皆さんは何で精神世界&神仏霊魂の世界を学んでいるのですか、
死んで天国に行くため、生きながらにして天国を味わいため、楽しく生きていたい、学識知識教養のため、人集め金集めの先生や教祖になるため、世直し人救いのためでしょうか、
しかしながら精神的なことだけに人間感情や快感快楽ではなくして、その精神&心&気を楽にして生きる、すなわち苦楽の無い気楽なままに生きていけるその術その教えを説く形が本筋と思います。
ちなみに楽しく生きるためならば当然ながら(現代のように)多くのものが必然になりますからそれを得る努力頑張りが必要になります。
それが私の過去の自己拡大の生き様です。
だからその為にも仕事を頑張り続けますし、一緒に暮らす家族と仲良くするための努力も欠かせませんでしたし、その家族の不足不満が出ないよいうに快適便利な家財道具も揃えましたし更に家屋も新築しました。
ところが現在は気楽に生きることを味わっています。
そうなると仕事を頑張ることもありません。
家族と仲良く暮らすための気遣い努力も要りません。
だから当然ながら人間関係に気遣いしません。
また快適便利な家財道具が無いほどに自力を使いますから、その自力を使って生きることの意味・真価まで気付くことにもなりましたから、多くの道具を欲しがる事にもなりません。
また栽培飼育したその産物や季節の山菜や草花を人様に届けることも(その自己満足も)面倒臭くなって今はやめています。
また過疎地の荒れ果てた近隣を草刈したり枝打ち伐採をしていたのも(その自己満足も)最低必要限度にしていますから自分の敷地さえも手抜きしています。
とにかくそれを自分が納得済みならば(人様がどうであれ)(様々なことが)気にならないのです。
だから成り行き任せにほっといても気にならないから何ら差し支えは無いのです。
すなわち他を(外を)(人間関係を)気にしないで済むのです。
だからその分だけ気楽になるのです。
ちなみにこのブログで何度も(あの手この手で)似たようなことを書いているのも私が実感しているだけに皆さんにも味わえることをしつこく書いているのです。
一度きりの人生の中でその矛盾を知ったのならば、そこで足早に方向転換すればその矛盾を味わないで気楽に生きれることになるのです。
だから「楽しく」生きることをやめれば多くを必要としなくなりその分だけ<気楽>に生きれるというその実践でもって味わえばいいのです。
あなたの人生はあなたのものです。
誰に気兼ね遠慮することなく実践すればやがてその不完全な人間関係が気にならなくなるのです。
しかし自らのプライドが邪魔したり人間関係のしがらみが邪魔になっているのですが、そのしがらみは重要ではなくして共に学び合う関係からしてその人間関係が取り沙汰されているだけです。
だから先ずは気楽に生きることを味わえば楽しく生きる必要性が次第に薄れてくるのです。
しかもその実践の気付きからして自由な(否定反発束縛の無い)(思い思惑の無い自然体の)人間関係の必要性にも目覚めることが出来るのです。
そしてその自由な人間関係の中に「裏のない」楽しい関係があることにも気付けるのです。
それが自由平等調和の人間関係です。
しかし今はそれが望めないのも事実です。
だからその実践意識のままに居続けてあとは宇宙・神の愛の仕組みに任すしかありません。
死んで天国に行くため、生きながらにして天国を味わいため、楽しく生きていたい、学識知識教養のため、人集め金集めの先生や教祖になるため、世直し人救いのためでしょうか、
しかしながら精神的なことだけに人間感情や快感快楽ではなくして、その精神&心&気を楽にして生きる、すなわち苦楽の無い気楽なままに生きていけるその術その教えを説く形が本筋と思います。
ちなみに楽しく生きるためならば当然ながら(現代のように)多くのものが必然になりますからそれを得る努力頑張りが必要になります。
それが私の過去の自己拡大の生き様です。
だからその為にも仕事を頑張り続けますし、一緒に暮らす家族と仲良くするための努力も欠かせませんでしたし、その家族の不足不満が出ないよいうに快適便利な家財道具も揃えましたし更に家屋も新築しました。
ところが現在は気楽に生きることを味わっています。
そうなると仕事を頑張ることもありません。
家族と仲良く暮らすための気遣い努力も要りません。
だから当然ながら人間関係に気遣いしません。
また快適便利な家財道具が無いほどに自力を使いますから、その自力を使って生きることの意味・真価まで気付くことにもなりましたから、多くの道具を欲しがる事にもなりません。
また栽培飼育したその産物や季節の山菜や草花を人様に届けることも(その自己満足も)面倒臭くなって今はやめています。
また過疎地の荒れ果てた近隣を草刈したり枝打ち伐採をしていたのも(その自己満足も)最低必要限度にしていますから自分の敷地さえも手抜きしています。
とにかくそれを自分が納得済みならば(人様がどうであれ)(様々なことが)気にならないのです。
だから成り行き任せにほっといても気にならないから何ら差し支えは無いのです。
すなわち他を(外を)(人間関係を)気にしないで済むのです。
だからその分だけ気楽になるのです。
ちなみにこのブログで何度も(あの手この手で)似たようなことを書いているのも私が実感しているだけに皆さんにも味わえることをしつこく書いているのです。
一度きりの人生の中でその矛盾を知ったのならば、そこで足早に方向転換すればその矛盾を味わないで気楽に生きれることになるのです。
だから「楽しく」生きることをやめれば多くを必要としなくなりその分だけ<気楽>に生きれるというその実践でもって味わえばいいのです。
あなたの人生はあなたのものです。
誰に気兼ね遠慮することなく実践すればやがてその不完全な人間関係が気にならなくなるのです。
しかし自らのプライドが邪魔したり人間関係のしがらみが邪魔になっているのですが、そのしがらみは重要ではなくして共に学び合う関係からしてその人間関係が取り沙汰されているだけです。
だから先ずは気楽に生きることを味わえば楽しく生きる必要性が次第に薄れてくるのです。
しかもその実践の気付きからして自由な(否定反発束縛の無い)(思い思惑の無い自然体の)人間関係の必要性にも目覚めることが出来るのです。
そしてその自由な人間関係の中に「裏のない」楽しい関係があることにも気付けるのです。
それが自由平等調和の人間関係です。
しかし今はそれが望めないのも事実です。
だからその実践意識のままに居続けてあとは宇宙・神の愛の仕組みに任すしかありません。