完全真理では、宇宙万物を含めたすべてを(ひとつの)神としていますから、その神の形・丸ごとを見ることは到底不可能です。
そしてその神からすれば砂粒一つも人間一人も同等ですから、その人間だけを特別に思うことは絶対にありません。
然るに神頼みは「嘘も方便」になります。
そしてこのブログでは「仕組まれる」ことを書いていますが、それも神が特別に仕組んだのではなくして、宇宙の法則&自然の法則と言われる「大元の仕組み」によって個別に仕組まれたことになります。
然るに人間と人間との「仕組み」であれば、その人の意識と別個の人の意識とが絡み合って起きた仕組みになります。
だから己の意識が原因で「成るようになる」その結果が出てくるのです。
そして私が数年連続で謎の発光体を目撃しているのも、私の意識と謎の発光体の意識が絡み合って起きている仕組みになります。
また此れまでガスレンジ着火機能の摩訶不思議を3回体験したのも、自然界の資源・意識体から作られたガスレンジと私との意識が絡み合って起きた不思議な仕組みになります。
ところで砂漠があるのも砂粒一個の集まりから出来ているように、人間界も同様です。
そして一個ということは一つの固体ですから、然るに溶け合ったり連なったりすることもなく、然るに他と切り離れた個にして独自で実在しているから、然るに孤独であり、それだけに自由があり、そして独断にして己が思うままの独自独歩で動くことも出来るのです。
だから砂漠の砂も人間も孤独なのです。
そして孤独ということは、その孤独でしか生きられないのです。
然るに生まれるときも生きている間も死ぬときも孤独なのです。
然るに周りに多くの仲間が居ても居なくても元より孤独なのです。
また砂粒一個でも自然の流れの中で実在していけるように、人間一人であっても同様です。
然るに多く集まろうが少なかろうが一個・一人であろうが同じです。
じゃ何で人間は集まりたがるのか、それは他力を当てにしているからです。
然るにその他力の役割を果すものは集団の中で居られ続けるが、その他力を果せなければ(思惑・期待に添えなければ)邪魔とばかり片隅に追いやられたり排除されかねません。
また集団の中で秩序(常識・伝統風習・道徳など)を乱すものが居ると同じようになります。
しかし集団の中であろうが、片隅であろうが、追いやられて一人であろうが、そこで生きていくには自力が絶対的に必要です。
然るに自力で生きていくことが人間の基本でありそれが真の精神世界なのです。
それが自力を超えたことを成そうとして欲張ることになると他力が必要になってくるのです。
そして人間は他力が無ければ生きていけないように思うのは、その自力と自信が欠如していて精神力・意識力が弱いからです。
然るに生きていても(多くを味わい知らない)(未熟・無知にして)価値の低い生き様にして人生を終えるわけです。
そこで集団の片隅であろうが集団から離れて孤立していようが、その自力と自信の精神力・意識力が十分であれば、然るに其処の居場所その状況環境で生きていく価値を十分に味わえるし、其処で己の自力&個性を発揮できるのです。
ところが時代ごとの常識や伝統風習や道徳などを気にしたり、また見栄や世間体のプライドを気にしたり、その肩書きの権威権力や勢力財力を気にすることからしてヘンテコなことになるのです。
しかも孤独の自由を生かさずにして人間関係の柵シガラミに束縛制限されたり、また私は正しいと思うものから否定反発排除されたりしているのです。
だから孤独が孤独感になったり人間関係の矛盾に馴染めずに苛立ったり虚しくもなるのです。
そこで精神力・意識力が如何に重要なのか気付くことからして、その精神世界&見えない世界に係わることにもなっているのです。
ところが肝心要のその精神力・意識力が未熟でお粗末だと巷の邪で欲張りの輩に引っかかりその邪道を進むことにもなっているのです。
だからそれらに惑わされないためにもこのブログが役立つわけです。
ところが知ったかぶりして、上っ面ばかり読んで、中味を深く読まない人が多いから、然るに釈迦に説法、ぬかに釘、絵に描いた餅、同然にもなり、実践する意識にもなれないのです。
ちなみにこの先で「宇宙の夜明け」と言われる次元上昇をイメージ的に言えば、一個の固体・三次元意識ではなくなり、水が如くに溶け合った調和・流体意識になり、その次は実在するが見えない空気が如くの気体意識になると云われています。
