風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

WC

2010年06月30日 | 雑感
昨夜の日本のWCサッカーチーム、見事でしたね。
南米の強豪国に一歩も引けを取らず最後の最後まで戦い抜きました。
最初から守備的な陣形を敷いていましたから、選手の体力、精神力の消耗も半端じゃなかったと思います。
両チームの選手の顔の形相が本当に戦場にいる戦士のようでした。
勝ちたいとか、負けたくないとかじゃなくて、負けるわけにはいかない。
そんなギリギリの状況に追い込んでの、両チームの戦いでした。

ミスが多かっただの、シュートの精度が低かっただのという批判もありますが、ボールを持った人間には
両チームとも必死に身体を当ててくるわけです。
まともに、パスだって、シュートだって打たせてももらえません。
お互いに、肉弾戦を繰り広げ、体力を消耗させ、相手の一瞬の隙を狙おうとした戦法でした。
ところが、どちらも耐えに耐え、堪えに堪えて、肉弾戦を最後まで続けたものですから、まともなシュートもパスもできずにPK戦となりました。

PK戦は残酷です。
キッカーにしろ、キーパーにしろ、誰かがそれまで全身全霊で闘った戦いの、否応なく総決算を負う生贄になります。
昨日は、気の毒なことに駒野でした。
でも、日本人選手の誰もが駒野を抱き、慰めました。
パラグアイの選手も駒野を抱き、慰めました。
お互いに闘った同士が一番分かっていることです。

日本人選手はみんな泣いていました。
泣けるぐらいに悔しい思いができるほど、一生懸命に戦い抜きました。
そんな試合を見せてもらって、本当にありがとう、です。
4年後のWCが本当に楽しみです。



占い

2010年06月29日 | 雑感
今日も梅雨空です。
時折、雨が落ちてきます。

今日のラジオのゲストは、占い師さんでした。
明るくかわいらしい人でしたが、どうも今ひとつ気が乗りません。
占いというのは、その人の持っている気質や特性や運命的な時節時節を知るには、とても有効なものだとぼくも思います。
でも、生きるという一人ひとりにとっての大イベントの最終目的をきちんと視野に入れていない占いは、?だと思っています。
お金や異性や成功といった功利的な問題に答えを出すような占いというのは好きではありません。
そんなのは正面からとことん苦しんでこそ、問題としての価値があるというものです。
今日の占い師さんは、できるだけお客さんの話を聞き、相談に乗ってあげ、そっと背中を押してあげて、
お客さんによりよい人生を歩んでくれるようという思いが主体でしたので、何とか話にはなったかと思います。

占い師も、なによりもその人の資質が問われるのは言うまでもありません。
やたらと改名を勧める人もいますし、方角に凝る人もいますし、人の運命を断定的に決め付ける人もいます。
一番大切なことは、その占いをする人が、人が生きるということに対してどれだけの見識を持ちえているかが問われるわけです。
どうしたら金持ちになれますかという問いに対して、どんな答えを提示できるのか。
素敵な彼氏が欲しいんですがという問いに対して、どんなアドヴァイスができるのか。
こうこうすれば、金持ちになったり、素敵な彼氏が現れるといった指南をすることがよいことなのか。
金持ちになりたいという欲望こそがあなたを苦しめているものだと指摘し、素敵な彼氏を得るためには、
まずあなたが素敵になりなさいと諭すことがよいことなのか。

占いと付き合うためには、ある意味での賢明さがいるんだと思います。
自分の隠れた傾向やら、自分では気がつかない長所や欠点に気づいたりするには、とても面白く有効なツールだと思います。
恐ろしいほど的確な占いがあるんだということもぼくは経験しています。

でも、やはり何よりも大切なのは、気づいた後、自分がなにをするかです。
その点では、今日のゲストの方も「常連になって相談していくうちに、いずれ超えて占いを卒業して欲しい」という言葉で、
共通でした。
ひとというのは、救いを誰かや何かに求めたら、救いがたくなります。
自分で自分を救う以外におそらく生きるという苦悩から超越する方法はありません。
超越というのは、問題から逃げたときには決して起こりえない状況です。
問題に馬鹿正直にぶち当たって、それでもぶち当たり続ける覚悟と勇気が生み出す状況だと思います。

それが、今度のWCの日本のサッカーチームのような気がします。
ということで、思い出しましたので、とっとと帰ってサッカーの試合を見ます。




自由と選択

2010年06月28日 | 雑感
本を読むことは間違いなくいいことです。
人の生きかたには無限の選択肢があるのだと気がつくことができます。
でも、いくら無限の選択肢があろうとも、自分が生きるというのはたった一本の自分が選んだ道を歩くことです。

