風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ドイツ

2016年06月16日 | 旅行

アメリカも好きですが、ヨーロッパも好きです。
アジアも好きですが、インドはちょっと・・・でした(笑)。

で、ドイツです。
このブログを書こうとドイツの写真をネット上で探してみたら、もう堪りません、胸が詰まります。
ドイツは、元の奥さんがとてもとても縁が深く、留学もし、ドイツとの仕事をしていた人でした。
そのご縁で、ドイツの素敵な田舎町の教会で結婚式も上げ、そこに数週間習週間滞在もしました。

新婚旅行は、北のハンブルグから南のロマンティック街道まで、彼女の両親と共に車で移動しました。
運転はぼくです。
ドイツ国内を網羅する高速道路、アウトバーンは速度規制がありません。
行く先々でワインやらビールやらをしこたま飲みながら、町から町へと移動です。

ドイツは一つ一つの街がとても個性的です。
おそらく条例かなんかで厳しく統制をかけているのだと思います。
ケルンはケルンです。
ニュルンベルグはニュルンベルグです。
ハイデルブルグはハイデルブルグです。
同じ壁の色、同じ屋根の色、窓には同じ種類の花がずらりと吊り下げられています。
それで、一つ一つの街に、それぞれの自慢のビールとワインがあります。
旅行者には堪りません。

ドイツから帰ってくると、日本の街づくりは絶望的になります。
北海道から九州まで、どこへ行っても同じスーパーマーケット、同じつくりの家、同じ外食チェーン店、・・・。
昔の日本は藩ごとにとても個性のある国づくりをしていたと思うのですが、すっかり均質化してしまいました。

まぁ、そんなこんなでドイツには何度か長めの滞在をしました。
さすがにヨーロッパ一の経済優等生だけはあります。
地域文化と伝統がとても強く根付いています。
農村地帯がフランスと同様に豊かです。

そのほかに、ドイツに関してはいろいろ思い出があります。
ありすぎます。
そのどれもこれもが元の奥さんに関わりますから、切ないです。

ドイツからアルプスを越えるとイタリアです。

なんか、遠い遠い昔の思い出です。

 

 

 


大人と中学生のしゃべりば

2016年06月15日 | 雑感

「初めてのアメリカ」シリーズは、自分のための備忘録としても書いていきたいのですが、
そればかりだと書く方としては飽きます。
「旅行編」ヨーロッパシリーズやら、アジアシリーズも、国内シリーズも書いてみたいことはたくさんあります。
少しづつ書いていけたらいいなと思っています。

でも、今日は先週の土曜日のことです。
同僚Sさんに誘われて、直方の「大人としゃべり場 in  直方一中」に行ってきました。

http://mainichi.jp/articles/20160612/ddl/k40/040/240000c

これはすごくよかったです。

大人が円形に並んで座って、その円を取り囲むように中学生たちが円形に座ります。
大人と中学生は一対一で対面します。
司会者から、大人に対して質問が投げかけられます。
それに対して、大人は中学生に答えます。
次に、司会者から中学生に質問が投げかけられます。
中学生は大人に向かって答えを語りかけます。

それを、数分の間隔で次々と生徒が時計回りに移動しながら、続けていくわけです。

今年が4回目とかで、生徒さんたちは慣れているのでしょうか。
こちらがたじたじになるほどに、にこやかに堂々と自分の思いを語ります。
そして、なによりもどの子も、例外なく笑顔がとてつもなく素晴らしいのです。
ぼくは年寄りなので、この子にとって僕みたいな老人はどう思われるのかなぁ、などと思っていましたが、
下種の勘繰りでした。

左官屋になりたい子、看護師になりたい子、友達のためになりたい子。
誰かのために役に立ちたい子ばかりでした。

何か言葉にできないことが多かった機会でした。
これは全国に広げるべき方向性でしょう。
老人も子供も、面と向かって語って、笑い合う。

直方のMさん。
何かできることがあればと思っています。
子供は保護すべき対象というよりも、世間を豊かに元気にする存在なんだなと思いました。

 

 


サンタ・フェ(初めてのアメリカ5)

2016年06月09日 | 旅行
「初めてのアメリカ」シリーズは書いていても面白いのですが、行った町順に書いていくというのは面白くないので、
アトランダムに思いついたまま、思いついたときに今後は書いていきたいと思います。

