風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2012年06月25日 | 雑感

今日は本当に久しぶりに滝に行きました。
このところの大雨でものすごい水量でしたが、久々の水の感触を味わいました。
一年近く滝に行っていなかったので、作法も真言も観音経も忘れていました。
半年だかで体内の細胞が入れ替わると聞いたような気がしますが、まさにそんな感じです。
でも、叩き付けるようなダイナミックな滝を存分に楽しみました。

なんだか急に滝に行きたくなったのです。
理由は分かりません。
いろいろ思い当たる節はあるのですが、そういうもろもろの事情が滝に呼び寄せられたのでしょう。
滝の導師に言わせると、ぼくが滝に入るとドロドロの酒がぼくの身体から溢れてくるのだそうです。
まぁ、そういうこともあるかもしれません。
とにかく鮮烈な滝行でした。

昨日は禅道場の総裁からも無沙汰を心配してくれて電話がありました。
牛タン屋を開いてから3ヶ月余りです。
まだ3ヶ月しか経っていないのかという感触です。
開店したのが遠い昔のような気さえします。
牛タン屋に集中してすごしてきましたが、そろそろ多少の軌道修正をする必要を感じ始めています。
アンティークの店の方もすっかり閑古鳥が鳴いています。
今回のポイントはどちらか一方を成功させるのではなく、両方とも成り立たせることです。
身体は一つしかありませんから、少し気を緩めると空論になってしまいます。
そこをいかにして可能にするか。
先行が濃い霧で覆われた未知の登頂は続きます。

で、今更ながらに気づいたのですが、やはり朝の時間の活用です。
夜は酒が入るので話になりません。
ただの無駄な時間がだらだらすぎるだけです。
それは置いといて、牛タン屋にしてもアンティークの店にしても、開店時間が遅いわけですから、
朝の時間はとても豊潤に使えます。
今までまったくその時間を使おうと思っていませんでしたが、その時間帯こそ宝の山のように思えてきました。

牛タン屋で無休で頑張ったおかげで、忍耐力と根性がついてきました。
その両者は、これまで一番ぼくに欠けていたものです。
だから、やると決めたことは大抵のことはやりきれるようになりました。
中学生レベルの自慢でスミマセン。
とにかく今後は朝の活用です。
朝に限れば、坐禅でも滝行でも存分にしようと思えばできます。
何かを研究するのでもいいし、書くことでもいいし、近所の山なら登ることだって可能です。
こう書いてきて、とても楽しい気分になり始めています。

この年になって早起きの効能を語るとか、どんだけ阿呆なのでしょう。
阿呆は阿呆なりにそれを自覚したときが行動開始です。
ちょっと今夜は目覚ましをかけてみます。

 


入梅?

2012年06月08日 | 雑感

牛タン屋の営業を終えて、今これを書いています。
外は雨。
自転車で来たので、どうやって帰ろうか思案中です。

明日から道場の摂心が始まりますが、今回は参加できそうにありません。
それでも何とか時間をつくって何回かは道場に顔を出したいとは思っているのですが。
決して時間的に余裕があるから道場に行くとか行かないとかの問題ではないのですが、
物理的に身動きが取れません。
それもまた大切な修行なんでしょう。

そう言いながらも、滝に入りたい気持ちが強まっています。
何故だかは分かりませんが、心と身体がそれを求めます。
朝早く目覚めたらひょいと行ってこようと思っています。

生きることを修行と捉えているわけではもちろんありませんが、
修行ばかりしているような気がしないでもありません。
そういう過程も必要なのかなと思うばかりです。

ようやく本が読める頭に戻りつつあります。
とてつもなく貴重で深遠な言葉の数々が一冊の本に詰まっているのを改めて発見したりしています。
どんな言葉や人に出会い、どんな行為を選択していくのか。
これからは全ての人にとって、大きな岐路に差し掛かっているように思えてなりません。
どんな進路を選択するにせよ、選択したからには勇気を持って堂々と歩いたらいいんだと思います。
どちらが良いか悪いかなんていうのはどうでもいいです。
ただ他人の思惑ではなく、自分自身の意思で選択した道を突き進んだらいいんだと思います。
夢にも思わない風景に出会うかもしれませんし、予想通りの結末かもしれません。
それもどうでもいいです。
それを選択したのは自分自身なんだということが大切です。
その行程にしろ、結果にしろ、思う存分味わえばいいのだと思います。
それを味わって、美味しいと感じるのか、はたまたまずいと感じるのか、それも選択です。
素の心で選択し続けるしかないように思います。

素の心とはなにかといえば、要するに相対的評価に惑われる以前の本来的な自分の心。
歳を取ろうが、どういう境遇になろうが、変わらない心、変えようのない心。

その心が選択した道ならば、どんな行程であろうが、どんな結末であろうが、
無条件に受け入れようという気分になっています。
合理的な理由などクソ食らえとまでは言いませんが、重要度は極めて低いです。
合理的といいますが、何の理に叶っているのか、分けの分からないほうが多いです。

そんなわけで、雨は降り止みません。
牛タン屋の二階でお酒を飲み続けることにします。