風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

役柄

2010年02月23日 | 雑感
接心の期間が明けたら、すっかり春の陽気になりました。
店の裏の猫は姿は見せませんが、餌だけはきれいに食べています。

「LOST」のシーズン5も見終わってしまいました。
アメリカで放映が始まったらしいシーズン6が最終章です。
真田広之が重要人物として登場するみたいです。
終わってしまうのがとても寂しい気がする久しぶりのテレビドラマです。
登場人物の一人ひとりが重い複雑な過去を持ち、葛藤を抱えながらも現在を生き抜いていきます。
舞台設定の奇抜さもさることながら、一人ひとりの人物設定の深さと重さが生きたドラマです。

現実生活においても、一人ひとりがその生活舞台における登場人物なわけです。
重要であろうがなかろうが、舞台に登場し、人々とかかわり、影響を与え与えられ、大きな生命の流れに加わるわけです。
誰もが一言では言えないような過去を持ち、未来に対する不安を抱え、手のひらからこぼれて落ちていくような「今」に生きています。
なにもかもが流れていきます。
疲れ果てて流れに身を任す者もいますし、流れに抗って必死に泳ごうとする者もいます。

何が正解かは誰にも分かりません。
じたばたするのも流れの彩りですし、達観するのも流れのうちにあります。
与えられた自分の役割を自覚できれば、流れに乗ることに喜びを感じることさえできましょうが、
そうでなければ、有無を言わさず流れいく流れに恐れや憎しみを感じることもあるでしょう。

完成度の高いドラマというのは、言うまでもなく、己に与えられた役柄というものを演じきる役者によって支えられます。
人生という舞台においてもそうなのかもしれません。
それぞれが、それぞれに与えられた役柄を演じきっていく。
それぞれがそれぞれの役柄を演じきることによって、脇役も主役も渾然と一体となり、一つの生命の流れとなる。
そんな感じなのかもしれません。




コア

2010年02月19日 | スピリチュアル
昨夜は禅道場に泊まり、暗いうちから坐って、店に出るため道場を出ますと、雪が舞い落ちていました。
なかなか風情がありました。
ひたすら寒くて、暗くて、足の痛い、ちっとも楽しくなさそうな禅の修業ですが、心に何を宿すかは全くの自由です。
修業が進んで、境地が深まれば、大宇宙全体と一つにもなれるみたいです。
そんな時がくれば、そんな時、というだけの話なのですが。
そんな時も、こんな時も、あんな時も、いずれ劣らぬ晴れ舞台、です。

道場には80前後の老先輩居士が何人かおられます。
みな、枯淡の中にも無邪気さと強靭さを併せ持ったいい顔をしておられます。
同じ年頃の集団だけで禅の修業をすれば、下手に競争意識やらなんやら余計なものがたくさんくっついてきそうですが、
そういう老先輩の静かななまなざしが道場に注がれているというのは、とてもいいことのように思われます。

何でもいいといいながら、何でもよくないのが禅です。
その頃合やら、調和のバランスを体得していくのが禅といってもいいかもしれません。

禅の世界に限らず、どの世界でも、やはり一番尊い資質は「素直さ」なんだと思います。
素直になれない部分をぶち切っていけば、素直なコアが残るだけです。
人間の核心、コアは素直に決まっています。
ひねくれたコアなどというコアはありえません。
ひねくれた時点で、それはもうコアではないからです。

細胞の世界にしても、想念の世界にしても、この世のものは「増殖」するものです。
がん細胞も増殖しますし、流行の思想も増殖します。
自分を失ったまま、何かの考え方やら思想やらの増殖に身を任せると、時に大変なことになります。
こんなはずではなかったという考え方やら思想やらがこれまでもたくさんありました。

そんな増殖作用から身を引いて、自分自身のコアを正面から見つけ、対峙してみること。
それが禅のような気がします。




音楽

2010年02月17日 | 雑感

今日も猫の餌はきれいになくなっていました。
よしよし。

今でも巷に音楽が溢れているわけですが、特に何を聞いても心が動かなくなってしまいました。
音楽に夢中になるということがすっかりなくなってしまいました。

ぼくが最初にオープンリールのポータブルなテープデッキを買ったのは小学高学年のときだったと思います。
ガラクタ屋で見つけて安く買いました。
それで最初に録音したのが、テレビの歌謡番組で歌ってたアグネス・チャンの「ひなげしの花」です(笑)。
マイクを直接テレビに向けて録音しました。
そりゃあ、音は雑音やら家族の怒鳴り声やらが入って劣悪なものでしたが、聞きたい曲が何度でも聴けることに興奮しました。

