前々回の日記で明治の「過激にして愛嬌あり」が売り物であった稀代のジャーナリスト宮武外骨、彼の没後60年記念展のことを記しました
今日は、外骨の代表的は出版物である「滑稽新聞」について、若干の御紹介であります
今夜の写真はこの展覧会のパンフレットに載せられていた「滑稽新聞」の表紙絵などを撮ったものです、どうかクリックしてご覧くださいませ
以下に記します内容は主にこの記念展のパンフレットから引用したものです
外骨は1901年1月(明治34年)、大阪で「滑稽新聞」を創刊し約8年間にわたり(明治41年末まで)、この新聞を発行しました。この間、官吏侮辱罪や風紀紊乱罪などで禁固刑に処せられたり罰金、発禁処分を受けるなど、度重なる言論弾圧に憤慨した外骨は、同新聞第173号を「自殺号」を銘打ち、「本誌受罰史」を掲載して廃刊、最盛期の発行部数をおよそ8万部であったとされたいます。当時として驚異的な部数です(あのシャルリー、事件前の発行部数は2~3万部とされています)、
しかしその後「大阪滑稽新聞」をすぐに創刊、「滑稽新聞」と「大阪滑稽新聞」の筆禍は、罰金刑16回、外骨を含めた関係者の入獄は5回に達しました。大逆事件(明治43年5月)が起きる少し前(同年2月末)、「大阪滑稽新聞」第28号の記事「吾輩と社会主義」が治安妨害であるとされ、禁固2か月の宣告を受け入獄しています
「滑稽新聞」、紙面は一面がA3ぐらいの大きさで、外骨などによる権力風刺たっぷりのいささかアナーキーでパロディ満載の記事も魅力でしたが、もう一方の魅力は今日の写真にあるよう派手といってもよい色彩豊かで大胆なレイアウトの表紙絵と挿絵でした。表紙絵や挿絵はその時々に滑稽新聞社に出入りする絵師や外注の絵師たちの手により描かれていました
絵師のなかには後に人気画家となった苦学生時代の竹下夢二などもいましたが、表紙絵でもっとお中心的な役割を果たしていたのは「黒坊」と称していた絵師です、この人物は歌川派の浮世絵師、実名は前野一廣、号は前野春亭、最後の浮世絵師とされており、西洋画の影響を受けた浮世絵風の美人画で「滑稽新聞」の表紙絵などで傑作を描いています
永らくその存在を忘れられていた「滑稽新聞」を最初に発掘したのは外骨の甥にあたる吉野孝雄氏です、吉野氏は伝記「宮武外骨」を執筆するために、1970年代半ば、東京大学法学部内にある明治新聞雑誌文庫(資料収集などに外骨らが尽力したことによりこの文庫が開設されたとのことです)に通っていたときに、初めて「滑稽新聞」の実物に接しました、その内容の凄さ、斬新さに驚愕して吉野氏は、その後、赤瀬川原平氏と協力して復刻版を出版しています【1986、筑摩書房】
GGIは以前に、いつのことだったか定かでありませぬが、偶然、この復刻版を目にいたしました、湖都の市立図書館、その資料室で何か調べものをしていたときに見つけたのです、どこにあったかと申しますと、史料室の一番奥、朝日や毎日などの大新聞の古い縮刷版が置かれている棚の隅に置かれていたのです、こんな目立たないところに置いておいたのでは、わざわざ手にとって目にする人はほとんどいないでありませう、果たしてGGI以外に目にした人は何人いるでありませうか、まったくもったいない話であります
資料室の司書さんには、若干外骨氏の説明をして、これはこんな場所に、こんな奥まった場所に置いておく本ではない、ジャーナリズムかマスコミ関係の本棚に置いておかなければ誰もこの復刻版を手に取るひとはいませんよ、と注意しておいたのですが、司書さん、どうもGGIの言ったことがよく理解できなかったようであります、すなわち、おそらく今でもほとんど誰の目に触れることもおなく資料室の奥深くに静かに所蔵されたままでありませう
最後に、日本の大マスコミ大メディアさまに申し上げます、ちかごろのアベ坊や政権下での萎縮ぶり、まことに情けない限り、何というていたらくですか!「戦後の日本では少々のことを書いたぐらいで刑罰をくらうなんていうことはめったにないのでありますから、すこしは外骨の爪の垢でも煎じて飲んではいかがですか」とGGIは申しあげたいのでありますが、まあ大マスコミ・メディア関係者諸氏は決して彼の爪の垢を煎じたりしないでありませう・・・・
グッドナイト・グッドラック!