今日はサンタ・フェです。
まだ宮沢りえの写真集で有名になった「サンタフェ」は発売されていませんでしたので、何の予備知識もなく行きました。

バスディーポからその夜の宿のユースホステルまでは地図で見てもかなりの距離がありました。
そこはどういうわけか予約なしでも泊まれるユースホステルでした。
重い荷物を持ってそこまでテクテク歩いたわけですが、期待に膨れ上がっていて苦痛でも何でもありません(笑)。

ようやくそこに着き、チェックインをしました。
詳細は覚えていませんが、何かフレンドリーな雰囲気が溢れかえっているようなところでした。
荷物を置いて、ラウンジに出ていろいろ見てみると、毎日毎日いろいろなイベントを活発に催しているユースでした。
たまたま次の日はプエブロ・インディアンの遺跡を巡るツアーというのがありましたので、迷わず申し込みました。
プエブロ・インディアンという名称は聞いたこともありませんが、値段も安く、参加しました。

で、次の日、世界各国からの旅行者と共に、遺跡巡りのツアーに出ました。
15-6名の人数で2-3台の車に分乗したような記憶があります。

赤茶けた広大な大地に、しっかりと遺跡の痕跡がありました。
巨大な洞窟を利用した小さな都市です。
英語がよく理解できなかったため、詳細はよく分かりませんでした。
砂漠を車で移動しているわけですが、当然喉が渇きます。
何も用意していなかったぼくは困ったなーと思っていました。
すると前の席にいたイギリス人の若者が飲むかと言って、水のペットボトルを差し出してくれました。
この人は人の心を読むことのできる超能力者かと思いました。
サンキュー、サンキューとへいこらしながら、ぐびぐびと飲ませてもらいました。

何か所か遺跡を巡りました。
それはそれ自体でとても興味深かったです。

で、最後にホットスプリング、温泉に行くということでした。
砂漠に温泉、全く想像が付きません。
車はどんどん砂漠の奥へ奥へと行きます。
温泉というのは、なんの施設もなく、池みたいなところに湯が沸いていました。
日も暮れて、月も出ていました。
なんというシブいシチュエーションなんだろうかと思いました。

で、みんな何の躊躇もなく素っ裸になってその温泉に入り始めるわけです。
世界各国の男女の若者が主体です。
ぼくは仮にも日本男児です。
眼鏡をかけたまま入りたかったのですが、動機が見え見えなので、潔く外しました。
何も見えません。
インドから来た信じられないようなグラマラスな身体をした女性が月明かりの下で、ぼくのすぐ横の今に腰かけています。
何も見えません。
あーあと思いながら、どうせ見えないのならと後方にじりじりとにじり寄って行ったら、白人男性の身体に身を寄せていました。
ぼくもびっくりしましたが、彼もその上をいってビックリしていました。
ソーリーソーリー、とヘコヘコ謝りながら平常心を取り戻そうとしました。
赤茶けた大地を照らすサンタフェの月です。

ちなみに、先導役のユースの主人はいつの間にか消えていました。
フランスから来た若い女性も消えていました。
数十分後に何事もないように、全員で帰路につきました(笑)。

そこのユースはほぼ毎日いろいろなイベントを企画実行しているようでした。
次の日、少し遅く起きたらだれもいませんでした。
どこかにみんなで出かけたのでしょう。
ロービーには飲み放題のコーヒーがありました。
コーヒーを飲んでいると、そこにしばらく住んでいるという若い白人女性が大きなテーブルに同席しました。
なんかいろいろおしゃべりしました。
「大草原の小さな家」というテレビドラマが好きだといったら、とても喜んで「私もだ」と答えました。

その他、つたない英語で
もう行かなくちゃと言うと、バスディーポまで送ってくれるといいます。
支度をして、彼女の車に乗り込みました。
後部座席にはごみ溜めの様に一切合切が積み込まれています。
おそらくこの車が彼女の家なのでしょう。
言葉を失いながらも、彼女にバスディーポまで送ってもらいます。
バスディーポに着いて、荷物を背負い、さようならというと彼女は両手を広げて、「ハグ!」と言います。
ぼくは当時ハグという言葉の意味を知りませんでした。
彼女はさらに腕を広げて「ハグ、ミー!」と言いました。
さすがにぼくも察しました。
手を回すと彼女の身体は意外にも細く、もろそうでした。
何か言葉をかけたかったのですが、英語ですからどうしようもありません。

そのまま彼女と分かれました。

バスに乗ってから、彼女のやせ細った身体を思い、ごみ溜めの様なボロ車を思い、彼女の表情を思いました。
出発前のユースのロビーで、神とは何かという話になりました。
ぼくは知りもしないくせに「宇宙の意思だ」と答えました。
彼女はふふっと笑いました。
何かとても切ない思いになり、しばらくその切なさは消えませんでした。