無限の選択肢を前にして呆然と立ちすくむのか、それとも選んだ一本道を歩んでいくのか。
そのどちらかを選ばなければならないと考えてしまうと、一歩も前に進めなくなります。
どちらが良いなどという答えはありようがありませんから。

とりあえず、目の前に続いている道を歩き出すことがすべての始まりです。
歩いているうちにこの道でいいのかと迷ったら立ち止まればいいのです。
立ち止まったところから、また無限の選択肢が広がっています

無限の選択肢を、その時その時、選び選んで歩んだ結果が人生と呼ばれる軌跡になるだけです。
なにを選んでもいいはずです。
なにを選ばなくてもいいはずです。
ただ、なにを選ぼうが選ぶまいが、その選択がその人の生きた軌跡として残されるだけです。

無限の選択肢の中で自分が選んだ道筋を、結果が上手く行かなかったからといって他人のせいにすると、この世は地獄となります。
「自分が選んでいる」という何度でも再生可能な視点を、自ら他人の手中に譲り渡してしまうからです。
自分で自分の人生のあり方を選べない不自由さほど残酷なことはありません。

貧乏や社会的境遇やなんやかんやは、さほど選択の自由を脅かす要因ではありません。
「~を選ばなければならない」「~を選ぶべきだ」といった刷り込みというか、社会的な洗脳といったものの方が、強力で怖いです。
そのあたりのことを説明しようとすれば長くなりますので省きます。

とにかく、選択肢は無限です。
万人の前に無限です。
なにを選ぶかということです。

言葉の使い方一つにしても、どんな言葉を選ぶのかで、その後の人生がゴロッと変わりえます。
自分の望んでいる方向に変わるのはいいことなのでしょうが、逆の場合は辛いものがあります。

さて、なにを選択すればいいのでしょうか。
分からなければ、本を読んだり、映画を見たり、友人と語り合って、ヒントを得るしかないでしょう。
それから大切なことは、ヒントを得たら、実行に移してみることです。
そのヒントが役に立つ場合も、そうでないこともあるでしょう。
そんなことよりも、自ら動いてはじめて知る「自ら動く」という尊さです。
いいことばかりが起きるわけでもありません。
動けば動くほど、嫌なことだって起こることが多いでしょう。

そこでメゲてはいけません。
目の前に広がる選択肢の中から、自分の手にしたい選択肢を選び続けるだけです。
万が一、その結果、何も実らすことができずに死んでいくのだとしたら、ただ死ねばいいではありませんか。
少なくとも、自分の選択の結果です。
誰のせいでもありません。

そんなの、あまりにも恣意的過ぎると感じたところから、宗教の必要性が生まれるわけですが、これまた長くなりますので、今日はこの辺で。


思い出の夏

2010年06月27日 | 雑感

今日も一日中ビタビタという感じで雨が降っていました。
わずかに雲が切れ、雨がやんだ隙を狙って自転車で来ましたが、帰りはバスになりそうです。

「思い出の夏」という古い映画を、昔名画座で観ました。

http://www.youtube.com/watch?v=kWMxX5MGuHI

筋などはあまりピンと来なかったのですが、荒涼とした感じの砂浜と、すばらしくロマンティックな音楽が深く印象に残った映画でした。
ある時、大学のサークルの部室で、めいめいが好きな映画の話をしている時に、一つ上の女の先輩がこの映画の題名を挙げました。
ヴィスコンティだの、ゴダールだの、鈴木清順だの、小津だのと、みんな精一杯通ぶっているところに、ぽつんと彼女はこの映画を挙げました。
案の定、彼女とぼく以外にこの映画を見た者はいませんでした。
それからというもの、彼女の映画に対する感性を文句なく信頼することにしました(笑)

深みも重みにも面白さにも欠ける雰囲気だけの映画ではありました。
俳優たちも取り立てて魅力的だったわけではありません。
でも、なにかが心の琴線に触れる、そんな映画でした。

噂でしか知りませんが、彼女はどこかのお金持ちのお嬢様だったらしいです。
ぼくは典型的な貧乏学生でしたが、たまに、おでん屋や居酒屋で合流した時は、話が弾みました。
会話に切れがあり、博識で、誇り高くもワイルドなところがありました。
彼女の私生活の事に関しては、一切彼女の口から話題として上ったことはありませんでした。