中学になると、カセットテープレコーダーが出回るようになり、どこのメーカーとも知れないものを一台手に入れました。
聴きたい曲がかかるFM番組でをチェックして、その時間は緊張してスタンバイして、曲のスタートに合わせて録音ボタンを押します。
アナウンサーが余計な一言を付け加えたり、曲の頭が少しちぎれたりしたりしましたが、それはそれで満足でした。
因みに、生まれて初めてLPレコードというものを自分で買ったのもその頃でした。
「夕日のギャングたち」という映画のサントラ盤でした。
http://www.youtube.com/watch?v=x4Ab7vNhd18&feature=related
この映画に死ぬほど感動した中学生って、どんな中学生だったのでしょう(笑)。

今はたいていの曲はネットでダウンロードできるみたいです。
ものすごい便利さですが、なんとも皮肉なことにダウンロードしてまで聴きたい曲というのがなくなってしまいました。

まぁ、そういうものです。
子供の頃ヨーグルトを死ぬほど食べたいと思っていましたが、成人して買おうと思えば買える頃には食べたくなくなりましたし、
何度でも聴きたかった、見たかったCDやDVDも、それが買える頃には心の中で色褪せていました。

なんでもそうなのでしょうが、その時のものはやはりその時のものなのでしょう。
後回しにしたり、後のためにとって置くことはできません。

今味わうことは今味わいましょう。
これが嫌、あれがいいなどと勝手を言ってますと、結局何も味わうことなく終わることになりかねません。
上等なものも品下れるものも、それぞれの味わいです。
自分の好みを優先しますと、味わいの渉猟領域が狭くなるだけです。
冒険心を忘れぬようにしましょう。


 


作り物

2010年02月16日 | スピリチュアル
人の心は自我が発達するにしたがって「作り物」めいていきます。
学校や周囲から言われ続けることに従ったり、反発したり、本心の発露よりも心の防衛に主眼が移っていきます。
自我あるもの同士がせめぎあう社会に生きる以上、心をむき出しにすればたちまちのうちに心は傷だらけになってしまうでしょう。

社会人ともなれば、「~しなければいけない」「~してはいけない」「~すべきだ」というような自らの行動規制に、
自らの心ががんじがらめになってしまいます。
一方、そういう心の不自由さに我慢ができなくて、すべての行動規制を敢えて破壊する衝動に身を任せることもあります。
いわゆるドロップアウトするとか、アウトロー化するとか、社会規範から自らはみ出ていくわけです。
社会規範から逃げ出せば心が自由になるかというと、決してそんなことはありません。
心の自由と言うからには、社会規範に賛成か反対かなどというところに、自由の本質があるわけではありません。

規範に従おうが、従うまいが、一切の関係ないところに心が独立して在る状態を、心の自由と言うのでしょう。

赤ちゃんが生まれます。
心の在るがままに、泣き、ぐずり、笑います。
確かに心は自由です。
でもその自由は、身辺を細々お世話してくれる人がいて、初めて可能な自由です。
成人が赤ちゃんのレベルでの自由を取り戻すのは無理な話です。
成人が、泣き、ぐずって他者に要求し、それで満足して笑っていたら、そりゃもうゲテモノの世界です。

大人になるとは、我を持った人間同士が、不愉快にもならず、迷惑も掛けず、社会の福祉向上のために少しでも役に立つ心構えを持ち、
社会と、自然と、融和して生きていくことができることです。
そのためには、自分自身の心を含めて、人の心というのは成長するにつれてどんどん作り物めいていくことを知ることはとても大切です。
狭量なイデオロギーや偏った宗教に心を奪い取られないためでもあります。
人はどんなことでも思おうとすれば思え、考えようとすれば考えられます。
だからこそ、他者を支配するとか戦争とかいう狂気がいまだに地上から消えることはないのです。
さらに、自分の「思い」や「考え方」などというのも、たまたまのその自分の立ち位置から出てくる泡のようなものだと知っておくと、
自分の「思い」や「考え方」に固執する苦しさから抜け出せます。

