風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

出来ること

2009年10月31日 | スピリチュアル
近頃、その筋のネット情報では、地震や恐慌やワクチン騒ぎやらで賑やかです。
大筋ではそれらの情報のとおりに動いていると思います。
金曜日にはアメリカの株が暴落しましたようです。
日本の市場がどう動くのでしょうか。

いろいろ情報はあるのですが、陰謀論と片付ける人が多いので、詳述は避けます。
その情報にしても、所詮誰かの情報の受け売りに過ぎませんから、なおさら慎重になります。
要は、人口の大幅な抑制と、世界的に深刻な混乱を起こすことにより世界統一政府を作ろうと目論む人がいるらしいということです。
もちろんその目論見は美辞麗句で覆われており、その最終的な目的を知らされることはありません。

簡単に言うと、日本の八紘一宇やら大東亜共栄圏の構想は徹底的に潰されましたが、ある勢力が莫大な資金を駆使して
武器を製造輸出して、ウイルスをばら撒き、ワクチンで大儲けして、金融を株価を操作し、企業をのっとり、メディアを子飼いにし、
自主独立の国家や個人を根こそぎ絶やしてしまおうとするとてつもない勢力が世界を動かしているということです。
そういう風に思って眺めていると、なるほどそういう風な一連の動きです。

「ブラッド・ダイヤモンド」、「ザ・シューター」、「ザ・バンカー」、「ワールド・オブ・ワイズ」等など、
そういう勢力が後ろにいるのではと思わざるを得ないような暴虐を描いた映画作品がたくさんあります。
でも、登場人物たちは、誰が何のためにしているのか知ることなく、殺し殺されていきます。
後ろに控えている勢力をそのまま描いた作品は一本もありませんが。
それは無理なのです。

経済大国と呼ばれる日本の国民のお金はどこに消えているのか誰も知りません。
恐慌と呼ばれたアメリカの経済状況がどうして回復基調に向かっているなどと報道されるのかも誰も知りません。
そして決して報道されることもありません。
ワシントンで数百万人規模のデモが行われたそうですが、その理由も背景も日本では報道されません。
ネットがなければ、誰も知りようがないままに、誰かの意のままにものごとは推移するのでしょう。

もうメディアはその役目を終えました。
高給と好待遇に目が眩むのは世の常です。
真実を伝えて基地外扱いされるよりも、高給と好待遇に甘んじるよぷとすることを責めてもしようがありません。
人はそんなものです。

彼らが忌み嫌うのが本当の意味での自主独立の気概を持った国家、並びに個人です。
誰からのコントロールを受けることなく、心豊かに暮らす心境というのを彼らは恐れます。
そういう心境に彼らはなれないからです。

地震が来ても、食べ物が貧窮しても、心豊かに生きると決心したなら、彼らは手出しが出来なくなります。
なにがあっても、心豊かに生きましょう。
過度の恐れや、不安や、憎しみは彼らの付け入るルートですから、誇り高く生きましょう。

どんな状況であろうと、自分が出来ることを精一杯する。
それだけのことです。
誰かに何かをしてもらいたいと思ったときに罠があります。

ものの見方

2009年10月30日 | スピリチュアル
10月も終わります。
光陰矢のごとしなんですが、なんといいますか、こんな感じで流されてしまってはまずいだろうという気がぼくにはあります。
滝にも週に一回ほど入っていますし、坐禅もしますし、週に一度はラジオの番組にも出ますし、仕事もいろいろ大変ですし、
本も週に数冊のペースで読んでいますし、別に不満はないのですが、もう少し高いところから風景を眺めてみたいという気もします。

誰かの視点と比べて、より高いところからという意味ではありません。
もう誰がどんな視点から見ているかなどということは、ぜんぜんどうでもいいことです。
その人がものごとを見たいように見るだけです。
ものの見方しだいで、幸福にも不幸にも感じることができますから、ものの見方というのはとても大事なことです。
でも、こればっかりは他人に教えたり教えられたりするものではない様に思います。

