風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

鳥と儀式

2006年11月24日 | 雑感
夕方、お客さんから電話があって、西の空を見てみろと言います。
とりあえず自転車で川まで行って、西の空を見ました。
惚れ惚れするようなウロコ雲が、遠くに見える山を基点に、町全体を覆うように扇形に広がっていました。
大陸ではよく見ることができるような、高層にあるウロコ雲が、銀色に輝いています。
この辺りで見るのは珍しいでしょう。
しばらく見とれていました。

川向こうにある城の上空をトンビが4~50羽集まって、旋回しています。
見ていると、その群れは旋回しながら上空へ上空へと上って行きます。
はるか上空まで上っても、旋回を続けています。
獲物を探しているというふうには見えず、なにかの儀式をしているように見えました。

ふと、ネイティヴ・アメリカンの舞踏というのは、こういう光景を見てインスパイアされたものではないかと思いました。
ワシの羽飾りをたくさんつけて、旋回するようにステップを踏む踊りです。

旋回とか、渦とか、円とか、螺旋とかは古代から世界各地で生命のシンボルとして使われていたみたいです。
DNAも螺旋状の形態をしていますし、巻貝なんかも見事に幾何学的な螺旋を描いています。
蛇もその形状からか、生命力からか知りませんが、神聖なパワーを持つものとして崇められていたみたいです。
どういうわけか、今ではすっかり嫌われてしまっていますけれども。

そういえば、アメリカのどこかの国立公園で、国鳥とされる白頭ワシを見たことがあります。
切り立った岩頭の上に翼を休めて、回りを睥睨していました。
周囲は空と森と峻厳な岩です。
数百メートルは離れていたでしょうが、その高貴な存在感はさすがでした。

丹頂鶴も求愛のダンスを踊りますが、意外と鳥というのはそういう儀式的なことをする生き物なのかもしれません。
何十羽と集まり、空高く旋回して上っていくのが儀式だったとすれば、なんというか、かっこいいですね。










思い

2006年11月20日 | スピリチュアル
今日ある方が来て、去る10月17日というのは重要な日だった言います。
なんでも宇宙のかなたからある波動が地球に注がれ、人の意識に重要な影響を与える日がその日から始まったというのです。
2年ほど続くのだそうです。
思ったことが実現するスピードが今までで考えられないくらい早まるのだそうです。
好ましい思念ばかりでなく、マイナスの思念でも実現するスピードが加速されるそうです。

そうだとすると、日々何気なく自分が思うことに気をつけなければいけませんね。
10月17日というのは、ぼくにとってはヨーロッパから帰国した日でした。
時差ぼけもあり、あまりポジティブではありませんでした。
なんとなく、怠けようとしていたところがあります。
怠けようと思ったとたん、だらだらとした日々が実現する。
これは気をつけなければいけません。

自分の思うことというのは、修正しようと思えば修正できます。
とはいえ、自分の思うことを修正するというのが一番難しいのですが。
自分の思うところの正しさや優しさや正直さというのをいったん棚上げして、自分の立つ道がどこへ向っているのかを
確認する必要があります。
自分の思うところの正しさや優しさや正直さというものは、大抵はそう思っているに過ぎないことが多いです。

ぼくらの滝の導師の滝行における指導の眼目は「思いを捨てる」ということに尽きます。
寒い、早起きが辛い、酒が飲みたい、肉が食べたいなどなど、人は際限なく勝手な思いに振り回されます。
寒かろうがなんであろうが、滝に打たれると決めたら滝に入るわけです。
滝に入ってしまえば、寒くてとても入れないなどと思っていたことなど、吹き飛ばされる以外にないのです。
早起きだって、断酒、断肉だって、それを苦痛と思う思いがなくなれば、なんでもないことになります。

人の執着するそれぞれの「思い」などというのは幻想だということを身をもって知るわけです。
幻想だからといって、人は「思い」から自由になれるわけでもありません。
日常に戻れば、人はたちまちあれこれの「思い」に振り回されます。
ただ、「思い」は幻想だと知っていれば、よりましな「思い」を持とうとすることはできるわけです。

