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基本的に、いろいろなことの変なとこに突っ込みます。

分校新築お祝い文発表のこと

2023-08-11 03:39:10 | 日記
昭和41年、小6の時です。

東北の小学校で分校が増築されました。
この分校、町からの車道で10kmの距離です。
(人道=獣道に近い はもっと短くなりますが誰も測ったことがありません。
 傾斜がキツいから、まさに滑り落ちる=駈け降りるしかないのでした。
 ~最低斜度30度はあるような斜面の連続でした。今もあるはずです。
 よって小1であっても朝6時起床で朝8時の本校の朝礼に間に合うのでありました。)
  帰りは完全な登り坂ばかりですから、走るなど無理で、体力次第の1時間4kmの
  移動距離になるのでありました。
分校は、江戸時代から続く家でも1km近く、明治から昭和初期の開拓から
も中央近くに設けられていました。

我が家は2kmの距離にありました。
最も遠い乳牛飼育地域は3kmで、そこにも海外撤退農民が住み着きました。

さて、開拓農民が一気に2+5+4+α 増えたのです。
~αは3家ほどですが流石にとんでもない場所であることを認識して早々に撤退しました。

αを除く11軒分で小1が+3、小2が+3,小3が+2、小4が+3、小5が+1、
小6が+2みたいに増えたのです。
当時、小学1~4年は分校、5,6年は本校に通い冬季には小5~中3は冬季分校でした。
~4月は積雪の影響があるため小学校は冬季分校は5月に入って終わるかたちになっていました。
 中学は4月に入って直ぐに冬季分校が終わり本校通学でした。
 当時5月連休が終わるまでスキーでの本校通学が可能でした。

で、どこかで分校の増築計画があり、小学校生全部を分校に置く、中学は冬季のみ分校に置くという
方針で分校の増築が行われたのでありました。

で、5月に分校の増築部分が完成したのでありました。
当時の私は5年生。昔通りに本校通いになったのですが、おまえ、感謝文を書けという話がきました。
まあ、分校在学中は側でガンガン作成中の家というか学校のことですし、私成績優秀で通っていたようです。

ということで書きました。はっきり言って完全な合作です。原文は私、次が母、最後の修正が担任という
ものでした。文集には全文が載っています。
 ~母は尋常小学校が最後ですが、他同期症候群という認識が当時無く、評価は優秀だったようです。

発表会で、当時のサトウとシオの当時のシグサを真似て頭を傾げたまま全文を淡々と読み上げた記憶があります。
この読み上げで町からの表彰状も貰っています。

学校は現在の秋田県由利本荘市矢島町ですが分校(谷地沢やちさわ)は廃校のようです。
おまけ:当時の谷地沢西の名称は消されました。謄本でもこの修正は及んでいますが
桃野=モモノ:少なくとも50年昔そこに住んでいた人は別称も使いました。オタスケが地名だったのです。
オタスケは何かに襲われたときの決まり文句でもあり、近くにあるガンド盛りと谷地沢の熊谷家が討伐伝承を残しています。

谷地沢西は矢島町=由利本荘市矢島町が消したい歴史かもですが、「谷地沢西」は地図上からは消えましたが、
戸籍謄本には、消しきれずに残っています。

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