昨夜、午後8時~10時に「BS1スペシャル」という番組2本がまとめて再放送されていました。ひとつは「:原爆投下、知られざる作戦を追う」と題されたドキュメンタリー、もう一つは「っ決断亡き原爆投下、米大統領 71年目の真実」と題されたドキュメンタリーでした。
二時間にわたるNHK制作のドキュメンタリー番組、なかなかの力作、前半は食後に襲ってくるモーレツな眠気のために、ろくに見ていなかったのですが、後半はマジメに身を乗り出してテレビ画面を見つめておりました
この番組、広島・長崎への原爆投下に関して、フランクリン・ルーズベルトの死去により1945年4月に急きょ大統領になったばかりのトルーマンが、原爆投下に関して明確な決断・決定を下していなかった可能性が大きいということが、最近米国の歴史学者たちの研究により、当時の軍や政権の極秘資料を通じて明らかにされつつあることを題材にしたドキュメンタリーです。
トルーマンは大統領に就任するまでは副大統領ではあったものの、原発の開発や投下の計画について何も知らされておらず、就任から13日後に初めて知らされとされています。
このため原発製造計画を指揮していた陸軍のグローヴス将軍に原爆投下に関する実権を握られており、大統領としての、また軍最高司令官としての、明確な決断や決定を下してはいなかった可能性が大きいことが当時の極秘文書などから明らかになったことを、番組に登場した米国の歴史学者たちは語っていました。
トルーマン大統領は、当初、軍事施設への原爆投下を考えており、多数の市民が居住する都市への爆撃には反対していたため、広島への原爆投下の報告を当時のスティムソン国務長官から受けて、一面焼け野原になって何もなくなった原爆投下直後の広島市街地の写真を見せられてショックを受け、スティムソン長官などに次のように語っていたとされています。
「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」
「日本の子どもや女性たちへの慈悲の思いは私にもある」
「人々を皆殺ししてしまったことを後悔している」
グローヴス将軍は当時すでに原爆17個を製造する計画を立てており、「(広島・長崎に次ぐ)3発目以降は準備ができしだい投下せよ」という命令を下していました。しかし、広島・長崎で多くの市民が犠牲となったことを知ったトルーマン大統領は3発目を投下することを許可しませんでした。そのときトルーマンは
「新たに10万人をも、特に子どもたちを殺すことは、考えただけでも恐ろしい」
と語ったとされています。これらの事柄から米国の歴史家は「トルーマンは軍の最高司令官として責任を感じていた」としています。
ところがトルーマン大統領は後になって、多数の市民を無差別に殺戮したことで国際的批判を浴びることになるのを恐れ、原爆投下を正当化する発言をするようになります。彼はラジオ放送での演説で
「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため、原爆投下を決定した」と公言しました。。
米国の歴史家たちは、このとき、「(米兵の)命を救うために原爆を使った」という物語が生まれたとしています。その後、50万あるいは100万もの米軍将兵の命が救われたといったようなことが言われるようになり、「原爆投下は正しかった」という世論が米国社会に広がることになります。
この番組を見ていて、GGIは1945年8月6日午前1時、テニヤン島の基地から広島へと原爆投下に向かう爆撃機「エノラ・ゲイ」号の搭乗員のために、従軍牧師が捧げた祈りのことを想いだしました。
従軍牧師ウィリアム・ドゥネイ大尉の祝福の祈りは次のようなものでした。
主よ。主を愛する者の祈りを聞き給え。
主の存ます天の高みとともに高く天翔けり、
戦いに向かう者とともに在まさんことを。
命ぜられし地へ飛ぶかれらを守り給わんことを。
われらとともにかれらも、主が強さと力を知り、
主が力に鎧われて、速やかに戦いを終わらしめんことを。
戦いの終りの速やかに来たり、再びわれらに地上の平和を知らしめ給わんことを、主の前に奉る。
この夜飛ぶ人々の、主が守りによりて安らかに、また帰路を全からしめられんことを。
われら常に主の加護を知り、ひたぶるに主を信じ進まん。
イエス・キリストの名において、アーメン。
(堀田善衛、「審判」より引用)
ああ、神のご加護というのは、いったい何なのでありせうか・・・・
今日の写真は3発目の原爆投下を許可しなかったことについてのトルーマン大統領の発言を伝えるテレビの映像です。よろしければクリックしてご覧くださいませ。
グッドナイト・グッドラック!
「ああ、神のご加護というのは、いったい何なのでありせうか・・・・」
のご感想、
同感であります。
当方も汚れ無き幼少のころは、聖書を言われるがまま、まともに信じて、小さい手を合わせて、アーメンと可愛い声をだしていました。(たぶんそう横から見えたと思う。)
加齢と共に宗教の裏側を数々見てしまった、イヤ見せられてしまった者としてはGGIさんに同感のあまりツブラなマナコから涙を流さざるおえません。
特にキリスト教についての感想でありかすが、
白人のキリスト教と、白人以外のキリスト教はハッキリ区別されるべきだと思います。
もちろん社会事象なので例外が存在するのは当たり前の前提です。かつキリスト教を標榜するグループも星の数ほどあるのでこれまた例外が当然存在するでしょう。
大筋として、白人以外へのキリスト教布教は被征服者への宗教の側面が濃厚で、博愛、隣人愛、etc.を前面に出して、征服者への抵抗を減じる道具の面があります。
インフラや教育供与と引き換えの入信とかエゲツナイ
振り返って,
白人にとっての征服者(殖民)用キリスト教は基本的に征服イケイケgogo OKの宗教なので、そこにGGIさんと私のような者の 「ああ、神のご加護というのは、いったい何なのでありせうか・・・・」 被征服者(植民地用)向けキリスト教を教えられた者が陥る錯誤の落胆が出てくると考えております。
征服者用キリスト教では、エノラゲイ搭乗員に送られた祈りはキリスト教発生以来何世紀にも渡って当たり前に祈られてきた祈りだと思慮されます。
なにもキリスト教だけのことではありませんけれどね~~
あ~~神様 棚から牡丹餅を~~