風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

行く年来る年

2009年12月31日 | 雑感
神棚の掃除をしに店に出てきました。
掃除した神棚は清々しく鎮座ましています。
そのついでに年賀状を書こうと思いましたが、明日にします。
新年を迎えて書くのが本来の年賀状なのでしょうから。←無理やりなリクツ

今日は朝から雪が舞っていました。
ときおり激しく舞い、窓の外が真っ白になることもありました。
子供の頃の年末年始のことを思い出してしまいます。

家にいろいろな人があわただしく出入りし、母や父の姿は多忙でその辺りに見かけません。
ぼくはといえば、意味もなくなんとなくそわそわし、妙にはしゃいでは兄に殴られたりします。
大晦日にはみんなで紅白を見ますが、幼いぼくは最後まで見せてもらえず、早く寝ろと叱られます。
グズグズ布団に入っても、かすかに聞こえてくる歌謡曲や家族の笑い声に聞き耳を立てます。

目を覚ますと、父親が廊下でもちを切り、母親は雑煮、あんこ、きなこ、おろし大根、海苔など、もちの準備に大忙しです。
もちを食べれるだけ食べ、兄弟とソリを持ってとりわけ雪の深く積もる学校の裏山に遊びに行きます。
難度が高いコースで、ぼくは滑ることが出来ずに年長の少年たちが滑るのを眺めているだけです。
いつの間にか兄弟たちは同年代の少年たちとどこかへ行ってしまい、ぼくは一人で家に帰ります。
道端の所々に張った氷を踏み割りながら帰ります。

家に帰ってもみんな忙しそうです。
姉の部屋に行ってみると、姉は同級生と遊んでいます。
幼いながらも華やかな雰囲気をそこに感じますが、ぼくは邪険にされ部屋から追い出されます。

と、書いていけばきりがないことです。
そういう父親は認知症が進み、母親も姉もあの世に旅立ちました。
人生を振り返ると、完璧なことなど一度もありません。
なにかどこかで必ずつまずいたり、転んだり、がっかりさせられたり、傷ついたり、傷つけたり、恥ずかしかったりしています。
そんなものでも、どれもこれもが愛しい思い出です。

みなさん、よい年を!


妙味

2009年12月28日 | スピリチュアル
今年も残すところ後数日になりました。
今年を振り返ると、何かをしたような、何もしていないような、どうとでも取れるいつもの曖昧な年末を迎えています。
曖昧な中にもほのかな満足感があれば及第点ではないかと思っています。

特別なイベントにも、些細な瞬間にも、祝福が宿り、喜びが宿っているはずです。
曇るのは常に自分の心ですから、心さえ青空のように晴れ渡っていたら、どんな瞬間でもすがすがしい喜びに溢れているのでしょう。

心は放っておくとわけなく曇ります。
それでも放っておくと、曇りが凝って泥のようになっていきます。
それでも放っておくと、重たい石のような黒々とした塊になって、心に根付きます。
人の心はなかなか厄介です。

心がなければ喜びを感じられませんが、喜びを曇らせ、疑いを起こさせ、絶望するのも心です。
青空のように晴れ渡った心で生きていければ、この世が天国です。
世の中が曇るのではありません。
人の心が曇るのです。

そういう心の曇りを取ることがいわゆる禅の道です。
調身調息といって、身を整え、息を整えて、心の曇りを吹き払います。
何かのためとか、悟りを開くためとかいうのも、心の曇りの元ですから一緒に吹き払います。
「あるがまま」の妙味を味わいます。

大切なのは「妙味」です。
悲しいも、苦しいも、辛いも、恐れも、生きるうえでの妙味です。
風の林を抜ける音も、雲の流れ行くさまも、夕暮れの大気の移り変わる色合いも、人の千変万化する表情も、四季折々の花のたたずまいも、
すべては大生命の妙味です。

どんなことにも、人にも、瞬間にも、大生命の妙味があります。
その妙味を味わい尽くせば、この世に生きた甲斐があります。
それだけのことなのでしょう。
自分の心を晴らすのは自分しかいないということが肝要です。
誰かや何かに頼ると、その時だけ心が晴れたような気がするだけです。
気分のよくなる映画を何本見たところで、自分の人生は自分の人生のままであり続けます。