初めてのアメリカ4

2016年06月08日 | 旅行
ちなみにぼくが辿った大まかなルートを紹介しておきます。
LA、サンフランシスコ、ポートランド、シアトル、バンクーバーと西海岸を北上し、
ソルトレイクシティ、デンバー、サンタフェ、エル・パソ、サンアントニオ、ニューオリンズと中西部を南下し、
フロリダ・キー・ウエストから、サバンナ、ワシントンDC、ニューヨーク、ボストンと東海岸を北上し、
最後はシカゴからラスベガス、グランドキャニオンと大陸を横断し、LAに帰着するというものでした。
ルートはすっかり忘れていましたが、今地図を見て思い出しました。
当時は毎日が楽しくてたまりませんでしたが、今同じルートを辿れと言われましても、絶対に無理です。
3日で音を上げる自信があります。

長く連泊したのは、知人のいたワシントンDCと、当時どこよりも行きたかった憧れのニューヨークです。
ニューヨークには10日ほどいたような気がします。
あとは、バスが町に着いたら、「地球の歩き方」に乗っていた安そうなホテルを探し出して、一、二泊だけ泊まります。
ホテルにチェックインしたら、荷物を部屋に置いて、とにかくひたすら町の中を歩き回ります。
歩き回ることで町の全体像と大体の雰囲気を掴みます。
日本ではあまり知られていないのですが、とても雰囲気のいい町というのがいくつか記憶に残っています。
クリーブランドとか、サバンナとか、決して大きくも、特別な何かがあるわけでもないのですが、良い思い出として残っています。
その反対に、ソルトレイクシティとかエル・パソとかセントルイスとかは大きな町でしたが、それほど印象に残っていません。
まぁ、いろいろなタイミングもありますし、相性というのもありますし、一概には言えないんですけどね。

カメラは持って行ってたのですが、途中でフィル物入ったバッグを紛失してしまい、すっかり写真を撮る意欲をなくしてしまい、
多分1枚も残っていません。
その他に、トラブルというよなことはなかったように思います。
というか、英語もまともに話せず、お金もなく、初めてのことばかりなのですから、毎日がひたすらチャレンジなわけです。
お金も一度だけ東京の姉にお送金してもらいました。
どういう方法で送金してもらったのか、全く覚えていません。
クレジットカード会社を使ったような気はするのですが、どういう方法だったのかは思い出せません。

食べ物はバスで移動中はハンバーガー、街にいればベーコンエッグとコーヒー、あとオレンジの生ジュースがあちこちで売ってます。
ニューヨークでは屋台のホットドック、ベーグル、ちょっと奮発してTボーンステーキ、これは安いけど見た目とは違い固くてまずいです。
ニューヨークの牛丼屋と思ってもらえばいいと思います。
和食の店にも何度か入りました。

確かポートランドだったと思います。
雨が降っており、暗く寂しい街並みに、日本語で書かれた赤い提灯がぽつんと雨に打たれていました。
店名やらなんやらは覚えていません。
入ってみると、ぼくの他に一組の日系のお客さんがテーブルに、大柄の白人男性がカウンタ‐に座っていました。
ぼくは何を頼んだのか覚えていませんが、多分天ぷら定食か何かを頼んだのでしょう。
ご主人は日本語が上手ではなく、おそらく日系の方なのでしょう。
壁に貼ってあるメニューも統一感がなく、たどたどしい感じで、何か間に合わせで店を開いてみましたという感じでした。

日系のお客さんは何かを食べていましたが、カウンターの白人男性はカウンターに肘をついてじっとしています。
ぼくは内心どうしたんだろうと思っていましたが、もちろんそんなそぶりを見せずビールかなんかを飲んでいたんだと思います。
だいぶたってから(10分以上?)カレーライスがそのお客さんの前に持ってこられました。
サンキューといってその白人男性は食べ始めました。

カレーライスで何分待たされたのだろうとすこしその白人男性に同情しました。
日系のご主人にはまったく悪びれた様子がありませんでした。
人のよさそうな上品なご主人でした。
ぼくも何かを食べたのでしょうが、全く記憶にないということは、まぁそういうことなのでしょう。

まぁ、今はどうか知れませんが、海外で過剰に期待して日本料理店に入ると決まって痛い思いをしたものです。
それでも、そんな店でも結構人でにぎわっています。
それ以来、美味しい日本定食屋を海外で展開すれば、間違いなく流行ると確信していましたが、とうとう今に至っています(笑)。



