風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

パーティ

2005年07月19日 | 雑感
土曜日の滝行に行き、仕事を終えて、家に帰って太股を見てみると手のひら大にどす黒く内出血していました。
胡坐をかくようにして水量の多い滝に入ったので、水に打ちつけられ慣れていない太股が
内出血したのでしょうが、これほど衝撃があるものかと少し驚きました。

土曜日、地域のアメリカ人と交流するというパーティーに出てみました。
こういうのは普段から苦手なのですが、ちょっと出てみようかという気になって知人と出席しました。
6-70名の出席者がいたと思いますが、アメリカ人は15-20名くらいでしょうか。
英語教師の方がほとんどだそうです。
ぼくはひたすら知人と水割りを飲んでいました。
ダンスタイムになっても、踊るのは中年の男同士のアメリカ人と、ダンス自慢の夫婦の二組だけです。

パーティーを一朝一夕で楽しむようにはなれません。
欧米人のように、子供のころからパーティーに参加しつけていないと、会話ができません。
まず、人をじろじろと品定めをする視線が飛び交うのに、どうもなじめません。
視線が合ったら、笑顔を浮かべて「ハイ!」と気軽に声をかける文化土壌がないと、
品定め視線の圧力で萎縮してしまいます。
萎縮しているうちに、パーティーと称する軽薄な猿芝居が終わるのが常です。

それから、日本人同士だと会話の内容が貧弱です。
個人的な会話に進むことはまずありません。
仕事の話から始まり、仕事がらみの仕事の話を発展させます。
愛想笑いを浮かべ続けるのに疲れてしまいます。
冗談や皮肉を言うと、は?と聞き返されるのが常です。

それでも、二人のニューヨーク出身のアメリカ人青年と知り合いになり、二次会に行きました。
一人のほうが、将来に夢を持てないというので、どうだ、明日滝に行かないかというと、行くといいます。
ユダヤ教だというので、ユダヤ教のお祈りでも滝の中で唱えればいいと勝手なことを言いました。
それから、例のごとく、酔いが深まり、ぐちゃぐちゃ深夜まで話しました。

次の朝、例のアメリカ青年から電話があり、待ち合わせ場所で待っているんだけどと言います。
そうです、例のごとくぼくは寝坊しました。
ごめんと謝り、2時間後に行くと約束しました。
それから一時間ほどすると、また彼から電話があり、今眠くてたまらないから今日は行かないと電話がありました。
もしかすると、徹夜していたのかもしれません。

というわけで、アメリカ人を滝に連れて行く機会を逸しました。
残念なような、ほっとしたような気がしました。

約束を平気で破る日本人という噂が広がったらぼくのせいです。
ごめんなさい。








町おこし

2005年07月16日 | 世相
今朝は2週間ぶりに滝に行きました。
水量が多くて体全体ががくがく揺さぶられましたが、気持ちはよかったです。
導師の言うとおり、水量の多いのをそのまままともに受けると、さすがに疲れが出ます。
嫌な感じの疲れでは全然ないのですが、なんかだるい感じが残ったまま、仕事に出ました。

街は祇園祭りです。
山車が街の隅々まで練り歩き、太鼓の音に混じって子供たちの囃子の声が聞こえます。
子供のころ見た風景というのは、その子の原体験になっていきます。
今の子達が、この不況の街で何を見、何を感じているのかは知る由もありません。
それがいい思い出となって、今の子達のその子供たちまで祭りが引き継がれていく
原動力になればいいと思います。

ぼくは東北の田舎に育ちました。
幼いころ、そんなド田舎の町内でも、山車を引いた祭りがありました。
山車を引くのに参加すると、なんやらかんやら食べ物やら飲み物がもらえました。
小僧小娘一同こぞって参加しました。
気がついたら、その祭りもなくなっていました。
今となっては、どこの神社に奉納する祭りだったのかも定かではありませんが、
たぶん大人になって行ってみてそのあまりにもな荒みように驚いたことのあるあの神社だと思います。

祭りも消え、産土の神社さへもお参りする人がいなくなるような土地で町興しなどできるはずがないと
ぼくは思います。
うちの父親なども参加して、さんざん町おこしのプランを練っていたようですが、
どれもこれもものになりませんでした。
田舎の町おこしには大体二つの流れがあります。
土建屋と結託した箱物プラン。
文化人の名前を利用したトラの威プラン。

こんなものはだめだめです。
町そのもを死なせといて、箱物作ったところで誰が来ますか。
産土の神様ほっといて、著名人を参拝するなんてのはナンセンスです。

で、人が来たので、今日はこれまで。









だらだら

2005年07月15日 | 雑感
昨日は夕方そうそうから飲みごとがあり、ブログをお休みしました。
すみませんでした。

江戸時代か室町時代の渋いお不動様を手にいれました。
彩色も瓔珞もきっちり残った逸品です。
こういうのを手に入れるととてもうれしいです。
宝石は手放すのがちっとも惜しくありませんが、招き猫とかこういう仏像は手放すのが惜しいです。
物欲はないほうなのですが、もう二度と出会うことがないだろうというものに関しては、
さすがに心が残ります。