卒業後も何度か飲みに行ったことはありますが、忙しい彼女とは次第に連絡が途切れていきました。

この映画の曲がどこかの喫茶店やらホテルやで耳にする時、必ず彼女の端正な顔が思い浮かびます。
そしてなぜか、あの荒涼とした砂浜の風景も思い浮かびます。


カラス

2010年06月26日 | 雑感
今朝ベランダで物音がするので見てみますと、カラスがベランダのサッシに止まって、落ち着きなくぴよんぴよんと動いていました。
真っ黒な羽根がぐっしょり濡れ、ばさばさと羽根についた水分を飛ばしています。
時折、首をかしげて真っ黒な目でガラス窓越しに部屋の中を覗き込みます。
当然部屋の中にいるぼくと目が合います。
真っ黒な目で見つめられますと、思わずぞくぞくっとなります。
おそらく快適に雨宿りができる場所を捜し求めているのでしょう。

山々が低く垂れ込めた雲に覆われ、深山幽谷の趣でした。
山でも町でも雨に降り込められ、カラスとしてもさすがに一休みしたくなったのでしょう。
ただ、カラスというものをまじかに見て思ったことは、全身真っ黒で、目玉も真っ黒です。
そして賢く、物怖じしません。
なにを考えているんだろうかと思ったしだいです。
かわいいとかいう発想持ちえませんでした。
鳩や雀とは違う世界観を持っているのでしょう。

先日とある公園でこんな風景を見ました。
雀や鳩が公園の芝生の上を餌を求めてうろうろしています。
ぼくは木陰のベンチに坐って、たまたま持っていた羊羹を細かく千切って投げ与えました。
雀や鳩は例によって大騒ぎでついばみます。
その様子を見ていたカラスが、すかさずやってきて鳩や雀を追い払います。
そしてやおら一番大きな切れ端を咥えます。
一呼吸置いて、そのカラスは食べようとしますが、どうもその味かその感触かは分かりませんが、羊羹は口に合わないようです。
するとそのカラスはその切れ端を咥えて、数メートルぴょんぴょんと移動して、羊羹を地面に置きました。
そして、そのあたりの枯れ草やらなんやらをその羊羹の上に咥えては置き、咥えては置き始めました。
要するに、自分が気に入らなかった食べ物ですが、とりあえずは隠そうとしたわけです。
なんか人の執着心を見るようでした。
また、なんだかなぁ~と思うことに、傍にいた鳩や雀が、そのカラスが去った後も、その羊羹の一片の存在に気がつかないことです。

結局の所、その羊羹は蟻やらなんやらの虫たちの栄養源になったことでしょうから、何も問題はないのですが、
カラスが蟻やらなんやらの虫たちに配慮していたからこその行動でないのは確かです。
でも、結果的には、そういうカラスの行動があったからこそ、鳩や雀たちに独占されず、
虫たちにも羊羹の栄養源が虫たちに行き届くのも事実なんでしょう。

おそらくカラスは意図的に愛されようという存在だとは自らを規定していません。
ゴキブリもそうでしょう。
その姿かたちを、はなから愛されるべき存在に設計していないかのようです。
でも、そこには大いなる生態系への貢献と役割があるのだと思います。

何ごとにも無駄がない。
パーフェクトだと感じる感覚。
蚊に刺されてもパーフェクトと思い、カラスの真っ黒な目玉で見つめられてもパーフェクトと思い、数センチもあるゴキブリがまっしぐらに
こちらに飛んできてもパーフェクトと思えるか。

でも、それがそのままパーフェクトなんです。
道元禅師の言葉です。
「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」
意味は、花は人が惜しんでいるうちに散っていくが、草は人が嫌がっているのに生え育つということです。

カラスやゴキブリや草や蚊にことさら人間以上の罪があるわけはありません。
ただそれぞれにそれぞれの役目があるのでしょう。
それがどんな役目なのかは、深遠すぎて明瞭なことは知りえません。
それよりも明瞭に知るべきは、人として生きるという役目を知ることなんでしょう。
広大な宇宙の中で、星星が、恒星が、惑星が、大地が、海が、大気が、風が、鉱物が、生物が、植物が、
すべてがその関わりの中で役目を持っているのでしょう。
さて、すべてのかかわりを持つ中で、人の果たすべき役目とは何か。
そろそろ、その最終的な答えを出すべき時節に至ったような気がしてなりません。



サムライ・ブルー

2010年06月25日 | 雑感
昨日は、滝→ジム→坐禅の心身回復コースでした。
どれもそれなりに心地よく、充実した時間でした。
そのあと、遅い夕食を食べた後、速攻で寝まして、目覚ましをセットして、Wカップの日本ーデンマーク戦を見ました。

