終えるのですか、

2013年04月11日 | Weblog
神仏霊魂の世界を説く信仰宗教となると世のため人のためにあらずしてその教祖教団指導者のために形作れているようなものですし、超能力者・霊能者の成していることも似たようなものですし、またここに書いている完全真理であっても自分が実践しない限り空事で終わるし、また様々な精神世界の知識を溜め込んでいても同じですから、それで本当に真の精神世界を味わい知ったことにはならないと思っています。

何たって人間として生まれたからには(精神世界に限らずとも)様々なことを自らが味わい知りそれに気付きがなければ生きているその価値がありません。
そして両親や夫や妻や我が子を何とかすることではなくして(それら人間関係を介して気付き)自分が何とかなることに生きている意味があるのです。

だから人様の(外なる)精神世界ではなくして、自分の(内なる)精神世界なのです。
また他(外)を見て(鏡の如くにして)我が身に置き換え、それでもって我が内心に気付き学び知ることにあります。


此れまで私が精神世界や完全真理を学び知ることがなければ、その私の過去に有った様々な喜怒哀楽の自己満足と不平不満の繰り返し味わったその思いのままの人生で終えるところでした。

しかし矛盾も妥協も無い完全真理を学び知り納得理解し、また自己縮小の形の生活が既に始まっていたこともあって、その過去の喜怒哀楽のその自己拡大をしていた頃の精神的な負担にも気付けたわけですし、その自己拡大を過去に味わっていただけに今の自己縮小の真価とその必要性をこうしてブログに書けるようにもなったわけです。

その過去の喜怒哀楽を大いに味わって生きていた私が何でその喜怒哀楽の無い生き方に慣れ親しんでいるのか、その真価を書いてはいるものの、その喜怒哀楽のない生き方になってから尚更に暇で退屈しているそのどうしようもない現実が今の私にあります。

かと言って今更に何することも(必然ご縁が)無くて今は牛舎のパートと一円パチンコとブログを書くことと「ギャオ」の無料動画と飲食しているその時くらいしか主だったものはありません。

ところが皆さんの中には自己満足と不平不満&不安心配・不信感・守り意識からの喜怒哀楽や変化刺激に満ちていると思いますが、それらを少なくして安心安全の生き方にすることがほんとうに出来るでしょうか、となるとやはり無理があると思います。

となると信仰宗教や精神世界や完全真理や霊感超能力などの事実を知ったところで結局は中途半端なままに此れからも推移していく事になり、この先で待っている様々な有事をどのように切り抜けていくか、またその有事を精神世界にどの程度活かせるのか判らないし、そして人間として最後の有事となる死に際がどうなるにしても、とにかく喜怒哀楽を味わいながら死に到ることでしょう。

となると(先々の事であっても)(ブログを書き続けている私にすれば)(パチンコ花の慶治が如くに)「それで宜しゅう御座いますか」と問いかけることになります。


過去の釈迦やイエスを越えた形の完全な精神世界&完全真理を学び知ったのに、

また見える表舞台だけではなくして見えない所の真実を味わい知る新たな人生を始めることもできるのに、

何たって天地創造&人類誕生以来「始まり終わる」その繰り返しをしながら宇宙万物人類の「意識&命」が進化してきたのに、

今の「時代の進化」を味わっただけで「人間意識&命」をそのままに終えるのですか(それで宜しゅう御座いますか)となります。

人様を羨み憧れ尊敬したがる裏には、己のために熱中集中するその自力と自信が無いようです。

2013年04月08日 | Weblog
自然界にあるがままに咲いている桜の木を見て羨むことにはならないと思いますが、ところが隣の家の桜が満開になっているのを見て羨むことになれば当然ながらそれは隣の桜になりますが、しかしそれを羨まずに桜を見た事実だけであれば、それは自分の(自分が見た)桜になります。

また人様が成していることを羨めばそれは人様のものになりますが、それを見てそれを真似れば自分のものにすることが出来ますし、その物真似の中に自分の創意工夫が入ればそれは自分だけのものになります。

だから完全真理は耕栄さんのものですが、その完全真理を自分のもにいしてそれに私の私見見解が入ればそれは私の完全真理になります。
しかしその完全真理が耕栄さんのままであればその耕栄さんの言葉を書き写すだけになりますから、その言葉を真似ているだけであって自分のものではありません。

また(釈迦やイエスを含めて)耕栄さんを信じたがるのは自分にはそれら(耕栄さんの)真似が出来ないことからしてそれを特別に思うからです。
ちなみに(自分に出来ないことを)特別に思わなければ(当たり前ですから)信じることにもなりません。