初めてのアメリカ3

2016年06月07日 | 旅行
もとより貧乏旅行ですから、移動手段は乗り放題のバスです。
確か30日間乗り放題のパスというのが海外からの旅行者用に売っていました。
期間内なら。どこからどこまで行こうが完全にフリーパスです。
グレイハウンド・バスです。
いくらかは忘れましたが、貧乏なぼくでさえ安いなと思ったくらいの値段でした。

とてつもなく広大なアメリカ大陸をバスで移動するというのは、なんと言いますか、低所得者層の手段ではあります。
言わずと知れた車社会のアメリカですから、ほとんどの人は車を持っているわけですし、
急ぐ人用には飛行機なり鉄道なりも国土を網羅しています。
というか、アメリカの広大さというのはちょっと体験した人でないとなかなか感覚的に理解が難しいかもしれません。
町から町に移動するのに平気で数時間を要します。
強いてバスを利用するという人は、まぁだから、そういう人たちなわけです。

都市から都市へ移動するのには夜行便を利用して、宿代を浮かすというのがぼくの基本戦略でした。
ぼくは当然のごとく貧乏小僧でしたから、おそらく貧乏であろう人たちと同じバス内で数時間か数十時間かを
過ごすのは少しも不快なことはありませんでした。
それよりも、パック旅行では得ることのできない素のアメリカというものを感じられたような気はしています。

バスは町ごとにバスディーポと呼ばれる停留所に止まって行きます。
たいてい、そこにはファストフードの店が24時間体制でオープンしています。
マクドナルドもありましたが、大方バーガーキングでした。
よって、バスの移動中はバーガーキングのハンバーガーとポテトばかりを食う羽目になります。
若かったので、ハンバーガーを食べることに別段抵抗はなかったので、まぁ、どうってことはなかったです。
ただ、気が付いたのですが、ハンバーガーばかり食べてると腋臭がし始めます。
自分でわかります。
なるほどなぁ、と思いました。

どこからどこへ移動中かはすっかり忘れてしまいましたが、深夜にどこかのバスディーポに停車しました。
例のごとく、みんな降車してトイレに行ったりタバコを吸ったりバーガーキングに行ったりします。
ぼくもタバコをたらふく吸って、バーガーキングでポテトのチーズがけだか何だかを買って、車に乗り込みました。
隣の席には中年の黒人男性が座っていました。
それより数時間前にどこかの停留所から乗り込んできていました。
挨拶もするわけでもなく、不機嫌そうにぼくのとなりにどさりと座りました。
ぼくも余計なことは言わず、何時間か隣同士でバスに揺られていたわけです。

その彼が、休憩を終え、バスに乗り込んだぼくが手にしていたポテトをちらっと見ました。
そして憮然とした顔をして前を見据えています。
なるほどなぁ、と思いました。

意を決して、食べるか、と聞きました。
黙って頷いたので、そのまま手渡しました。
その食べ方が、いかにも何時間も食べてなさそうな食べ方でした。
ああよかったなと思い、またこれはすぐ寝たふりをしなければいけないと思って、目をつむりました。

そうしたら、しばらくバスに乗りっぱなしで疲れていたのか本当に眠っていました。
気が付いて目覚めた時には、隣の席に黒人男性の姿はありませんでした。


初めてのアメリカ2

2016年06月06日 | 旅行
次へ目的地はサンフランシスコだったと思います。
幼い子供の頃なぜか耳にしていた「思い出のサンフランシスコ」という歌が耳にこびりついてまして、
ものすごく大きなロマンティックな期待を抱いて、その地に向かいました。
思った以上に素敵な町でした。
とにかく、いろどりがきれいな街並みが続きます。
日本では見れないパステルカラーの競演です。

サンフランシスコは坂道の街です。
その坂道をケーブルカーが走っています。
急斜面を走る路面電車といった感じです。
大きなリュックを背負いながらそれに乗ってみました。
どうやって乗るのか、どうやって降りるのか、どこで降りたらいいのか、緊張の連続です。
そんなことよりも、今こうやってこの俺がサンフランシスコにいるという至福感で一杯です。
なんたって、ダーティハリーが暴れていた町にぼくがいます。