好きだ嫌いだから、喜ぶ、怒る、憎む、尊敬する、感服する、崇拝する、どんな心理的な動きもその人のものの見方に根拠を置きます。
実際の社会生活ではそういう心理的動きこそが行為の動機となり、結果となり、彩どりとなるわけです。

それに対して、禅ではそんな心理的動きなどは一切相手にしないというか、「ものの見方」そのものを手放そうとします。
ものの見方を手放したときに、見えてくるものを掴もうとします。

言ってみれば、知識や見識を高め、人格を磨くということをすれば、視点を高くしていくことは十分に出来ると思いますが、
自在に見たいものを的確にいつでもどこでも見るという空を飛ぶ「鳥の視点」は持てません。
当たり前の話ですが。
でも、余計な分別知がばっさりと抜け落ちたら、丸裸の純粋意識そのままになったら、「鳥の視点」になるような気がします。
何でも見通す千里眼とか、神通力(神足通・天耳通・他心通・宿命通・死生智・漏尽通)とかに近い能力なんだと思います。

ぼくは別に千里眼や神通力を備えたいとか、それをうらやましいとかはまったく思っていません。
そういうことではなくて、プラスマイナス交えたいろいろな感情を味わいながらも、その感情におぼれることなく、
その自分を含めた人間模様すべてを、ほほえましく見ているような視点。
理屈でそんな視点を持とうと思えば、とんでもない嫌味でしょう。

何かを見ようとするのではなく、見えるものを見る訓練から始まるのかもしれません。
人はたいてい見たいものを見ています。
おいしいものとか、美形の異性とか、欲しいものにはすぐ目が行きますが、路傍のタンポポとか、空に浮かんだ雲とかは、
その気にならなければ目がいきません。
見えるものをそのまま味わうというのは簡単そうでなかなか難しいものです。
路傍のタンポポを30秒以上見つめているのは、人間の分別心にとってとても苦痛です。
分別心というのは、「自分にとって」役に立つか役に立たないかをもっぱら分別するからです。

「自分にとって」役に立つか役に立たないかという分別を捨ててものを見ることが出来れば、すべてはあるがままにあり、
誰かや何かの役に立ち、存在の尊厳の光を放っているわけです。

ま、そこまで行くのはなかなか難しいことですね。
でも意外と簡単そうな気もします。


民主主義

2009年10月20日 | 雑感
土曜日に禅の摂心会は無事に終了しました。
ちなみに「無事」というのは禅では非常に大事な言葉です。
人が生きても死んでも、「無事」。
このあたりの消息を言葉で説明しますと嫌味になりますので、やめときます。

話はころっと変わって、彼岸花というのは本当に彼岸のころに計ったように咲きますね。
しかも、田んぼの畦道とか、人々が長年歩いていただろう道筋にだけ咲いています。
明るい紅色の彼岸花に額装された頭の垂れかけた穂でいっぱいの田んぼというのはとてもきれいです。
ちょっと今思い出しただけの話です。

ぼくは東北人です。
東北人というククリが民俗学上あるのかどうかは知りません。
坂上田村麻呂と互角以上に戦ったアルテイという東北の戦士の話を最近知りました。
アルテイが立てこもったという伝説のある洞窟はぼくの生まれた町からたぶん北に10数キロです。
坂上田村麻呂が勧請したという清水寺というのもぼくの町にはありました。
それはそれは立派な庭園があるのですが、住職がおらず荒れ放題です。

さらに北に行けば有名な平泉です。
その都市造営の規模からすれば、豪壮というより仕方がありません。
でも、その詳細は分かりません。
蝦夷といわれた原住民との関係やら、財源やら、都との関係やら、何故にあれほどの絢爛豪華な都市を作りえたのか、
ぼくは知りません。

明治維新のとき、東北は渋々ながらにも奥州列藩同盟というものを結成して、薩長軍に対抗しました。
理屈の上では朝敵となりました。
持っている武器の質量ともの圧倒的な差ににより、東北勢は情けないほどに負けました。

その後、薩長に代表される西国の人物にほとんど主な政治は掌握されました。
九州や長州の人々から見れば、東北はどう見たところで野蛮であったのでしょう。
武士階級はいざ知らず、京も江戸も知らない民衆が、ひたすら山間の小さな共同体の中で暮らしていたからです。

