風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

グダグダ

2008年10月30日 | スピリチュアル
昨日は娘を連れて海に行ってきました。
陽射しは強かったですが、流石に風は冷たかったです。
打ち寄せる波の姿と音に、娘は口を開けて見入っていました。

空には羽衣のような雲が広がっていました。
近頃の空は、羽衣なような空ばかりです。
羽衣って見たことがないのですが、羽でできている衣なら、やっぱりそうです。
ウロコ雲とは違います。
ウロコ雲というのは一片の雲が横長なのに比べて、羽衣の雲は縦長です。
言っていること、分かりますでしょうか(笑)
要するに、白鳥の羽を大きく広げたような雲だと言いたいのです。

最近、イライラしている人が多いような気がしています。
今まで出来ていた抑制が効かなくなった感じでイライラが募る人は、要注意だと思います。
滝に打たれてください(笑)

そういう感じのマイナス感情というのは、流してしまう回路さえしっかり持っていれば大丈夫です。
ぼくみたいに大量の酒で流すという方法もありますが、その代わり脳が溶けます(笑)

「生かして頂いて 有難う御座います」という感謝供養は確かに効果があります。
「有難う御座います」という言葉は、そう思えなければ心に抵抗を感じますし、思えれば心が豊かになります。
どちらにしろ、その言葉を言おうと思った時点で、自分の心が点検されずにはおられません。
供養を通じて、自分の心を恐れずに毎日点検するという勇気が、怯みがちな心を鼓舞する面もあります。

神々のことは神々に任せ、霊のことは霊に任せ、人は人のすることをするばかりです。
何が人のすることなのかを見当違いしなければいいだけです。

空を見て、流れる雲を見て、悲喜こもごもの人々を見て、グダグダの自分を見て、
にっこり笑えればそれでいいです。


サンマ

2008年10月28日 | 雑感
古物商の免許関連で警察署に呼び出されたので自転車で行ってきました。
見事な空です。
わざとらしさが無く、誰にも描けない芸術作品を空は毎日描いています。

ぼくは通勤に自転車を使っています。
6段変速機が付いています。
ライトだって、モーター式ではない摩擦抵抗の無い最新式です。
それで一万数千円でした。
貧乏人が貧乏を感じずに生きる方法はいくらでもあります。

新聞で読んだのですが、サンマはキロ(一匹じゃないですよ)10円とか20円の世界みたいです。
荒れた海に出る漁師さんを誰も大事にしていませんね。
大手スーパーが漁獲量に係わらず年間契約で値段を決めてしまっているせいで、
漁師さんたちは儲ける時に儲けるということができなくなっているらしいです。
年間契約ですから、リスクの回避の意味もあるのですが、最低レベルの設定での契約なのでしょう。

農業にしても、漁業にしても、林業にしても、日本は第一次産業を軽んじすぎていますね。
真面目な人が多いから、それでも農作物を育み、魚介類を食卓に届け、一級の建材を供給していただいていますが。
極論を言えば、政府が混乱に沈んで、金融の仕組みが潰れたって、需要が最後に残るのは第一次産業です。

言うまでもなく、大自然が大工場であり、大供給元であり続けます。
その動力は太陽であり、水であり、土であり、風です。

この金融破綻の機会に、すべての人々が身の周りの自然の恩恵というものを見直したらいいのだと思います。
いくらでも生きるすべはあります。
人同士が騙しあい、憎みあい、恐れあう必要はどこにもありません。

海から湧いたように跳ね上がるサンマたち。
感謝して食べれば、それだけのことです。

日本

2008年10月27日 | 雑感
そろそろ、どこかへ行きたい虫がもぞもぞと動き出しています。
来月は東京に行きますが、ガード下でホッピーを飲みながら煮込みを食べるのが楽しみなくらいです。
そういうのではなく、異国という感じがするところに行きたいです。
東欧なんかがいいです。
列車を乗り継いで、ギリシアから東欧を抜けてイタリアに入る、という感じがいいです。
ま、しばらく動けそうもないのですが。

東欧の文化というのは日本にほとんど紹介されていませんね。
ぼくが知らないだけかもしれませんが。
おそらくキリスト教のあり方もローマ以西のものとは違った趣があるんだろうと思います。
スラブ民族の文化と言っていいのでしょうか?
よく分からないからこそ行ってみたいです。

そういえば、来年はトルコに行く予定です。
大トルコ帝国の香りを少しは嗅いでこられるといいんですが。
トルコ料理というのは世界の3大料理(他はフレンチと中華)に数えられることもあるそうです。
シシカバブを食べたことがあるくらいですから、未知のトルコ料理も楽しみです。