今年の夏はなんか涼しい感じがするのはクーラーーの効いたところにじっとしているせいでしょうか。
分厚い雲に太陽が遮られているせいなのでしょうか。
ともかく、暑くてたまらないという日がまだない様に思います。
近頃の天候は油断がなりませんから、いきなり暑くなるかもしれませんが。

最近冷やし中華を食べたくて仕方ありませんが、近所に適当なところがありません。
困ったものです。
うどんばかりを食べています。
冷やしうどんというのは好きではありませんし、蕎麦は九州はいまいちです。
そういえば、普通の中華そばも食べたいです。
今風の、とんこつブレンド風や、四角く切った大きな海苔が乗っているような代物ではなく、
昔どこにでもあった食堂などで出されていたような中華そばが食べたいです。
とんこつはもう嫌だーーーーーーーーーー

なんか今日は話がまとまりません。
で、中古車の出物があります。
マークⅡ、ワンオーナー(女性)、走行距離3万キロ、車検二年つきで60万円です。
ローンも可能です。
興味ある方は連絡ください。

近々引越しをします。
窓から山並みが見えます。

おとといは、朝から晩までで食べたのがせんべい3枚だけです。
あとは、ビール一杯と、焼酎をボトル3分の2です。
なんか腹の調子がよくありません。
当たり前ですが。

だからどうしたという話ばかりですので、今日はこの辺で。







祇園太鼓

2005年07月13日 | 雑感
今朝も滝に行こうと思っていたのですが、寝過ごしました。
どうもいけませんね。
また夜中に目が覚める癖がつきかけています。

夕暮れになると、祇園太鼓の練習する音が街のあちらこちらから聞こえてきます。
太鼓は世界各地で悪霊を払う楽器として古から使われていたと何かの本で読んだように記憶しています。
ドン、ドン、ドンという単純なビートが、じめじめしたまとわりつくような波動を蹴散らすのでしょう。

和太鼓の音を聴かせた水が、どんな結晶を作るのか見てみたいものです。
なんか知りませんが、八角形の結晶を作るのじゃないかと、ふと思いました。

ぼくは楽器が苦手です。
音符を読めないのはもとより、練習の段階でたちまち挫折します。
サックスかなんかを持って、波止場でブォオオーンと吹いてみたいのですが、←嘘
とにかく、練習しなければならないのが苦痛です。
女の子にもてようと、フォークギターは何とか弾けるようになりましたが。

今気づいたのですが、楽器が苦手なのではなくて、練習という過程一般が嫌いなのでしょう。
そういうわけで、字も下手です。
書けて読めればいいじゃないか、字に下手も上手もあるもんかという具合です。
書きなぐったような書道家の字をありがたがるのは、字の上手な人なんでしょう。
ふん、何だこんなものとしか、ぼくは思いません。
このブログにしても、活字だから読んでくださる方もいますが、ぼくの手書きだったら誰も読みません。
断言できます。
自分の書いた字さえ、数週間もするとなんて書いたのか分からなくなることがあります。

でも、太鼓は練習というよりもセンスで叩けるような気がします。
センスはあるんです、自称。
だから、太鼓は叩いてみたいと少しだけ思わないでもありません。←回りくどい

もうすぐ梅雨も明けて、夏の日差しが照りつけます。
ここぞとばかりに浴衣を取り出して、若い娘たちが街に繰り出し、
若いにーちゃんたちが大袈裟な身振りで祇園太鼓を叩く季節がやってきます。

一人じめじめしているのは誰だ?
ぼくでした。


リスとドングリ

2005年07月12日 | 雑感
リスは冬眠をしません。
せっせ、せっせとドングリを集めては秘密の倉庫に隠しておき、冬の食料とします。
ところが、時として、リスは雪の下に埋まった秘密の倉庫のありかを忘れてしまうのだそうです。
リスから忘れられたドングリは、春になり芽を出します。
そういう仕組みで、ドングリは子孫を残します。
ドングリの遺伝子は、リスが食べ忘れることさえ計算しているのでしょうか。
リスにどうぞ食べてくださいと身を投げ出し、たまたま食べ残されたドングリが芽を出すのです。

こういう高度なテクニックは好きですね。
与えつくして、与えられる。
理想の循環ですね。
リスだってたらふくドングリを食べるのですから、ドングリにだまされたとは思いますまい。
ところが、未熟な人間は散々与えられているにもかかわらず、
与えられたものを溜め込み、手放さず、ほかの誰かに与えることを拒みます。
与えることで成り立つ自然のサイクルが、人間にいたって遮断します。

