孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人間の本能&欲望に支配されやすいのがその人間関係の中にあるのは事実です。

2013年04月21日 | Weblog
私たち人間には物欲・金銭欲、名誉権威権力を欲しがり、見栄・世間体・プライドを持っており、私は正しいの自己主張や自己顕示もします、そして否定反発・排除することにもなっています。

またそれらからして守り意識を持っており、その守るために闘う事になっている事実もあります。
そして私は正しいからして守り闘うことは正当な正義だと思っています。

また義理人情愛情恩義からしてその優しさ思いやりが言われその恩に報いることが言われていますが、それを怠ると人間味の劣る薄情者や恩知らずの裏切り者呼ばわりまでされます。

これらが人間関係の中にあります。


と言うことからしてその苦楽&自己満足とその不平不満の喜怒哀楽で生きることになっています。
その中に趣味嗜好娯楽が含まれていますが、それとはまた違った人間の本能の性欲もありますから、それら変化刺激快楽を追い求めることにもなっています。

ところがもしも人間一人だったら「食って寝て糞をして」生きているだけで十分になります。
それが男女の二人になれば本能からして性欲が伴います。

それからすると私たちは<変化刺激快楽>を味わうためにその人間関係があることになります。

そうなると義理人情愛情恩義&恋愛結婚家族関係はその言い訳正当化や美談美化になりませんか、

そして同じ人間関係が長く続くと(変化刺激を求めているだけに)それが当たり前になるとその変化刺激が乏しくなり飽きてくるところがあります。
だから失恋することになったり、また浮気や不倫もあるし、それが離別・別居・離婚でその関係の破綻崩壊にもなります。


また変化刺激快楽を夢の如くに求める願望があるものの大方の人が自分には出来そうもない不可能なことからして、その変化刺激快楽の願望の代替となるその変形したものがあります。

それが自らの相手を必要としない仮想の世界の映画ドラマ芝居であり、その自分には出来ない(その真似をしたくてもできそうもない)その純愛・不倫・三角関係のメロドラマやセックスシーンを自分に置き換えてその成り行きを興味深く観ることであったり、またそれらを含めた活劇アクション・過激過酷残酷冒険探検や未知なる謎解きや策略陰謀を見破る推理物や一般的な娯楽物でもってして、
その仮想空想の変化刺激快楽を味わうことになりますが、ところが本物ではないからその場限りの単なる娯楽&時間つぶしになります。

そこで映画ドラマの主役のように(波乱万丈の主役のように)世直し人救いをしたくても自力を超えています。
また大ごとになって困っている人を助けたくてもそれに似合う人が身近にいませんしまたその機会が一生の内に一度もないかもしれません。

そこで代替に献金寄付をしたり、また自らが人様から寄付を集める役目をするくらいなら出来そうです。
また時たまに起こる大災害の現場や開発途上国へ(思い切って)出掛けていってお節介することも出来ます。
しかしこれ等も一時の自己満足と不平不満のための時間つぶしになります。


そんな不完全意識の複雑厄介な人間関係から離れて自分一人なら何とか食って寝て糞をするだけですみますが、それでもやはり変化刺激が無ければ暇で退屈します。

そこで趣味嗜好娯楽が必要になりますが、ところが自分一人だと比較競争の喜怒哀楽&変化刺激に乏しくてすぐに飽きてきますから、何をやるにもやがてそのやる気さえも失せてきます。
すなわち必要でもあるのに(一人だと)それを必要としなくなるのです。


と言うことからして言えば先程の<変化刺激快楽>のための人間関係であり、また人間の本能である闘争心や支配欲を満足させるためにも人間関係が必要なわけです。
それが善悪優劣損得で比較競争差別し合う形の中の勝敗(勝者・敗者)関係になります。

だからこの世は勝者と敗者の関係でもあり、また勝てば官軍負ければ賊軍の関係でもあり、善人と悪人の関係にもなり、支配者と奴隷の関係にもなりますが、それがひっくり返って一変することもあり、またその繰り返しもあります。
すなわち「不確かな」関係・形が続くのです。

またその闘争心を満足させるために手っ取り早いのがスポーツ格闘技であり、また将棋・囲碁・麻雀・花札・カルタ、そして競輪競馬競艇やパチンコがあり、また電子映像ゲームもあります。

私はその中で人様を巻き込まない電子ゲームを当初はやっていましたが相手が仮想なのでそれに飽きて実在実質的なパチンコに戻りました。


と言うような人間の本能&欲望を味わい知るだけの人生で終わるよりも、その裏表を味わい知ってその中に隠された真実を見極めることができる、その精神力を高める必要性があると思いませんか、
しかも未知なる部分が永遠に続くことからして「飽きる」ことはなりませんし、その未知なることを事実として学び知り気付くことになればそれが(人間としての)やり甲斐にも感じられます。

そこで巷の人間として生きることに飽きないための趣味嗜好娯楽&喜怒哀楽&変化刺激快楽の味わえる、その巷の人間関係の中にいながらにして完全な宇宙・神・愛の見えない世界&精神世界の真実事実に気付くことが出来れば申し分ありません。

だから私のように過疎地で暮らす必要はありません。

ところが人間の本能&欲望に支配されやすいのが巷のその人間関係の中にあることも事実です。
だから巷の人間から脱するために信仰宗教に入信したり艱難辛苦の修練修行をする者が後を絶たないわけでもあります。

そこで皆さんは人間の本能&欲望のままに生き続けて自らの意識からしてその喜怒哀楽&変化刺激快楽を味わいそれを求め続ける生き方で大丈夫なのですか、と問いかけることにもなっているのです。