国の数だけ、その国を愛する人々がいます。
貧乏であろうがなんであろうが、生まれた土地の風景、人情、文化的慣習を愛するのは人の美しい性情の一つだと思います。
そういう性情が人々の連帯を支え、共同体を守ります。
時にはそれが無意味で頑固な因習になることも多々ありますが、その土地土地が持つ風土の香りを精神に織り込んでいくということは、
その人の個性をとても奥ゆかしく味わい深いものにするとぼくは思います。

日本のテレビでは、よく若手の芸人やモデルをレポーターに仕立てて未開のジャングルや東欧の田舎などに派遣して番組を作ります。
そこで住む人は、若手の芸人やモデルよりも遥かに思慮深げで、誇り高く、ものごとを見抜いています。

文明というのは、ある意味でとても軽薄なものです。
電気を使うということは、夜の空の神秘に満ちたドラマを見逃すということです。
スーパーで肉を買うということは、野を駆ける動物たちの躍動美を知らないということです。
生きるということの尊厳を忘れることです。

そういうことを色々考えさせられるのが、異国と触れ合うということなのかもしれません。
そして、異国と触れ合えば触れ合うほど、日本という国が見えてもきます。
軽薄な文明の下に埋もれてしまっている日本の文化の底流が見えてきます。

個々の日本人が異国の人々と比べて優れていると思ったことは一度もありません。
でも、日本文化の底力のすごさを感じたことは何度もあります。
今の日本人がすごいのではないです。
その逆でしょう。
無軌道に甘やかされ、TPOに叶ったマナーを知らず、他者とのコミュニケーション能力がおそろしく劣った人が目立ちます。
それは当然で、家庭でも、学校でも、そういうことは教えないことが「個人の自由」の名の下に進歩的でもあるかのようです。
でも、そういう幼稚ともいえる日本人の背後にある日本文化が、辛うじて現代日本人の評判を支えているという感じだとぼくは思います。

「個人の自由」などは当たり前であって、その自由を色々な活動を通じて他人と豊かに共有していくのが文化というものでしょう。
「個人の自由」そのものが目的となるような社会は、奴隷制度が残っているような段階の社会でしょう。
「そんなのは個人の自由でしょ」と言えばなんでもすむと思っているような言動は、おそらく現代日本特有なものです。
会話そのものが成立しませんね。

ま、それでも日本なんです。
それだけ、日本の文化の深層は深いです。
その深層に気づいた異国の人々が、日本という国を認めているわけです。
日本文化の深層に一番気づいていないのが、日本人なのだろうとぼくは思っています。

2008年10月25日 | 雑感
昨日は休みを取って、滝に行き、それから家族を連れてとあるカルスト台地の頂上にある公園に行きました。
娘が滑り台で遊んでいる間に、ベンチに寝転び空を見上げました。
なんというか、久しぶりに見たすごい空でした。
羽毛で覆われたような雲。
形容しがたい深い藍の色。
すべての言葉を凌駕します。
すべての言葉を凌駕するからこそ、その藍(あお)と一体となりたいと思います。
でも、無理です。
相変わらずの分別心が、どうたらこうたら言います。

市営の公園(多分)なのですが、無駄に広大な敷地に数人の姿がちらほら見えるだけです。
芝生の手入れは行き届き、入場料無料で、天気は快晴、風は心地よい。
しかもここは国定公園に指定されているところです。
もちろん平日ですから仕方がないにしても、この閑散ブリはもったいないというか、なんというかでした。
まぁ、いいんですけど。
ぼくは人のいないところというのは、現代人にとってはかなりの贅沢だと思うんですが。

話は変わりますが、金融破綻の波は収まりません。
80年前の恐慌のような分かりやすい形は流石に取らないということなのでしょう。
二段、三段と破綻の波を起こすつもりなんだろうと思います。
金融破綻を何とかしようと「国際協調」の名の下に日本もその流れに参加するのでしょう。
参加しなければいいのですが。
「参加しない」とはっきり言うだけなのですが。
ま、現実はそうはいきませんから、あれやこれやの大義名分を負わされて、破綻の波を被るのでしょう。
金融破綻だけではなく、未知のウイルス、テロ、色々な手を使ってくるかもしれません。

ものは考えようです。
この破綻の波を地球の禊と思えばいいのです。
架空の資金を動かして濡れ手に粟なんていうビジネスモデルが長続きするわけがなにのは子供でも分かります。
子供でも分かる生活モデルを作ればいいことなんです。
期待せずに与えれば数倍に返ってくる天の摂理を教えればいいだけのことです。

政治・経済に物申すというのがすっかり虚しくなってしまいました。
ある程度の経済指標なり何なりを参照すれば、専門家はどうすればいいかを分かるはずです。
食料政策にしても、農業地域にやたらと道を作ったり、川岸をコンクリートで覆ったりするよりも、
農業の後継者がやる気が出る施策を打つ必要があることは分かっているはずです。
金融担当者は、机上の資金が膨らんだ結果、破裂するのは分かっているはずです。
外交担当者は、相手の機嫌を損ねないことが外交ではないことは身に染みて分かっているはずです。
分かりきったことを、誰にも分かるように説明して、実行に移すのを政治だと思います。
単純すぎるといえば単純なのですが、複雑になればなるほど政治・経済は泥沼化します。
自ら捏ね上げた泥に足をとられているのが今の政治・経済だと思います。

