風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2011年12月31日 | 雑感

あっという間に大晦日を迎えました。
ささっと店内を掃除して、神棚を拭いて、一息ついています。

大掃除というのが来年のぼくのテーマのような気がします。
本だとか、思い出の品々(笑)だとか、そんな具体的な身辺の細々したものから、
酒やタバコや朝寝坊という悪癖といった心に溜ったドロドロまで、
一切合切大掃除をする必要を感じています。

毎日、神棚に向かって大祓を唱えようかと思っています。

なんにせよ、正念場です。
ぼくだけではなく、日本という国も、世界という世界環境も、揃って正念場を迎えているような気がしてなりません。

物理的にも、精神的にも、余計なお飾りや不必要なものを抱えていると、正念場を超えるのはきつくなります。
重荷はない方が良いに決まっています。
出来るだけ身辺を削って、身軽でいた方が良さそうです。

爽やかな笑顔というのは、意図して出来るものではありません。
その人の心がそのまま出てしまうのが人の顔です。
爽やかな心で生きるためには、やはり余計なものは徹底的に捨て去ってしまうより、方法がない気がします。

これでも、いろいろ捨ててきているつもりではありました。
ところがどっこい、いろいろ難しい局面に追い詰められますと、自分の心が自分の障壁になっているのを知ります。
いつの間にそんな分厚い壁が心の中に出来ていたのか、自分で驚くと同時に、心のからくりの老獪さを思い知ります。
そんななんやかんやを、ポイポイ放り投げていったら、さぞかし気持ちが良かろうと思います。

素の自分で、大空の下、大地の上に、ぽつんと立っていられたら、なんか楽しそうです。
楽しくないことがないというくらいに、楽しそうです。
「素」というのはそれほど強力なんだと思います。

おかげさまで、娘の熱は引きました。
今年の年末年始はゆっくり出来そうです。

皆さんも良いお年を!

 


若者

2011年12月28日 | 雑感

クリスマスも終わり、賑やかなのはデパートの地下や市場などの食品売り場だけのようです。
あっという間に年の瀬です。

娘が高熱を出しました。
去年の暮れを思い出します。
大晦日から正月にかけて娘は肺炎で入院しました。
おせち料理も餅も食べることが出来ませんでした。
そんなことはいいのですが、小さい娘が白いベットで点滴に繋がれて、
退屈で泣きじゃくる姿はもう見たくありません。

今受けた連絡によると、アデノウィルスというのに感染したとのことです。
抗生物質が効かなく、4~5日熱が続くのだそうです。
まぁ、原因が分かっただけでも一安心ではありますが。

あいからわらず、わが国の政府はわけの分からない動きをしています。
政府の要職にある人たちのことごとくが、誰かの操り人形でしかないような、不可解な動きをしています。
そして、あいかわらず、その不可解さを追求するジャーナリズムが機能していません。
ずるずると奈落の底に呑み込まれているような、そんな感覚です。
もうこの怖ろしくも不愉快な流れは誰にも停められないのかもしれません。

でも、個人個人ははっきりと目を覚まして、何かにしがみついてでも奈落の底に呑み込まれないでいることを
決意していて欲しいです。
どんな方法があるのか。
まずは食糧の確保が出来る方法を考えておく方がいいでしょう。
他のブログでも散々言われていますから、自分の生活を自衛をしようとする人は、そろそろ行動に移した方が
いいと思います。

今の大方の30代くらいまでの青年は社会に出てからずっとデフレという、
まれに見る異様な不況状況に置かれていました。
当然のごとく、お金を使おうにもお金がない状況に耐え忍んできました。
ですから、彼らは酒たばこにも執着しませんし、贅沢な外食にも憧れません。
車の購入意欲も低いですし、結婚願望も昔ほどではありません。
一番、物欲、性欲が旺盛な頃に派遣やらパートといった窮乏生活を送った若者が少なくありません。
その一方で、圧倒的に人口の割合の多い高齢者には手厚い保証や年金が保証され、
公務員も優遇され続けて来ました。