その中継を見て、素人ながらに感じたことです。

どうも今までの日本は、ヨーロッパ型の華麗なパス回しとか、花形選手にボールを集めてゴールを決めるという形にとらわれすぎていて、
残念ながらその力量が追いついていないものだから、簡単にボールを奪われたり、ゴール前で萎縮して凡ミスを繰り返すという感じが
多かったように思います。
ヨーロッパ型のイメージで戦うのは個人間の力量に差がつくJリーグでは可能だったのでしょうが、鍛え抜かれた国際チームが相手になると、
まったく歯が立たなかった、という感じではないでしょうか。

その点、Wカップの前哨戦の親善試合で、4試合ともその流儀がまったく功を奏さなかったのが、災い転じて福をなして、
今回の躍進につながったのだと思います。
個人技の華麗さや流麗さの追求をきっぱりと捨て、チームで一丸となって捨て身で戦う。
それが見事に結果を生んだのが、今回の序盤のリーグ戦なんだと思います。
チーム一丸となって捨て身で戦ったら、日本ほど強いチームはないかもしれないと思われるほど、今回の試合は強い日本でした。
序盤と終盤は、意地もプライドもあるデンマークの猛攻にヒヤヒヤする場面もありましたが、
日本は見事に逞しく強いチームに生まれ変わっていました。

チームが本当の意味で強くなると、以前の日本チームにありがちだった自意識過剰気味のよそよそしさや、とんがった感じがなくなりました。
素直に頑張り、素直に喜ぶ姿がチーム全体で共有し合えています。
その好き嫌いはともかく、日本のチームはやはり一丸となって捨て身で戦うという戦法を取れるとき、一番強いのだと思います。
選手個々に、斜に構えたり、高みから眺めたり、おれがおれがといった意識があるとき、日本のチームは強くなれないのだと思います。

それにしても本田の一点目のPK、神がかっていました。
続く遠藤のPKも完璧でした。
さらには、本田が敢えて譲ってあげたような、岡崎のシュートも見事でした。
遠藤のPKも、本田が打つと思わせていたからのシュートでしたし、岡崎のシュートは本田がお膳立てしたかのようでした。
それが、おれがおれがを捨てた時に生まれる奇跡的な美技に繋がっていきます。

おれがおれがを捨てたときに、まっさらでみごとな「おれ」が生まれる。
もしかしたら、こういう逆説を生かしきることのできるのは、日本チームだけなのかもしれません。
禅の世界といってもいいですし、武士道といってもいいですし、かんながらの世界といってもいいです。

今後の試合も目が離せません。


一人旅

2010年06月23日 | 雑感
禅道場の仲間が、まだ20代の女の子(もしかしたら30代)なんですが、明日から放浪の旅に出ます。
日本全国に散らばる道場をとりあえずの拠点として、九州を出て東京、北海道から新潟を回ってという、スケールが大きい一人旅です。
そのあとの予定は未定だそうです。
そういうことができるうちは、どんどんしたらいいと思います。

知らない街で、知らない人に会い、知らない大気を胸いっぱいに吸い込み、知らない空を流れる雲を見る。
ぼくの一番好きな生き方のスタイルです。
そういうことをさんざんしてきましたが、それでも飽きるということがない世界だと思います。
体力や資金の問題も大きいのですが、それよりも気力がなくなってきてはいるのですが、まだまだ知らない土地が地球上に広がっています。
キリがない話ではあります。
それでも、できる時はできうる限りあちらこちらをうろうろするのが人にとって最良の学びでもあり、最高の贅沢でもある気がします。

身内やら、友人やら、知り合いやらから離れて暮らすというのは、否応なくたった一人の自分という人間が浮かび上がることです。
恐ろしいほどの孤独感が浮かび上がるのか、解放の喜びを味わうのか、なにが浮かび上がるのかは人それぞれでしょう。
なにが浮かび上がってこようが、それが等身大の自分自身であることからは逃れようがありません。
そこがまた、なんとなく曖昧模糊とした観念に流されて行きがちな日常生活では味わえない境地です。
自分ひとりで、自分ひとりと対峙して道を歩いていくのが一人旅です。

数ヵ月後には彼女は帰ってきます。
語りえるもの、語りえざるもの、その両方を胸にいっぱい詰め込んで、彼女は帰ってきます。
たくましく、美しく、誇り高くなって帰ってくるはずです。
行く道々の路傍に、願わくば草花が咲き誇らんことを。

もの

2010年06月21日 | 雑感
梅雨です。
今年の梅雨は今のところ梅雨らしくていい感じです。
どんより曇った空から時折雨が落ちてくる。
たまに晴れると、いかにも紫外線が強そうな強烈な日差し。
いい感じです。

