精神世界を意識している人たちの中に、人間だから欲も必要でありそれが生き甲斐でもあるとしている人もいます。
その裏には仏門に下り修行僧や仙人が如くの生き方は人間には無理だからという思いがあるのかもしれません。
私がパートに行っている牛舎のオーナーは若い時から精神世界にご縁があっただけに今の私の生き様生活ぶりを素直に理解するものの、
そのオーナーにすれば人間には欲も必要として自らも休む暇もなく頑張り続けていますしそれが生き甲斐にもなっていますが、それがまさに私の過去と同じです。
ちなみに牛飼いは勝負的職業だけにパチンコも勝負を賭けた趣ですが(私は遊び感覚ですが)、そのパチンコさえも精神世界に結びつけてそれを人生の教訓や鍛錬に置き換えるほどの人です。
その忙しくしているオーナーを横目で見ながら私は自分の仕事を終えればそのオーナーに終わったことも告げずに、また他に手伝うことが無いかの親切心も無くオーナーをほっといて足早に帰り支度をしてそのままに帰宅します。
しかも午前の仕事帰りに汗ばんだ着衣の着替えを兼ねて近場の温泉に行くこともあるし、しかも午後の仕事が終わってまた温泉に入ってから(清々しい心身で)帰宅することもありますが、その温泉の年間パスの半額をオーナーが負担してくれていますから、そのオーナーもその温泉三昧を承知しています。
となると同じように精神世界を意識して暮らしていながらも私とオーナーの違いは大きく違っていますが、さて皆さんは何れを望みますか、
大方にして私のほうを違和感でもって否定する人が多いはずです。
その私がちょこっと仕事をしてその帰りに温泉三昧しているのを仕事しながら横目で見ているのはオーナーですが、そんな私に少しは刺激感化同化(内心羨む?)されているものの、そのオーナーの性格個性からして私の真似をすることにはならないと思います。
また不完全意識の人間関係なのだからと余計なことをせずに気にもせずにそのままにほっとくことも出来ないはずです。
やはり何かと面倒を見たがるタイプです。
だから私もその恩恵を多く受けています。
ゆえにオーナー側からして私を見れば現実離れした生き方を実践していることになります。
ところが私自身は常識離れ現実離れしているものの(私の過去とは異なる)楽チンで自由な生き方を実感で味わっているだけに、何で皆してやらないの、となります。
その意識の違いの中にあるのが此れまでの神仏霊魂の世界や信仰宗教や世間の常識の影響を受けていてそれが正しいと思っているところがあるからです。
まして私のような生き様を見れば違和感や不信感からして完全真理が理解できないと言うよりも理解したがらないはずです。
また心持・本心は私のような生き方に一理は有るものと思いながらも、その真似ができないから遠慮したいのです。
ゆえに不完全意識の人間関係の中でその苦楽をやたらと味わっている、その矛盾の生き方から離れられないでいる、その自力自信精神力の弱さに対するその自覚が無いのです。
だから見栄やプライドや欲があって当たり前、不信感があって当たり前、その守り意識があって当たり前、潔癖完璧正義は正しい、嫉妬仕返し復讐心や怒りをぶっつけるのも人間だからと(私は正しいと)言い訳正当化していたいのです。
ゆえに人間が使う言葉の裏心を知らないままに(正しいと思い込んで)それを多く使い、そんな私は神仏霊魂の精神世界を意識している善良なる者ですと自他共に誇らしく見せていたいのです。
また人並み一角の人間として世間でいるからには自らが「自分さえ良ければ」の自己中心&個人意識&不完全意識丸出しで生きていることを隠していたのです。
そして(私から見れば)自由の無い窮屈な生き様を(自己満足からして)(私は正しいが如くに)人様に自慢するかのように見せびらかしていたいのです。
だから人様が多く集るところでいるほうが(窮屈ながらも)都合がいいのかもしれません。
その裏には仏門に下り修行僧や仙人が如くの生き方は人間には無理だからという思いがあるのかもしれません。
私がパートに行っている牛舎のオーナーは若い時から精神世界にご縁があっただけに今の私の生き様生活ぶりを素直に理解するものの、
そのオーナーにすれば人間には欲も必要として自らも休む暇もなく頑張り続けていますしそれが生き甲斐にもなっていますが、それがまさに私の過去と同じです。
ちなみに牛飼いは勝負的職業だけにパチンコも勝負を賭けた趣ですが(私は遊び感覚ですが)、そのパチンコさえも精神世界に結びつけてそれを人生の教訓や鍛錬に置き換えるほどの人です。
その忙しくしているオーナーを横目で見ながら私は自分の仕事を終えればそのオーナーに終わったことも告げずに、また他に手伝うことが無いかの親切心も無くオーナーをほっといて足早に帰り支度をしてそのままに帰宅します。
しかも午前の仕事帰りに汗ばんだ着衣の着替えを兼ねて近場の温泉に行くこともあるし、しかも午後の仕事が終わってまた温泉に入ってから(清々しい心身で)帰宅することもありますが、その温泉の年間パスの半額をオーナーが負担してくれていますから、そのオーナーもその温泉三昧を承知しています。
となると同じように精神世界を意識して暮らしていながらも私とオーナーの違いは大きく違っていますが、さて皆さんは何れを望みますか、
大方にして私のほうを違和感でもって否定する人が多いはずです。
その私がちょこっと仕事をしてその帰りに温泉三昧しているのを仕事しながら横目で見ているのはオーナーですが、そんな私に少しは刺激感化同化(内心羨む?)されているものの、そのオーナーの性格個性からして私の真似をすることにはならないと思います。
また不完全意識の人間関係なのだからと余計なことをせずに気にもせずにそのままにほっとくことも出来ないはずです。
やはり何かと面倒を見たがるタイプです。
だから私もその恩恵を多く受けています。
ゆえにオーナー側からして私を見れば現実離れした生き方を実践していることになります。
ところが私自身は常識離れ現実離れしているものの(私の過去とは異なる)楽チンで自由な生き方を実感で味わっているだけに、何で皆してやらないの、となります。
その意識の違いの中にあるのが此れまでの神仏霊魂の世界や信仰宗教や世間の常識の影響を受けていてそれが正しいと思っているところがあるからです。
まして私のような生き様を見れば違和感や不信感からして完全真理が理解できないと言うよりも理解したがらないはずです。
また心持・本心は私のような生き方に一理は有るものと思いながらも、その真似ができないから遠慮したいのです。
ゆえに不完全意識の人間関係の中でその苦楽をやたらと味わっている、その矛盾の生き方から離れられないでいる、その自力自信精神力の弱さに対するその自覚が無いのです。
だから見栄やプライドや欲があって当たり前、不信感があって当たり前、その守り意識があって当たり前、潔癖完璧正義は正しい、嫉妬仕返し復讐心や怒りをぶっつけるのも人間だからと(私は正しいと)言い訳正当化していたいのです。
ゆえに人間が使う言葉の裏心を知らないままに(正しいと思い込んで)それを多く使い、そんな私は神仏霊魂の精神世界を意識している善良なる者ですと自他共に誇らしく見せていたいのです。
また人並み一角の人間として世間でいるからには自らが「自分さえ良ければ」の自己中心&個人意識&不完全意識丸出しで生きていることを隠していたのです。
そして(私から見れば)自由の無い窮屈な生き様を(自己満足からして)(私は正しいが如くに)人様に自慢するかのように見せびらかしていたいのです。
だから人様が多く集るところでいるほうが(窮屈ながらも)都合がいいのかもしれません。