日月神示に、「人が食べられるくらいのものは充分に地球は与えているぞ」みたいな言葉がありました。
その通りだと思います。
泥を捏ねるのはもうやめましょう。

道筋

2008年10月23日 | 雑感
中学3年生の夏休み、リュックを担いで北海道旅行に行って帰ってきたときは、財布に中に残っていたたのは15円でした。
20代でアメリカ放浪から帰ってきたときは、成田からバス代がなんとか払える額でした。
旅行に出るといつも決まって財布が空になります。
逆に言うと、旅行ができるぴったりのお金が手にあったということです。

今の会社も全く同じ状況です。
手元に余分なお金があったためしがありません。
なんとか支払いを済ませ、店が開いていけているというだけです。
自転車操業です。
漕ぐのをやめれば、倒れます。

これはどういうことかというと、頭では理解しています。
自分と自分を取り巻く周囲のごく少数の人々を養うお金は天は恵んでくれています。
でも、それ以上は決して恵んでくれません。
それは、この境遇でも充分に幸せだ、ありがたいなと思っているということもあるのですが、
それ以上に、周囲により大きな意味での貢献をする気がない、というところが一番の原因だと思います。
貢献をする気がないところにお金を回しても、あっという間に無駄遣いするだけです。

仕事とは、例外なく物や技術や何かの手段を通じて、人々に貢献することです。
自ら貢献する意志もなく、食べていければいいや、と傲慢にも思っているようなぼくのような人間に余計なお金をくれないのは、
よ~く分かるような気がします。

物を売るということに情熱がないのを誤魔化すために、スピリチュアルな話なんかでお客さんを煙に巻きます(笑)
邪道ですね。
仕事を仕事として磨いてこそ、きちんとした商売の道筋ができるというものです。
こういうところがぼくは小賢しいです。
堂々としていません。

貢献の仕方というのは、おそらく人の数だけあるのでしょう。
飛び切りの笑顔だけで人を幸せに出来る人もいるのだろうし、計算が得意な人、手先の器用な人、人が好きな人、
土いじりが好きな人、研究心が旺盛な人、諦めない人、美人美男な人、ユーモアのある人、もうキリがないほど道があります。

自分が、自分の店がなにを道筋として人々に貢献していくかというのを明確にする必要があります。
いつまでもいい加減な与太話で誤魔化しているわけには行きませんね。

ブルースで死にな

2008年10月22日 | 雑感
今日は昼ごはんを食べに行ったついでに久しぶりにCD屋さんに入りました。
古いフレンチ・ポップスのデュエットばかりを集めたもの、有名歌手が歌ったクリスマス・ソング集、
それから宇崎竜童の「ブルースで死にな」(笑)の3枚を買いました。

30年ほど前にダウンタウン・ブギウギ・バンドというのがありまして、
彼らの「あぁブルース」というアルバムの中に「おまえの為のブルース・シンガー」という大好きな曲がありました。
大人になってそのアルバムを探したのですが、とっくに絶版になってしまっていました。
で、その大好きな曲が「ブルースで死にな」(笑)に入っていたというわけです。
とっくに諦めていましたから探したわけでもないのですが、どういうわけか「ブルースで死にな」(笑)を手に取りました。
フレンチ・ポップスとクリスマスソングの二枚を清算中に、店員さんがおそろしくモタモタするので、
退屈紛れに後ろを振り返ったら黒地に白文字で書きなぐったような「ブルースで死にな」(笑)が目に入ってきました。

店内にはいつもアヴェ・マリアとかグレゴリウス聖歌とか流していますから、「ブルースで死にな」(笑)を流すと強烈です。
一挙に場末のバーになります(笑)
フレンチ・ポップスのデュエットも、これはこれでいやらしい雰囲気になります(笑)
店で流すのはまずいかもしれません。
車で聞くのにはどちらも最高だと思います。
その後にクリスマスソング集を聞くと、余りにも健康的で、なんというか陰りというものが欲しくなります。

ま、なにをしてるんですかね。

日が暮れるのが本当に早くなりました。
道行く人も急ぎ足です。
ブルースで死ぬのにはうってつけの季節かもしれませんが、そうは行きません。
明るい気持ちでクリスマスを迎えられたらいいです。


沈黙

2008年10月20日 | 
沈黙のうちに日は昇り、たなびく雲が黄金色に染まる。
沈黙から溢れ出てくる光に、小鳥たちは鳴き騒ぎ、木の葉は揺れて、人々は新たな一日に胸躍らせる。