人間の吐き出すものは、ゴミと毒です。
自然に、たくさんというか、すべてを与えられているにもかかわらず、自然に与えて返すものはゴミと毒です。

どうあがいてみても、与えて循環する自然のサイクルを人間文明は作ることができません。
人間の文明の成り立ちが、他者に与えるという理念で構成されていないからです。
「自分の」利便性、安楽、欲の満足を追求するために文明は進化してきました。

未開文化では、人間とて与え、与えられるサイクルの中で生きています。
森の中の生態系の中で頂点に立つといっても、与えられる以上には人口も増えず、
食べられる以上には食物を必要としません。
植物繊維で作った衣類は土になり、糞便も地に溶け流れに溶けます。
ひとつも無駄にならず、生命の循環は続きます。

あらゆるところで、文明の名の下、人間は生命の循環を断ち切り続けています。
生命の循環を断ち切れば、いづれ、自分たちの生命も断ち切られることは自然の理です。

こういうことは、19世紀の昔から世界中で散々言われてきたことです。
そのとおりだと思いながらも、「自分の」文明を手放せないところに、人間の愚劣さがあります。
愚劣は、愚劣のサイクルを生み出します。
生産のサイクルではなく、破壊のサイクルを生み出します。
狂ったように天地の恵みを収奪し、天地のシステムを破壊します。

カミさまは、いい気になっている人間とその作り出す醜悪な建造物よりも、
ドングリやリスやクマや森や流れや砂浜のほうが好きだと思うのですが。








テロ

2005年07月11日 | 世相
本来なら、今日からロンドン、ローマに行く予定でしたが、気が進まなくて先週キャンセルしました。
そしたら、ロンドンでテロ事件が起きました。

弱者が強者に武力的に立ち向かおうとすれば、今日ではテロという手段しかないでしょう。
小勢力の軍隊が強国の軍隊に立ち向かって勝ち目はありません。
いくら卑怯だといわれようが、無差別に爆弾を仕掛け、あるいは自爆します。

強者と弱者の武力に差が大きく開き、強者が弱者の声を拾わなくなった時、テロは生まれます。
憎しみの連鎖は拡大し、ますますテロの土壌は広がります。

「平和、平和」の念仏は、死を覚悟したテロリストには無意味です。
自分の命が消えても、テロの理念に共鳴するものが一人でもあとに続けばいいと、彼らは思っているからです。

外部の人間の言葉は無意味でしょう。
イスラム教徒がイスラム教徒を説得する以外には道はないと思います。
イスラム教徒も各派に分裂し、いがみ合っていますが、その足元の崩れがキリスト教徒や仏教徒の無関心を呼んでしまいます。

パレスチナの問題にしても、善悪の問題では捉えられません。
歴史の積み重ねと、プライドと、利権がぐちゃぐちゃに絡み合っています。
単なる政治的・思想的理念ではとても仲介できないほどに、問題が絡み合ってしまっています。

歴史を遡った根本的解決などありえないように思えます。
これからどうするか、で理念を共有する以外にないはずです。
理念を共有することを阻むものは何か。
テロや内戦により身内が殺され、友人知人が殺され続けていくと、ますます理念を共有するどころか、
憎しみと殺意が拡大していきます。

この問題は、放置すれば収まるような話ではありません。

新たな救世主が必要なのかもしれません。




想念

2005年07月09日 | スピリチュアル
今朝は寝坊して滝行に行けませんでした。
反省です。

ある本に書いてありました。
光より速いものがある。
それは想念=念だ、と。

何万光年先にある星でも、望遠鏡のレンズにその姿が届くまでには何万年とかかるところ、
想念はその星を念じた瞬間に届きます。

「速さというのは距離を時間で割ったものですね。すると、時間が一瞬、つまりほとんどゼロであるということは、
速さは無限大ということになります」

この時空という3次元的束縛を離れた「念」という世界の理解が深まれば、世界の事象に対する理解が深まると、
この本の著者は言います。

ある女の人が恋人を想います。
その恋人が遠く離れたモンゴルの草原にいたとします。
その想いは空中を波動として伝わるのではなく、一瞬にして彼の姿を心の中に浮かび上がらせます。
今まだの3次元的原理では、想念というものはいかなる物理的現象を起こすことがないと考えられていたために、
恋人を想った時に彼女の胸に浮かんだ彼の姿は幻想でしかないと片付けるでしょう。
でも、彼女の想念の中に浮かんだ彼は、彼女の想念にとっては実在なのです。
言葉を変えれば、想念にとっては、想念がピントを合わせたものだけが実在します。
どんなに人ごみの中にいようが、彼や彼女が恋人のことに想念のピントを合わせていたら、
物理的な周囲の人の群れや、建物や、何やかやは存在しません。