たしかフィッシャーマンズ・ワーフという港のエリアに行って、シーフードを食べたような記憶があります。
奮発しました。
そのあと山の手にあるユースホステルにてくてく歩いたんだと思います。
ガイドブックは「地球の歩き方」一冊です。
安く泊まれる宿として、ユースホステルが紹介されていたんだと思います。
今ならとても無理な距離を歩いたような気がします。
ところがそこいざ着いてみると、前もって予約しなければ泊まれないシステムでした。
今ならユースホステルというのはそういうものだと知っていますが、その時はショックでした。
炎天下の中、必要以上に重くて大きいリュックを背負って数時間上り坂を登ってきての、その結果でした。
でも、グズグズ言わないのが日本男児だとは心得ていました。
踵を返して、ダウンタウン目指して坂道を下り始めました。

「地球の歩き方」に乗っている一番安いクラスの宿を訪ねて、どうやら泊まるところを確保しました。
そのあたりの細かいやり取りは全く記憶にありません。

でも、サンフランシスコという町はとても気に入りました。
何か懐かしいような、不思議な感覚を覚えました。
その当時はまだヒッピー崩れみたいな人も街中をウロウロしていました。

10数年後、再びかの地を訪れましたが、初めて訪れた時に感じた懐かしさみたいのものは失われていませんでした。
中華街の中華料理が絶品です。
いつかまた行ってみたいです。
その時も懐かしい感じがするのでしょうか。
わかりません。

若干1名(しかも身内w)から続きを読みたいという希望がありましたので、アメリカシリーズ書きます。
自分で書いていてもなんだか新鮮で面白いです(笑)。
遠い昔の誰か他の人の話のような気がします。


初めてのアメリカ

2016年06月05日 | 雑感
初めてアメリカ旅行に行ったのは1985年だったと思います。
お金ができたらとか、時間ができたらとかを待っていたのではいつまでも行けないと思い、
2月分の肉体労働のバイト代で往復航空券とバス周遊券を買い、えいやと飛行機に乗りました。

ロサンゼルスについて、飛行機で知り合った日本人の若者と同じモーテルに宿を取ったのですが、
その夜突然目が見えなくなりました、
コンタクトを外したらまったく何も見えなくなってしまいました。
その若者に救急車を呼んでもらいました。
何が何だかわかりませんでしたが、もうてっきり失明したと思いました。
コンタクトと一緒に角膜も剥がれてしまったのだろうと思いました。

もう絶望的な気分で救急車にのせられ、どこかの病院まで連れていかれました。
救急車の甲高い音を聞きながら憧れのアメリカに着いた初日に失明してしまうなんて、
なんてことだと一人嘆いていました。
病院につき、タンカから台車に乗せられ、診療室に運び込まれたのだと思います。

看護婦さんたちが何やら言ってます。
指で瞼を無理やりこじ開けられました。
やはり何も見えません。
ああ、やっぱり失明したとはかない希望も消え失せました。
身寄りも金もない日本人がいきなりアメリカで失明したら、一体その先どうなるんだろうと考えていました。

医者らしき男性の声がしました。
看護婦さんが何かのクスリを瞼をこじ開けてぼくの瞳に垂らしました。
診療室の天井の明るい照明がはっきりと見えました。
オーマイガッ!
失明していませんでした。

どうやら日本から飛行機に乗ってずっとコンタクトをしっぱなしでしたから、角膜がボロボロに傷付いていたのだそうです。
瞳に垂らした薬は、麻酔薬の一種だったみたいです。
朝まで待って、退院です。
目が明いたから病院名まで分かりました。
忘れもしません、ビバリーヒルズ・メディカルセンターです。

朝一番で前夜のモーテルに帰りました。
何で帰ったのかは全く覚えていません。
バスで帰ったような気がします。

同室の青年には、いきなり僕のために救急車を呼ぶはめになり、心配をかけることになりました。
宿を出て、バスディーポまで一緒に行き、彼は東に、ぼくは北に向かいました。
たまたま同室になった日本人の若者とはそれ以来会っていません。
彼は彼で一種異様な思い出としてこの件を覚えているのかもしれません。

その後3か月ほどアメリカ中をうろうろしました。
気が向いたら続きを書きます。





梅雨

2016年06月04日 | 雑感
唐突に梅雨入りしたみたいです。
これからひと月弱、シトシト雨が続きます。
どうせなら、また滝に入ろうかと思っています。
身も心もすくみ上るような水量の多い滝もこの時節ならではです。