沈黙のうちに日は蒼穹を横切り、沈黙のまま日は沈む。
地上はオレンジ色に染まり、やがて紫色の夕闇に覆われる。

なにもかもがなにかを語ろうとするが、なにを言っていいのか分からなくなる。
鳥は羽をたたみ、木の葉は息を潜め、人々は黄色い電灯の下のテーブルの上に頬杖をつく。

やがて漆黒の闇とともに完全な沈黙が地上を包む。
星星も息を潜めて瞼をパチパチしてそんな様子を伺う。

でも、その漆黒の闇の中で大きくうねり動いているものがある、
天を泳いで、地に潜り込んで、音も立てずに呼吸を続けている。

黒々とうろこを光らせる龍だ!
山犬は脅えて吠え立て、悪霊どもは身を隠す洞窟を探し回る。

そんな出来事も、再び登った日の光の中に溶け込んでいく。
豊穣の沈黙、沈黙の豊穣が再び地上にみち充ちる。

三昧

2008年10月19日 | スピリチュアル
秋晴れが続き、湯豆腐の季節になりました。
湯豆腐自体というのはそれほど味があるわけでもなく、ただ湯豆腐を食べているというシチュエーションが好きなのかも知れません。

昨夜は嫁と娘が実家に帰っていましたので、一人でサンマを焼いて食べました。
テレビは娘が倒して壊してしまいましたので、しんとした部屋でサンマを食べながら悦に入りました。
どういうわけかこういう状況がとても好きです。
そのあとは布団に寝転んで、窓から吹き込んでくる涼しい風を感じながら読書三昧でした。

三昧(さんまい、Samādhi, サマーディの音写)とは、仏教における禅、ヒンドゥー教における瞑想において、
精神集中が深まりきった状態のこと。サマーディは三摩提、三摩地などとも音写される。

定(じょう、サンスクリット:samaadhi、音写:三昧)は、仏教用語で、心を一処に定止して、
散ることなく乱れることがない状態を表す。    
                              出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サンスクリット語の「サマーディ」の中国語への音写が「三昧」で、意訳が「定」ということになりますね。
要は、心の波が静まりきって、「本来の面目」が顕れようかという境地です。

レベルの高い覚者になりますと、日常生活の一つ一つの行為も三昧の境地になるのだそうです。
歩行三昧、用便三昧、食事三昧、書き物三昧、すべてが三昧の境地になるのだそうです。

酒三昧や湯豆腐三昧とは分けが違います。
心が物欲しげにあちらこちらをキョロキョロしません。

話は変わりますが、熊谷守一という画家がいました。
自宅の庭をうっそうとした植物が生えるがままに放っておき、そこに極めて原始的な池を堀ったりして、
そのに住み着いたカエルやらトンボやらアリやらなんやらを日がな一日観察していた仙人みたいなおじいさんでした。
観察というのは言葉が当たっていないように思います。
小動物や小鳥や葉っぱと一緒に呼吸を重ねていたんだろうと思います。
彼の大事な宝物は、庭で拾った何の変哲もない石ころでした。
彼は石ころに生命を見ていました。
石というのも、エネルギーの塊です。
生命とはエネルギーが流れ続けることであるならば、石も確かに生命体です。
石に流れるエネルギーの速度が動植物のそれのエネルギーより遥かに緩慢だというだけです。

写真で観ると、熊谷守一の目は、聖人の目と一緒です。
澄んだ好奇心に満ちています。
きっと虫や小動物と石ころとさえ一体の三昧境を楽しんでいたのだと思います。

2008年10月17日 | スピリチュアル
続きです。

では、「自分」を知るとはどういうことなのでしょうか。
それは五感や、思考や、想念では捉えることができません。

五感や思考というのは、「自我」が欲するがままだけに機能します。
身体が飢えれば、目は食べられそうなものを血眼に探しますが、路傍に咲く花は目に入りません。
孤独に襲われていれば、耳はかすかな物音も猛獣の足音かと錯覚します。
お腹が空いていればただのおにぎりがご馳走ですし、満腹ならどんなご馳走もげんなりしてしまいす。
思考も、その時々の「自我」の要求で勝手気ままに振舞います。
惨めな暮らしをしていれば社会の不正義にたまらなく腹が立ちますが、社会的地位や金銭的余裕に恵まれますと、
社会の不正義を攻撃するよりも自分の余暇を大事にする方法に思いを巡らせるようになるものです。
自分の立ち位置によって、ころころと変えるのが、五感や思考です。

簡単に言ってしまえば、好きで夢中になっている相手ならすべてを許しますが、
嫌いな人の言動はすべてが欠点の塊です。
人の五感や思考というのはそんなものです。
全く公平ではありませんし、一定もしていなければ、博愛主義でもありません。