つまり、人にとってはその時々想うことのみが存在しています。
物理学の洗脳を受けて、確固とした存在に囲まれているように思い込んでいますが、
人が想わない限り物は存在しえません。
ビールスという存在をあるとしてから、ビールスは存在するようになったのです。
それまでは、人々の想念のなかには、悪霊だとか、邪気だとかがビールスの代わりに存在していました。

変な話ですが、想念ということから世界を見るとそうなります。
3次元的物理学の世界から見れば、すべては戯言です(笑)

ふと懐かしい人を思い出したときに、その人から電話がかかってくるとか、
戦死した人が、ちょうど亡くなったその時に親しい人の夢枕に立つとか、珍しい話ではありません。
胸騒ぎとか、第六感とか、いかなる物理的媒介を通さない、感応方式があるのかもしれません。




山登り

2005年07月08日 | 旅行
若い時はしょっちゅう山登りに行っていました。
特にお気に入りは、八ヶ岳でした。
五月と11月の連休には必ず八ヶ岳に行っていました。
五月は残雪が豊かに残り、11月はそろそろ雪が舞うころだったからです。
なぜか雪がすきなのです。

八ヶ岳のお気に入りのルートに白樺尾根というのがありました。
文字通り、白樺並木の中を尾根がゆるゆると勾配を上げています。
秋には落ち葉の絨毯が敷き詰められ、こんな気持ちのいい登山道があるのかと感動しつつ登ったものです。
あるとき鉄網のフェンスが右手にあるのに気がつき、何事かと思ったらスキー場ができていました。
こんな山奥まで切り開かなくとも、周辺にいくらでもスキー場なんかあるのにと思いました。

それから、もうひとつお気に入りの山は剣岳です。
立山連峰を縦走し、槍ヶ岳を右手に見て、さらに進むと畏怖堂々たる山容が目に入ってきます。
厳しいルートですが、最初から最後まで何かわくわくする感じをしながら登れるルートでした。
立山と槍ヶ岳をつなぐ鞍部で、テントで宿営したことがあります。
その時の夜空のすごさはちょっと表現できません。
プラレタリウム的夜空というよりも、銀河がきらめく宇宙空間が手の届くところに迫っているといった感じでした。
このあたりではカモシカの姿や、雷鳥の姿もちょくちょく見ることができました。

山に登る時は、大抵は新宿発の夜行列車を利用していたように思います。
電車の床に新聞紙を敷いて、リックを枕に寝たものです。
信州に入ると空気の匂いが一変します。
森と水の匂いがします。
信州そばも大好きになりましたし、雪をいただいた北アルプスを背後にした松本城や、長野の善光寺あたりも好きでした。
小諸に行くことがあれば、島崎藤村を真似て、必ず濁り酒を飲みました。
電車を降りてから、どの山に登るにしても、山裾の集落までバスを利用することになります。
地元の幼稚園児やら老人たちに混じってキャベツ畑の横だの、渓流沿いだのを走るのは楽しい思い出です。

九州に来てからは山に登りたいという気が全くしなくなりました。
一度、正月に由布岳に登ってやろうと、由布院の知人の別荘に泊りがけで行ったのですが、
正月の3日間、どうもその気になれず、酒を飲み続けていただけで終わりました。
九重の山も登ったらいいのかもしれませんが、まだその機会を見ずにいます。
本州の山に比べて、迫力に欠けるのは否めません。
分け入ればいるほどその景色を変えていくというような深度も足りないです。
まぁ、足腰も昔ほど強くはないので、そのうち九州の山こそ最高だと言うかもしれませんが。
ただ、どこもかしこも麓の山の手入れのされていない杉林で覆われているのは感興を削ぎます。

「自然がすき」とか「環境保護」とかいった手垢がついた言葉は使いたくありません。
自然丸ごとは好き嫌いの対象であるとか、保護すべき対象であることから超越しています。

深く湿った樹林帯を抜け、雪混じりの風が吹き付け、やっと今日目指すべき山頂がそのむき出しの姿を見せます。
枯れた木がぎしぎし風にあおられ、雲が恐ろしい速度で山頂をかすめ流れていきます。
地に伏すように葉を這わせるダケカンバの間を縫うようにして、山頂を目指します。
ダケカンバも途切れ、うっすらと雪が積もり始めた瓦礫の中をさらによじ登ります。
山頂に辿り着くと、横殴りの風が吹き付け、足元がぐらつきます。
眼下に雲が大河の流れのように波打ちながら押し寄せ、尾根を越え、瀑布のように流れ落ちています。
その流れに一瞬の雲の切れ間から陽射しが当たり、金色の大瀑布となります。
そんな一瞬を見るために、山に登るのでした。






不登校児

2005年07月07日 | 世相
昨夜も深夜目が覚め、眠れそうにもないので焼酎のお湯割を作り、テレビをつけました。
番組の途中からでしたが、岡崎市の寺の住職が不登校児を引き受けているドキュメンタリーをしていました。
虐めやら、引きこもりやらで不登校になった少年少女が、共同生活しながら、寺の地元の学校に通い、
そこから進学やら就職やらの道筋を見つけ出していく、という筋書きです。

