あた子の柿畑日記

田舎での日々の生活と趣味のレザークラフトについて

考古学は体力勝負

2009-09-29 23:21:56 | 旅行

 高松塚古墳の周辺は公園として整備されています。 草木は茂っていますが道にはみ出すことはなく、道も広々として歩きやすいです。 車の通らない道なのに「スピード落とせ」の看板? どうやら道が良すぎて自転車のスピードが上がるようですね。



 高松塚古墳から中尾山古墳へは、いったん下り坂になって小さな平地にでた後、また小高い山を登っていきます。



 先生はできるだけたくさんの所を案内したいと、早足で歩いていきます。 先生のそばにいなければお話は聞けないのだけれど、辺りの景色や花も気になるし、写真も撮りたいし・・・・



 中尾山古墳を見た後はまた山を下って、次の山の中に入っていきました。 今度はどこへ行くのかしら。 詳しいことは知りませんのでひたすらついていきます。 でも、やっぱりいろいろ目について立ち止まる。


 ヒヨドリ草が咲いていました。



 みんなに遅れては大股で歩いて追いつき、また遅れては小走りにを繰り返しながら行くと、目の前にもう一つの丘が見えてきました。


 左手奥に、天武・持統天皇陵が見える場所で説明を聞いています。



  持統天皇(女帝)は、自分用の墳墓を造らせず、夫と同じ墓に埋めてほしいと言ったとか。 自分が生んだ子を大王にするために姉の子を死に追いやり、そのわが子が早世してしまったため、孫が成長するまでの間自らが大王となって政治を司った女傑です。 政治家としての手腕も、残酷さも備えた女帝でしたが、肉親への愛は人一倍強かったのかも。


 その陵墓は宮内庁の管轄でもちろん立ち入り禁止です。 この雰囲気にはそぐわない、ペンキ塗り立ての張り紙がなんだかおかしいです。



 道は再び山の中へ。


 鬼の俎(まないた)と呼ばれる巨大岩。 この地に残る伝説から鬼の俎と呼ばれますが、れっきとした古墳の一部なのです。 この古墳が先にあって、後から新たな権力者が自分の古墳を作る際に壊したのだろうと言われています。



 で、その壊し方なのですが、どうも石槨(棺を入れる部屋)の上部を山の下の方へ転がしたらしい  自分の墓をつくるために人の墓を壊すなんてねえ。 しかし、そんないい加減な壊し方でいいのか。 なんだか手抜きのような、・・・・ 
 
 それが、その形から鬼の雪隠と呼ばれて残っています。
 
 もとはこれがこんなふうに立ってて・・・・・と興味の尽きない皆さん。


  この旅行の一行は先生や添乗員さんを除くと36人でした。 高齢の方は拝観料などが割引されたり無料になったりするんですね。それで調べたのですが、65歳以下はたったの5人! ほとんどが後期高齢者ではなかろうか(ちょっと大げさ!?)と思われるようなお年寄り集団ですが、皆さんのお元気なこと。 早足の先生にしっかりとついていっておりました。 


  先生は若いときからずっと発掘の手がかりを求めてこの辺りをくまなく歩かれたとか。 いやあ、考古学は体力と忍耐力ですわ。 わたしたちも歩いた、歩いた。


  下の地図でいうと、飛鳥駅でバスを降りて1~6まで行き、少し同じ道を引き返してバスの待つPまで。 この地図、距離まで正確かどうかは分かりませんが、電車の駅2つ分以上歩いているのではないでしょうか。



 汗だくになりながらバスに乗り込んで、前の時計を見ると
 まだ10時半!
 わたしの体は、もうお昼だよと訴えておりました。


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考古学はミステリー ー前園先生と行く大和路

2009-09-29 08:42:10 | 旅行

 二日ほどブログの更新が滞っていましたがー
 お出かけしていました。


 前園実知雄先生ー奈良県の橿原考古学研究所に勤めておられ、今は奈良芸術大学の先生をしておられます。 で、東温市の史談会の皆さんがその先生とご一緒に奈良を旅するというので、部外者ながらずうずうしく連れてきていただきました。 弟夫婦も一緒です。