自分の人生から妙なる味わいを感じられるようになれば、四の五のが気にならなくなります。
味わい尽くしましょう。


日月神示

2009年12月23日 | スピリチュアル
今、日月神示(ひふみ神示)全文を読んでいます。
中矢さんの解説本を10数冊は読んでいたのですが、改めて神示自体の全文を読んでいるとまた別な印象もあります。
たった一つの存在からのメッセージではなく、いくつかの存在からのメッセージの複合体のような本なような気がします。
神示自体にもハッキリそう書いてあります。

「天の日津久の神と申しても一柱ではないのざぞ、臣民のお役所のようなものと心得よ、一柱でもあるのざぞ。」 天つ巻 第二十六帖

これは神の世界では厳密に言えば一人の神様ではなく、複数の神様からの神示なのだと明示しながらも、
メッセージの方向性としては統一性を保っているものだということを示しているのだと思います。
その辺りの話はややこしいので置いといて、おやと驚いたのが以下の箇所です。

「これまでの改造は膏薬張りざから、すぐ元に帰るのぞ。今度は今までにない、文にも口にも伝えてない改造ざから、
 臣民界のみでなく神界もひっくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分からんのぞ、
 九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、富や金を返したばかりでは、
 今度は役に立たんぞ、戦ばかりではないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、
 つくりかためのいよいよのことは、神神様にも分かりては居らんのざぞ、星の国、星の臣民今はえらい気張り様で、
 世界構うように申しているが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。」 天つ巻 第二帖

これだけの文章でも、いろいろ解説したくなるようなところが満載なのですけれども、特にぼくが注目したいのは次の箇所です。

「星の国、星の臣民今はえらい気張り様で、世界構うように申しているが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。」

というのは、プレアデスとかハトホルとかオリオンとかバシャールとか銀河連合(だっけ?)とかの、いわゆる違う星星の存在からの
メッセージと称する本が書店の精神世界のコーナーには溢れています。
それらの本にはなるほどなぁと思うようなところもたくさんあるのですが、どうも最終的な決め手に欠けているような気がぼくはしていました。
なにが欠けているのかということを突き詰めますと、またしても(異星人なり異次元存在なりの)外部からのガイダンスを信頼し、
自分を解放しなさいという所に行き着くからです。
別に悪くない考えのように見えますが、今の時代の人間のテーマは、「外部から」のガイダンスを勇気を持って断ち切り、
一人ひとりの内部に「元々」持っていた光を一人ひとりが見出すことだと思っているぼくには、どうも納得しがたい何かがあったのです。

で、岡本天明が日月神示を書いていた終戦前後の頃には、もちろんプレアデス星人からのメッセージなどは知られてはいませんし、
そういうメッセージを受信する人もいませんでした。
岡本天明自身も、このメッセージの意味するところを理解することは不可能だったに違いありません。
いろいろな人が言っていますが、やはりこの神示は今の時代にこそ向けられて書かれたものだという傍証にはなるでしょうか。

日月神示を知らない人にとっては何のことか皆目分かりませんね。
大本教の開祖の出口ナオに降りたウシトラノコンジンという神様と同系統の神様が、終戦前後に岡本天明という人間を通して、
この世に下ろした神示ということです。

神示だけあって、言葉の表面をなぞっただけではその深意がなかなか分かりません。
神事でも繰り返し言ってますが、「取り違い(都合のいい勘違い)」と「鼻高か(分かったという高慢さ)」を厳しく戒めています。

日月神示に関しては、まだまだ語りたいこともあるのですが、今日はこの辺で。


アーユルベーダ

2009年12月22日 | スピリチュアル
寒さは昨日までの数日に比べて穏やかになったようですが、今日は冬至だそうです。
明日からまた一日一日と日が長くなるわけです。
時代もものごとも後ろに流れ去って行きますが、日々新しい息吹も生まれています。
その場その場の幸不幸に振り回されることなく、自らが新たな息吹の源となれれば幸いです。

ストーン・ヘンジやインカなどの古代の遺跡では冬至に重要な祭りが行われていたようです。
太陽が再生する日として尊ばれたのでしょう。
言うまでもなく、太陽はすべての生命エネルギーの源です。
人間も植物のように太陽エネルギーを直接摂り込めるようになれば、争いごとは絶えるでしょう。