アンティークの腕時計をしていますが、思いのほかに正確に時を刻んでいます。
グリュエンというアメリカのメーカーですが、機械はスイスメイドです。
1950年代の手巻き式です。
もともとは店の商品にしようと仕入れたものですが、腕時計を持っていなかったので自分でつけるようになりました。
毎日ネジを巻くたびに愛着がわいてきます。
目いっぱい巻いて、大体12時間動きますから、朝と晩に巻いておけば24時間フル稼働してくれます。

もともと、ものというものに愛着を持つことはなかったのですが、考えを改めるようになりました。
執着は持つことはありませんが、ものでも人でも縁があって自分の目の前に来たものはできるだけ大切にしようかなと。
人の場合は相手があることですから、こちらがいくら大切にしようと思ったところで、相手が望まない場合も多々あるわけですが、
ものの場合はどんなものでも大切に扱おうと思えば扱えます。 

ものを大切にするということは、それを作った人の思いに思いを馳せることなのかもしれません。
ぼくの場合、アンティークを扱っていますから、なおさらその作った人の時代背景やら社会環境やらに思いを馳せると、
興味が尽きないところがあります。
例えば、グリュエンというアメリカのメーカーですが、それまでは時計の世界ではパティック・フィリップやブレゲ、
バセロン・コンスタンティンといった、スイスの一流メーカーの独壇場だったわけですが、
第二次世界大戦後に超大国となったアメリカが、時計の世界に進出したのがグリュエンやハミルトンといったメーカーでした。
日本が一流国の仲間入りしたあとに、精工舎(セイコー)が躍進したようなものでしょう。

ものにはその作られた当時の時代の息吹が宿ります。
良くも悪くも、大女王であったヴィクトリア女王の好みをひたすら踏襲したヴィクトリアン様式。
最後の貴族階級の史上最も洗練されたといわれるエドワーディアン様式。
ジャポニズムという強烈な日本文化の洗礼を受けて誕生したアール・ヌーヴォー。
そのアール・ヌーヴォーの複雑怪奇な文様に飽き飽きしたかのように現れる明快な幾何学的文様のアール・デコ。

そういうそれぞれの時代にそれぞれの文化のなかで花開いていたもの作りの文化的背景が、アメリカという多民族的、大衆社会的、
大量生産消費型のもの作り文化が世界中を席巻するにつれ、ものから物語が失われ、作り手が失われ、誇りが失われていきました。

さて、これからはどうでしょうか。
顔のない格安製品が巷に溢れていますが、いつまでもそんな顔なしのものにひとは満足できるものなのでしょうか。

父親参観日

2010年06月20日 | 雑感
今日は娘の幼稚園の父親参観日でした。
大きな口を開けて、「お父さんありがとう」の歌を歌ってくれました。
なんだか照れますが、大きな喜びが胸に広がりました。

まだ3歳児ですから、発育の度合いもマチマチで、しっかりした子もいるし、終始泣いている子もいます。
うちの娘は人の所作をいちいち観察していますが、他の子は一心に自分の行動に集中している感じです。
親に対する甘え方も子供それぞれです。
べったり甘える子もいれば、さらっとしている子もいます。
見ていてあきません。
通園用の上着を室内用に着替えるわけですが、モタモタと手間取る子、テキパキと畳む子、いろいろです。
前後さかさまに来て、わけが分からなくなって先生に着替えを手伝わせる子もいます。

家庭で見せる表情とはまた違った一面を子どもたちは見せます。
先生の一声できちんと一列に体育坐りをします。
スズメの子らが一列に並んでオシクラ饅頭をしているようですが、それでも一応集団のルールをもう身につけ始めています。

親子で一緒に工作物を作って終わりでしたが、なんだかほのぼのした幸せな時間でした。

誰かの子どもでいることも幸せでしょうが、親でいることも幸せなことです。
それが幸せなことに感じなくなると、さぞかし心が痛むでしょう。
思春期になって、親離れが始まりますと、親に反抗的・否定的なるのは自立の過程として仕方がないことではあります。
でもどんなに親に否定的・反抗的になろうと、このほのぼのとした幸せな時間を共有していたことは忘れずにいられたらいいです。
親は忘れないでしょうが、青年期を迎えた子は時として自分の迸る不安定な感情や情動に突き動かされて、
親に対して理不尽で冷酷な仕打ちをしてしまうものです。
それでも、どんな仕打ちをされようが、親は子を信じ見守り続けます。
そんな親の心を知らずに大人になった子たちが、やがて親となり、初めて親の思いを思い知ることになります。

そういうことを全部含めて、幸せなことです。
たとえ誰かの親になることがなくても、誰かの子であったことは幸せなことです。
人として生まれるということは幸せなことです。