少年や少女の大半は茶髪やピアスといったお決まりの姿です。
子供から大人になりきれず、真面目と不真面目の境も曖昧のままに、世に出て行く不安が隠せません。
住職は慕われていました。
そういうことには敏感なはずの少女たちも、平気で住職と手をつなぎ、抱擁しあいます。
そういうスキンシップに飢えていたのかもしれません。

立ち直り、福岡の学校に通い始めた少年が、寮で同室の同級生から虐めにあっているといって、住職に相談に来ていました。
住職は、じゃあ俺が一緒に学校に行って、校長でも寮長でも誰とでも掛け合ってやると約束しました。
その少年は、次の日自宅で首を吊って死にました。
葬儀の時、住職も、寺で共同生活していた仲間も、気持ちを分かってあげられず、何もしてやれなく、申し訳ないと泣きました。

住職は、二人きりで住む盲目の夫婦のところにも、毎日のように食事を届けてあげています。
住職がその夫婦のところに行くと、決まって部屋に電気はともっておらず、二人ともコタツに寝ています。
住職は快活に声をかけ、弁当を温め、お茶を入れてやります。
盲目の夫婦は、それを黙って食べ始めます。

昔同棲していたボーイフレンドから携帯に電話があり、たまらず寺を出て行こうとする少女もいました。
仲間から辛いのはあんただけじゃないのよと諭されても、住職から甘えるなと叱られても、結局彼女は寺をあとにしました。
住職は彼女を駅まで送っていく道すがら、やるだけやってみろ、行き詰ったらいつでも帰って来いと、
彼女の手を握りながら言っていました。

若い少年少女が次から次とやってきて、ごちゃごちゃ暮らし、その面倒をみるだけでも大変なのに、
進路の相談、傷ついた心の癒し、誕生日を迎えた者に対する心遣い、季節の行事、目が回るような毎日だと思います。
この住職の、少年少女の姿を、テレビの画面で見ているだけの者は、言葉がありません。
当事者にとっては、絶望か、希望かの瀬戸際を歩いているはずなのです。
画面に映るどたばたした日常に中に、繊細な心が波打ち、不安と疑心が湧き上がり、欲求不満が爆発しそうになっているはずなのです。
住職は、そんな少年少女の変わりやすい心を、祈る思いで見守っているはずなのです。

これは善行などというものではなく、ともに苦しみ、ともに引き受けるものができる菩薩行です。
ありとあらゆる矛盾がその住職の行為からは生じてくることでしょう。
心無い視聴者なんて、何とでも言うのです。
人を簡単に批判し、侮蔑する類の人間がこの世の中には確かにいます。
その矛盾さへも引き受ける覚悟がなくてはできないことです。

季節は巡り、寺の境内にも桜吹雪が待っています。
少年少女もその景色にさすがに感動したのか、携帯のカメラに収めます。
何年か何十年かしたら、その写真を見るとき、彼らもまた、人に手を差し伸べずにはいられない
覚悟のある人間になっていることだろうと思います。








ぼやぼや

2005年07月06日 | スピリチュアル
心がスカッと晴れません。
これは自分を小賢しくコントロールしようと思いがあるからだと、うすうす気がついています。
自分を丸ごと委ねるということがどうも下手です。

今日店に新しいお客様が来ました。
このあたりで手広く気功の先生をしている方です。
北極で天使を見たり、月の横に光の球を見たり、マリア様を見たり、たくさんのお導きが次から次へと身辺に起きているそうです。
マリア様のお話は感動的でした。
すべての人間のあらゆる経験はすべて神の愛の導きなのだと、マリア様が涙をぼろぼろ流しながらおっしゃるのだそうです。
その経験で傷ついたり、苦しんだりするのも、すべて見守りつつも、超えていってくれと、涙を流すのだそうです。

こう書くと、なんか限りなくサイコパスに近づくようにしか思われないかもしれませんが、
彼女が自発的に話したというよりは、ぼくが根掘り葉掘り聞いたことに彼女が淡々と答えてくれた話です。
普段はこんな話をしないが、ぼくが滝の話やなんかを振って、聞き出したというほうが近いです。

すべての人間は偶発的に生まれてきたのではなく、頑張ってこいよとこの世に送り出されてきたのだという話は、
ニューエイジ風の軽いイメージではなく、「慈悲」のトーンが話の基調になっていました。

こういう話はもちろんすんなり受け入れられるものではありません。
彼女ももちろんそういう現実に生きているわけですから、ぼくが根掘り葉掘り聞かなければ語らなかったでしょう。
事実、店内を一通り見て帰ろうとした彼女を、ぼくが引き止めて、コーヒーを飲ませて、いろいろ詮索したのです。