それでは何のためにもともと赤子のような無垢だった心が作り物めいていくという経験をするのか。
無垢なものが無垢なままだったら、この世に生まれるという経験の意味がないからなのかもしれません。
無垢なものが、傷つき、壊れ、汚されることによって、その無垢の輝きの尊さを知るため。

テレビをはじめ、この世はなにからなにまで「作り物」だらけです。
作り物の関係、作り物の言葉、作り物の笑顔、作り物の優しさ、作り物の真実。
それをそうと知りながら、ふて腐れもせず、怒りもせず、自分の作り物の心の奥底に輝いている無垢さを再発見する。
それが大人になった人間の、作り物だらけになった世の中でなすべき最終課題だと思うのです。

自分のなかに無垢を見出せない人は、他人の中に無垢を見出すはずもありません。
自分の中に無垢を見出した人は、他人の仲にもそれがしっかり輝いているのを見出すことができます。
そこから初めて、作り物ではない関係、言葉、笑顔、優しさ、真実が出てくるんだと思います。

各人しだい

2010年02月15日 | スピリチュアル
ここ数日厚い雲が空を覆っています。
季節の変わり目なのでしょう。

さて、土曜日からいよいよ禅の接心が始まりました。
道場の役員の顔ぶれも一気に若返って、どたばたしながらも心地のよい緊張感が漂っています。

禅の世界は限りなく深くて広いですから、決まった一本道がその世界を貫いているわけではありません。
千差万別、人の心の数ほど道があると言っても過言ではないでしょう。
ただ言えることは、ひたすらな心ほどひたすらな一本道を歩くことになるだろうということです。
あれこれ迷っても、それもまた道ではありますが、ひたすらな一本道を歩くことのほうが、そりゃ爽快でしょう。
坐禅の組み方(坐相)というのは一応決まっておりますが、心のあり方は各人しだいです。
各人しだいで留まると、とても苦しくなってくるでしょう。
「各人しだい」などという色に染まっていては、無念無雑というような絶対の境地には届きません。

「各人しだい」を「各人しだい」で脱色していく。
脱色していく方法としては、数息観と呼ばれる呼吸法で、ただひたすら1から10までの数を数えていきます。
当初はこれでもかと次から次へと雑念が涌いてきます。
どんなに雑念が涌いてこようとも一切取り合わず、呼吸に専念します。
そのうち、ふと気がついたときに、呼吸だけになっている自分を発見します。
自分が呼吸で、呼吸が自分です。
そんな所にいきますと、不思議と足も痛くなく、身体の感覚も、時間の感覚もその存在感が薄くなります。

その境地がさらに深まると「三昧」と呼ばれる境地になるようです。
そういう境地に達すると、飯を食うときは飯を食うだけ、寝るときは寝るだけ、歩くときは歩くだけ、
遊ぶときは遊ぶだけ、というその瞬間の行為と完全に一体となった無駄のない「瞬間」の連続になるようです。
まさしく「今」を生きるという感じでしょうか。

良寛さんが子供とかくれんぼをしていて、子供がとっくに帰ったあともずっと一人で隠れていたとか、
客に振舞おうと酒を買いにいったところ、途中で見た月に見とれてしまって、いつまでも帰ってこなかったとか、
そういう逸話が多いのは、そういう混じりけの一切ない「瞬間」の連続に生きていたからこそなのだと思います。

そこで「各人しだい」というところに戻ります。
各人しだいというのは、要するに各人それぞれが持っている言動や考え方の癖やら傾向やらしだいだということです。
癖やら傾向性に縛られた境地を透脱することが禅の目指す境地の第一段階だろうとぼくは思います。
でも、禅の修業をする当人はすでに癖やら傾向性を引っさげて修業するしかありません。
一切の癖やら傾向性から自由でいることなど、どんな人にもできません。
敢えて言うなら、悟った人でもその言動やら考え方には癖やら傾向性やらをたっぷり含んでいるものです。

何を言いたいのかというと、「各人しだい」を、人は悟ろうが悟るまいが背負っていくわけですが、
「各人しだい」を超えた境地に遊べるのが悟った人であり、「各人しだい」に無自覚にも振り回され続けるのが、
悟っていない人だといえるのかもしれません。

人の癖やら傾向性が問題なのではありません。
そのいいとこもあれば悪いところもあるでしょう。
ようは、自分の考え方や言動の癖からさえも、自由になる境地を目指すことは可能だということです。

