孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「孤独感の原因」<検索>でトップ、並びに「このブログの人気記事」連続上位の二つを紹介します。

2015年04月15日 | Weblog
2008年01月から書き始めたブログですが

ここ数年「孤独感の原因」<検索>でトップに位置しているし「このブログの人気記事」として日々連続で上位にランクされている記事を参考までに紹介します。

2012投稿 孤独感の原因は「他力依存」「他力願望」が強くて、自力・自信の安心安全の精神力が弱いからです。
http://blog.goo.ne.jp/utyu21/e/df8ace63fbe64ad7f789feda0479a71a

2010投稿 人間には攻撃本能と防御本能、善と悪の意識、その矛盾する意識をもっています。
http://blog.goo.ne.jp/utyu21/e/f2ddee797b1cdb457d3e0735855bb739

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何はともあれ巷の他力に依存しない<自力自信の精神力>を高めることが真の精神世界なのです。

2015年04月15日 | Weblog
この世人間関係は矛盾に満ちていますから、然るに自他共に矛盾を味わう関係にもなっています。

ちなみに優しさ思いやり親切を必要に思っている人が多いけれども、しかし良いことばかりではなく悪いことにもなるその矛盾があるのです。

然るに困っている人を助けることでその相手が喜び感謝することになっても、その反面困ったことを自ら解決する事無く済みますから、然るにその相手の人の自力や自信の精神力を高める事にならずに終わったり、また感謝の心を育むことになっても、それだけ人様の助け舟・他力に頼りたがる弱い心意識にもなりやすいのです。

また困っている人を見かねて助け舟を出した人も自己満足になりますから、然るにそれを人に自慢したがる自惚れ慢心にもなり、また私は正しいことをしたと思い込みますから、その己の思いに反する者に対して何かと否定反発排除したがることにもなります。

然るに「他力に頼り」たがる厄介者と「私は正しい」と主張する厄介者がこの世に増える結果になるだけです。

また優しさ思いやり親切を必要としているときに誰も助け舟が来なくて困ったことになる反面、何ら困っているわけでもないのに優しさ思いやり親切を(私は正しいとばかりに)押し付けてくる人が多いのも矛盾するこの世ならではのことです。

また困っている人に助け舟を出さない人を薄情とか無責任とか自分勝手な人だと判断批評・自己主張して(名文名目理屈を並べ立てて)それで世間に注目されて目立ちたがる人(有名人・著名人)がいるのも事実です。
そして名誉名声・肩書き・権威権力・勢力拡大を目指すこともなるわけです。

然るにそれが良いことにもなるが悪いことになるその矛盾からして(良いことばかり続かないで悪いことが目立ちはじめ)結果的に世間を上下左右に揺り動かして騒いだだけで終わったりもするのです。

然るにその代表的なのが世界の歴史の中に数々ありますが、その始まりは名も無き一介の者が立ち上がったことから、またそれら一介の者を担ぎ上げる者(太鼓担ぎ)たちが欲絡みで集まったことからして、然るに自他共に自力を超えたことを無理して(他力を巻き込んで)欲張ったことからして全てが始まっているのです。

然るに他力(政治経済・権威権力財力・組織団体勢力、医科学・快適便利迅速な生活、信仰宗教や神仏霊魂の類、超能力霊力念力・占い予言予知の類、人情愛情の類)に依存しなくてすむ、その自力自信の精神力を高めることが真の精神世界なのです。

そしてこの世人間関係だけはどうしようもありません。
そこで己一人が独自独歩でその自力自信の精神力を高めていく生き方しか他に道は無いのです。

とにかく自らが「欲張らない」実践をしてみれば(このブログに書いていること)すべてが納得確信できるようになるのです。

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不完全意識の人間が美化した「尊い命」「命・ありがとう」には<偽善>が隠れています。

2015年04月15日 | Weblog
人間は誰しも生まれながらにして「天子とサタン」善玉と悪玉の矛盾する心意識を持っています。

また誰もが生まれながらにして平等なる「命・意識」を持っています。

ところが自分より先に死んだ人を哀れ気の毒で可愛そうに思い、その思いを前提にして(万人=普通とは違う)(私は特別よ)特別仕立てにして「尊い命」と美化したがるところがあります。

だからその尊い命を奪った形のものを憎しみ、また悲しみ、哀れに思い、そして後悔したり未練執着することにもなっています。

そこで死を美化することで(先祖供養のように)心が一見安らかになりますが、しかしそれは自己満足の類ですから一時的で終わります。
だから内心にサタンの悪玉がいる限り「命を奪った形」に対する憎しみや悲しみや哀れさが蘇り、その(特別に思い込んでいる)拘り未練執着はなかなか消えません。

そして(先立たれたことを)美化することは本心・真心ではありませんから、その言葉に創作された誇大宣伝広告的なところやテレビの視聴率アップを目論んだような形の虚偽・嘘偽り・嘘も方便の偽善が隠れています。

その偽善を隠すために(特別な思いをこめた)「命・ありがとう」の感謝の言葉をやたらと出したがる偽善にもなっています。

またそれらの者の所に集まる人たちも同じ似たような心が隠れていますから、結果的にはそれらの人が同調同情しあうことで互いの心の傷をなめ合っている形、すなわち互いに同調同情しあうことで(一時的に)自己満足し合っている関係にもなります。

ちなみに尊い命として特別に祀り上げている中に(誰もが持っている)悪玉の偽善が隠れていることは(自惚れ慢心=自己洗脳が無ければ)(善玉の神の心を持っているから)(人に隠すことが出来ても=己には隠せないから)己自身が一番よく知っています(然るに精神修行したがるわけです)、
しかしそれをわざわざ奥底に隠してまで(私は正しいと自己主張して)その偽善を語ることは、同じ似たような仲間を集めて世間に目立ち注目されたい欲心があってのことになります。

然るに人が集まるところには人それぞれの欲が隠れているのです。
その欲が無ければ人は集まりません。

何はともあれ、優しさ思いやり感謝や親切や義理人情や愛情にその裏の悪玉偽善が隠れていることは(自他共に)内心で百も承知しているのが不完全意識の人間の本性なのです。
然るに素直真面目・謙虚にして「自分の胸に」手をあてれば判るはずです。

だからそれが結果的に(誰もが)不信感を持つ原因にもなっているし、その誰もが持っている不信感を打ち消すために(反対に)「信じ」たがること(悪玉を隠すために善玉を表に出すこと)になっているのは明白な事実なのです。

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