ぼくは話を聞きながら、仏様の慈悲、菩薩の慈悲というものと全く重なるなと思って聞いていました。
それから、彼女とぼくとの違いについても考えていました。
彼女はそういう体験をすることに対する恐れはもう捨て、体験し感じたことをそのまま伝える決心をしているということ。
ぼくはそれほど深く強烈な経験もしていないし、体験したところでそれをいちいち解釈したり、分析したりしているということ。
勇気と潔さの違いかもしれません。

一時代前には、「気」ということさへ、胡散臭く思われていました。
今ではぼくでさえ、頼まれれば「気」を当てるような真似事をします。

ぼやぼやしている時間はないのだそうです。
現実的に見ても、世界がこのまま順調に推移する可能性は限りなく低いです。
資源は枯渇に向かい、人口は増え続け、環境は悪化します。
「生きる」という意味を、本気で探し当てないと、この悪循環は止まりません。

ぼやぼやしている時間はない、ですね。


ペット

2005年07月05日 | 雑感
虐められていたコッピーが死にました。
虐めがひどくなり、ビンの底でうずくまるようにしてじっとしていることが多くなったものですから、
さすがにこれはまずいと思って、別のビンに移しました。
よく見ると、虐められていたほうは、背骨が曲がり、色も脱色したように抜けていました。
体の大きさも、いじめっ子のコッピーと比べて、半分くらいにやせ細っています。

別のビンに移してからもしばらくは底のほうでじっとしていましたが、半日もすると動いても虐められないのが分かったのか、
するすると泳ぎ回るようになりました。
餌も食が細いながらも食べました。
それでも、数日もすると、なんだか元気がなくなり、ミズモにもたれ掛かるようにしてじっとしていることが多くなりました。
元気になるように手をかざして念を送りましたが、最後には餌も食べず、底のほうでじっとしたまま数日を生き、そして死にました。

いじめっ子のほうは、元気いっぱいで泳ぎまわっています。
お前はとにかく長生きしなければいけない。
無駄に元気で、無駄に食欲があっても、とにかく長生きしなければならない。
そう言い聞かせています。

植物にしても、動物にしても、関心を持って、きちんとケアをしてあげないと死にます。
当たり前のことなんですが。
ぼくなどはすぐその存在を忘れてしまいます。
忘れるくらいなら、初めから飼わなきゃいいのですが。

以前、犬を一匹と猫を三匹飼っていました。
猫は餌と水をやって、外への出入りを自由にさせれば何とかなったのですが、
犬は散歩に連れて行かなければなりません。
そういう犬の飼う者の基本的な義務さえ果たさず、夜中に鎖を外して、腹をすかせて戻ってきたところに餌をやり、鎖をつないでいました。
そんなやり方ですから、しつけもしませんし、体を洗ってあげもしませんでした。

犬にも表情があります。
だんだん疑り深い、きつい顔つきになっていきました。
さすがに、かわいそうに思えて、それからは犬を家の中に入れ、走り回らせるようにしました。
しつけをしていないので、言うことを全く聞かず、てこずりました。
家の中に入れると、臭いが気になり、ホースの水で洗おうとしましたが、犬にとっては虐めにしか思われず、キャンキャン抵抗しました。

冬のある日、その犬が庭でキャイン、キャインと悲鳴を上げていました。
見に行くと、腰が立たないみたいです。
餌も食べ残しています。
腰に触ると、キャイーンと叫びます。
抱きかかえて家に運び(運ぶときも痛そうに叫び続けました)、ダンボールをしいてその上に横たわらせました。

苦しそうに、恨めしそうに、ぼくの顔を見上げます。
無意識に手を腰の辺りにそっと当て、痛みが和らぐよう祈りました。
犬は目を閉じてじっとしています。
そのとき、この犬に何もしてやらなかったことに気がつきました。
生き物を囲いながらも、無関心で、無慈悲で、生命をいたずらにすり減らさせていることに気がつきました。

次の日、車で病院に連れて行きました。
獣医の言うことには、生まれつき背骨あたりに異常があり、神経を圧迫しているようだとのことでした。
寒くなると、その痛みが増すのだそうです。

犬を家に連れて帰り、その顔をじっと見ました。
痛みが幾分和らいでいるのか、背中を丸めて眠っています。
この家に来てから、この犬は心を開いたことなどありはしなかったのです。
開きたくとも、心を開くべき飼い主がいなかったのです。
自分の享楽しか頭にない馬鹿な人間が、この犬の生命を鎖でつなぎ、苛んでいました。

そしてまた、小さな魚の生命が、目の前で消えました。
ガラスのビンに閉じ込め、尊大に餌をやり、ビンをつついて驚かせ、何一ついいことはしていません。

コッピーの死骸は知人の家の庭に埋めさせてもらいました。
自分の手で埋めたのではなく、それさえも知人に頼んで、埋めてもらいました。




偶然と必然

2005年07月04日 | スピリチュアル
どちらもたまたま偶然なのですが、男女のウィンブルドンの決勝戦を見ました。
テニスという競技をしたこともないし、興味もなかったのですが、最後の最後まで真剣勝負で面白かったです。
男顔で、花がないと評してしまって、ごめんなさい>ダベンポート
試合が終わったあなたの顔はとても穏やかで、きれいでした。