先日、アールユベーダの先生という方と話をする機会がありました。
人は食物を摂らずに生きることはできるかという質問をしてみました。
ある程度の修練は必要だろうが、出来るだろうというお話でした。
その方はいわゆる「ヒマラヤの聖者」と呼ばれるような人たちとも生活を共にしたことがあるそうで、
興味深いお話がたくさんありました。

世の中にはまだまだ面白い話があるものですが、でもそれはただの話です。
面白がって聞くだけで、自分の腹が膨れるわけでも、賢くなるわけでもありません。
そういう話を聞いて、さて、自分がなにをしたいのか、どこに行きたいのかを選択する上でのヒントになれば、
その話を聞いた甲斐があるというものでしょう。

どうやらアーユルベーダの世界というのは、肉体・精神・神界から自然の摂理までを包含する膨大な世界のようです。
書物か何かでそれを学ぼうというのは無謀の試みで終わるような気がします。
一番の近道は「瞑想」ではないかと思っていますが、その瞑想の仕方に関しても、どうやらそれは秘伝口伝のようです。

で、改めてぼくは「禅」に参じている自分の境遇をありがたいと思うわけです。
「禅」はインドの瞑想のエッセンスであるような感じがするからです。
ここだけは抑えておけという最小限の核のようなものだという、そんな感じがします。
ろくろくなにも知らないぼくがこんなことを言うのもなんなのですが、そのアールユベーダの先生も入り口は「禅」だったそうです。

日曜日には今年最後の菅生の滝に行ってきました。
もはや寒いという段階ではないです。
二日酔いでもあり、お不動様のご真言を三回上げただけで、そうそうと滝を出ました。
写真は滝仲間のKちゃんが撮ってくれたものです。

「宇宙となかよし」

2009年12月18日 | 雑感

昨日は雪の舞い散るなか滝に行きました。
冬の滝は何度か経験しているのですが、昨日はなんだか知れませんがことさらに厳しく感じました。
20日は菅生の滝です。
さらに厳しく感じるかもしれません。

滝といえば、滝の仲間のQちゃんが本を出版しました。
処女作です。
彼のブログ(「宇宙となかよし」)を読めば分かりますが、とにかく前向き、有言実行の世界です。
ともすればスピリチュアルの世界は安易な方向にダラダラ流れがちですが、一切そういう甘さはありません。
とにかく明快で、朗らかです。
出版したばかりでアマゾンで総合一位を獲得してしまいました。

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皆さんも応援してください。
楽しく充実した世界が一人でも多くの人に広がっていけばと思います。


2009年12月09日 | 雑感
昨夜は道場の忘年会で、日本酒をしこたま飲み過ぎました。
今日の夕方までお酒が残っている感じでした。
まぁ、あいかわらずです。

峠というのは、昔の人がその語にこめた思いは、今の人が思うよりもずっと重たいものがあったのだと思います。
峠は国境であったり、村境であったり、それを越えれば生まれ育った村とは違う世界に踏み入れることだったはずです。
国境がたやすくトンネルで貫通されてしまうような川端康成の昭和の時代とは違います。

峠に立ち、振り返れば懐かしい故郷があり、前を見やれば未知の世界が広がっている。
いろいろな意味で大きな岐路が峠であったのだと思います。
出世を望むのかなんなのかは知りませんが、生まれ育った集落を出るというのは、昔は未知の世界に飛び込むことだったに違いありません。
大いなる野望や勇気や信念がさぞかし必要だったことでしょう。

東北、越後、あるいは九州辺りから京に出る、江戸に出るとなれば、それこそ数え切れない峠を越えて行くわけです。
言葉も違い、身なりも違い、風俗も違ってきます。
心細さ、寂しさ、不安が襲ってきます。
それでも歯を食いしばって前に進むばかりです。

峠を越えるたびに、越し方を思い、行く末を思ったことでしょう。
徒歩で移動すると思えば、日本は決して狭い国ではありません。
峠ひとつ隔てて風土風俗植生が変わるということもありえます。

