自然界にあるがままに咲いている桜の木を見て羨むことにはならないと思いますが、ところが隣の家の桜が満開になっているのを見て羨むことになれば当然ながらそれは隣の桜になりますが、しかしそれを羨まずに桜を見た事実だけであれば、それは自分の(自分が見た)桜になります。
また人様が成していることを羨めばそれは人様のものになりますが、それを見てそれを真似れば自分のものにすることが出来ますし、その物真似の中に自分の創意工夫が入ればそれは自分だけのものになります。
だから完全真理は耕栄さんのものですが、その完全真理を自分のもにいしてそれに私の私見見解が入ればそれは私の完全真理になります。
しかしその完全真理が耕栄さんのままであればその耕栄さんの言葉を書き写すだけになりますから、その言葉を真似ているだけであって自分のものではありません。
また(釈迦やイエスを含めて)耕栄さんを信じたがるのは自分にはそれら(耕栄さんの)真似が出来ないことからしてそれを特別に思うからです。
ちなみに(自分に出来ないことを)特別に思わなければ(当たり前ですから)信じることにもなりません。
そして耕栄さんを特別に思わなければ成していることの事実だけを見るようになりますから、その耕栄さんの思い思惑で語る不完全意識なるその矛盾に気付くこともできるわけです。
またそれだけに耕栄さんのみならず此れまでご縁があった念力&超能力者から宇宙的愛の霊能者やまた神代の時代の神仏霊魂やまた神の使いといわれる釈迦やイエスらの矛盾(いい加減さ)にも気付くことができるわけです。
とにかく人様を羨む憧れ敬い尊ぶのも自分の思いですから、その言動に必ず裏があるのです。
だからその思いが冷めたときにはその裏心が出てきます。
しかも人様を羨む憧れ尊敬したがるのも(人様を特別に思うのも)その裏には自分のことに熱中集中することがない、すなわち己の自力&自信が無いからです。
だから立役者&人気者に羨み憧れて信者&ファンになったり、それを一目見たさに何度も遠出したり、また演台舞台に立つ人やまた映画ドラマを見ながらその主役になったつもりでその気分を推し計らって仮初めに味わっていたいのです。
私がその人様のことを羨む憧れ敬い尊ぶことにならないのも、その人様の成していることよりも、常に自分を表現できる事柄に次々と乗り換えながらもそれにいつも集中し熱中し取り組んでいますから、その結果が先々どうなろうとも(飽きてくれば新たな事に乗り換えるだけですから)、その道筋・経緯を味わっていればそれで十分ですから、それ以外の私に関係ないこと(他ごと)を意識する暇もないわけです。
だから私は芸術家&専門家&学者の適性(性格個性)を持っていることにもなります。
巷の芸術家といわれる人も自分を素直に表現することに精出しているのであって、仮に先々の結果・評価を見込んでいれば本物の芸術家とは言えません。
またスポーツも同じ仲間が集ってそのスポーツをしていることを楽しむのが本来ですからその評価採点やまた観客や声援の反応がなくても差し支えないはずです。
また落語や漫才や芸能でも自分を表現することで舞台に立つならばその観客がいなくても(結果を気にする事無く)その表現を続けていればいいわけです。
だから自分のやりたいことを自由にやればいいものを、そのやる気になることがないのも自力自信の無さです。
その中に見栄や世間体やのプライドが邪魔しているのもあるでしょうし
また目立ちたがる、格好つけたがる、しかし面倒がる、だから長続きしない、
しかもそれを言い訳正当化して自分を誤魔化す、家族や身近な人の責任に摩り替える、国家社会の責任にする、
それで「何で」生きていることが味わえるでしょうか、となるのです。
またあまりやる気がないのにそれを無理にしているその面白くもない生き方をしている人もいるかと思われます、また逆に格好つけるためにやる気十分になりその無理をして苦労するもその上のものに吸い上げられ取り上げられてしまうことになるのに気付かないでいる、また世の中の移り変わりに目ざとく対応するもやがて力不足を思い知らされてその多くを失う、またそこまでに到る以前に有事で多くを失うこともあります。
それが現実としてそのお手本&事例が目の前に大きく見えているのに、それでも私は大丈夫と思いたがる手前勝手さがあります、だから今は(仮初めに)大丈夫なのです。
しかし神様とて保障はしてくれません。
ましてそのあなたの思い思惑が(人為や真坂の有事で結果的に)裏切られる(失う)のがこの世です。
そして気付いた時には既に手遅れで今更どうしようもない状態になっているのです。
だからその思い思惑を持たずに今の自分の出来ることを(今を生きながら)その自力でもって十分にやりながら(その先々の事・結果を気にせずに)あとは成り行き任せにするほうが(未練後悔執着にならずに)(成るようになりながら)(大したこともなく)気楽に生きられるのです。
今は(今の形は)良しかれ悪しかれ、その途中結果であって(仮初めであって)それが変化し続けるのがこの世であって、死すればすべてが消えるのです。