女子バレーの日米戦も見ました。
日本、強くなりましたね。
もう少しこづるさが身につけば、いけるでしょう。

土曜日、店を閉めた後ブログを書いていたら、お客様がふらりとやってきました。
娘が見合いをするのでうまくいくように祈ってほしいというのです。
確かに、店には手作りの神棚がありますが、ぼくが祈ってどうなるわけでもないのですが、
是非にというので、大祓詞を上げ、娘さんの前途にお力添えを祈りました。
気持ちが清々したと帰っていかれましたが、なんかいいことをしたような、不遜なことをしたような、複雑な気がしました。

店のお神様は、導師のお導きによって、美保の恵比寿様なのですが、
次の日(昨日)、ほんの偶然、何の気なしに若松の恵比寿様にお参りに行きました。
神社仏閣によっては、お参りした後、頭がくらくらすることがあります。
立ちくらみの軽いような感じです。
そういう感じになりました。
不遜なことをして、叱られたというような感じはありませんでした。

偶然、偶然と書いていますが、意識に上ってこない=意図していないという意味では偶然なのですが、
ウィンブルドンの決勝戦を見たのも、お客様の祈念の依頼も、若松の恵比寿様への参拝も、偶然ではないのでしょう。
その必然を、その因果、縁起を分かりもしないのに、必然とする確信を差し控えようと思っているだけです。

それぞれの人間に、それぞれの生き方の流れというのがあります。
その流れ自体は必然ですが、流れの中で何と出会い、何を見逃すかは、「意識」が働きます。
その「意識」の作用の及ばないところを、人は偶然と呼びます。
「意識」が全く開放されれば、偶然はなくなり、すべては必然の流れとともにあるわけなのでしょう。

仏教では、意識も「空」です。
対象も、認識作用も、認識したと思う心も「空」です。
徹底して、世界は空だ(色即是空)と認識尽くしたあとに、空即是色がドカンとやってきます。

何かが固定した形での存在というのはすべては幻(空)だ。
しかし、その幻の時空間は、すべてが存在することを可能にする、無色透明の「可能性の大海」だ。
可能性の結果としての「もの」や「こと」が存在するのではなく、無限の可能性のみが存在する。
可能性=思い=念のみが存在する。
その思いや念にとらわれた瞬間、可能性は消え、存在し得ない幻が存在するかのように人間に認識され、その認識に縛られる。

言葉が追いつきませんが、そんな感じなのだと思います。
思いや念からも解き放たれた境地というのは、語ることができない境地でしょう。
そういう境地の一端を垣間見るために滝に入っているのかもしれません。



プロジェクト

2005年07月02日 | スピリチュアル
今朝の滝は予想通りに水量が多く、集中できました。
やっと雨季らしい滝になってきました。

ところで、滝の導師からここ数日のぼくのブログに対するコメントをいただきましたので、紹介させていただきます。

以下引用

雲消し  雨乞いについて書いていましたが、古の教えは「竜神召喚」でした。そもそも竜神なるお神様は、雲を呼び
     雨を連れて現れるとされていました。 現代では、天気図により雨雲もしくは低気圧を引っ張るとされてい
     ます。勿論念力を使うことには変わりありません。大きな護摩壇を焚き風を起こし雨雲を引き寄せます。
     多人数の修行を積んだ行者さんが必要になります。 簡単ですが

光    例えば、野に咲く花 で考えてみた時、禅宗ではどう捉えますか?浄土真宗では?蜜 経は花が何故咲いて
     いるのか、花を咲かせている自然のエネルギーを吾身に取り込む光のエネルギー大地のエネルギー水のエネ
     ルギーどれが欠けても花は咲きません。自然界に充満しているエネルギーを吾身に取り込み、加持祈祷に
     そのエネルギーを使用することが行者の使命と僕は捕らえています。君も折角ブログを開設したのですから
     読んでいる方々に光のエネルギーを注ぎ込んであげてください。それも滝の行者としての使命と思います。

五 感  般若心経に唱えている様に、色も臭いも形も全て存在いていないのです。花屋の店頭を飾る花を美しいと
     感じても、人が決して入ることの出来ない谷間にも同じ花は咲くのです。人から美しいと賞賛される為に
     花は咲いているのでしょうか?美しい物を求めるのは人の心であり人の心が全てを創りだすだけではない
     のでしょうか?森羅万象は人の為に存在しているのではなく、Qちゃんの言葉ではありませんが、
     森羅万象そんものが(方言が出ました、あえて訂正しません)神でしょう。
     人 自然 全てを神の創造と考えた時君はどう観ますか?人は全てその人の心のフィルターを通してしか
     観ていないだけなのです。で あるからにしてギャンブルやビジネスが存在する訳ですが。