そしてその神からすれば砂粒一つも人間一人も同等ですから、その人間だけを特別に思うことは絶対にありません。
然るに神頼みは「嘘も方便」になります。
そしてこのブログでは「仕組まれる」ことを書いていますが、それも神が特別に仕組んだのではなくして、宇宙の法則&自然の法則と言われる「大元の仕組み」によって個別に仕組まれたことになります。
然るに人間と人間との「仕組み」であれば、その人の意識と別個の人の意識とが絡み合って起きた仕組みになります。
だから己の意識が原因で「成るようになる」その結果が出てくるのです。
そして私が数年連続で謎の発光体を目撃しているのも、私の意識と謎の発光体の意識が絡み合って起きている仕組みになります。
また此れまでガスレンジ着火機能の摩訶不思議を3回体験したのも、自然界の資源・意識体から作られたガスレンジと私との意識が絡み合って起きた不思議な仕組みになります。
ところで砂漠があるのも砂粒一個の集まりから出来ているように、人間界も同様です。
そして一個ということは一つの固体ですから、然るに溶け合ったり連なったりすることもなく、然るに他と切り離れた個にして独自で実在しているから、然るに孤独であり、それだけに自由があり、そして独断にして己が思うままの独自独歩で動くことも出来るのです。
だから砂漠の砂も人間も孤独なのです。
そして孤独ということは、その孤独でしか生きられないのです。
然るに生まれるときも生きている間も死ぬときも孤独なのです。
然るに周りに多くの仲間が居ても居なくても元より孤独なのです。
また砂粒一個でも自然の流れの中で実在していけるように、人間一人であっても同様です。
然るに多く集まろうが少なかろうが一個・一人であろうが同じです。
じゃ何で人間は集まりたがるのか、それは他力を当てにしているからです。
然るにその他力の役割を果すものは集団の中で居られ続けるが、その他力を果せなければ(思惑・期待に添えなければ)邪魔とばかり片隅に追いやられたり排除されかねません。
また集団の中で秩序(常識・伝統風習・道徳など)を乱すものが居ると同じようになります。
しかし集団の中であろうが、片隅であろうが、追いやられて一人であろうが、そこで生きていくには自力が絶対的に必要です。
然るに自力で生きていくことが人間の基本でありそれが真の精神世界なのです。
それが自力を超えたことを成そうとして欲張ることになると他力が必要になってくるのです。
そして人間は他力が無ければ生きていけないように思うのは、その自力と自信が欠如していて精神力・意識力が弱いからです。
然るに生きていても(多くを味わい知らない)(未熟・無知にして)価値の低い生き様にして人生を終えるわけです。
そこで集団の片隅であろうが集団から離れて孤立していようが、その自力と自信の精神力・意識力が十分であれば、然るに其処の居場所その状況環境で生きていく価値を十分に味わえるし、其処で己の自力&個性を発揮できるのです。
ところが時代ごとの常識や伝統風習や道徳などを気にしたり、また見栄や世間体のプライドを気にしたり、その肩書きの権威権力や勢力財力を気にすることからしてヘンテコなことになるのです。
しかも孤独の自由を生かさずにして人間関係の柵シガラミに束縛制限されたり、また私は正しいと思うものから否定反発排除されたりしているのです。
だから孤独が孤独感になったり人間関係の矛盾に馴染めずに苛立ったり虚しくもなるのです。
そこで精神力・意識力が如何に重要なのか気付くことからして、その精神世界&見えない世界に係わることにもなっているのです。
ところが肝心要のその精神力・意識力が未熟でお粗末だと巷の邪で欲張りの輩に引っかかりその邪道を進むことにもなっているのです。
だからそれらに惑わされないためにもこのブログが役立つわけです。
ところが知ったかぶりして、上っ面ばかり読んで、中味を深く読まない人が多いから、然るに釈迦に説法、ぬかに釘、絵に描いた餅、同然にもなり、実践する意識にもなれないのです。
ちなみにこの先で「宇宙の夜明け」と言われる次元上昇をイメージ的に言えば、一個の固体・三次元意識ではなくなり、水が如くに溶け合った調和・流体意識になり、その次は実在するが見えない空気が如くの気体意識になると云われています。