そして耕栄さんを特別に思わなければ成していることの事実だけを見るようになりますから、その耕栄さんの思い思惑で語る不完全意識なるその矛盾に気付くこともできるわけです。

またそれだけに耕栄さんのみならず此れまでご縁があった念力&超能力者から宇宙的愛の霊能者やまた神代の時代の神仏霊魂やまた神の使いといわれる釈迦やイエスらの矛盾(いい加減さ)にも気付くことができるわけです。

とにかく人様を羨む憧れ敬い尊ぶのも自分の思いですから、その言動に必ず裏があるのです。
だからその思いが冷めたときにはその裏心が出てきます。

しかも人様を羨む憧れ尊敬したがるのも(人様を特別に思うのも)その裏には自分のことに熱中集中することがない、すなわち己の自力&自信が無いからです。

だから立役者&人気者に羨み憧れて信者&ファンになったり、それを一目見たさに何度も遠出したり、また演台舞台に立つ人やまた映画ドラマを見ながらその主役になったつもりでその気分を推し計らって仮初めに味わっていたいのです。


私がその人様のことを羨む憧れ敬い尊ぶことにならないのも、その人様の成していることよりも、常に自分を表現できる事柄に次々と乗り換えながらもそれにいつも集中し熱中し取り組んでいますから、その結果が先々どうなろうとも(飽きてくれば新たな事に乗り換えるだけですから)、その道筋・経緯を味わっていればそれで十分ですから、それ以外の私に関係ないこと(他ごと)を意識する暇もないわけです。
だから私は芸術家&専門家&学者の適性(性格個性)を持っていることにもなります。

巷の芸術家といわれる人も自分を素直に表現することに精出しているのであって、仮に先々の結果・評価を見込んでいれば本物の芸術家とは言えません。
またスポーツも同じ仲間が集ってそのスポーツをしていることを楽しむのが本来ですからその評価採点やまた観客や声援の反応がなくても差し支えないはずです。
また落語や漫才や芸能でも自分を表現することで舞台に立つならばその観客がいなくても(結果を気にする事無く)その表現を続けていればいいわけです。

だから自分のやりたいことを自由にやればいいものを、そのやる気になることがないのも自力自信の無さです。
その中に見栄や世間体やのプライドが邪魔しているのもあるでしょうし
また目立ちたがる、格好つけたがる、しかし面倒がる、だから長続きしない、
しかもそれを言い訳正当化して自分を誤魔化す、家族や身近な人の責任に摩り替える、国家社会の責任にする、

それで「何で」生きていることが味わえるでしょうか、となるのです。

またあまりやる気がないのにそれを無理にしているその面白くもない生き方をしている人もいるかと思われます、また逆に格好つけるためにやる気十分になりその無理をして苦労するもその上のものに吸い上げられ取り上げられてしまうことになるのに気付かないでいる、また世の中の移り変わりに目ざとく対応するもやがて力不足を思い知らされてその多くを失う、またそこまでに到る以前に有事で多くを失うこともあります。

それが現実としてそのお手本&事例が目の前に大きく見えているのに、それでも私は大丈夫と思いたがる手前勝手さがあります、だから今は(仮初めに)大丈夫なのです。
しかし神様とて保障はしてくれません。

ましてそのあなたの思い思惑が(人為や真坂の有事で結果的に)裏切られる(失う)のがこの世です。
そして気付いた時には既に手遅れで今更どうしようもない状態になっているのです。

だからその思い思惑を持たずに今の自分の出来ることを(今を生きながら)その自力でもって十分にやりながら(その先々の事・結果を気にせずに)あとは成り行き任せにするほうが(未練後悔執着にならずに)(成るようになりながら)(大したこともなく)気楽に生きられるのです。

今は(今の形は)良しかれ悪しかれ、その途中結果であって(仮初めであって)それが変化し続けるのがこの世であって、死すればすべてが消えるのです。
残るのは見えないその意識と命(俗に言う魂)です。
だから(先のことではなくして)今の意識が最も重要なわけです。

闇を味わい知って光のありがたさに気付く、それが人間の役割と使命です。

2013年04月05日 | Weblog
私たちは自らが実践(行為行動)することで学び知り気付きそれが経験体験や記憶知識になり自分のものにすることが出来ます。

だから一度でも自転車に乗らなければその自転車に乗る技術をマスターすることは出来ません。

ところが泳ぎ方を知らなかったのに水に溺れそうになったことからして本能的に水泳が出来るようにもなります。
だから本能からして(潜在的に)既に持っているものとまた生きながらにして自分のものとして身に付けていくものとがあります。