今は飛行機で日本どころか世界中どこにでも行けますが、昔の人のような緊張感やはちきれんばかりの緊張感には欠けるでしょう。
フランスに行って、ルーブルとエッフェル塔を見て観光客相手のフランス料理を食べたところで、なんになるわけでもありません。
一度限りの人生を切り開かんと、自分の足で峠を越え度胸や覚悟や高揚感にはとうてい比べるべくもありません。

メディアが煽る流行の生きる道筋などは、無責任に数年で消え去るのが常です。
自分の道筋を見出し、自分の峠を仰ぎ、黙々とそれを超えて、まだ見たことのない光景を目の当たりにして心を打ち震えさせればよいです。

今の時代、人はどこにでも行けます。
でも、どこにでも行けるのにもかかわらず、案外と人は一所にしがみ付いているものです。
旅する勇気と目的を持てれば幸いです。

臘八接心

2009年12月07日 | スピリチュアル
徹夜の坐禅会は8柱坐(1柱坐が50分ほど。長い線香が一本燃え尽きる時間)坐りましたから、最後辺りはさすがに足が悲鳴を上げました。
間間に休憩が入りましたから、何とか最後まで坐ることができました。
年寄りたちは足の痛さよりも寒さが堪えているようでした。

坐禅そのものは、いくら坐ったからといってなんになるものでもありません。
なんになるかんになるという一切の計らいを捨てて、そのままありのままになりきるだけのことです。
凡夫が凡夫になりきるだけです。
こう口で言おうとすると、たちまち嫌味になります。
だから坐るしかないというところにまた戻るわけです。

丁度今のこの時期は、禅寺では臘八接心(ろうはちせっしん)とよばれる厳しい修業が行われる期間です。
お釈迦様が12月8日にお悟りを開 かれたのを記念して、12月1日から8日まで、ぶっ通しで坐り続けます。
聞くところによりますと、この期間は布団で寝るのも許されないとか。

想像するだけでも壮絶です。
心身とも疲労困憊でふらふらになりながらもひたすら坐り続けるわけです。
僧堂という俗世と隔絶した世界で、修業仲間とともに無言のうちに励ましあって行ずるからこそ可能なのかもしれません。

まぁ、そういう修業を完遂し終えたときの心境はどんなものなのでしょうか。
どこまでも晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れしているんでしょうか。


夜坐

2009年12月05日 | スピリチュアル
時折薄日は射すものの、終日寒々しい空でした。

今夜は夜通し道場で坐る坐禅会があります。
昔の修行僧みたいでなんかかっこいいです。
途中休憩でうどんもふるわまれるそうです。
楽しみです。

以前は耐えられなかった足の痛みも、近頃ようやく一柱(4~50分)くらいはなんとか大丈夫になってきました。
それでも夜通しとなるとさすがにきついでしょうが、これを体験しておけば今後坐るときにはさらに大丈夫になるでしょう。

毎週木曜日の晩に禅の例会が道場であるのですが、毎回古参の団員の方が持ち回りで法話を担当します。
どの方のお話しも味があって興味深いです。
禅の会ですから、だらだらとしたところがなく、飄逸なユーモアも必ずあります。
70になっても、80になっても、気持ちはみな青年です。
ぼくの今後の年のとり方にも大いに参考になります。

忘年会では句会も催されます。
みんなで優秀な句を選評するのだそうです。
道場ではお茶の会も催行されています。
なかなか盛りだくさんな道場です。

禅を追求し、俳句をひねり、茶の湯に親しむ。
今のご時勢でずいぶんと贅沢で優雅なことです。

寒々しい空もまた風流です。
りんと冷え切った道場で坐るのもまたありがたくも風雅なことです。

うどんが楽しみです。

日銀

2009年12月01日 | 雑感
子猫が餌に口をつけていません。
誰かが拾ってくれたのだと思うばかりです。

日銀が市場への10兆円の供給を決めたそうです。
その10兆円が銀行に渡り、貸出先がないということで国債や金融商品に化けてしまったら何の市場の活力にもなりません。
今ほとんどの中小企業は瀬戸際です。
不良債権でさんざん苦しんだ銀行にしても、瀬戸際の企業には貸すに貸せない状況が続くでしょう。
で結局そのお金が中小企業に回らず、国債やマネーゲームに回されてしまう可能性は大です。