ネガティブな思い、「できない」「いやだ」「つらい」「無駄だ」、こういった思いは人を身動きできなくします。
「できる」「たのしい」「好きだ」「すべてはうまくいっている」、こういった思いは人を解放します。
ネガティブな思い=幻想に振り回されることをやめ、ポジティブな思いを幻想することで前向きに進めます。
幻想に囚われるのではなく、幻想を利用して現実をポジティブなものに変えていくということは可能です。

「思念」が現実化するスピードが加速されているということでしたら、なおさら、今なにを思うかが大事になります。
幻想は幻想です。
どうせなら、明るく楽しい幻想を持って、豊かな現実を作っていった方がいいのに決まっています。
豊かな現実が自分の周りに出来上がるのを待っていても、おそらくその時はやってきません。
楽しいことを思い、楽しい現実を作っていくということなのでしょう。

幻想は幻想だから無意味なのではなく、人はポジティブな幻想を楽しむことにより初めて現実を作っていけるのかもしれません。
名作とされる映画はたくさんありますが、そのような映画の多くは人に勇気と生きる喜びを与えてくれます。
幻想は人の心の現実です。
どんな幻想(=思い)を心の中に持つか、持てるかが非常に重要になってきます。
厳しいというか、あまり好ましくない現実世界に打ちひしがれるよりも、心の中に豊かな世界を自由に作ることができます。

思いというのは、考えすぎると駄目になります。
理屈が勝ちますと、思いというのは枯れてしまいます。
自分の心の中でくらい、好き勝手に、自由に、楽しくなるような思いを巡らせることに上手になってもいいのかもしれません。




自分に勝つ

2006年11月18日 | スピリチュアル
今月号の「致知」から、長くなりますが引用します。
今月号のテーマは「自ら勝つ者は強し」です。

  常岡一郎という人がいた。明治三十二年生まれ。慶応義塾大学在学中に結核になり、学業を捨てて闘病、求道の生活に入った。
  「すべてのものには中心がある。その中心からずれたとき、人間は、家庭は、集団は、国家は、人類は、みんな苦しむ。
 課せられていることを中心にするのだ」
  この真理を体得し、月刊誌『中心』を発行。主幹として五十年間、毎号執筆。また中心同士会を結成し、毎月全国主要都市で
 講演会を開催し続けた。そういう人である。この常岡氏に次の言がある。
  「勝つ。この勝ち方にもいろいろある。喧嘩に勝つ。やせがまんや屁理屈で勝つ。それに勝っても他人は喜ばない。
 人を苦しめることになる。これでは人の心も天の心も暗くなる。天、人、我、共に喜ぶ。そんな勝ち方は『我に勝つ』ことである。
 (中略)この場合のわれとは何であろうか。それは自己の我執である。わがままである。朝寝、不精、屁理屈・・・である。
 これに打ち克って朝も早く起きる。人のいやがることを、いそいそと果たす。わがままを捨てて勤めきり、つくしきる。
 そうして人を喜ばせる。これが『われに勝つ』ことである」
  常岡氏は昭和六十四年、九十歳で亡くなられたが、人の悩みを救うべく生涯を捧げた人の言葉は平易明快、力強い。

  「人に勝つ者は力有り。自ら勝つ者は強し」
  と「老子」(第三十三章)は言う。
  他人と争ってこれを打ち負かすものは力があるとは言えるが、本当の強者ではない。私利私情を克服できる者、
 すなわち私心に打ち勝つことができる者こそ、真の強者である、ということである。
  王陽明もまた、同じようなことを言っている。
  「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」

  克己は古来、聖賢が等しく目指した道である。思えば、天は人間だけに克己という心を発達させた。その心があることによって、
 人間の進歩向上はある。そのことを我々は胆に銘じたいものである。

  最後に、新井正明氏(住友生命保険元名誉会長)の言葉を紹介する。
  「暗いところばかり見つめている人間は、暗い運命を招きよせることになるし、いつも明るく明るくと考えている人間は
 おそらく運命からも愛され、明るく幸せな人生を送ることができるだろう」
  「自らに勝つ」ことに腐心してきた人の尊い言葉である。

以上です。
付け加えるべき言葉もなく、そのままその通りだと思います。 
「わがまま」「朝寝」「不精」「屁理屈」というのは、そのまんまぼくの有様でドキリとさせられます。
ぼくの心の中は「賊」が我がもの顔で好き放題している感じです。
まぁ、それはこの際置いときます。

