風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

自由と選択

2010年06月28日 | 雑感
本を読むことは間違いなくいいことです。
人の生きかたには無限の選択肢があるのだと気がつくことができます。
でも、いくら無限の選択肢があろうとも、自分が生きるというのはたった一本の自分が選んだ道を歩くことです。

無限の選択肢を前にして呆然と立ちすくむのか、それとも選んだ一本道を歩んでいくのか。
そのどちらかを選ばなければならないと考えてしまうと、一歩も前に進めなくなります。
どちらが良いなどという答えはありようがありませんから。

とりあえず、目の前に続いている道を歩き出すことがすべての始まりです。
歩いているうちにこの道でいいのかと迷ったら立ち止まればいいのです。
立ち止まったところから、また無限の選択肢が広がっています

無限の選択肢を、その時その時、選び選んで歩んだ結果が人生と呼ばれる軌跡になるだけです。
なにを選んでもいいはずです。
なにを選ばなくてもいいはずです。
ただ、なにを選ぼうが選ぶまいが、その選択がその人の生きた軌跡として残されるだけです。

無限の選択肢の中で自分が選んだ道筋を、結果が上手く行かなかったからといって他人のせいにすると、この世は地獄となります。
「自分が選んでいる」という何度でも再生可能な視点を、自ら他人の手中に譲り渡してしまうからです。
自分で自分の人生のあり方を選べない不自由さほど残酷なことはありません。

貧乏や社会的境遇やなんやかんやは、さほど選択の自由を脅かす要因ではありません。
「~を選ばなければならない」「~を選ぶべきだ」といった刷り込みというか、社会的な洗脳といったものの方が、強力で怖いです。
そのあたりのことを説明しようとすれば長くなりますので省きます。

とにかく、選択肢は無限です。
万人の前に無限です。
なにを選ぶかということです。

言葉の使い方一つにしても、どんな言葉を選ぶのかで、その後の人生がゴロッと変わりえます。
自分の望んでいる方向に変わるのはいいことなのでしょうが、逆の場合は辛いものがあります。

さて、なにを選択すればいいのでしょうか。
分からなければ、本を読んだり、映画を見たり、友人と語り合って、ヒントを得るしかないでしょう。
それから大切なことは、ヒントを得たら、実行に移してみることです。
そのヒントが役に立つ場合も、そうでないこともあるでしょう。
そんなことよりも、自ら動いてはじめて知る「自ら動く」という尊さです。
いいことばかりが起きるわけでもありません。
動けば動くほど、嫌なことだって起こることが多いでしょう。

そこでメゲてはいけません。
目の前に広がる選択肢の中から、自分の手にしたい選択肢を選び続けるだけです。
万が一、その結果、何も実らすことができずに死んでいくのだとしたら、ただ死ねばいいではありませんか。
少なくとも、自分の選択の結果です。
誰のせいでもありません。

そんなの、あまりにも恣意的過ぎると感じたところから、宗教の必要性が生まれるわけですが、これまた長くなりますので、今日はこの辺で。


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