で、何が言いたいのかというと、本当の文明や文化度の高さということです。
今の文化は東京に集中しているかのような迷信があります。
今のテレビを見て、そこに文化を感じる人など皆無でしょう。
文芸雑誌の出版社も東京に集中していますが、別に出版社が東京にある必要が全くありません。
戦略上、江戸をすべての中心にしようとした政策の残り香が今なお濃くこの国を覆っているのでしょう。

ヨーロッパの国々を訪れると感じる豊かさは、小さな町々、村々が豊かであることです。
人口1万足らずの町に、一流ホテルがあり、博物館があり、何件かの感じのよいレストランがあり、城跡があり、
豪奢な教会が何棟か空に聳えている。

そりゃあ、ヨーロッパであろうとどこであろうと時代の洗礼の波は受けますから、いろいろな問題はどこの自治体も抱えます。
でも、日本の場合はあまりにもその流れに抗するに無策すぎます。
こういう町に、こういう村に我々はしたいと思えば、そうできるのが本来の民主主義です。
その民主主義であることの恩恵をみすみすドブに捨ててしまっているのが、いまの日本のような気がして仕方がありません。

いつまでたっても

2009年10月13日 | 雑感

土曜日夜から昨日いっぱいにかけて禅道場でした。
昨日は朝五時の起床でした。
5~60畳でしょうか広い道場に布団を並べて敷いて寝ます。
案の定、隣に爆音みたいないびきをかく道友がこちらを向いて寝たため、ほとんど眠ることができませんでした。
まぁ、そんなもんです。

今日はFMの番組に出るため、道場はお休みしました。
明るく淀みなくおしゃべりする方だったので、番組進行は楽でした。
でも、番組を持たせてもらう以上、楽だけではだめです。
深さや鋭さがあって初めて豊かな番組になるのだとは思います。
何ごとも、するとなれば精進が必要になります。
精進のない道はどこかに必ず罠があるものです。
ぼくほど精進ということに興味がない人間だからこそ、滝行、坐禅、そしてFMと、精進というものが必要になるのでしょう。
精進するときは黙って精進すればいいのです。

ここまで書いてきて気がつきました。
一番精進がおろそかになっているのは、ぼくの本業たる商売かもしれません。
低空飛行でも墜落しなければいい、なんとか日々食えればいいという、天に唾する所業かもしれません。
考えを改めます。

でも、金持ちになりたいとか成功したいとか名を成したいというのは本当にないんです。
本当にないのですが、金持ちになっても、成功しても、名を成しても、別にかまわないのならそれでいいんです。
否定的な意味で、かまう心があります。
なにか心の底に得体の知れないわだかまりがあります。
精神的なウンコがあるというのが一番適切な表現です。

精神的な宿便を出し切ることが精進の道なのだと思います。
汚い話でゴメンナサイ。

その昔好きだった歌を偶然見つけましたので、お口直しに。

http://www.youtube.com/watch?v=rQ88QNy1XFI&feature=related


難関

2009年10月11日 | 雑感
昨日から禅の摂心会が始まりました。
今回老師よりいただいている公案は難敵です。
見当がつきません。
分かったと思ったときは、すとんと腹に収まるのですが、そういう感じがちっともしません。
しばらくはうんうん苦しむしかなさそうです。

先週より週一回地元のFM局でひとつの番組を任されるようになりました。
毎回地元で活躍する女性を呼んでお話を聞き、リスナーの方に「よし、私も頑張るぞ」と思ってもらおうという一時間番組です。
ぼくも緊張しますが、ゲストの方はもっと緊張します。
緊張したもの同士が共鳴して、うんと緊張します。
そのうち慣れたらゲストの方の気をもっと楽にしてあげられるだろうと思います。

