去年の暮れ、仕事でローマに行ってきました。
巨大石造物の上層に、生活に忙しい人々が雑多な町を作り上げ、覆うように被せたというような街です。
で、ローマから川一つ隔ててヴァチカン市国があるわけですが、そこにシスティーナ礼拝堂があります。
天井には有名な「最後の審判」が、ミケランジェロの手によって描かれています。
写真では分かりづらいでしょうが、とんでもないスケールです。
見ているだけでも疲れるのですが、あれを上を向いて描き続けたミケランジェロの「熱」に深く感動します。
で、写真で分かるかどうか、まさに審判を下そうとする中央のキリストの上部に、
どうやら天国に行く一群が描かれています。
左手の人々は十字架を担いでいます。
右手の人々はギリシア式の柱を抱えています。
僕が驚いたのは、ミケランジェロが、キリストの信仰者のみならず、
ギリシア(あるいはローマ)の神々を信仰するものもまた天国に行けるとしていることです。
ルネッサンスの当時、ローマ市民の信仰形態がどのようなものだったのかは知る由もありませんが、
システィーナ礼拝堂の天井画は、明らかにキリスト教徒向けに描かれたフレスコ画です。
そこにキリスト教徒から見れば、異端のギリシア(あるいはローマ)の神々への信仰を肯定的に描いているわけです。
古事記などに描かれる神話世界と、ギリシア神話に描かれた神々の世界とは、多くの共通項があります。
まだ、人間が地上で暮らす前、地・風・火・水などの万物生成のエネルギーやその構成要素を擬人化して描いたものが、
世界共通の神話世界といえるのではないかと思っています。
国々や風土による神話の登場人物やプロットの性質の違いは、その土地土地の神々(エネルギーおよび生成物質の構成要素)
の違いに由来するのではないかと思います。
例えば、日本は海に囲まれた海洋国であり、火山の国であり、湿潤温暖な風土を持ちます。
一方、ギリシアはからりとした地中海性気候であり、植生もオリーブやぶどう酒といったものが豊穣の象徴となります。
自ずから、そこに生まれでる神々の性格にも、その風土独自の性質の反映があるでしょう。
唯一神を説くキリスト教布教の中心地のヴァチカンに、そういうドグマ発生以前の神話の世界への信仰が、
肯定的に描かれていたことは、驚きでもあり、楽しいことでもありました。
神話は文献学的に分析しても実り多きものであるとは思えません。
その神話の世界に、心がなじめなければ、神話は何の意味もない荒唐無稽なお話でしょう。
その土地土地に大いなる自然が様々な気を発し、ものを生成させ、破壊し、再生する永遠のサイクル。
その中で人間は生きています。
その大いなるサイクルを何らかの形で伝承しようとすれば、分かりやすい擬人化を使った神話という形を
取らざるをえなかったと思います。
人間に「火」を与えたためにゼウスに罰せられ、永遠に鷲に肝臓を食い破られるプロメテウスの話を聞いて、
プロメテウスが実在したかどうかなんていうのは、質問にもなりません。
その話を聞いたときの自分の心の動きを注意深く受け止めてみるときに、
何かが分かるのかもしれないというのが神話なのではないでしょうか。
巨大石造物の上層に、生活に忙しい人々が雑多な町を作り上げ、覆うように被せたというような街です。
で、ローマから川一つ隔ててヴァチカン市国があるわけですが、そこにシスティーナ礼拝堂があります。
天井には有名な「最後の審判」が、ミケランジェロの手によって描かれています。
写真では分かりづらいでしょうが、とんでもないスケールです。
見ているだけでも疲れるのですが、あれを上を向いて描き続けたミケランジェロの「熱」に深く感動します。
で、写真で分かるかどうか、まさに審判を下そうとする中央のキリストの上部に、
どうやら天国に行く一群が描かれています。
左手の人々は十字架を担いでいます。
右手の人々はギリシア式の柱を抱えています。
僕が驚いたのは、ミケランジェロが、キリストの信仰者のみならず、
ギリシア(あるいはローマ)の神々を信仰するものもまた天国に行けるとしていることです。
ルネッサンスの当時、ローマ市民の信仰形態がどのようなものだったのかは知る由もありませんが、
システィーナ礼拝堂の天井画は、明らかにキリスト教徒向けに描かれたフレスコ画です。
そこにキリスト教徒から見れば、異端のギリシア(あるいはローマ)の神々への信仰を肯定的に描いているわけです。
古事記などに描かれる神話世界と、ギリシア神話に描かれた神々の世界とは、多くの共通項があります。
まだ、人間が地上で暮らす前、地・風・火・水などの万物生成のエネルギーやその構成要素を擬人化して描いたものが、
世界共通の神話世界といえるのではないかと思っています。
国々や風土による神話の登場人物やプロットの性質の違いは、その土地土地の神々(エネルギーおよび生成物質の構成要素)
の違いに由来するのではないかと思います。
例えば、日本は海に囲まれた海洋国であり、火山の国であり、湿潤温暖な風土を持ちます。
一方、ギリシアはからりとした地中海性気候であり、植生もオリーブやぶどう酒といったものが豊穣の象徴となります。
自ずから、そこに生まれでる神々の性格にも、その風土独自の性質の反映があるでしょう。
唯一神を説くキリスト教布教の中心地のヴァチカンに、そういうドグマ発生以前の神話の世界への信仰が、
肯定的に描かれていたことは、驚きでもあり、楽しいことでもありました。
神話は文献学的に分析しても実り多きものであるとは思えません。
その神話の世界に、心がなじめなければ、神話は何の意味もない荒唐無稽なお話でしょう。
その土地土地に大いなる自然が様々な気を発し、ものを生成させ、破壊し、再生する永遠のサイクル。
その中で人間は生きています。
その大いなるサイクルを何らかの形で伝承しようとすれば、分かりやすい擬人化を使った神話という形を
取らざるをえなかったと思います。
人間に「火」を与えたためにゼウスに罰せられ、永遠に鷲に肝臓を食い破られるプロメテウスの話を聞いて、
プロメテウスが実在したかどうかなんていうのは、質問にもなりません。
その話を聞いたときの自分の心の動きを注意深く受け止めてみるときに、
何かが分かるのかもしれないというのが神話なのではないでしょうか。