タバコ

2010年06月17日 | 雑感
今朝は久しぶりに滝に打たれに行きました。
たまった疲れやら、なんやかんややらが流れたような気がします。
何度も言ってますが、とにかくこの時期の滝は気持ちがいいです。
この時期の滝の気持ちのよさを味わうために、冬の滝にも渋々入るようなところがあります。
こんなことを言ったら導師に怒られますが。
気持ちがいいとか、寒いとか、冷たいとか、そういう思い込みやら主観を捨て去るところに滝修業の主眼があります。
確かにその通りなのですが、気持ちのいいものは気持ちがいいです(笑)

一年以上もロンドンに買い付けに行ってません。
そろそろ行こうかと思っています。
この年になると海外に行くのはあまり楽しみではありません。
面倒くさいほうが先にたちます。
行けば行ったで楽しいのですが。

ロンドンに行けば、昼も夜もパブに行ってギネスを飲みます。
外で吸えるところは公園以外に余りありませんから、タバコも堂々と吸います。
ところが、イギリスのパブも禁煙になったらしいです。
そろそろ喫煙者は年貢の納め時かもしれません。
今は空港全体が禁煙のところも多く、長時間のフライトに耐え、やっと空港についても耐え、パブに行っても耐えなければならないとしたら、
もうタバコはやめるしかなくなります。
あまりにも切ないです。

ぼくが子供の頃は、大人という大人がタバコを吸っていました。
吸わないのはおそらくタバコを体質的に受け付けない人だけだったのではないでしょうか。
汽車の中でも映画館の中でもスパスパ吸っていました。
夜行列車に乗ると、服にたっぷりとタバコの臭いが染み付いたものです。

ま、昔の話をしても仕方がありません。
市販の巻きタバコは身体に悪そうですから、キセルで刻みタバコを吸うというのもいいかもしれません。
退屈紛れに一日何十本も吸うのではなく、食後に一服、仕事なり何なりが一段落したら一服、そんな感じにしたらよさそうです。

これから道場に行って坐ってきます。
先週の接心で、数キロやせた人がたくさんいました。
5時に起きて坐り、仕事に行って、夜に帰ってきてまた坐り、イビキの轟く中うとうとしてまた朝が来る。
そんな生活を一週間もしていたら、神経のよほど太い人以外は痩せるでしょう。
ま、そんな経験も過ぎてしまえば笑い話です。


俳句

2010年06月14日 | 雑感
昨日長府はうす曇で、暑くもなく寒くもなく過ごしやすい一日でした。
風情のある城下町を歩いているうちに、前夜飲んだアルコールが身体を再び巡りはじめ、朦朧としたまま名跡を巡りました。
俳句を捻らなければいけないのですが、さっぱり思い浮かびません。
毛利邸で抹茶を飲んで見事な庭を眺めていても、見事だなぁ~、ここで昼寝をしたいなぁ~以上の感慨は沸きません。
功山寺はそれは新緑がきれいで、それが風に吹かれてそよぐさまは、絶好の俳句の種でしたが、どこかで寝転びたいなぁ~としか思いませんでした。

それにしても、総裁老師をはじめ、年寄りたちはみなタフです。
あれだけ飲んで騒いでも、次の日にはきちんと俳句に集中しています。
心身の鍛え方がぼくとはまるきり違っています。
ぼ~っとしたまま昼食のうなぎを食べ、全員で投句された句を選定します。
ぼくのは2~3票入りましたが、お話になりませんでした。
集中力の欠いた俳句は力がありません。
ちなみにぼくの俳句です。

降れば降れ 我も濡れるぞ 燕飛べ ←ヤケクソ
かくなれば 梅雨空とても 咲くアジサイ ←意味不明
山門を 抱きて揺れる 緑かな ←体裁を無理やり整えただけ

まぁ、そんな感じでした。 

帰って寝ました。
数時間、夢も見ず、ぐっすり寝ました。
起きて焼酎を飲みながらご飯を食べ、、また布団にもぐりこんでぐっすり寝ました。
それでも今、まだ眠くけだるいです。

いつの間にか、すっかり脆弱になっていました。
山登りでも復活しようかなと思っています。

円了

2010年06月12日 | 雑感
一昨日から店に冷房を入れています。
それほど、暑いというほどではないですが、弱めに冷房を入れれば快適です。

今日で接心は円了(終了)です。
あとは店を早めに出て、夜の懇親会でしこたま飲んで、明朝長府に散策に出かけ、俳句会です。
ちょっと調べてみましたら、6月の季語というのは俳句に仕上げるのにはなかなか難しい語が多いです。
ででムシとか蛍とか田植えとかアヤメとか、今の長府で果たして見かけることがあるのでしょうか。
夏の入道雲とか、秋の枯葉だとか、冬の木枯らしなどはどこででも感じられ、俳句にも作りやすいですが、
アメンボなんかも今ではすっかり見かけなくなりましたし。
カビというのも六月の季語みたいですが、カビを使った俳句というのも、あれです。
わざわざ長府まで出かけて作るようなものでもないような気がします。

