孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

執着の無い穏やかな安らぎの中に自らの精神世界が有るのです。

2013年04月29日 | Weblog
朝の陽光で目覚めで聞こえてくるのはウグイスや名も知らない小鳥のさえずりがあちこちから聞こえるだけで人の気配も無く時間を刻む秒針の音が聞こえてくるような静寂の中で慌てて起きることも無く寝床の余韻を味わう毎日です。

だから過去の騒がしくまた慌しい朝を迎えていた頃とは精神的に違っています。
また人工的な変化刺激に満ちていた頃の生活とは違って安らぎに満ちた生活を味わっています。

ところが人間には矛盾したところがありますから、全く同じことであってもそれが寂しい孤独感や不安心配・恐れになる人もいます。
だから人それぞれに違った生き方が有るわけです。

ちなみに人工的な事柄からして得られた自己満足はそれより上の自己満足を捜し求める事になりますが、求めたわけでもないのに与えられている自然界のことになるとそれで十分になります。

ところがあるがままの自然界のことだけに(広告宣伝&主張堅持しないから)自らがそれらに気付かなければ有っても無かった事になり、それらを意識して味わうことにはなりません。
だから私とて不満不足・不信不安に意識が使われることが多いと自然界の営みに意識が使われることにはなりません。

だから大事を意識するほどに小事が疎かになります。
しかも大事を意識するほどに執着しますから尚更に小事を無視する事になり、そして朝日や空の雲や夕焼けも夜空も月や星を意識して見ることがめっきり減ってくることでしょう。

と言うことからして目の前に見えているのにそれに気付かないままにやり過ごすことになりますから、その自然界を味わうことさえも特別になり、身の回りに花を飾り立て庭に草木を植えたり行楽弁当を持参して桜並木や紅葉狩や名所旧跡見物になります。
すなわち自然界すらお金と時間をかけた特別な趣味嗜好娯楽の類にしなけらばならないのです。

と言うように時たま何でもないような些細なことを書くことがありますが、この世のすべてはその小事から大事に到っていることを知って頂きたいからです。
すなわち不平不満に執着することからしてそれが問題化になりそれに執着するほどに大事になり人様までも巻き込むのです。

またそれで何とか解決できるならまだしも、更にややっこしい事になっているその現実事実を学び知り自覚しなければ、いくら精神世界を意識していても意味を成しません。

そして挙句の果てに神様仏様・神懸り超能力者を信じてそれに頼ることで何とかしたがるわけですが、それさえもどうでもいいことであり、それでもどうにもならないことだと気付くはずもありません。

とにかく現れた結果を変えることではなくしてその結果を素直に味わいながらもその原因で有る己の意識の有り様に気付くことが本来の精神世界なのです。
そしてこの世の苦楽&矛盾・裏表を大いに味わい知ったことを活かすのが精神世界でも有るのです。

そしてこの世の苦楽は自分の意識の中に有るだけであって外に有ることではないその事実に気付けば、あとはその内なる意識を修正改革するしか何の手立も無い事にも気付けるのです。
すなわち他力ではなくして「自力」で成すしか他に道は無いことを知るのです。


その様々な苦楽によって自らの首を自らが絞めているが如くに心身ともに疲れているのであれば、その苦楽の原因となっている人間関係から離れるなり、またそれらしがらみを気にする事無く我が道を行くが如くに平然と生活していくなり、また他に道は無いかと自問自答してそれがあれば実践するだけです。

何はともあれ苦楽を味わう事をやめなければ(如何なる精神世界に居ても)それに意識が使われ続けて(束縛されて)新たな気付きが損なわれ続けるのです。
だから外のことを気にすれば執着になります。

だから外が気にならない居場所&環境状況下でいればあとは内なる自分だけになります。
そうなると自ずと執着することが減ってきます。
その執着の無い穏やかな安らぎの中に自らの精神世界が有るのです。