先月、10月半ば、ウィークデイの夜、友人からチケットをもらったので近くの公共施設であった映画上映会に行きました。
最近はGGI、テレビでも映画を見ることはなく、外で映画を見るのもまったく久しぶりのことでありました
上映されたのは「ひろしま」と題された作品(監督、関川秀雄:主演女優、月丘夢路)、
1953年(昭和28年)に製作され、1955年ベルリン映画祭で長編映画賞を受賞した作品とのことです。
しかし、GGI、この作品の存在をまったく知りませんでした。
原作は教育学者・長田新が編纂した子供たちの文集「原爆の子ら」(岩波書店、1951年)
広島の市民、約9万人が出演、原爆が投下された直後の惨状を示すシーンは、広大な工場の焼け跡につくられたオープンセットを用いて撮影されたという力作です。広島の惨状を示す記録写真・フィルムの類はほとんど用いられていませんでしたが、当時の広島の惨状がよく伝わるものでありました。
上映会の主催者の話では、作品完成後、配給元になるはずであった松竹が「反米色が強い」などと難色を示したこともあって、これまで劇場ではほとんど上映されてこなかったとされています。
GGIは最初、この映画の題名を目にしておやっと思いました。というのは題名が「ヒロシマ」ではなく「ひろしま」であったからです。製作されたのは昭和28年、敗戦から8年後のことですから、当時はまだ「ヒロシマ」という表現の仕方がされていなかったということなのでしょうか、それとも製作者は意図的に「ヒロシマ」ではなく「ひろしま」としたのでしょうか?
映画にはこれまでGGIが知らなかった印象深いシーンがいくつかありました。そのひとつは太平洋戦争末期、原子爆弾の理論的可能性に関して陸軍に報告を行ったとされる、日本を代表する原子物理学者の仁科芳雄博士に関するエピソードです。
同博士は、原爆投下直後に政府調査団の一員として広島に入り、焼け跡でレントゲンフィルムが感光したことから原爆であることを確認しました、そして長崎にも原爆が投下された数日後に軍部と専門家による会議が行われます。
そのシーンで、仁科博士は投下されたのは原爆に間違いないと明確に断言するのですが、軍幹部はその事実を認めようとしません。軍部は頑強に原爆であると認めることを拒み、士気にかかわるから原爆であることを公言するなと強く言い放ちます。軍部のあまりの愚かさに打ちのめされたかのように、仁科博士をはじめとする専門家たちは言葉を失い、一様に口を閉ざします。このシーンが事実に基づいて描かれたものであることは間違いないでしょう。
もう一つ印象に残ったのは、この映画に岡田英次が高校の先生役で出演していたことです。このこともGGIには少し驚きでありました。というのは、彼は、「ひろしま」から6年後の1959年に公開された日仏合作の名作「ヒロシマ・モナムール」(ヒロシマ・わが愛、邦題は「24時間の情事」:アラン・レネ監督、1959年カンヌ映画祭・国際映画批評家賞)にも出演しており、主演女優エマニュエル・リヴァの相手役を演じていたからです。
ウィキペディアによれば、「ヒロシマ・モナムール」は《当初はカンヌ映画祭でフランスからの正式出品のはずだったが、1956年の「夜と霧」と同じく「時宜を得ない」との理由で却下され、コンクール非参加作品として特別上映された経緯がある。映画祭がこの作品については当時の米国の心証を、その前の「夜と霧」ではドイツの心証を、それぞれおもんぱかったと言われた》とされています。
「ヒロシマ・モナムール」は劇場公開されたのですが、その後、テレビなどで放映されることはあっても再上映されることはあまりなかったように思われます。GGI、この映画の原作をちょっぴり読んだこともあり、以前からもう一度見られればなあと思っておりました。ところが、数年前、湖都で一番古い大きなホールが老朽化などで閉鎖されることになった際、最後の映画上映会が催されるということがありました。そのとき、数本の作品が上映されたのですが、このイベントを主催したGGIの知人が、何とこの「ヒロシマ・モナムール」を上映作品の中にわざわざ含めておいてくれたのです!おかげでGGI、まったく久しぶりに大きなスクリーンで再会することができました。知人はGGIが「ヒロシマ・モナムール」をもう一度見たがっていることなんか知っていませんでした。まったくの偶然でした。
見終わったあとGGI、「最後の上映会にこの作品は選ぶとは、君の選球眼はすごいなあ」と、この年下の知人に感謝の意を表しておきました。
GGIは記憶にないのですが、この「ヒロシマ・モナムール」の中で「ひろしま」のなかのシーンが被災映像資料として引用されていたとのことです。
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今夜もとりとめのない話になってしまいました
グッドナイト・グッドラック