思えば、古今東西、人生の達人が残した言葉というのは、言い方の角度が違えといえどみな同じことを言っているように思います。
「明るく、元気に、人のために楽しく生きろ」
これに尽きるんだと思います。

未熟な者は「人のために」というところが引っかかります。
なんで人のためなんだ、自分の人生、自分のために頑張るのが当然じゃないかと。
これを理屈で、いやそうじゃないんだ、「情けは人のためならず」で、他人に尽くすことを通して、喜びやら満足感というのは
得られるようになっているんだなどと訳知り顔で説教しようと思っても無駄です。

未熟な者は、精一杯「自分のため」に頑張ってみればいいんです。
頑張っても頑張っても残る不満と苛立ちを味わえばいいんです。
「自分のため」と思っていた「自分」などというのはどこにもいなかったことに、いつか気が付けばいいんです。
それが誰もが通る「未熟な自分」という道ですから。
人の未熟さについてということに関しては、ぼくはやたら詳しいんです(笑)

「明るく、元気に、人のために生きる」というのは、言葉にすると簡単ですが、いろんな要素を満たさないといけません。
素直さ、忍耐力、人に対する洞察力、行動力、我執をスパリと切れる胆力、等々いろいろな面で強さがなければそこまで行けません。
そういったいろいろな面で鍛えられるために、未熟な道を通ってぐずぐずと悩んだり、苦しんだりするわけです。

「いつも明るく明るくと考えている人間は おそらく運命からも愛され、明るく幸せな人生を送ることができるだろう」
という言葉は、先日紹介した越智啓子さんの「すべてはうまくいっている」という言霊と一緒のことですね。

最後に、常岡氏の言葉をもう一つ紹介します。

 「八方塞がって、初めて天に道が通じていることが分かる。我々の創意や才覚で何とかなるうちは、
 神様にしっかり守られていることが分からんものだ」

 
  

夢うつつ

2006年11月15日 | 雑感
夢の中でぼくは雑誌を読んでいます。

最初の記事は、若いバイクライダーの取材記事。
週末になると全国各地の峠道やなんやらを「攻め」ています。
ドリフトとかそんな感じの専門用語がポンポン出てきて、バイクに対する情熱を感じます。
全国各地に彼の友人たちがいます。
彼が週末どこかへ行くと、彼を待ち受け、一緒に走る仲間たちです。
仲間たちと会ってもほとんど言葉は交わさず、「行こうか」の一言で一緒にバイクにまたがります。

「彼らとは何年かに一度しか会わなくても全然オーケーだ。なにも話さなくても、なにも変わらない」と彼は言います。
彼は取材をアメリカンバーみたいなところで受けたらしく、洋酒の瓶が並んだカウンターに座った横顔の写真が掲載されています。
軽い長髪で、悪びれたところのない笑顔を浮かべています。

次の記事は、と書きかけて、すっかり忘れてしまいました。
このブログを書き始めたときは覚えていたはずなんですけど。
上の記事とはまったく違うジャンルの話で、なんか面白かった記憶があるのですけど。
う~ん、どうしても思い出せないです。

それから、ふと目が覚め、見たばかりの夢を毛布の中で反芻しました。
我ながら、面白い夢だったなと思ったので。

まだ窓の外は暗かったので、また寝ようと思いましたが寝つけません。
ふと、そろそろクリスマスカードを作らなければならないと思い出しました。
手持ちの写真で何か使えそうなものはないかとあれこれ思いをめぐらしてみましたが、ありません。
それでは自分でイラストでも描こうかと思いました。
すると、半分夢うつつだからでしょうか、すぐにイメージが浮かんできました。

小高い丘の上に洋風の一軒家が建っています。
もう空には青い夕暮れが訪れ、一軒家の窓から黄色い光が漏れています。
玄関口にはクリスマスツリーが飾られています。

その丘の上の家まで一本道が上っています。
その道の上に、一人の背中姿の男が立っています。
男はベージュのウールのことを着て、濃いグレーの襟巻き、帽子を被り、黒い革の手袋をしています。
両手に膨らんだ大きな紙袋を提げています。
紙袋からリボンで飾られた箱が少しだけ覗いています。