若者たちはそんな日本の有様をじっと冷静に見つめ続けて来ました。
彼らを今のメディアや経済界の人たちが説得、扇動できることはありえません。
若者たちは彼らが何をしてきて、何をやろうとしているのかを、怖ろしい程までに冷徹に見据えてきたのです。

それでもテレビでは芸人たちのバカ騒ぎが連日連夜続きます。
もうなんて言って良いか、文化国家としてみれば、惨状です。
そして国家に対しては、見抜いてはいるが、参加しないという今までにない形での不気味な沈黙が続いています。

政府の指針やら、経団連のお偉方の恣意的な発言などはなんの影響力もないでしょう。
声が大きい方が勝つといったイデオロギー闘争などにももちろん背を向けてます。

この若者たちの沈黙を舐めてかかると、相当酷いしっぺ返しがあるように思えてなりません。

 


ハッピークリスマス!

2011年12月24日 | 雑感

若いときはあれほどとんがっていたブルース・スプリングスティーンもすっかり年老いました。
世の中の不条理や不安感を抉っていた昔の歌とは違って、聴くものすべてを幸せにする歌を歌っています。

http://www.youtube.com/watch?v=enxWM6qLsCU&feature=related

観客の嬉しそうなこと(笑)

ハッピークリスマス!


2011年12月24日 | 雑感

今日は小雨交じりのクリスマス・イブです。
雪に変わるかどうかぎりぎりの感じです。
この年になるとクリスマスは娘のためのイベントです。
それはそれで楽しいわけですが。
今日の夜、娘の枕元にプレゼントを置いてあげます。
明日の朝になったら、包装紙をびりびり破る娘の姿が見れます。

アメリカも喘いでいます。
失業率も公式発表で9パーセントを超えて、ご存じの通りデモが広がっています。

http://www.youtube.com/watch?v=9DXL9vIUbWg&list=FLJMxrhg3P021R8WWoLBmE9w&feature=mh_lolz

それでもこういうビデオが作られるところが、アメリカのよい所です。
主人公のおじさんがいい味出しています。

ニューヨークなどの北部アメリカの冬はとても寒いです。
デモ参加のために公園などにテントを張って寝泊まりしていた人たちも、冬を乗り切るのは無理みたいです。
ホームレスの人たちや、失業中の人たちは、本当に厳しい冬を迎えそうです。

今日の聖夜、どんな思いが彼の地の人々の心に宿っているのでしょうか。
希望を失ってしまえば終わりです。
わずかな希望が残っている内に立ち上がり、デモという行動に表わしました。
警察の厳格な対応と、この冬の寒さで、その行動自体もしぼんでしまうかもしれません。

そんな、苦しくても闘いぬこうとする人たちに。

「The Rose」

http://www.youtube.com/watch?v=CB4EgdpYlnk

 

 


2011年12月20日 | 雑感

大学の時に付き合っていた女性が山岳部でした。
穂高を縦走したとか、白馬岳に行ったとか、そういう話を聞かされました。
とても楽しそうに話しました。
なにか自分の体験していないフィールドで、満喫している様子を見てとても悔しく思いました。
ぼくも若かったのです。

それからです、毎週狂ったように山に登り始めたのは(笑)
週末になるとあちこちの山に登りました。
登ってみると、それはそれはその魅力の虜になりました。
どの山も個性的で、それぞれの雰囲気と世界を持っていました。

そのうちに彼女が登ったことのない山まで登るようになりました。
その山がいかに素晴らしいかを得意げに彼女に説いたものです。
そういうこともあって、彼女とぼくとの間に次第にすきま風が吹き始めました(笑)

でも、山登りはそのまま続けました。
なんていうか、なくてはならないものになっていきました。

正直なところ、20年ほど前に九州に来たときは、登りたいと思うような山がなくてがっかりしました。
九州の山を舐めきったわけですね(笑)

それから10年ほど過ぎて、再び山登りがしたくなり、身近の山に登ってみました。
体力的にはそれで目一杯になっていました。
そしてそれはそれなりに素晴らしい経験でした。
まぁ、そんなものです。

