あた子の柿畑日記

田舎での日々の生活と趣味のレザークラフトについて

考古学は進化する

2009-10-01 01:36:18 | 旅行

 次の見学場所へはバスで向かいました。
  明日香へ行かれた方ならすぐおわかりでしょう。有名な所ですよ~



  広い広い盛り土の上にあるのは、石舞台古墳でした。



 この巨大石の古墳は蘇我馬子のものという説が有力だそうです。 この辺りには豪族の古墳200あまりがありましたが、それらをこわしてこの墳墓が作られたのだそうです。 相当の権力の持ち主であったことが分かります。



  蘇我馬子は島の大臣と呼ばれ、明日香村島庄のカギ型の池のある場所に屋敷があったと考えられているそうです。 そこは後世、天皇になるべき人が住むようになり、飛鳥宮の東にあったことから東宮と呼ばれるようになりました。 いまも皇太子のお住まいが東宮御所と呼ばれるのはこの名残だそうです。


  内部の天井からは秋の空がまぶしく見えました。 大きい岩です。



  周りの盛り土一面に白い彼岸花が咲いていました。 ゆっくり写真を撮りたいけれど、先生は先を急いでいます。



 でも、ちょっとだけ時間を頂きましょう。 白と言っても、クリーム色がかったのや、ピンクがかったのや、ぼつぼつとサーモンピンクの優しい色も。



  真っ赤な彼岸花とはまた違った清冽な印象を受けました。 古墳には赤よりも白が似合います。 でも、これはどうも園芸種らしいのですね。 せっかくの歴史の舞台ですから、園芸種や外来種を排除した日本古来の植物だけにしてみたらどうかしら。 きっと今の華やかな花壇とは比べものにならない地味で素朴な草花だけになるでしょうが、いにしえへの思いはさらに深まるのではないでしょうか。  


 再びバスに乗り、狭い街中を無理矢理通り抜けて着いたところは、飛鳥清御原宮跡です。


 そこは、田んぼの中に忽然と現れたという感じでした。



 井戸が復元されています。 向こうの栂の木のある場所は建物があったところです。



 この場所は、昔から板蓋宮(大化の改新で、蘇我の入鹿が中大兄皇子に討ち取られた宮殿)があった場所と言い伝えられており、昭和47年に史跡に指定されたとき、「伝飛鳥板蓋宮跡」という名前がつけられましたが、 その後の調査でこれが飛鳥清御原宮跡とわかりました。 さらに歴代の天皇によってたびたび遷都されたという都の多くが、実はこの清御原宮のある場所であったことが分かったそうです。 板蓋宮も、清御原遺跡の下に埋もれているそうなのです。 新しい発見があるたびに次々と歴史が塗り替えられ、考古学は進化し続けているように思いました。


 その思いをさらに強くしたのは、次の見学場所、「橿原考古学研究所付属博物館」でした。
 ここには研究所が70年間で発掘した品々が展示されています。 


 なんと、一部を除いて写真撮影OKなんですよ。


 飛鳥清御原宮の模型を見る人たち。 



 マスクの人が多いのは、新型インフルエンザの予防のため、人が集まるところではマスクをしなさいと一人一人に配ってくれたからなのです。 ついでに言うと、食事の前にはうがい薬の入ったコップ、バスに乗るときには手指を消毒するスプレーと、至れり尽くせりでした


 圧巻はなんといっても藤ノ木古墳の出土品です。 この藤ノ木古墳の発掘に当たっては最新の技術が導入されました。
 発見された石棺は一度も開かれた痕跡が無く、中の遺物を調べるためにファイバースコープが使われたのです。 その結果、石棺の中には水が溜まっており、放っておくと腐食が進むおそれがあったため石棺を開いて調査することになったそうです。
  


 慎重な開棺の結果発見されたもの


 金銅製の鞍。



 精緻な装飾は日本で作られた物と判断されました。


 金銅製の靴、冠、装身具など、すばらしいものばかり。



 展示されているものほとんどがレプリカではなく本物です。 展示物といってもレプリカだらけのどこかの博物館とは大違い


 しかし、レプリカとはいってもバカになりませんよ。 光り輝くこの太刀はもちろんレプリカなんですが、



 お値段、2000万円!


 藤ノ木古墳の棺の中から発見されました。


 考古学は、研究の方法も進化して、それがまた新たな発見に繋がって、今後もますます進化し続けるのでしょう。 


 延々と書き連ねて、ここでようやく昼食です。
 最後までお読みくださってありがとうございました。 午後からは藤ノ木古墳を見に行きます。


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コメント (14)
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