そして自転車に乗れば楽で早くなりますがその裏には身の危険が潜んでいます。
また泳げることでその危険から逃れられますがそれが過信になるとその危険を呼び込むことにもなります。

と言うようにこの世には良いこともあればその裏に悪いことが必ず潜んでいます。
そこで悪いことを前もって排除したがる意識と同時に良いことを自分のものにしたがる良いとこ取りの意識を併せ持っています。
そしてその良いことと悪いことを使い分けて生きる術を覚えそれを上手く操作することさえも身に付けます。

その使い分け操作の上手な人ほど良いとこ取りが多くなりそこで世間では一角の人間に思われることにもなっていますがその良いとこ取りを積み重ねてきたその裏も同時に積み重ねています。
それが自己満足と不平不満の苦楽・喜怒哀楽になっています。

その苦楽を味わい続けていると感情の浮き沈みが続きその疲労が溜まるとその感情を一気に吐き出す(やけくそ破壊意識)ことにもなるし、その溜まった感情を吐き出せないでいると精神面を狂わせて病むことにもなります。

また良いとこ取りからして自己拡大を続けてきた人はその苦楽を味わっただけに止まらずにそれを守りたがることからしてその不安心配・恐れ(闇意識)を必ず隠し持っています。

だからそれらの人の見掛け見せ掛けは立派でも内面の精神面は相当に汗ばんで汚れています。
ところがその精神面が汚れていることは内心では(恥ずかしくて穴があったら入りたいほど)自らが一番よく知っていますから、それを隠し続けるその苦労まで抱え込みます。
だからそんな方の晩年は心が閉ざされた生き方になることが多いようです。

その心が閉ざされた生き方までにも到らなくても心精神面は相当に汚れしていますから、宇宙・神・愛の(光)エネルギーを多く吸収できないままの(不安心配不信感の閉鎖的&闇意識のままに)終わることになるでしょう。

そこで暗闇の中でも灯台が如くに道先を照らしてくれることになるのが完全真理です。
そして灯台の光が心の目に届くまでの(あか汚れを落とす)(玉ねぎの皮を剥がすような)自己縮小が言われているのです。

また(自己縮小によって)その灯台の光に近づくほどにその過去の暗闇の中で生きていた自己拡大の(不安心配不信感や苦楽の多い)人生には二度と戻りたくないその意識に変化するのです。

またそれが(意識の変化が起こるように)予め宇宙万物人類を創造した仕組みの中に含まれていたことなのです。

すなわち闇を味わい知って光のありがたさに気付く、それが人間の役割と使命だったのです。

この世で「役割」を果たしながら生き続けて何かと気付き続けることが人間の<使命>になります。

2013年04月04日 | Weblog
昔から「困った時の神頼み」が言われているように、巷の神仏霊魂の精神世界やその信仰宗教に心を寄せる事になるのが<有事による>そのきっかけからでした。
だからして大昔なら魔術師が近代なら神懸り奇跡の超能力者が持てはやされたのです。

すなわち自他共に起きる何らかの有事がきっかけにして精神世界を学ぶ事になったり信仰宗教に入信する事になったり、またそれら精神世界を説く様々な形に係わることになる場合が多いと言うわけです。

またその有事によって様々な気付きも起こりますが、あの世へ行けばその有事はありません。
だから有事が起こるこの世で多くを学び知り気付く事ができるわけです。

ところで(私のように)健康環境問題からはじまりそれが摩訶不思議現象や超科学へと進んでそれが宇宙・神・愛の精神世界を学び知ることになった人たちも少なからずいるはずです。

また自分の中にある精神的な迷い謎解きが原因からして神仏霊魂の世界を学び知ることになった人もいることでしょう。
またそれら何れの形にしろ過去の釈迦やイエスらのことに関心を寄せることにもなるしまた神懸り超能力に関心を寄せる事にもなります。
そして見えない世界のことだけに「信じるか否か」になります。

ところが矛盾も妥協も一切無い<完全>なる宇宙・神の愛を説く完全真理ならば信じるか否かでは無くて「絶対」の真実事実として揺るぎない精神世界&見えない世界を知ることが出来ます。

そして「卵が先でもニワトリが先でもなく」すなわち宇宙が先でも神が先でもない「元」からしてある全知全能の愛エネルギー&宇宙エネルギー&愛意識からなる<すべてはひとつ>から始まり終わるその繰り返しからして宇宙・地球・自然界・人類&この世の進化発展が仕組まれていることを矛盾無く知ることができます。