残るのは見えないその意識と命(俗に言う魂)です。
だから(先のことではなくして)今の意識が最も重要なわけです。
また人様が成していることを羨めばそれは人様のものになりますが、それを見てそれを真似れば自分のものにすることが出来ますし、その物真似の中に自分の創意工夫が入ればそれは自分だけのものになります。
だから完全真理は耕栄さんのものですが、その完全真理を自分のもにいしてそれに私の私見見解が入ればそれは私の完全真理になります。
しかしその完全真理が耕栄さんのままであればその耕栄さんの言葉を書き写すだけになりますから、その言葉を真似ているだけであって自分のものではありません。
また(釈迦やイエスを含めて)耕栄さんを信じたがるのは自分にはそれら(耕栄さんの)真似が出来ないことからしてそれを特別に思うからです。
ちなみに(自分に出来ないことを)特別に思わなければ(当たり前ですから)信じることにもなりません。
そして耕栄さんを特別に思わなければ成していることの事実だけを見るようになりますから、その耕栄さんの思い思惑で語る不完全意識なるその矛盾に気付くこともできるわけです。
またそれだけに耕栄さんのみならず此れまでご縁があった念力&超能力者から宇宙的愛の霊能者やまた神代の時代の神仏霊魂やまた神の使いといわれる釈迦やイエスらの矛盾(いい加減さ)にも気付くことができるわけです。
とにかく人様を羨む憧れ敬い尊ぶのも自分の思いですから、その言動に必ず裏があるのです。
だからその思いが冷めたときにはその裏心が出てきます。
しかも人様を羨む憧れ尊敬したがるのも(人様を特別に思うのも)その裏には自分のことに熱中集中することがない、すなわち己の自力&自信が無いからです。
だから立役者&人気者に羨み憧れて信者&ファンになったり、それを一目見たさに何度も遠出したり、また演台舞台に立つ人やまた映画ドラマを見ながらその主役になったつもりでその気分を推し計らって仮初めに味わっていたいのです。
私がその人様のことを羨む憧れ敬い尊ぶことにならないのも、その人様の成していることよりも、常に自分を表現できる事柄に次々と乗り換えながらもそれにいつも集中し熱中し取り組んでいますから、その結果が先々どうなろうとも(飽きてくれば新たな事に乗り換えるだけですから)、その道筋・経緯を味わっていればそれで十分ですから、それ以外の私に関係ないこと(他ごと)を意識する暇もないわけです。
だから私は芸術家&専門家&学者の適性(性格個性)を持っていることにもなります。
巷の芸術家といわれる人も自分を素直に表現することに精出しているのであって、仮に先々の結果・評価を見込んでいれば本物の芸術家とは言えません。
またスポーツも同じ仲間が集ってそのスポーツをしていることを楽しむのが本来ですからその評価採点やまた観客や声援の反応がなくても差し支えないはずです。
また落語や漫才や芸能でも自分を表現することで舞台に立つならばその観客がいなくても(結果を気にする事無く)その表現を続けていればいいわけです。
だから自分のやりたいことを自由にやればいいものを、そのやる気になることがないのも自力自信の無さです。
その中に見栄や世間体やのプライドが邪魔しているのもあるでしょうし
また目立ちたがる、格好つけたがる、しかし面倒がる、だから長続きしない、
しかもそれを言い訳正当化して自分を誤魔化す、家族や身近な人の責任に摩り替える、国家社会の責任にする、
それで「何で」生きていることが味わえるでしょうか、となるのです。
またあまりやる気がないのにそれを無理にしているその面白くもない生き方をしている人もいるかと思われます、また逆に格好つけるためにやる気十分になりその無理をして苦労するもその上のものに吸い上げられ取り上げられてしまうことになるのに気付かないでいる、また世の中の移り変わりに目ざとく対応するもやがて力不足を思い知らされてその多くを失う、またそこまでに到る以前に有事で多くを失うこともあります。
それが現実としてそのお手本&事例が目の前に大きく見えているのに、それでも私は大丈夫と思いたがる手前勝手さがあります、だから今は(仮初めに)大丈夫なのです。
しかし神様とて保障はしてくれません。
ましてそのあなたの思い思惑が(人為や真坂の有事で結果的に)裏切られる(失う)のがこの世です。
そして気付いた時には既に手遅れで今更どうしようもない状態になっているのです。
だからその思い思惑を持たずに今の自分の出来ることを(今を生きながら)その自力でもって十分にやりながら(その先々の事・結果を気にせずに)あとは成り行き任せにするほうが(未練後悔執着にならずに)(成るようになりながら)(大したこともなく)気楽に生きられるのです。
今は(今の形は)良しかれ悪しかれ、その途中結果であって(仮初めであって)それが変化し続けるのがこの世であって、死すればすべてが消えるのです。
残るのは見えないその意識と命(俗に言う魂)です。
だから(先のことではなくして)今の意識が最も重要なわけです。