では、本来の「自分」、インドの聖者がいう言葉では「真我」、禅で言うところの「本来の面目」、
というのはどうすれば把捉しできるのでしょうか。

それは、思考や五感で把捉しようとすればするほど、隠れるもののようです。
で、思考や弁別や五感をすべて捨て去るのです。
それが禅とか瞑想といわれる方法です。

思考や五感を捨てるというのは、その機能を止めてしまうということではありません。
止めようと思っても止まるものでもありません。
ただ、思い浮かぶもの、五感に感じるものに一切引っかからない、という修行です。
マリア様や観音様が目の前に浮かぼうが、足が痛いと思おうが、一切引っかからないのです。
頭に浮かぶもの、五感に感じるものすべてを、浮かんだら浮かんだまま、感じたら感じたまま、
捉われずに消えるに任すのです。
そうして、修練が進みますと、思考や五感がしんと静まりかえるときが来るようです。
そのときに、本来の「自分」、「真我」、「本来の面目」が顕れるみたいです。

それは別に隠れていたわけでもなんでもなく、常にそこに「在り」続けたのですが、
五感や思考のひっきりなしにかき立てる回す波の下で、見えなくなってるだけだ、と覚者は言います。

いったん、その本来の自分を見出しますと、五感や思考に振り回されることが逆にできなくなるみたいです。
本来の自分が今ここにいるのに、その道具たる思考や五感といった機能に振り回されることは不可能になります。

>中身(本来の自分)と器(自我=身体)は闘い続けるものでしょうか。
>争うものでしょうか。
>折り合いを付けるものでしょうか。       りのすKさん

もうこれは、その人次第としか言えませんね。
精神を病むという現象は、ほとんどがその人内部のその種の争いから引き起こされているような気がします。
魂と身体、どっちが主なのかということが逆転しますと、なかなか苦しい生き方にならざるをえないのではないかと思います。
目にも見えず、思考でも五感でも捉えられない「魂」を主に据えるということは、今の世では尋常ではありません。
一笑に付されるのがオチです。
一笑に付されようがなんであろうが、真実というものがあるのなら真実に従うしかありません。

五感や思考というのは生きるということを楽しむための便利な道具としてなら大変完成度が高いものだと思いますが、
人生の主にしてしまうには余りにも気まぐれで、自分勝手で、刹那的です。

さてさて、「魂」というものを自分の人生の主にリアルにすえることができるでしょうか。
それはぼくにも分かりません。
でも、その気になれば、そうなるだけのような気もしています。

「自分」と「自我」

2008年10月15日 | スピリチュアル
生サンマが安いそうですね。
サンマが獲れなくなったら、あれほど上手い魚はなかったと伝説にきっとなりますから、
安いのならイッパイ食べましょう。
生サンマならワタも皮も全部残らず食べましょう。

今日は休日、絵に書いたような秋晴れでしたが、昨夜嫁と喧嘩したため、一人で映画でした(笑)
「つぐない」と「ジュノ」の二本立てです。
内容は省きますが、面白かったです。
ぼくにとっては映画で面白くないということはまずありません。
どの世界もそれぞれに愛しい世界です。
何本か日本映画でこれは酷いと思ったことはありますが、まぁそんなものでしょう。

さて、「自分」と「自我」の違いは何かというご質問が読者の方からありました。
読んでいただいて質問していただくと、なんだかありがたいです。
ぼくなりに思うことを書いてみます。

昨日のブログを踏襲しますが、「自分」が根源神の分け御魂だとします。
分け御魂である「自分」というエネルギーは、それ自体では過不足がありません。
あくまでも神の一部であり、神の一部であるという自覚があります。
自由自在のエネルギー体として宇宙を飛び回ります。

その分け御魂が3次元世界に下りてきて、身体という容器に入りますと、コロリと様相が変わります。
いつでも一体感があった根源神の存在の影さえ見当たりません。
生い茂る草木と、獰猛な猛獣たちが群れている弱肉強食の地上に一人取り残された感じです。
さらに、身体という容器は、常に水や空気や食物をひっきりなしに求めてやみません。
すぐに飢え乾き、あらゆる種類の誘惑に惑わされ、「我」という存在が脅かされます。

そうして、身体の維持存続を図るうちに肥大していくのが、「自我」です。
五感をフルに活用し、身の危険を察知するに余念が無く、心の平安よりも身の安全と快適を求めます。
遥か昔の人は、当面の自分の食料と家族の居場所を確保すれば、自我の飢えはやんだのでしょうが、
今の人々は不安を煽られ、さらにさらにと意味も無く不安感と優越感と劣等感を煽り追い立てられる
ビジネスモデルの真っ只中に生活しています。

でも、「自我」が悪いというわけでもありません。
たとえ「自分」という魂がそのまま地上に降りてきても、何一つしたいとも思わず、
することもできない状態なんだろうと思います。
「自分」=分け御魂とは、何一つ善悪も、正邪も、生死も知らない無垢なエネルギーです。