自分が悲しいとか苦しいとか思うとき、そのほとんどはそう思う自分の考え方に起因します。
自分の考え方が自由自在になれば、悲しいとか苦しいとかいうことからも自由自在になります。
自由自在でいながらも、悲しいとか苦しいとか、思うこともできます。
無感動になることが自由自在ではありませんから。

なんか持って回ったような言い方しかできなくできなくて、ゴメンナサイ。


一歩前進

2010年02月10日 | 雑感
ホントこのところ暖かいです。

昨日紹介した本を試しに1ページほど英訳してみましたら、なんか面白いです。
どういう形でもいいから、禅を海外に紹介してみたいと思っていたので、これはいいことかもしれません。

もちろん禅はさんざん海外に紹介されて入るのですが、海外で高名な鈴木大拙禅師の本などは少々哲学的過ぎるとぼくは思っていました。
学者の研究にはいいのですが、禅の入り口となると少々敷居が高すぎるのではないかとぼくは思っていました。
それに比べると、澤木興道禅師は、宿無し興道と呼ばれるほど図太く、野生的なところがあります。
言葉も口語で、リズムがよく、読んでいてとてもよく腹に収まります。
ちょっとやってみます。

いつも口先だけで、すべては過去に流れていくだけのぼくの人生ですが、これで何か誰かの役に立つものを残せるかもしれません。
世界は今いろいろな方面で混乱が加速度的に深まっていってます。
スピリチュアル方面では、盛んに日本がこの先重要な役割を果たすはずだと言われていますが、
具体的な動きとしては何も見えないのが現状です。
日本の政治状況自体が混乱のきわみですし。

一人ひとりがやれることをやり始めるというのが理想であることはぼくも承知していました。
組織や団体が先導して世の中を動かす時代ではないと感じていました。
でも、ぼくがやれることって何?って感じでした。
英訳ならば、勉強がてらできないことではないような気がしています。

なんかいろいろ忙しくなりそうです。
この十年以上、食べられればいいやと完全な受身で生きてきましたが、自分のやりたいことが目の前に浮びつつある気がします。

日本文化の海外への紹介と一口に言っても、あまりにも漠然としています。
あまり海外に紹介されていないもの、例えば滝行とかの修験道や神道のあれやこれやなども紹介できればなぁとは思っていました。
でも、この禅の本の英訳の試みが上手くいけば、その流れの突破口になるかもしれません。

それから、このあたりで取れる特産品の商品化を考えています。
内容はまだ言えませんが、数年前来アイデアとしてはあった農漁業再生プロジェクトの具体化です。
冗談めかしてはいたのですが、けっこう日本再生の鍵だとはずっと思ってはいたのです。

例によって、極度の面倒くさがり屋ですので、どこまで行けるか分かりませんが、足を一歩前に踏み出してみようと思っています。

澤木興道禅師

2010年02月09日 | スピリチュアル
店の裏の猫がから揚げの半分しか食べていません。
しかも、残りが皿の外に散乱していました。
ミルクは減っていません。
少し心配です。

昨日買ったばかりの「澤木興道 生きる力としてのZEN」からです。
もうすべての言葉が言葉にできぬ温もりと光を放っていますが、ほんの一部だけ。

「『澤木さん、欲はない』と言うが、実はあるどころではない、ようやく辛抱しておるだけじゃ。
 欲を深うすると仏法に傷がつくから、辛抱しておるだけの話である。欲が深いから人の欲の深いことがよう分かる。
 分からんでおるのはアホじゃ。だから間抜けたことはせん。しかもその欲の曲線は、角度が激しくある。
 その角度の激しい煩悩を持ちながら、その煩悩を仏道に持ってくる。そうすると煩悩の多いほどええんやね。
 煩悩が鈍うなるとやっぱりええ処も鈍うなる、元気も鈍うなる。どんな辛抱でもするのは、煩悩が多いからである。
 そこの人生と仏道の交錯点がもっとも肝要な処である。」

「人間澤木興道が仏道から引きずられていく。それがために凡夫の澤木の自由がきかぬ。それが信仰というものである。
 透明になるから凡夫澤木がわがままできなくなる」

「『仏祖の法』は誰でも嫌いである。それよりは飲んだくれの法が好きなんだ。私は堕落しとうてかなわんのじゃけれども、
 しかたなしに引きずられて坐禅をしておる。みなが監督しておって、堕落させられないだけの話である。』

