一般的に言われている精神世界と神仏霊魂の世界を説く信仰宗教とは自ずと道筋が違っています。
そして精神世界は自分の中に有るものですから自分が主体になりますが、神仏霊魂の世界の信仰宗教となるとその神仏や教祖主導者の教えを信じて従うことになりますから、俗に言う内在心(神)と外在心(神様)の違いになります。
だから自分の心精神に自らが問い掛けるような自問自答からして気付くことになればそれは自力・自前の精神世界になりますが、教祖指導者の言いなりに従うことになればそれは他力依存の精神世界になります。
そして自らの自力でもって気付き知りそれが実感でもって悟れば自分のもの(本物)になりますが、他力の導き知識で学び知り気付いたことは借り物になりますから実際にそれを実践して自覚納得確信悟りにならないければなりません。
だから普段の自力でやっている中で自らが気付くのと(独自独歩)、人から指摘されて気付いたりまた言われるがままにやっているのとの違いです。
またこの世は矛盾する意識を持った者同士が集まる世界ですから天国を教えればその裏の地獄を教えることにもなります。
ところがそれを天国に思うか地獄に思うかは人様々に違っていますから、それを天国に思うか地獄に思うかはその人自身の意識が決めることになっています。
すなわち自らの意識で概ね肯定するのか否定するのか、またその何れでもない中間なのか、その思い意識の尺度で決まっているようなものです。
だから絶対が無い不確かなのが私たちの意識です。
だから不確かなことを信じるか否かにもなるのです。
ところが天国を知らなければ裏の地獄もありません。
だから幸せを知らなければ不幸もありません。
また死後がどうなのかは死ななければ判りません。
ところがそれを教えたのが神仏霊魂の精神世界&偽神の導きを教えた輩であり、また不確かなのに私の超能力・霊力霊感で見たからそれは確かだと(正しいと)ばかりに教えている輩です。
だから精神世界ともなればそれが神探し幸せ探し生き甲斐探しや霊スポット探しや念力超能力者探しや霊能者探しにもなるのです。
ちなみに私は知りたがるやりたがるタイプですが、そのご縁が無ければ(当然ながら)知らないままになります。
そしてそのほうが余計な事にならなくて私には都合がいいわけです。
だからその必然のご縁に任せているのです。
また深く知る必要も無いことは(天災人災でも家族のことでも)気にもせずにそのままにほっときます。
まして先程に書いた「見えないもの」を思い巡らし迷い葛藤することも、またそれらを自らが探すなんて事はありません。
だから私は現実を見ているだけの現実主義者とも言えます。
だからその分だけ先々の余計な迷いもまた不安心配もありません。
だから何処で何が起きていてもそれを知るすべもなく、私に何かが起きない限り普段道理の毎日が続くだけです。
ちなみに見えない世界のことであっても現実に起こる摩訶不思議にはすごく興味がありましたし、その異次元現象も多く見たし超科学的&奇跡的な効果効用も体験し見聞してきました。
それにしても何で見えもしない霊魂の世界に無関心の私がご縁あったのでしょうか、未だに自分でさえも不思議に思っていますが、それがどうやら信じるか否かの無い現実事実を知ることのできるその完全真理が私には必然からしてご縁が仕組まれたようです。
だから完全真理を知ることからして此れまでの摩訶不思議の見えない世界&精神世界の謎解きが進み、しかもそれを信じるか否かの無い完全(現実事実を知ること)なのですから私にはピッタリだったわけです。
そして結果的にはパチンコ「北斗の拳」のセリフの中の「私に自信あり」となりましたが、しかもその裏が無い絶対的な自信ですから申し分ないわけです。
ゆえに釈迦やイエスやサイババ・耕栄さんや伊勢白山道・霊感超能力者等を書き下ろすそんな私の自信を喪失させるような指摘や他の事柄の書き込みを期待しているのですが、何かありませんか、
そして精神世界は自分の中に有るものですから自分が主体になりますが、神仏霊魂の世界の信仰宗教となるとその神仏や教祖主導者の教えを信じて従うことになりますから、俗に言う内在心(神)と外在心(神様)の違いになります。
だから自分の心精神に自らが問い掛けるような自問自答からして気付くことになればそれは自力・自前の精神世界になりますが、教祖指導者の言いなりに従うことになればそれは他力依存の精神世界になります。
そして自らの自力でもって気付き知りそれが実感でもって悟れば自分のもの(本物)になりますが、他力の導き知識で学び知り気付いたことは借り物になりますから実際にそれを実践して自覚納得確信悟りにならないければなりません。
だから普段の自力でやっている中で自らが気付くのと(独自独歩)、人から指摘されて気付いたりまた言われるがままにやっているのとの違いです。
またこの世は矛盾する意識を持った者同士が集まる世界ですから天国を教えればその裏の地獄を教えることにもなります。
ところがそれを天国に思うか地獄に思うかは人様々に違っていますから、それを天国に思うか地獄に思うかはその人自身の意識が決めることになっています。
すなわち自らの意識で概ね肯定するのか否定するのか、またその何れでもない中間なのか、その思い意識の尺度で決まっているようなものです。
だから絶対が無い不確かなのが私たちの意識です。
だから不確かなことを信じるか否かにもなるのです。
ところが天国を知らなければ裏の地獄もありません。
だから幸せを知らなければ不幸もありません。
また死後がどうなのかは死ななければ判りません。
ところがそれを教えたのが神仏霊魂の精神世界&偽神の導きを教えた輩であり、また不確かなのに私の超能力・霊力霊感で見たからそれは確かだと(正しいと)ばかりに教えている輩です。
だから精神世界ともなればそれが神探し幸せ探し生き甲斐探しや霊スポット探しや念力超能力者探しや霊能者探しにもなるのです。
ちなみに私は知りたがるやりたがるタイプですが、そのご縁が無ければ(当然ながら)知らないままになります。
そしてそのほうが余計な事にならなくて私には都合がいいわけです。
だからその必然のご縁に任せているのです。
また深く知る必要も無いことは(天災人災でも家族のことでも)気にもせずにそのままにほっときます。
まして先程に書いた「見えないもの」を思い巡らし迷い葛藤することも、またそれらを自らが探すなんて事はありません。
だから私は現実を見ているだけの現実主義者とも言えます。
だからその分だけ先々の余計な迷いもまた不安心配もありません。
だから何処で何が起きていてもそれを知るすべもなく、私に何かが起きない限り普段道理の毎日が続くだけです。
ちなみに見えない世界のことであっても現実に起こる摩訶不思議にはすごく興味がありましたし、その異次元現象も多く見たし超科学的&奇跡的な効果効用も体験し見聞してきました。
それにしても何で見えもしない霊魂の世界に無関心の私がご縁あったのでしょうか、未だに自分でさえも不思議に思っていますが、それがどうやら信じるか否かの無い現実事実を知ることのできるその完全真理が私には必然からしてご縁が仕組まれたようです。
だから完全真理を知ることからして此れまでの摩訶不思議の見えない世界&精神世界の謎解きが進み、しかもそれを信じるか否かの無い完全(現実事実を知ること)なのですから私にはピッタリだったわけです。
そして結果的にはパチンコ「北斗の拳」のセリフの中の「私に自信あり」となりましたが、しかもその裏が無い絶対的な自信ですから申し分ないわけです。
ゆえに釈迦やイエスやサイババ・耕栄さんや伊勢白山道・霊感超能力者等を書き下ろすそんな私の自信を喪失させるような指摘や他の事柄の書き込みを期待しているのですが、何かありませんか、