そこで、身体=自我というものを魂がまとうことによって、はじめてこの肉体がこの地上の上を歩き始めます。
「自分」という魂は死を恐れるということを知りませんが、肉体は、「自我」は死を恐れます。
怖れに怖れるからこそ、ここ(3次元世界)からの脱出の冒険が始まるわけです。
脱出するまではここはなんでもありの汚濁の世界ですが、脱出した後は、
ここがあってこその神の恩寵であったと思い至るような、そんな仕組みなんだと思います。

ですから、この世は「自分」という魂がこの世を渡りきるために乗る船が「自我」なんだ、
という言い方ができるかもしれません。
ここで問題なのは、大方の人がその舟である「自我」を本体とみなしてしまい、
その燃料補給や、見栄えや、速力を競って一緒を終えてしまうということなのでしょう。


自分

2008年10月14日 | スピリチュアル
「自分」という言葉があります。
よく知りませんが、おそらく明治時代辺りに学者が作った翻訳語なのでしょう。
「自ら分かれる」もの、という意味ならば、とても深い意味がありますね。

自ら根源のエネルギー(根源神)から分かれ、孤独や苦難という冒険を楽しむために、
この3次元の地球上に生まれ出た勇気あるエネルギーを「自分」と呼ぶのかもしれません。
神道では一人一人に大神の「分け御魂」を宿しているといいますが、同じような意味だと思います。

思い切り人生という舞台を楽しみ演じ切って、根源のエネルギーに回帰できればいいのですが、
舞台の上でおろおろし、何を演じていいのかも分からずに不平不満のうちに生を恨んだり呪ったりしますと、
本来は無かった想念の厚い雲に覆われた冥界というところに迷い込んでしまうみたいです。
それこそ冥界というのは、人の想念の数だけあるような複雑怪奇なところみたいで、
その想念にひきつけられる人は、強制的に引き寄せられるのではなく、自らの想念どおりの冥界に行く、
ということのようです。
同じエネルギー同士が引き付けあうというということのようです。

自ら根源神から分かれ出た分け御魂ですから、この地上にいようと冥界にいようと、
どこか彼方の遠いところに自分の居場所があるはずだというような、魂の疼きを感じるものらしいです。
牽強付会ですが、「オーヴァー・ザ・レインボウ」なんかはそんな心の底を歌ったような歌ですね。

で、冥界というところは、同じような想念で固まっている世界ですから、冒険、つまり壁や苦しみを乗り越えたり、
異なる他人と出会ったり別れたりというような経験がありません。
つまり、魂の成長がないところらしいです。
せっかく根源の光と一体となっていた自分を光から切り離して、冒険を通じた魂の成長と喜びを持って回帰しようとした魂は、
行き先を失って迷いの闇に沈むことになってしまいます。

そんな魂に再度チャンスを与えようということが、「生まれ変わる」ということなのでしょう。
様々な困難、様々な人々、様々な味わいに満ちているこの世こそが、魂の冒険に相応しいミラクルワールドです。
冒険というからには、本当の危機もなくてはならないし、スリルも喜びもなければなりません。
それと、適度なロマンスも必要ですね(笑)
冒険をやり遂げ終えて、家で待つ人々にそれを逐一報告することこそ、冒険の醍醐味です。
その報告をニコニコそうかそうかと聞くのが、神と呼ばれる存在の喜びなのでしょう。
それが地球で生きる、ということなんだろうと思います。

冥界とか、霊界とか、神界とか、そういうのはどうなってるんだと興味が走りますが、まぁやめておきます。
切りのない話になります。
今日に話にしたって、いい加減な法螺話といえば、法螺話なのです。
世界は常に何十にも複層になっています。
どの層から観るか、どの次元で観るかで、まるきり様相が違って観えてくるのでしょう。
人は、人の生きるという層から、ものを観たらいいでしょう。
それしかできませんし、それで充分だとも思います。

先ずは、「自分」の層と「自我」の層の違いを見極めていくことでしょうか。

雑感

2008年10月09日 | 雑感
金融不安が広がっていますが、マネーゲームの成れの果てでしかないように思います。
一般生活者にも影響が少なくないと色々な人が言いますが、なぁに大丈夫です。
日本だけが安泰だというわけには行かないのは当然にしても、個々人は住むとこがあり、
食べるものがるという状態は、日本では大丈夫でしょう。

こういうマネーゲームに振り回される生活が心底嫌だと思っているのはぼくだけではないと思います。
あぶく銭を掻き集めた投機会社が倒産しようがどうしようが、ぼくの知ったことではありません。
サブプライムローンにしても、投機会社がいかに大衆のお金を広く掻き集めるかの算段をした結果、生まれた手段でしょう。
なにをどう言おうと、金融会社は投機の見返りとして利子を得ようとする会社です。
そういう会社の役員やら社員やらがどこよりも高給を享受する社会というのは、潰れればいいです。
健全な投資というのは理念上はありえるのでしょうが、世の中で動くお金の動きは欲にまみれた投機ばかりです。