その<すべてはひとつの愛>から始まっただけに宇宙万物すべてが愛でありその愛が神と言うならば<すべてが神>になります。
そして釈迦やイエスが神の使いならば宇宙万物も神の使いになり、その役割を果たし使命を全うすればいいわけですが、その役割も使命もそれぞれに異なっているからして、それぞれが宇宙万物の一つとしてこの世に実在しているわけです。

その釈迦やイエスも宇宙万物の一つですが、その己の役割を果たすにも他の宇宙万物のお陰がなくしてはこの世で生きることさえ出来ません。
だからすべてがお陰様とお互い様の関係になります。

その釈迦やイエスを特別に思う人がいてもこの世には何ら関係ありません。
その釈迦やイエスを知らなくてもこの世で生きていく事に何ら支障が無いからです。
だから釈迦やイエスを特別に思った人の中にだけその特別な思いがあるだけですから他の人には関係ないことになります。

と言うことは神も仏も天国も地獄も善人も悪人も自分の心&意識のその思いの中にだけ実在している事であって(非実在であって)現実のこの世には実在していないのです。
だからそれらのことを全く知らなくても、また知ったとしても実在していないから、この世の人間として生きていくことに何ら支障ないのです。

そして釈迦イエスや英雄ヒーローの特別なことを真似するでもなくして、
自らの自力&性格個性(能力・役割)を出しながら食って寝て糞をして生きてさえいれば人間としての役割を(お陰様とお互い様の関係からして)(その内容結果に関係なく)十分に果たすことになるのです。

それでは人間の使命は何でしょう。
それが宇宙万物&自然界と係わりながら人間として生きて、此れまで味わい知らなかったことを味わい知り気付いていくことからしてのその人間の内なる意識次元(永遠の命&意識)を高める、その意識の進化を永遠に続けていくことが使命なのです。

ちなみに完全な無から完全な有を創造するのは不可能なように何も知らなければ何も始まらないのです。
だから学び知ることの繰り返しを何度も何度もこの世で繰り返しているのです。

このことを信じるか否かではなくして完全真理の理解を深めることで納得確信&悟ることにもなりますが、その確かな実践でもって自分のもの<本物>にしなければこの先の有事で役立たないで、その有事に執着する事になりその苦難苦行や精神的困惑混迷に我を忘れて路頭に迷う事になるかもしれません。

そして有事以前から自己縮小していたのと有事によって致し方なく自己縮小になるのとのその違いを誰でもない我が身でもって直接味わい知る結果になるのです。

となれば安心安全な生き方を学び知り気付かないままにいつまでも苦楽の多い生き方を続ける結果にもなり、そのままの意識でもって人間を終えることになります。
(ここまでの内容は事実ですが)
(此れから先の内容は信じるか否かになります)
となれば安心安全な意識のままに死するのと苦楽の思いをもって死するのとのその違いをあの世で味わう事になります。
そして宇宙の仕組みからしていつしか(苦楽の判断の無い)高次元界の地球になった時にはその新たな地球に似合わない霊魂(意識・命)ですからそのままに宇宙でさ迷えることになるようです。

私にすればそれが例え高次元界の地球にならなくても、あの世で安心安全の心持でずーっといられることだし、また高次元界の地球が嘘も方便であって事実ではなくても(今と同じ次元の地球に再び生まれ変わる事になっても)苦楽の無い生き方を望んでいますから、その意識が原因の結果として南海の孤島で漁師をしながらの(今と同じように)その日暮の生活を味わう生き方になるかもしれません。

その予言的に言われていることが現実になって、その苦楽の無い自己縮小された形の新たな地球に生まれ変わることが出来れば、今のような独自独歩の孤独ではなくして同じ意識同士の人間関係でもって一緒に暮らせるわけですから(今の私からすれば)何やら天国にいるような気分&思いを味わえることは間違いありません。

すなわち今の三次元界の現状を味わっているからこそ、それとは一味違う高次元の世界に気付きそれを味わうことになれば、それが天国にも思えるようになるわけです。
ところが私の命&意識が元々からして苦楽の無い次元界でいたのならそれが当たり前であって何で天国にも思えるでしょうか、となります。

もうお判りですね。
私が過去に自己拡大を味わったからこその(不完全意識ながらも)今の自己縮小の価値を見い出したように、
宇宙の仕組みで用意された意識次元の階段を一段一段と登り続けていくその価値ある実践に必ず気付きますから、今以上に自己縮小の実践が進んでいくことは間違いありません。

それでもあなた方は自己縮小の実践に躊躇しますか、
また確かな真実事実に気付きながら本物に近づいて行きたいとは思いませんか、
それも人様のことではなくしてあなた自身の「意識&命」ことですから、その自らの意識で決めるしかありません。