長府といえば、毛利藩の城下町で、今でも武家屋敷の風情が色濃く残っています。
そこの功山寺で高杉晋作が奇兵隊を組織して挙兵しました。
武家屋敷の中を貫くように、壇具川という清流が流れています。
その川に沿って、春には桜が、秋には紅葉が見事な景勝地です。
そこから少し南下して海べりに出ますと、右手に関門海峡を隔てて九州の玄関口である門司を望み、
左手には瀬戸内の入り口が茫洋と広がっています。
幕末から明治にかけて、さまざまな人たちが、さまざまな思いを胸に、盛んに去来した土地柄です。

数キロ先には、さらに時代をさかのぼって、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祭る赤間神宮もあります。
門司港・下関港は戦前は大陸と結ぶ船舶が盛んに出入りしている港でもありました。
いろいろな時代のいろいろな物語がぎっしりと詰まっている土地です。
往時の面影はさすがにありませんが、今でも活用の仕方さえ上手にすれば、まだまだ生き返る余地はあると思いますが、さてどうでしょうか。

さて、決算から接心まで、怒涛のように流れ込んだ感がありまして、少々くたびれています。
この疲れを来週に持ち越さないようにしないといけません。
なんとなく釣りでもしたい気分です。


道場の生活Ⅱ

2010年06月08日 | 雑感
で、道場に泊まっていますから、酒断ちです。
酔っ払った勢いで寝る毎日ですから、初日の夜は頭が冴えてほとんど眠れませんでした。
道場の酔っ払い仲間に聞いてみましたら、やはり2時間くらいうとうとしただけだったようです。
二日目からは疲れと睡眠不足でさすがにぐっすり眠れるようになります。

朝、いったん自宅に帰って一、二時間寝るわけですが、起きてみると前日が2日前のような気がします。
仕事を終え、夕方から坐禅を組み、寝て、早朝に起きて坐禅を組み、自宅に帰って仮眠を取って仕事場に行く繰り返しなわけですが、
一日がとても長く感じます。
ぼくは仮眠を取れるからいいですが、ほとんどの人が日中は仕事や作務で目いっぱい働いています。
さぞかし長い一日だと思います。

ところで、昨日のブログで道場で「虫の音を聞きながら」、なんぞと書きましたが、今の時期、虫の音は一切聞こえていませんでした。
その代わり、梢を渡る風の音や、雨だれの音や、朝には鶯などの小鳥たちの鳴き声が聴こえます。

難題で有名な公案に当っているのですが、思いのほかスパリスパリと透過していくので、自分でも少々驚いています。
決して油断することなく、その公案の奥へ奥へと突き進んでいきたいと思っています。
奥に入れば入るほど、広大で豊かな世界が広がっています。
その世界のあまりの広大さ深遠さに、自我なんていうものを大事に抱え込んでいることが実に馬鹿らしくなってきます。
自我を無くすなんていう話ではありません。
そんなことはできませんし、そんなことをする必要もありません。
自我は自我で自由無碍、自我を離れても自由無碍、そんな感じを目指すわけです。

これからラジオ番組を終えて、それから道場へ行きます。


道場の生活

2010年06月07日 | 雑感
道場に泊まりこんでいます。
朝は5時に起床して、道内の清掃・洗面をして、5時半から坐ります。
坐禅、参禅、お茶席と7時半の粥座と呼ばれる朝食まで続いて、それから家に帰って一眠りして、店に出ます。
店を終えて、7時からまだ道場です。
10時まで坐って、就寝の時間となりますが、なんやかんやと所用を済まして、11時頃に道場にずらりと敷いた布団に入ります。

昼の間、道場に残った仕事のない老居士方は作務と呼ばれる庭仕事や掃除や食事つくりに精を出しています。
わけもわからず道場に放り込まれて、こういう生活をしろといわれたなら、そりゃもう刑務所の中にいるのと大して変わらないかもしれません。
坐禅があるだけにかえって苦痛のほうが大きいかもしれません。
でも、誰に頼まれたのではないのに、みな仕事が忙しいのにも係わらず、あるいは老齢で体力的に大変なのにもかかわらず、
泊り込みで、あるいは通いで道場にやってきます。

坐禅に限っていえば、坐らないとどうも落ち着かなくなるとか、気持ちが悪いとかいう精神的中毒性はまったくないように思います。
いつ坐る時でも、あくまでも自覚的な意志と覚悟が必要なような気がします。
なんとなく坐るということも、できなくはないのですが、とてもつまらない時間になってしまうでしょう。
しなければいけないとか、受身で坐るくらいなら、坐らないほうが時間をなにか有効なあれやこれやに使えるでしょう。