ここ数日、両極端の本を読んでいました。
片や世界の金融を支配するある一族の世界支配のやり口を実名入りで徹底的に告発した本です。
片やヒマラヤに住む聖者と呼ばれる人たちの驚くべき言行を記述した本です。
表と裏がピタリと重なる感じです。
自由意志を持つ人間には、天国を示す必要もありますが、地獄を示す必要もあります。
どちらも知った上で、「選ぶ」だけです。

これまで、何が地獄で何が天国なのかということについては、極めて曖昧で相対的でした。
地獄とは、誰かのコントロール下で自由を失うこと、天国とは無限の自由を享受すること。
今のぼくはそういう結論に達しました。

月数万円のお小遣いで、たまに飲みに行ったり、パチンコをしたりで憂さを晴らしている大多数のサラリーマンの人たち。
それでも家計が苦しいと不平を言う主婦の人たち。
どこにも自由がありません。
誰かがそういう状況を意図的にコントロールしているなどとは思いもつきません。

その誰かとは、銀行や政治家や世界的大企業の裏に隠れているから、誰も詮索もしないし、記事にもなりません。
こういう話は、事実を知れば知るほどそうなんだと思いますが、なにせこういう類の話はメディアに流れません。
だから鼻で笑われておしまいです。

その影に隠れたある人たちというのは、人を家畜とみなしています。
その動機はうかがい知れません。
何が楽しいのかも分かりません。
ただ、そういう人たちなのです。
世界を統一して、全人民を統一政府の元にコントロールしようと目論んでいるらしいです。
EUができました。
アジア通貨基金構想もありました。
今はドルの暴落で、ドルの優位性を崩している真っ最中です。

さて、円です。
ここ数年のあらゆる組織の「無能」のお陰で、日本は奇跡的に生き残りました。
中国には得体の知れない資金がいまだに大量に流れ込んでいるようです。

これからが正念場なのでしょう。



自ら光る

2008年10月06日 | スピリチュアル
変な事件が続いています。

人は人の心の暗部というものを正面から見つめるのが苦手です。
他人の心の暗部を覗くと、自分の心のに潜む暗部までもが浮き出てくる恐れがあるのかもしれません。

わが子を絞め殺す母親の心理を知りたいとは思わないものです。
無差別に通りがかった人を刺し殺す心理を知りたいとは思わないものです。
そんなものは自分とは遠い世界で起きているものだとして、考えることを放棄します。
そんなものでしょう。

でも、暗部を知れば知るほど、光のありがたさを知るということはあるように思います。
不信、絶望、虚無の世界を知れば知るほど、日常を大過なく過ごせるありがたさを知るでしょう。

この世は光も闇も、どろどろと渦巻く世界です。
テレビドラマのように安易なストーリーで終始するわけもありません。

闇を知らない光は、少しの風でも恐れおののいて消えてしまうでしょう。
闇を知る光は、強いです。
闇を目の前にして、光るべくして光り、そこにはいささかの怖れも不安もないからです。

そういう意味から言うと、ありのままの世界をありのままに知るということの重要さがあるように思います。
第二の経済大国といわれる日本ですが、生活水準は驚くほど貧しいままです。
それが何故なのか、ただ正確に知るということが大事なのだと思います。
メディアはまったく当てになりません。
闇の勢力の番犬といってもいいくらいです。
腹なんか立てる必要もありません。
闇というのは、人のマイナス感情をエネルギー源としています。
知った上で、搾取され貧しくとも、楽しく生きるという決意を人々がしたときに、闇の勢力は衰えます。

闇の勢力にエネルギーを与えているのも、やはり人の心です。
自ら光ることが出来るのも人の心です。

自ら光る人間を、だれもどうすることもできません。
自ら光る自由だけは守りきりましょう。

抽象的な話でごめんなさい。



2008年10月05日 | スピリチュアル
心の定義が難しいのは、心の風景=心象が人それぞれ、時の移ろいと共に移り変わっていくからでしょう。
やさしい気持ちのときも、憎悪に燃え上がる時も、この上も無く残酷になったりもする、それが心だからでしょう。
心というある一定の状態があるのではなく、さらに深層の心理が心というスクリーンに映し出されたのが、
心の動きというものかもしれません。

ですから、心のスクリーンに映し出されたものに一喜一憂すると、なすすべも無く自分の心に翻弄されることになります。
しかしながら、人はそのスクリーンに映し出された元の、心のさらに奥なる深層心理を知る方法を知りません。
なんであれ考えようとすれば、心のスクリーンに映し出された大袈裟な心の芝居に頭が占領される仕組みになっています。
歓喜の心で目が見えなくなってしまうこともあれば、苦しみの渦に飲み込まれてしまうこともあります。

