孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世で「役割」を果たしながら生き続けて何かと気付き続けることが人間の<使命>になります。

2013年04月04日 | Weblog
昔から「困った時の神頼み」が言われているように、巷の神仏霊魂の精神世界やその信仰宗教に心を寄せる事になるのが<有事による>そのきっかけからでした。
だからして大昔なら魔術師が近代なら神懸り奇跡の超能力者が持てはやされたのです。

すなわち自他共に起きる何らかの有事がきっかけにして精神世界を学ぶ事になったり信仰宗教に入信する事になったり、またそれら精神世界を説く様々な形に係わることになる場合が多いと言うわけです。

またその有事によって様々な気付きも起こりますが、あの世へ行けばその有事はありません。
だから有事が起こるこの世で多くを学び知り気付く事ができるわけです。

ところで(私のように)健康環境問題からはじまりそれが摩訶不思議現象や超科学へと進んでそれが宇宙・神・愛の精神世界を学び知ることになった人たちも少なからずいるはずです。

また自分の中にある精神的な迷い謎解きが原因からして神仏霊魂の世界を学び知ることになった人もいることでしょう。
またそれら何れの形にしろ過去の釈迦やイエスらのことに関心を寄せることにもなるしまた神懸り超能力に関心を寄せる事にもなります。
そして見えない世界のことだけに「信じるか否か」になります。

ところが矛盾も妥協も一切無い<完全>なる宇宙・神の愛を説く完全真理ならば信じるか否かでは無くて「絶対」の真実事実として揺るぎない精神世界&見えない世界を知ることが出来ます。

そして「卵が先でもニワトリが先でもなく」すなわち宇宙が先でも神が先でもない「元」からしてある全知全能の愛エネルギー&宇宙エネルギー&愛意識からなる<すべてはひとつ>から始まり終わるその繰り返しからして宇宙・地球・自然界・人類&この世の進化発展が仕組まれていることを矛盾無く知ることができます。

その<すべてはひとつの愛>から始まっただけに宇宙万物すべてが愛でありその愛が神と言うならば<すべてが神>になります。
そして釈迦やイエスが神の使いならば宇宙万物も神の使いになり、その役割を果たし使命を全うすればいいわけですが、その役割も使命もそれぞれに異なっているからして、それぞれが宇宙万物の一つとしてこの世に実在しているわけです。

その釈迦やイエスも宇宙万物の一つですが、その己の役割を果たすにも他の宇宙万物のお陰がなくしてはこの世で生きることさえ出来ません。
だからすべてがお陰様とお互い様の関係になります。

その釈迦やイエスを特別に思う人がいてもこの世には何ら関係ありません。
その釈迦やイエスを知らなくてもこの世で生きていく事に何ら支障が無いからです。
だから釈迦やイエスを特別に思った人の中にだけその特別な思いがあるだけですから他の人には関係ないことになります。

と言うことは神も仏も天国も地獄も善人も悪人も自分の心&意識のその思いの中にだけ実在している事であって(非実在であって)現実のこの世には実在していないのです。
だからそれらのことを全く知らなくても、また知ったとしても実在していないから、この世の人間として生きていくことに何ら支障ないのです。

そして釈迦イエスや英雄ヒーローの特別なことを真似するでもなくして、
自らの自力&性格個性(能力・役割)を出しながら食って寝て糞をして生きてさえいれば人間としての役割を(お陰様とお互い様の関係からして)(その内容結果に関係なく)十分に果たすことになるのです。

それでは人間の使命は何でしょう。
それが宇宙万物&自然界と係わりながら人間として生きて、此れまで味わい知らなかったことを味わい知り気付いていくことからしてのその人間の内なる意識次元(永遠の命&意識)を高める、その意識の進化を永遠に続けていくことが使命なのです。

ちなみに完全な無から完全な有を創造するのは不可能なように何も知らなければ何も始まらないのです。
だから学び知ることの繰り返しを何度も何度もこの世で繰り返しているのです。

このことを信じるか否かではなくして完全真理の理解を深めることで納得確信&悟ることにもなりますが、その確かな実践でもって自分のもの<本物>にしなければこの先の有事で役立たないで、その有事に執着する事になりその苦難苦行や精神的困惑混迷に我を忘れて路頭に迷う事になるかもしれません。

そして有事以前から自己縮小していたのと有事によって致し方なく自己縮小になるのとのその違いを誰でもない我が身でもって直接味わい知る結果になるのです。

となれば安心安全な生き方を学び知り気付かないままにいつまでも苦楽の多い生き方を続ける結果にもなり、そのままの意識でもって人間を終えることになります。
(ここまでの内容は事実ですが)
(此れから先の内容は信じるか否かになります)
となれば安心安全な意識のままに死するのと苦楽の思いをもって死するのとのその違いをあの世で味わう事になります。
そして宇宙の仕組みからしていつしか(苦楽の判断の無い)高次元界の地球になった時にはその新たな地球に似合わない霊魂(意識・命)ですからそのままに宇宙でさ迷えることになるようです。

私にすればそれが例え高次元界の地球にならなくても、あの世で安心安全の心持でずーっといられることだし、また高次元界の地球が嘘も方便であって事実ではなくても(今と同じ次元の地球に再び生まれ変わる事になっても)苦楽の無い生き方を望んでいますから、その意識が原因の結果として南海の孤島で漁師をしながらの(今と同じように)その日暮の生活を味わう生き方になるかもしれません。

その予言的に言われていることが現実になって、その苦楽の無い自己縮小された形の新たな地球に生まれ変わることが出来れば、今のような独自独歩の孤独ではなくして同じ意識同士の人間関係でもって一緒に暮らせるわけですから(今の私からすれば)何やら天国にいるような気分&思いを味わえることは間違いありません。

すなわち今の三次元界の現状を味わっているからこそ、それとは一味違う高次元の世界に気付きそれを味わうことになれば、それが天国にも思えるようになるわけです。
ところが私の命&意識が元々からして苦楽の無い次元界でいたのならそれが当たり前であって何で天国にも思えるでしょうか、となります。

もうお判りですね。
私が過去に自己拡大を味わったからこその(不完全意識ながらも)今の自己縮小の価値を見い出したように、
宇宙の仕組みで用意された意識次元の階段を一段一段と登り続けていくその価値ある実践に必ず気付きますから、今以上に自己縮小の実践が進んでいくことは間違いありません。

それでもあなた方は自己縮小の実践に躊躇しますか、
また確かな真実事実に気付きながら本物に近づいて行きたいとは思いませんか、
それも人様のことではなくしてあなた自身の「意識&命」ことですから、その自らの意識で決めるしかありません。