水商売は浮き沈みがありますから何とも言えませんが、このところ夜の営業時間が暇です。
その代わり、昼の弁当がそろそろ2人でするのは限界かなというところまで忙しくなっています。
そういう時はそういう時で対応していくまでです。
ですから、夜の営業に関しては、予約が入ってなければパートナーのSさんには帰ってもらうようにし始めました。
ぼくはといえば、こうして暇に任せて駄文を書いているわけです。

ここ数年、新しく飲食の店を始めたということで手探り状態ながらにひたすら試行錯誤してきました。
思う方向に行っているような行っていないような、まだまだ不安定な状態ではありますが、
なんとか軌道に乗りつつある感触はあります。
どこへ向かう軌道なのか、まだよくわかりません。
ぼくが分からなくて誰が分かるんだという話なんでしょうが、ぼくが思った通りになる感じでもありません。
なんというか、常にエンジンブレーキがかかっているような、そんな変な感じです。

というわけで、今までおろそかにしていたブログなんかもできるだけ毎日書いていこうかと思っています。
読んでくださる方がいるかどうかよりも、自分の整理にはとても有効な気がします。

このブログを始めたころには、「農漁村再生プロジェクト」を立ち上げたいみたいなことを書いてました(笑)。
どうもぼく自身がそういうことをするのは無理そうです。
それよりも、そういうことを着々と実行実現している人たちを紹介できればいいですね。
けっこうそういう人たちがいるんです、ぼくの知り合いには(倒置法)。
フェイスブックだと軽すぎるし、どういう仕方がいいのか探ってみたいと思います。

まだまだ研究したいことがあります。
神道のルーツ、日本のルーツ、縄文文化、宇宙とエジプト、音・香り・味・色彩・感触、五感の秘密と可能性、
エネルギーとしての意識。
全てが中途半端です。
しばらくは、降りしきる雨音に耳を傾けながら、心に渦巻く雑音やら雑念やらを打ち払ってみます。
いろいろ、本気にならないと、すべてが中途半端になりそうです。




どうでもいい

2016年06月03日 | 
どうでもいい
すべてはどうでもいい
どうでもいいからこそ
すべてが愛しい

愛しいに理由があれば窮屈だ
愛しいに理由なんぞあってほしくない
どうでもいいからこそ
すべては愛しい

命など吹き飛んでしまえばいい
それでも吹き飛ばされもせず
太陽の下にじっと身をすくめているからこそ
命は愛しい

どうでもいいから自由が尊い
どうでもいいから自分の生き方を決められる
どうでもいいから他人を信じたい
どうでもいいから季節の移り変わりが耐え難く愛しい

どうでもいいという大海の中を泳ぎ回る
どこの港がいいだのあそこの岩礁がシブいだの
どうでもいい噂が次から次へと流れてくる
すべては自分の手腕と決断にかかっている

ややもすればどうでもよくない世界にあこがれる
何かを全部誰かに決めてもらいたくなるのだ
そんな誘惑に打ち勝ってどうでもいい大海に泳ぎ出る
自分の進路は自分で決める

死んだっていい
それこそどうでもいい
どうでもいいからこそ
生きてる限りは生きてやる

それだけだから
生きることが楽しくなる
思う存分に冒険したくなる
死ぬという恐怖が無くなる

理由がれば理由から外れれば怖くなる
何かのために生きれば何かのためを失えば怖くなる
生きることにこだわれば死ぬことが怖くなる
恐れは次から次へと恐れを生み続け

そんなこんなもどうでもいい
どうでもいい大海を泳ぎ切ろう
波が荒れようが
どこにいるかが分からなくなろうが

泳ぎ切ろう
目的地などどうでもいい
どこかに辿り着くのもいいし
ひたすら漂うのもいい

ムキになって泳いだらだめだ
時にはただぷかぷか浮かんで太陽と風と空に身を任せよう
すべてはどうでもいい
完璧だ







時のはじまり

2016年06月03日 | 
何もかもを見抜く目が
何もかもを隠す目に出会ったとき
全てが完全にスパリと消えてしまった

時は止まり
色を失い
質量も消えた
風さえそよとも吹かなかった

何もかもが消え果てて
全ての記憶が失われたころ
果てしのない暗黒の空無のかなたで
誰かがクスリと笑った

そうしてまた
お馴染みの波紋が虚空に広がった
その様子を天空の外から眺めていた天使たちが
やれやれと身支度を始めた

ある顔色の悪い天使が憂鬱そうに古びた木箱から重たそうな爆薬を取り出し
いいかにも嫌でたまらないといった風情でそれに点火した
暗黒の空無の一点が唐突に爆発した
そうして再び 時が流れ始めた