もう現況では、剱岳にも、穂高にも登る自信はありません。
その時期時期に、人は登るべき山というのがあるような気がします。
高い山に登ろうとする時期、美しい山に登ろうとする時期、心穏やかになる山に登ろうとする時期。
どんな山に登ろうとも、かけがえのない経験を得られます。
楽しさばかりが尊い経験ではありません。
苦しさや、はかなさや、悲しみさえも、すべてが尊い経験です。
すべてが尊い経験だと思うためには、まっさらな謙虚さが必要なのかもしれません。

近いうちに雪が降り始めるでしょう。
粉雪のようなまっさらな心境になれたら、さぞかしこの世は有り難いでしょう。


焦点

2011年12月19日 | 雑感

日曜日に当店のクリスマス・パーティーが終わり、やっと一息です。
一息つき終わったら、間もなく年末です。
こんなペースで時間が進んだら、考えるヒマも何もあったものではありません。
まぁ、あれこれつまらぬことを考えない方がいいのかも知れませんが。

政府がわけの分からぬ原発事故収束宣言を出してみたり、韓国大統領が解決済みの慰安婦問題を大上段に振りかざしてみたり、
中東で暴動が激化してきてみたり、ロシアの海洋石油施設が沈没してみたり、何が何だか分かりません。
どこにも時空を貫く筋道というのが立っておりません。
誰かが何かをコントロールするという機能が世界中から失われているような気がします。
そういう混乱の中で今日も明日もハゲタカファンドは世界中の豊かさと安定を食い荒らしていくわけです。

ここ数週間、心の中に得体の知れない不安が宿っています。
ぼく自身としては不安でいる状態というのはとても嫌いなのですが、払拭しきれないでいます。
何が原因なのか、何に対する不安なのかも分かりません。
分からないからこそ不安なのかもしれません。

おそらくはその不安の発信源は自分自身の中にある「揺れ」です。
何故に揺れているのか。
自分の安楽のためだけの生き方から、誰かのために生きるということを本当に出来るのか、したいのか。
誰かというのは誰なのか。
そしてそれは誰かに望まれていることなのか。
そういうことを考え出したら、答えは渦巻きになって、カオスに呑み込まれます。

シンプルに生きたいからこそ、ぼくは「禅」に参じます。
禅の道に本当の意味で到達していないが故に、かえって日常が複雑になっているかもしれません。
シンプルというのは情念の「太さ」が必要です。
繊細な心ではシンプルな道は歩けません。
周囲に流れる風景に常に心が惑わされてしまうからです。

禅の道は、ある意味捨て切る道です。
自分の心の動きさえ、捨て切ったところに開ける境地に遊ぶ世界です。
在家であるぼくにとっては、理念における「捨て切り」は大変に魅力的なものです。
しかし、現象世界では、人は人であり、損得は損得であり続けます。
その現象世界を相手にするのが、商売です。
なかなかしんどい心理的手続きを要します。

この一月ほどで4キロ痩せました。
別に痩せようと思って痩せたわけではありません。
なんだかエネルギーが膨大に漏れていっているような気がしてなりません。
「揺れ」というのは焦点が定まらないことです。
焦点が定まらないこの苦しさを、敢えて経験することに価値を起きたいとは思うのですが、なかなか上手く行きません。

焦点というのは目の前にあるものなのでしょうか、それとも探すものなのでしょうか。
よく分からないままに、持ち上げたこの足をどこに向けて下ろしていいものやら、混乱が続きます。


皆既月食

2011年12月11日 | 雑感

昨日は坐禅道場の忘年会でした。
道場としては相当な労力を使って新規の入門者を募ってきているわけですが、なかなかすんなりいく話しではありません。
ということで、ぼくのような人間が若手と言われるような忘年会なわけです。
それはそれで楽しいです。
虚栄が付け入る隙がないからです。
皆それぞれ禅の道を歩んでいるわけですから、媚びへつらいが一切通用しません。
後に残るのは、面白いか、面白くないかという、ある意味峻厳な反応です。
そいれでこそ、禅道場の忘年会だとは思います。

で、奇しくも、昨日は皆既月食の日でもありました。
天気予報では曇りということで期待もしていなかったのですが、どういうわけか雲が切れて、月が地球の影に半分隠れて、
すっかりその姿を暗いオレンジ色に染まる姿を見ることが出来ました。