もうすべての言葉が、その場その場で生き生きとしています。
活字にしてこうなのですから、その風貌や肉声に接したときには、さぞかし心に響いたことでしょう。
ページをペラペラ捲っただけでも、どの言葉にも引き付けられてしまいます。
おすすめです。

闇のもの

2010年02月07日 | スピリチュアル
店の裏のサッシ窓を開けましたら、から揚げはきれいさっぱりなくなっていました。
牛乳は皿に半分残っていました。
なんにせよ、どんなことをしてでも頑張って生きろと思うばかりです。

昨日、その猫に餌をあげようとサッシ窓に手をかけたら、サッシ窓に体長が1センチほどの銀蝿がへばりついていました。
入ってくるなと念じながらサッシ窓を開けたのですが、案の定、中に入ってきました。
店の一番奥の部屋が、ぼくの事務所みたいなところにしているわけですが、その部屋の壁にとまって時折ブンブン飛び回っています。
この時期の巨大な銀蠅です。
不快な胸騒ぎがしました。

で、今朝になって古い友達から電話がありました。
「あなた、私の家を盗聴してない?」という、あまりにもいきなりな質問でした。
話を聞くと、盗聴やら盗撮やらを受けていると本気で言うのです。
彼女は数年前からある宗教に入り込んでおり、何度か距離を置けとアドヴァイスしてきましたが、
聞く耳を持たなくなってきていたので、こちらから距離を置いていました。
ぼくは盗聴やら盗撮やらをするタイプではない、そういう面倒くさいことは一番嫌がるタイプだと言ったら、すんなり納得しました。

店の部屋に入り込んだ季節はずれの銀蠅のことが頭に浮かびました。
闇のものたちが蠢いているなと感じました。

ぼくが知っている彼女は、稀に見る天心爛漫な人でした。
情が深く、ユーモアがあり、分け隔てが嫌いで、不義を嫌う人でした。
その彼女がある宗教にのめり込んでいくさまを、ぼくはどうすることもできずに見ていました。
宗教というよりは、その組織に、その指導者にのめりこんでいく姿を、と言ったほうが正確かもしれません。

闇のものたちにとって、天真爛漫な心を汚すことほどの勲章はありません。
できる限りのことはしたいのですが、今後は予断できません。

南無千手観音力、です。

千手観音様

2010年02月06日 | スピリチュアル
また店の裏に猫が戻ってきました。
前の猫と同じかどうかは分かりませんが、ここにいるぞとニャーニャー大声で鳴いたので、
鳥のから揚げと牛乳を皿に入れて出しておきました。
残りあと少しのこの冬は何とか乗り切ってもらいたいものです。
春が来て、夏が来て、恋愛の一つでもして、元気に汚い街を走り回って、この世に生まれた甲斐を少しでも感じて欲しいです。

ところで、店に木彫の千手観音像がきました。
スタッフからもお客さんからも予想通りの顰蹙です。
顰蹙すればいいというものでもありません。
千本の手でもって、いかなる迷いや苦悩にさ迷う衆生を救うという誓願を立てた尊い仏様です。
そういう尊い仏様が店に鎮座ましますというのも、ありがたい話ではありませんか。
ただ、坐像ながら縦横ともに一メートルを超える大きな仏像です。
ぎょっとする人はぎょっとしてしまうのも、むべなるかな、です。

滝行の導師にその仏像をさっそく見てもらったところ、前の持ち主の因縁沙汰が少し残っているみたいでしたので、
今は線香を絶やさずに供させてもらっています。
面白いことに、線香を一本供した瞬間から、ガラッと仏像の波動が変わりました。
それまではビリビリとした波動が強烈に出ていたのですが、導師が線香を上げてからはふわっとした穏やかな波動に変わりました。
お顔はあいもかわらず形容しがたい豊かな笑みを浮かべておられます。

千手観音様が来て、手始めにお救いになさるのが、店の裏の猫なのかもしれません。
そうだと嬉しいなぁ。

念のために言っておきますが、仏像が何か神秘的な力でもって誰かや何かを救うとはぼくは思っておりません。
千手観音というある意味での偶像を創りだした人間の理念を信じ、その理念の下に具体的な行為をするのが、
仏像を持つということだと思っています。
ということは、ぼくが千手観音にならなければいけないのです。
話はそう簡単ではありません(笑)
でも、何かのご縁ですから、やれるだけやるだけです。

来週はいよいよ禅の接心が始まります。
なかなか本格的な感じがします。←なにが(笑)