 早朝、フェリーで大阪港に着いたわたしたちは、船内でバイキング朝食をたっぷり食べバスで奈良に向かいました。


 まずは飛鳥駅に近いところにある岩屋山古墳へ。


 この階段の上に古墳への入り口があります。 



 後で古墳の上にも上がって、現在の形を確かめました。 古墳は完全な形では残っておらず、一部切り取られています。



  入り口から13メートルばかり入ったところに石室があります。


 花崗岩の一枚岩でできた天井。 岩をくりぬいて作られています。



 ここの被葬者は、斉明天皇といわれていましたが、斉明天皇陵とされる古墳がもう一つあります。 それが近くにある牽牛子塚古墳です。 なので、死後すぐにここに葬られ、後に牽牛子塚古墳に改葬されたということも考えられるそうです。 


 この古墳の形は岩屋山式古墳ともいわれ、大和だけでなく他の地方でも見られるそうです。 そのことから、この墳墓の設計図を地方の豪族が使うことを許可したのではないかとも考えられるそうです。


 素朴な田園風景の中を行く史談会の皆さん。 道は灰色のアスファルトでないのがさすがです。遠い昔の世界を歩いている気分です。 こんもりしたところが全部古墳に見えてしまいます。



 左手の山をぐるっと回るとー山陰から現れたのは、巨大な蟻塚のような土の山。



 これが高松塚古墳でした。 この古墳は、内部に、唐風の服装をした男女や、青龍、白虎、玄武、月や太陽の絵が描かれているので有名です。 しかし、この絵はカビに犯され、今解体して修復中です。 それで絵画は守られましたが、国の特別史跡=史跡としては最重要にしていされているものはこのように壊されてしまったのです。 一口に保存といいますが、難しい問題を含んでいるのだなあと思いました。


 この壁画発見の第1報を電話で受けたのが前園先生だったのです。当時ここは個人の農地で、しょうが畑だったそうです。しょうがを埋めるために畑を掘っていたら岩につきあたったーそれが大発見の始まりでした。
 実際に発掘に当たった先生のお話は、誰も知らない裏話も豊富でとても興味深いものでした。


 早朝についたわたしたち、外で説明を聞いているうちにようやく壁画館が開館になりました。



 ここには、発掘当時の壁画の模写や、数少ない埋蔵品のレプリカなどが展示されています。 模写ではありますが、その絵の美しいこと。 唐風ではありますがすでに和風の繊細さが絵に見られるそうです。 模写そのものもすごい! 泥の付いた部分まで忠実に描いています。


 ところで、高松塚古墳の被葬者ですが・・・・
○ この古墳が、既に一般的には古墳が作られなくなった時代の終末期古墳であること。
○ このころに墳墓に葬られたのは天皇家の一族だけであること。
○ 天皇陵が方墳であるのに対し、これは円墳であるので、天皇に繋がる重要な人物(大臣など)と考えられる こと。
○ 副葬品の海獣葡萄鏡が唐から持ち帰ったものであること。
○ 当時、704年に遣唐使が帰国していることから、704年後に無くなった人物であること   
  etc,etc...


  このように推理していって、被葬者は忍壁の皇子ではないかと前園先生は言われました。


 一方、こちらの中尾山古墳は、8角形の方墳なので天皇陵だと分かるのだそうです。 残されている文献と照らし合わせて、706年没の文武天皇陵の可能性が高いそうです。



 反対側から見たところ。 写真では分かりづらいですが、てっぺんに天井石が見えていました。



  ふ~ん、たくさんの資料からこのように推理して解き明かしていくのか~ 考古学はまさにミステリー。 しかも、膨大な時間と手間ををかけた、壮大なスケールのミステリーなのですね。 どっぷりとはまってしまう人が多いのも頷けるような気がしました。


 ところで、おさかべの皇子ってだれだっけ?
 実は、ここ1週間ほど、 ウン十年も前に学んだことを取り返すべく歴史の本を読んできたんですね。 それなのに・・・ 忘れちゃってる。

  「おさかべってたしか忍ぶという字を書いたよね。」 義妹とそんなことを話してたら、すかさず先生が
 「そうです。 もう一つ刑部と書くこともあります。」と答えてくださいました。 
 ややこしい~ 
  


  一生懸命お話を聞いて書いたつもりですが、史実に関しては聞き間違い、思い違いもあるかもしれません。その辺はあまり信用せず割り引いて読んでくださいませ。 なにしろ、考古学はややこしいのです。わたしにはね。


 ーつづくー


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