引用終わり

雲消し
先日、宮崎かどこかで雨乞いの護摩壇を焚き、見事に雨が降ってきたという記事を何かの新聞で読みました。
気まぐれで雨を降らせるのではなく、神仏の許可と力添えを得て、雨を降らすのですね。
こういった修行を積んで、験力を得た行者さんの数は非常に少なくなって来ていると聞きます。
そもそも、こういった事象自体もナンセンス扱いですし。
すべての事象は光と念との壮大な舞踏劇なのだと思えれば、そう不思議なことではないのですけれども。


光のエネルギーを注ぐためにはまだまだ修行が足りない気がします。
要するに、心に濁りがまだまだあります。
他人の幸せを意識で願うことは簡単ですが、無心に純一に祈ることが可能かと聞かれると、まだまだ嘘があります。
存在そのものが他者の幸福のための絶対的な祈りとなるというと大袈裟ですが、そんな存在が菩薩なのだとすれば、
凡夫の濁りと、傲慢さがまだまだ抜けません。
抜けないながらも、祈り続ける、というスタンスを取る以外に今はありません。
そういう自分のスタンスに対しては、もっと素直になろうかなとは思っています。
あらためて、「滝行」が「素直」になるために必要だったのだと思う次第です。

五感
まさに、森羅万象が「カミ」なのでしょう。
「カミ」の世界にづかづか入り込んで、濁ったサングラスをかけた傲慢な馬鹿チンが、
「何だこの世界は。暗くて、つまらねーや」といっているのがこの世の人間の実態かもしれません。
悟った人の話を読んだり聞いたりしますと、その瞬間、世界が至福で爆発したような感じになるのだそうです。
濁ったサングラスを外すと、おそらく光はそのまま光として見えるのでしょう。
濁ったサングラスを通してみると、そんな光もたちまち自分の利害にかかわる範囲での「もの」や「こと」でしかなくなるのですが。

導師の言葉はとてもストレートで、あたふたしながら今こうして書いています。
何か適切に答えようなんて思わず、腹に入れて、黙って滝に入ればいいことなのでしょうが、
こういうあたふたぶりも曝け出すのも「素直行」なのだと思っているわけです。

それから、滝の仲間がいよいよ、山間の小さな村に自閉症児や引きこもりの児童を引き受け、生きる力を取り戻していくという
プロジェクトを始動し始めました。詳しくは以下のブログを読んでみてください。

http://katamich.exblog.jp/3040944/

人の縁が縁を呼んで、導師の理念と、滝の仲間のプロフェッショナリティが結合して、泥臭くも夢のある世界が実現できれば
楽しいなぁとおもいます。

このプロジェクトの関しては、このブログでもおいおい紹介していきます。


真剣

2005年07月01日 | 雑感
雷とともにすごい雨が降ってきました。
極端な空模様です。

なんか近頃、憂鬱というか不安というか、重苦しいものが胸中を重低音のように流れています。
原因は思い当たりません。
気のせいかもしれませんが、こういう気のせいはなかなか侮れません。
水シャーワーをいくら浴びてみても晴れやかになりません。
明朝の大水量であろう滝行に期待します。

店内を見回します。
代わり映えのない商品が、代わり映えのない表情で並んでいます。
毎日ここに来て、PCをいじったり、お客様と話したりしていますと、初めてこの店を見る人が、
どういう感想や印象を持つのか見当がつかなくなります。
そのあたりの鈍感さは、いいことではありません。
新しい流れを呼び込めないからです。

新しい流れを呼び込み続けなければ、店内は澱みます。
澱んだ空気というのは、そこにいる人間にとっては案外心地いいものなのですが、
外部から見た場合には不快な印象を与えます。

昨夜、お客さんと飲みすぎて、帰るなり寝てしまい、夜中に目が覚めました。
テレビをつけると、シャラポアとヴィーナス・ウイリアムスのウィンブルドンの試合をしていたので思わず見入りました。
両者とも渾身の気迫で打ち合いが続きます。
一球一球に、戦略を練り、戦術を変え、祈りをこめて打ち合います。
こういう真剣さというのは、ぼくなんかには特に欠けているところです。
こういう真剣な時間を積み重ねた人というのは、やはり風格が違ってきます。
見習わなければなりません。

その後、ダペンポートと何とかという人の試合も見ましたが、真剣さは変わらないのですが、
両者とも男顔して、いかつい表情で打ち合っていたので、なんだかつまらなくなって見るのをやめました。
真剣なうちにも、「花」がないとつまらないです。
こうやって、傍観者は何とでもいえるのです。

雨の勢いが衰えません。
このまま降り続いたら洪水の心配までしなければならないような勢いです。
明日の滝が楽しみです。