UGUG・GGIのかしこばか日記 

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市民感覚の危うさ:裁判員裁判による死刑判決・・・・

2017-03-14 00:14:47 | 日記

昨日はほんとうにどうでもいい話でしたが、今日は若干真面目かつ退屈かもしれない話です。

GGIは、日本の社会に未だに死刑という残虐かつ野蛮そのものの制度が存在していることを深く恥じており、このため死刑には強く反対しています。ですから、死刑に関する報道にはつい目がいきます 

先日、3月9日の新聞(朝日朝刊)に「心斎橋刺殺 死刑を破棄 高裁が無期判決」という見出しの記事が掲載されていました。裁判員裁判で死刑判決が下されたものの二審の高裁が裁判員裁判による死刑判決を破棄したというニュースです。

その翌日、3月10日、ねぼけまなこで朝刊を眺めておりましたら、また「死刑を破棄、高裁が無期判決」という記事に遭遇いたしました。おや、昨日、同じような記事が載っていたじゃないか、このニュースは前日のニュースの続報なのかなと思ったのですが、よく見出しを見ましたら、昨日のニュースで扱われていた事件とはまったく別の事件でありました。

いずれの事件についても、裁判員裁判による死刑判決を破棄して、無期懲役としたのは大阪高裁です

今日の写真はこの二つの新聞記事を撮ったものです。すこし見にくいのですが、クリックして拡大してご覧くださいませ。

「裁判員裁判」という制度は2009年12月に導入されました。現在では殺人事件などの重罰に値する事件は、その地裁による一審の裁判は、原則として裁判員裁判により行われることになっています。一般の市民から選ばれた6人の裁判員と3人の職業裁判官により審理され、判決は多数決によります。

上記の二つの事件は、いずれも裁判員裁判での判決は死刑でありました。つまり裁判員という名の市民の多数が死刑に賛成したのです。けれども職業裁判官のみで審理される高裁はこの市民による判決を認めず、死刑から無期へと減刑したのです。

このような事例は過去にもあります。2013年に、裁判員裁判で死刑判決となった強盗殺人事件2件について、東京高裁が相次いで死刑判決を破棄しています。量刑に関する裁判員裁判の判断をプロの裁判官が覆すことには当時議論はあったのですが、2015年2月、最高裁はこの東京高裁の判断を支持しています。

この最高裁決定では「被告人の生命を奪うという究極の刑罰では(過去の同種事件との)公平性の確保にも十分意を払わなければならない」と指摘し、それでも死刑の選択がやむを得ないと言うには、「具体的で説得力のある説明が必用」としています。

また今日の写真で記事を紹介した、大阪心斎橋で通行人二人が殺害されて事件では、大阪高裁は「過去に死刑とされた無差別殺人では周到に計画された事件が多い」と指摘し、心斎橋事件の計画性は低く、死刑はやむを得ないとは言い切れない」とする判断を下しています、

GGIの考えでは、死刑制度について日頃ほとんど考えたことがない普通の市民がある日とつぜん裁判員に選ばれても、上記のような死刑適用の要件に関する法理論を短時間のうちに十分に理解し納得することはかなり無理ではないかと思います。

殺害現場の凄惨な証拠写真などを見せつけられれば、大半の市民は、これは酷い、残虐極まりない、こんな冷酷無比の犯人は死刑になっても仕方がないと思うのではないでせうか。死刑に反対するGGIでも、そのような場に直面すれば、感情に流され、「こんな凶悪犯は死刑にするしかない」なとど思い込むかもしれませぬ。

裁判員裁判の導入過程にさまざまな紆余曲折があったのですが、この新制度を採用した大きな理由のひとつは「市民感覚」の導入ということでありました。しかしながら、果たして市民感覚は、とりわけ死刑のような重罰に値する事件の裁判に関しては、それほどあてにすることができるでありませうか?

職業裁判官による裁判よりもずっと短期間のうちに集中的に審理される裁判員裁判では、死刑に関する上記のような現在の法理論を理解することに時間を費やすよりも、ついつい被害者感情に引きずられて、より重い刑罰へと傾いてしまうことにななるのではないかとGGIは危惧いたします。

また、多数決で死刑が決定されるというやり方にも大きな疑問を感じます。果たして人の命を多数決で決めてよいのでせうか?たった一票の差で人間の運命が左右されてもいいのでせうか?

有罪か無罪かのみを判断し量刑についてはタッチしない、裁判官を交えず市民だけで構成される米国の陪審員制度による裁判は、日本の裁判員裁判とは若干異なるものですが、死刑判決に限っては陪審員全員の賛成が必用ということになっています。当然のことであります。

今日もダラダラと書いてしまいましたが、死刑や無期という重い刑罰が対象となる事件に市民をかかわらせ責任を持たせるべきではないというのがGGIの考えです。

死刑判決が下された裁判員裁判にかかわったある市民が、その後死刑が執行されたのを知って、「僕たちが殺したようなものだ・・・」とつぶやいたという小さなニュースをGGIは目にしたことがあります。

もうすぐ年度末の3月末です。死刑執行も役所仕事のひとつでありますから、法務省が年度内に仕事を済まそうと考えてもおかしくありません、ですから、3月末は、死刑が執行される可能性が大きい季節であると言えます。また、多くの場合、死刑は金曜日に執行されています。これらのことを考えますと、3月24日か31日が危険日です。昨年は3月25日の金曜日に執行されています。GGIの予想が当たらないことを祈ります・・・

グッドナイト・グッドラック!

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