以下は2chで見つけた意見です。
以下引用。
  ↓

235 :名無しさん@十周年:2009/12/01(火) 19:35:28 ID:SPKpgOCt0
■今の日本のような対外的に借金がなく産業が強いか又は経済が伸張している国の場合■

★普通の国の場合★

お札を大量に刷って、為替介入にお金を使い外国に大金を貢ぐのはバカげている。
→お札を大量に刷って、政府の債務を帳消しにする。
→余ったお金で経済対策、大幅減税実施、内需型企業が復活、消費が回復し、急速に景気回復
→大量にその国のお金が出回るので、自国通貨安になり、輸出企業が復活
→お金の価値の変化は世界中でその通貨を持っている人全員に及ぶので、その国の政府債務の負担は全世界の人が負う

★日本の場合★

なぜか、お札を刷って借金を返すとハイパーインフレになると、反日マスコミと反日評論家が牽制
→政府当局、マスコミが怖くてお札刷れず。その為、現実に、年々拡大している世界一の金持ち国家・日本の経済規模に比べ、
マネーの供給量が常に不足しているので、巨大な需給ギャップが解消されず、デフレが止まらず円高も止まらない。
→止まらない円高を止める為に、お札を刷って、為替介入。
→介入で得たドルの価値が減る一方の為、日本はいつも大損、結果的に、刷ったお金はすべてアメリカの懐に入る
→日本の膨大な借金は残ったまま
→借金の為に、予算削減、需要激減、大幅増税・・・・で景気更に悪化 バブル崩壊後20年経っても景気回復せず
→膨大な政府債務は増税で返すことになるので、政府債務の負担は日本人だけが負う

【結論】
お札を2000兆円刷って、借金を1日で解消し、残りのお金で景気対策すれば、景気は1年で急回復 日本人は損しない。
お札を刷っても、為替介入に使えば、日本は他国に貢ぐだけで、日本人は他国の債務も負担していることになり大損する。
★日本がバブル崩壊後20年経っても景気が悪いのは、お札を刷って借金を返すことをしなかったからである★
つまり★日本が政府紙幣を大量に円刷って、借金を1日で解消し無い限り、未来永劫景気回復は来ないと言える★
もちろん、日本がお金を刷るとハイパーインフレになるというのは、反日勢力のついた大ウソである。
今の日本のような対外的に借金がなく産業が強いか又は経済が伸張している国の場合、2000兆円刷っても
なんともない。アルゼンチンや韓国とは前提条件が違うのだ、その点を誤解している人が多過ぎる。

304 :名無しさん@十周年:2009/12/01(火) 20:05:45 ID:SPKpgOCt0

★中国は今、バンバンお札を刷って、減税や景気対策や資源外交に使っている★
いくら刷ってもまったく支障が出ていない。
なぜなら、今の中国は★対外的に借金がなく、経済が伸張している国★だから
中国は為替介入が損なことを100も承知しているから、やっても最低限必要なときにしかやらない。
中国が最近伸びているのは
★第一に、日本の経済植民地になったからであり
★第二に、お札をバンバン刷ってるからだ

日本も★対外的に借金がなく産業が強い国★だから
2000兆円どころか5000兆円刷ってもビクともしないのだが
マスコミが反日で、国益に敏感な政治家がほとんどいない為
何年経っても、やろうとしない。
実にバカげている。

★政府紙幣の増刷で、一気に債務帳消し、景気回復に持っていけるのは、
対外的に借金がなく産業が強いか又は経済が伸張している国だけ
今なら、日本と中国ぐらいしかない★
★そして中国は、その状況がよく見えており、そのメリットを最大限生かしている★

日本も中国も今後、産業基盤が弱まり、対外的に債務国に転落すれば、もうこの手は使えない。
そのときではもう遅い。そうなってから、政府紙幣を大量に刷れば間違いなく韓国やアルゼンチンのような
ひどいインフレが起き、国家経済は破綻する。

今がチャンスなのだ。

逆に言えば、日本の抱えている1000兆円の債務は幻であり、日本は実は無借金の国なのである。
しかし、今のままの調子で、円高になるたびに、その場をごまかす為に、為替介入して、他国にお金を
貢いでいけば、いずれは、日本も準債務国に転落することになる。そうなれば日本はもうお終いだ。

  ↑
以上、引用終わり。
ぼくはそのとおりと思うのですが、どうでしょうか。