ゲストが次のゲストを紹介すしていくというスタイルですので、同じような業界やライフスタイルの方がひとしきり続くようです。
このところ福祉関係に携わる方が続いているようです。
福祉の現場というのは人の生死に毎日直面するわけですから、生半可な気持ちでは続けることができません。
重たくしんどい毎日の中で、患者さんや利用者の方々のささやかな笑顔や生きようとする姿勢などを生きがいとして、
真剣に取り組んでいる方がほとんどのように思います。
へらへらぼくが話をきくようなことではないような気がします。
でも、いろいろな意味で大変貴重な訓練をさせてらっている気がします。

初対面の方々から少しでもその取り組みに対する思いを引き出し、一人でも多くのリスナーの方に届けられれば、
ほんの少しは何かの役に立つような、そんな感じがします。

明日は店を閉めますので、今夜は道場に泊まります。
道場に泊まるのは初めてです。
難敵の公案がなんとかなってもならなくても、道場で座るだけです。

そうそう、昨日の昼間にある知り合いのパーティーがあったので参加しました。
地元では大変力のある方みたいです。
一回しか会ったことがないのでよく知らないのですが、とにかくその方のお誕生日パーティーでした。
ぼくらのテーブルに来て、その方が赤ワインをついでくれました。
なんとそのワインをその方の高そうな白いシャツにぶちまけてしまいました。
どういう具合でそうなったのかはよく分かりません。
とにかくぼくの手元がグニャグニャとなって、首のところからズボンまでベチャリと赤ワインをかけてしまいました。

その方は笑ってくれてはいましたが、そのパーティーの後も別のパーティーが控えているそうで、
どうにもこうにも恐縮するより他ありません。
大柄な方で、デパートで既製品を買ってこようにもサイズがありそうもありません。
万事休すです。
そんなぼくを皆さん慰めてはくれましたが、なんというか・・・。

この出来事がどういう意味であったのか、ちょっと考えてみる必要がありそうです。

想念

2009年10月04日 | 雑感
桜島が噴火したようですが、アジアを中心に死者が出るような自然災害が立て続けに起こっていますね。
気候温暖化のせいだというまことしやかな情報が流布されていますが、太陽の活動の異変のせいだという説もあり、
人工的に引き起こされた気候変動だという説もあります。

なんにせよぼくは、良寛さんの心境でやっていこうと思っています。

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」

恐れや不安や怒りを持つことは、いたずらに自分を痛めるだけです。
やることをやりきり、死ぬときは死ぬ。
たかだか数十年のこの世の命運は天の流れに任せきる。
これは決して消極的な態度ではなく、災難に巻き込まれないための正に「妙法」です。

大事なポイントは、座して死を待つのではなく、無意味に時局に巻き込まれるのでもなく、
「やることをやりきる」ということです。
大災害が襲ってこようとも、助けられる隣人には手を差し伸べ、食料を分け合い、倒れたものを看病し、
地面があれば耕して種を植え、みなが眠れるところを共同で建て、誰にも遠慮のない希望を持って生き切ることです。

想念はエネルギーです。
何を思うかがその人の命運です。
どんなときでも豊かな想念を持ち続けることはぼくは可能だと思っています。
身内や知人や同胞が死んだら限りなく悲しく苦しいに決まっています。
でも、それでも絶望しないことはできます。

どうもこの世の中には、人の恐れや不安や怒りや疑いのエネルギーを欲しがっている隠れた勢力がいるみたいです。
そういう勢力と闘うというのは懸命なやり方ではありません。
彼らと闘い始めたとたん、怒りという爆発的なエネルギーが彼らに供給されます。
彼らの思う壺だというわけです。

彼らにエネルギーを与えないことが肝要です。
どんなときでも、やれることをやりきり、生ききればいいだけです。
どうしても闘うしかないときでも、許せないから闘うのではなく、生きるために闘えばいいことです。
彼らのエネルギー源は人のマイナス感情です。
人がどんなときでも前向きに生きると決めたら、彼らはほうっておいても衰退します。

命が人に与えられたエネルギーの源だとするなら、想念はそのエネルギーの顕れです。
正しく想念を使えば、命は本望です。
自らの命を歪めないようにするには、歪んだ想念に染まらないことです。
なかなか大変ですが、集団ではなく一人ひとりが命の責任を負う時代になったのだと思います。