矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「浦島太郎の玉手箱」「パンドラの箱」VS「地球維新」「次元上昇」の<仕組み>

2015年04月22日 | Weblog
巷には先人が残した言葉・諺コトワザ・教訓じみた言葉などが数多くあります。
然るにこのブログでよく登場するのが、言うは易く行なうは難し、ピラミッドは一日にして成らず、勝てば官軍負ければ賊軍、触らぬ神に祟りタタリなし、捨てる神あれば拾う神あり、二兎追う者は一兎も得ず、取らぬ狸の皮算用、ドングリの背比べ、井の中の蛙、同じ穴の狢、自らが墓穴を掘る、ミイラ取りがミイラになる、皆して赤信号を渡る、自分の首を自分で絞める、堪忍袋の緒が切れる、
石橋を叩いて渡る、自分の尻は自分で拭く、他の褌で相撲を取る、
偶然は無く必然、嘘も方便、喜怒哀楽、根堀り葉堀り、言うだけ聞くだけ、成り行きに任す、仏に任す=ほっとけ、成ることはなるが成らないことはならない、あるがまま、自然体、

また浦島太郎の玉手箱、パンドラの箱、地球維新、次元上昇、

別件では、食って寝て糞をする、空腹こそが最高の贅沢となる、価値観ではなくして価値で生きる=事実にして生きる=今を生きる、
死ぬ時が来たら素直に死ぬだけ、それまで何とか生きてさえいれば(仕組まれるから)それだけでいい、

最近では、孤独にして生きる、人様のしてくれた事を思わずにして反対のしてくれなかった事ばかりを思う(自我=人間の癖)

ちなみに私たちはドングリ山でそれぞれが評価判断して、然るに背が高い低い、大きい小さい、かっこいい・かっこ悪い等と皆して「ドングリの背比べ」をしていますが、ひょんな事・有事からしてそのドングリの集団からコロコロと転がって孤独になったときは(池の中で一人になれば)、然るに己一人で生き続けなければなりません。

その真坂の出来事になった時に自力自信の精神力が無ければ生き辛くなるし、不安心配になるし、寂しくて孤独感にもなります。

ところが自力自信の精神力があれば孤独も何のその、その孤独とその自由を十分に味わうことが出来ます。
そして孤独を経験するからこそ皆と(水が如くに)融合して協力しあう事、お互い様とお陰様の関係で成り立っていること、そして自由と平等の調和の大切さを学び知り気付くことにもなります。

ところが調和の大切さを悟ってもドングリ山の集団の中に戻ればその比較競争に馴染めなくなりますから、結果的には孤独が続くことになります。

だったら今の孤独のままを十分に味わい続けるほうが己の心身のためにも良いことにもなるし、また他力に頼らないで自力を多く使って生きることになるし、周りに誰もいなければ見栄世間体を気にする事も無く、また頑張り無理し余計なことをする必要性も無くなり、然るに見栄張り・頑張り・欲張りらずにして「楽ラク」に生きていけます。

然るに(精神世界に関係なく)この世の仕組み中の元からして人間が孤独になるのは当然のことなのです。

すなわち皆が孤独にして生きる術・自力自信の精神力を高めるための仕組みが元からして用意されていたのです。

然るに昔ほど生きるために多くの自力を使っていたのです。
そして自力が足りないところに皆が集まって助け合い協力し合っていたのです。

ところが近年になって(医科学が進化発展して)自力の足りないところを便利な道具や機器や迅速な機械を使うことになって次第に自力を多く使う必要が次第に減ってきたのです。

然るに人間として進む道筋を間違ってきたのです。

だから孤独にして生きることの意味を認識しなければ今の他力依存からは抜け出せないのです。

然るに他力依存のその不信感からして「石橋を叩いて渡る」も、「皆して赤信号を渡る」「井の中の蛙」「同じ穴の狢」「墓穴を掘る」「自分の首を自分で絞める」ことにもなるのです。

そしてその先では「浦島太郎の玉手箱」「パンドラの箱」VS「地球維新」「次元上昇」が如き摩訶不思議な宇宙の仕組みが用意されているとも言われているのです。

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孔子の言葉を真似て、私は「男は60にして立つ」ことをお伝えします。

2015年04月22日 | Weblog
男のチンポコは未成年にして立ちますが、自力と自信の精神力を磨き上げるには(我が身を振り返れば)「60にして立つ」のが順当に思えています。

然るにそれより早すぎても「若気の至り」が伴うことになって失敗したり、「出る釘は打たれる」ことからして理解の無い世間にいじめられたりして片隅に追いやられたり、またそれが気に入らない邪な輩から否定反発・排除され「潰される」ことになるかもしれません。

また「私は正しい」と己の思いだけを主張したり、また不確かなことを事実が如くに錯覚勘違いして主張し続けて・執着して世間を惑わしながらも自らが「泥沼にはまる」ことになったりもします。

特に血気盛んな「若気の至り」からして熱中しすぎて、自惚れ慢心・思い込み錯覚勘違い・自己洗脳に至る人が(ブログの世界の中に)多くいるようです。

とにかく人間には良いと判断する善玉と悪いと判断する悪玉が共に表に出たり裏に出たりで、その矛盾の苦楽・苦悩が伴いますから、己自身も納得確信することができません。

然るに自信を持てないのです。

然るに揺れ動く心意識とその不信感をもっているので己の心精神を確立自立できないのです。

だからそんな中途半端なものを美化して世間に出すことも無いのです。

だから若い人ほど(余計なことで無駄とも言える)矛盾する見聞知識や体験経験を積み重ねる必要もあるのです。
然るにその積み重ねの甲斐あって、己が居るべきお似合いの場所・位置などの見極めが出来るようになってから立ち上がり動いても遅くは無いということです。

その場所・位置が良いも悪いも無い、然るに上下左右を判断する必要もない位置=中心=当たり前の=普通=が似合う心精神になっていたら上出来なのです。

然るにそれが見栄張らない・欲張らない・頑張らないで普通に生きる、然るに「楽ラク」に生きることを見極められるようになる、
その実践を60にして始めても遅くは無いということです。

ところがその実践をするには自力と自信の精神力が伴わなければなりませんから、然るに借り物の他力に頼ることから既に卒業していなければなりません。
(何度も書いていますから詳細を省きます)

然るに孤独とその自由にして、己の自力と自信の精神力でもって(それを美化すれば=誇りを持って)独自独歩に歩いていくしか他に道はありません。

然るに年代が若いほどその実践が難しいのは事実にあります。

だから孤独の虚しさ孤独感やまた世間や家族から見放されだした頃合の60代が適していると書いているのです。

また60代の元気な内に始めなければ(ピラミッドは一日にして成らずですから)どうしても他力に依存することが多くなり、結局は納得確信悟りに至る前の途中で元の木阿弥に戻るかもしれません。

ちなみに年代に関わらず有事に遭遇することになればその時が自己縮小のチャンスになることを付け加えておきます。

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