そういう心に浮かぶイメージに翻弄されない訓練が、坐禅とか瞑想といってよいでしょう。
敢えて特定のイメージを思い浮かべて、そのイメージに心身ともに浸るような瞑想もあるようですが、
どうもその方法にはぼくは感心しませんので、脇に置いておきます。

坐ってみれば分かりますが、次から次へと断片的なイメージが浮かんできます。
そのどれか一つのイメージに捉われますと、そのイメージに関連するイメージが果てしなくずるずると連鎖して浮かんできます。
失恋して悩む人は恋人の面影が果てしなく浮かんでくるでしょうし、
資金繰りに苦しむ人は返済しなければならない人の顔が付きまとってきます。
で、坐禅では次々と浮かぶそれらのイメージを一切相手にしないことを教えます。
イメージが浮かんでも、相手にしなければ、イメージに心を占め続ける力はありません。
次から次へとイメージが浮かんでは消えていきます。

初心のうちは10分もすると、そんな雑多なイメージが次から次へと浮かんでくるだけですから、坐っていることが苦痛になってきます。
組んだ足が痛くなるのと同時に、自由気ままにイメージを追うことができない苦しさに耐え切れなくなるものです。
それでも組んだ足を解くことは許されず、ひたすら呼吸に神経を集中し続けます。
そんな数ヶ月の我慢比べを経て、あるときふとイメージが浮かんでこない瞬間を体験します。
呼吸のみが完全な静寂のうちに続いていきます。
さらに修練を経ますと、呼吸していることも忘れ去る瞬間が来ます。

さらに修練が続きます。
呼吸も忘れることも忘れた時、どうやら道元禅師のいう「心身脱落」が訪れるようです。

1.心に押し寄せるイメージを片っ端から心から流し出す
2.そのことにより、心に押し寄せるイメージの源である深層意識をも徐々に洗い流していく
3.数年から数十年のその作業(坐禅)により、洗い流された深層意識は、はじめてあるがままの世界をあるがままに心に捉えだす

禅の目指す境地というのは、簡単に言ってしまえば、そんな感じであるらしいです。
唯識論でいえば、マナ識、アーラヤ識の浄化を経て、「悟り」という境地が訪れるのでしょう。

好き嫌い、善悪、赤いの青いの、そんな分別から自由になった心が見るあるがままの世界というのは、
それはそれは深遠甚大で、大いなる生命の全貌が姿を現すみたいです。


台風一過

2008年10月02日 | 雑感
昨日は久しぶりに滝に行きました。
台風一過、雲ひとつない空の下、大水量の滝はとても気持ちがよかったです。
いつまでも入っていたいと思いましたが、こういうのは冷たいから早く出ようという思いの裏返しにすぎないので、
規定通りにお経を読んで滝から出ました。

滝から出て、月初めのお宮参りに行きました。
大気がすっかり洗われて、見るものすべてが懐かしいような陽光に包まれていました。
帰ったら娘をどこか海にでも連れて行こうと思いましたが、案の定こういうときに限って娘は留守でした。
いつもながら、この辺りのタイミングの悪さは絶妙です。

テレビをつけたら国会中継をしていましたので、見ました。
いろいろ面白くなってきたな、という感じで見てました。
お互いにどんどん喧嘩腰になるくらい、この調子で本気で論戦したらいいと思いました。
今朝のワイドショーを見てたら、その論戦を称して「弱い犬ほどキャンキャン騒ぐ」だとか「議論のレベルが低い」だとか、
コメンテーターたちが言いたい放題でした。
この人たち、絶対に中継をそのまま見ていないな、と思いました。

それから、二本立ての映画をウィスキーを飲みながら観ました。
「告発のとき」と「ハンティング・パーティー」
どちらも戦争の裏側、暗部を描いていました。

日本人は概ね裏側とか暗部というのは苦手だと思います。
苦手だから、そういうドロドロしたものは、ハナから無いものにしてしまうようなところがあります。
裏側とか、暗部とか、陰謀とか、そういうのに耐える精神はかなりタフでないといけません。
裏側の裏をかくとか、陰謀のさらに上をいく策略を巡らすとか、日本人は苦手ですね。
まぁ、そういうのが得意な人種よりはずっといいかもしれません。
気の弱いお人よしではいろいろ食い込まれてしまいますが、確信的なお人よしというのは、案外強いものです。
確信的なお人よしというのは、覚悟を決めたお人よしです。
そういう人が増えれば、人の疑心暗鬼に巧みに付け込んでくる陰謀とかなんとかに巻き込まれないで済むかもしれません。

今日も大気に清澄さが残っているようです。
変な事件が相変わらず続いていますが、そういう流れに敏感になるよりも、
時折大気に満ちる天真爛漫な清澄さに心を向けたいです。