そして、こういう毎日が一週間続きます。
日々、じわりじわりと坐禅が身についてくるような感じがします。
自分が自分で坐るという姿にだんだんなじんでくるわけです。
足は相変わらず痛いのですが、以前の激痛に比べれば物の数に入りませんし、雑念をさらリさらりと流していくのも上手になっていきます。
呼吸もだいぶ自然な感じになりますし、意識も澄んでいく感じがあります。

その上、いただく公案もだんだん高度になっていきますし、道内でのあれやこれやの進行をつかさどる役職も課せられますので、
ボーっとしている時間がどんどんなくなっていきます。
そうすると、楽しいとか楽しくないとかいうことを考える心の隙間もなくなっていきます。
ひたすら目の前に流れてくるものに真正面から対峙していくほかありません。

禅道場で台所を任せられる役職を典座(てんぞ)といいます。
彼らが毎食作ってくれる食事は、精進料理ですから当然質素です。
朝などは、ご飯と味噌汁と漬物だけです。
でもそれがとてもとても美味しいです。
炊き立てのご飯と、熱い具沢山の味噌汁と、旬の野菜の漬物。

こういう生活をしていると、不平不満、愚痴というものが心から蒸発していく感じがします。
楽しいか、楽しくないかという設問自体が、消えていきます。
先人から守り伝えられてきた、尊い道場の生活がただそこにある、といい感じになります。

今夜も店を閉めたら、道場に行って、虫の音を聞きながら坐ってきます。

夢幻とリアリティ

2010年06月05日 | スピリチュアル
今朝、ベランダから通りを眺めてましたら、中年の女性が二人並んで歩いていましたが、ふとある一軒の家の前で立ち止まり、
軒先に並べている植木鉢を指差してなにやら話し込んでいました。
穏やかな風の吹く気持ちのよい朝で、女性たちは日よけの傘をさしています。

ノスタルジックな既視感に襲われました。
子供の頃、路地の両側の家の軒先には、朝顔やらなんやらの鉢が並べられ、季節の花が咲いていました。
大小の金魚鉢を並べている家もあれば、夏になれば風鈴を吊るす家もありました。
子供ですから、そんな季節の風流には一切興味がなく、路地という路地を、路地裏という路地裏を走り回っていたわけですが、
女性たちの着ている服の流行は違えども、あの子供の頃と今とでは、変わってしまったようで何も変わっていないのかもしれないと、
ふと思いました。

たかだか半世紀ほど生きて、なるほど世の中の生活スタイルやら、電化製品、通信機器などの発達は目まぐるしいものがありますが、
軒先の鉢に目を奪われる時、その心に去来するものは、今でも、昭和でも、あるいは江戸の時代でも、何も変わっていないのではないか。
たまたまその二人の中年女性の傍らを、やはり日傘を差した背筋のピンと伸びた老婦人が通りかかりましたが、
もし彼女がセンスのよい着物を着ていたら、その空間はまるで明治や大正の時代と変わりはありません。

山は新緑に覆われ、渡ってきた小鳥たちがあちらこちらで盛んに鳴き、初夏特有の豊潤な香りのする穏やかな風が吹いています。
時代が流れていきますが、流れているのは自分の心象風景だけなのかもしれません。
日は昇り、日は沈み、雨が降り、風が吹き、木の葉が茂り、木の葉が散ります。
そんな大地の間で、人々が文明という砂上の楼閣を建てては、なすすべもなく崩れていく、という夢を見ているだけなのかもしれません。

金や名誉の世俗にリアリティを求めたら、酷薄な日々になるでしょう。
自分の夢想にリアリティを求めたら、冬眠している亀のような日々になるでしょう。
自分が生きるというリアリティをどこに求めたらいいのでしょうか。

求めるということをやめること。
自分の外側には求めるものなどない。
自分の内側にも求めるものなどない。
外側も内側もない。
では、なにがあるのか。
そこからが禅の世界になるわけです。

夢幻の世界で、儚く明滅するだけの人の命が、どうやって絶対無限の生命と直に繋がるのか。
「自分」というものさえ幻ならば、なにを主体として打ち立てて、どんな世界に切り込んでいくのか。
いかなる思考も感情も無意味ならば、なにを感じればいいのか。
疑念はこうして際限なく湧き起こります。

そういう疑念やらなんやらに一切頓着なく、道場では黙々と居士たちが坐るわけです。
今日から接心です。
今から道場に行ってきます。