天文学とかなんとかを知らない昔の人たちが観たなら、さぞかし驚いた光景だと思います。
何の意味を知ることもなく、月がその光を欠き続け、終いにはぼうっとした生気のない赤銅色の月になる。
意味が分かりませんよね。
なにかの天の啓示だと思う方がまだしも自然の思考だと思います。

なんにせよ、しっかりと皆既月食というものを観ました。
月から観れば、その状況は皆既日食なわけです。
太陽と地球と月。

相互に自転する月が、いついかなる時も同じ面しか地球に向けないといういうことが、どれほど奇蹟的な確率なのか。
月は人工的に作られたものだ。
月は人を狼男にする。

色々あります。

すべての存在には意味があると思います。
数十年に一度、月が暗いオレンジ色になる意味を探るのも面白いかもしれません。

 

 

 


お試し

2011年12月10日 | 雑感

新規事業の方が頓挫しています。
決まっていた物件が大家さんの諸事情で借りれなくなりました。
後は年明早々からスタートするばかりの心づもりであったのですが、手痛い打撃です。
次から次へと色々とお試しがやってきます。

これまで目標を掲げて何かを達成するということを自分に課したことのないぼくにとって、なかなか大変です。
自分の心を痛めつけないというのがぼくの最も得意とする態度・姿勢だったのですが、
心が痛もうが、挫けそうになろうが、今度の目標はなんとしても達成する心づもりです。
まだまだお試しはさらにスケールアップしてやってくるかもしれません。
ぜんぶ突破していくしかありません。

なんといってもこの世の現実社会で新規事業を立ち上げるとなれば、必要になるのはお金です。
今まで自分が食えれば良いというスタンスで生きてきましたから、お金というものを最小限に利用してきました。
お金という武器で自分がぶん殴られないように、自分の身を守るくらいのお金があれば良いと思っていました。
今でもそう思っています。
でも、そのお金という武器なしに新規事業立ち上げのための諸々の条件を構築していくのは、とても大変です。
工夫とアイデアだけではどうにもなりません。
人や組織や諸々の什器を動かし活用するには、やはりお金が絡むわけです。
それでも、必ず突破して見せようと思っています。

そうすると今まで眠ったような状態になっていた今の店を活用するしかありません。
この機をきっかけに、この店を、人脈を、そして何よりもぼく自身の再生がどうしても欠かせない具合になってきました。
だらだら何とかしていくという余裕はありませんし、何よりも身と心が持ちません。
一気呵成に、歩を前に進めなくてはなりません。
手を振って大股で歩いて行きたいところですが、なんせ暗闇の中を歩いているような気分になるときがあります。
まぁ、それでも歩いて行くわけですが。

前の会社の社長はもう雲の上の大社長になっていますが、彼は常々ぼくに「ぼくと君との違いは志の有無だ」と言っていましたが、
その通りだと思いながらも、志のなんたるかを掴めないままでここまできました。
そして事ここに至って、志を貫くことの理不尽とも言える大変さを全身で味わっています。
でも、不思議と悲壮感や不幸だという感覚は湧きません。
そりゃ胃は痛くなる連続ですが、負けるものかという闘志は無尽蔵に湧いてきます。
そういえば、ぼくは「闘志」というものに無縁で生きてきました。
決して誰かや何かと闘うという意味ではありません。
すべての闘いは、自分自身との闘いです。
自分の周りに次々と起こるお試しは、すべて自分の弱点、愚かさとダイレクトにリンクしています。

ぼくは今まで真剣勝負をしたことがないんじゃないかとぼんやり思っていましたが、どうやら当たりです。
剣を振る真似をしたことはありますが、しかも上手に真似できますが、真剣勝負をしたことはありません。
この期に及んで、初めて公開された闘いの場で、真剣勝負をすることになります。
見栄や格好が通用する場ではありません。
例え身も心もボロボロになっても、抜いた剣を納めるつもりはありません。
自ら望んだ勝負に勝つか負けるか、どちらかの判定がついたら、剣を納める時なのでしょう。
でも、誰が判定するのでしょうか?

なんか気分だけは宮本武蔵です(笑)