そんなイメージでした。

ちなみに、以前にもネタがなくてクリスマスカードを手描きのイラストにしたことがあります。
雪降りしきる中、雪だるまをじっと見つめる犬、という色鉛筆(笑)で描いたイラストです。
評判はといえば、「ぷっ」と笑われました。

それにしても、夢の中で見た二番目の記事、面白かったのになぁ~と残念です。
その記事の中のセリフを書きたくてこのブログを書き始めたのに、一番目の記事を書いているうちにすっかり飛んでしまいました。



パスタと映画

2006年11月13日 | 雑感
このごろスパゲティをよく作ります。
以前はトマトソースを作るのにケッチャップを使っていましたが、論外でした。

ちょっと最近自慢のレシピを。

1.トマトソースを作る

 ・フライパンでオリーブオイルを熱し、ニンニク(二片)をみじん切りしたものを焦げ付かせないように炒める。
 ・ホールトマト(イタリア産トマトがよろし)の缶詰を汁ごとフライパンにいれ、木ベラで丁寧に潰す。
 ・水っぽさがなくなるまで弱火で煮る(焦げ付かないよう木ベラでかき混ぜながら)。

2.具を作る

 ・フライパンでオリーブオイルを熱し、水で戻した干しエビを戻し汁ごと入れ、ザク切りにしたタマネギも入れ、炒める。
 ・タマネギがしんなりしたら、白ワインを半カップほど加え、水分が飛んだら、1.のトマトソースと合わせて、
  弱火でことこと煮る。

3.パスタを合わせる

 ・アルデンテより心持ち硬めに茹でたパスタをよく水気を切り、上記のソースに入れ、オリーブオイルを少々ふりかけ、絡める。

4.食べる 

 ・皿に盛り、パルメザンチーズ(削りたてがベスト)をたっぷりかけて、残った白ワインと一緒に食べる。
  皿に残ったソースもちぎったパンで拭い取って食べる。

 *干しエビの代わりに、干し貝柱とか、アサリの水煮でも美味しいと思います。戻し汁とか水煮の汁も捨てずに使うのがミソ。
 *サイドディッシュはクレソンなど苦味のある葉っぱ系を使ったサラダで。
 *ワインは白ワインでしたら一本2000円以上なら大丈夫だと思います。酸味の利いたドイツワインが相性がよかったです。
 *ホールトマト缶一缶で、二人分のソースができます。

上質のパルメザンチーズを手に入れるのは難しいですから、ぼくはよくある粉チーズを使いましたが、うまかったです。
休日のランチなんかで食べると、幸福になれます。
ワインはぼくは一瓶飲みますが、あまり飲めない方ほどおいしいワインにした方が満足感があるでしょう。
タバスコをかけるとチーズの風味が消えますから、かけないほうがいいです。

なにをクドクド書いているんでしょうか(笑)

という休日の夕暮れ、「父親たちの星条旗」を見に行きました。
名だたる激戦地、硫黄島で戦った米軍兵士たちの物語です。
米軍のすさまじい艦砲射撃で、日本兵が立てこもった擂鉢山の3分の一が変形してしまったという話を聞いたことがあります。
そこには英雄も臆病者の区別もなく、必死で戦いながらもいとも簡単に死んでいく兵士たちがいました。
扇情的でもなく、冷たくもない視線で兵士たちが倒れていき、生き残っていく様がリアルに描かれます。
戦争映画は苦手な方もぜひ見てもらいたい映画です。
いい気分には決してなれる映画ではありませんが。

中学生の頃、クリント・イーストウッドのマカロニウエスタンを名画座で夢中に見ていましたが、
こんなに冷厳で奥行きのある映画を作る監督になるとは思ってもいませんでした。

これと合わせて作られた日本軍兵士側から見た硫黄島の戦闘記、「硫黄島からの手紙」が12月初旬に封切られます。
もちろん、見に行きたいと思っていますが、予告編を見ただけですが、なんか日本人の役者の演技が例によって大袈裟そうなのが、
ちょっと気になります。
「父親たちの星条旗」では、ちょっと分かりづらいほど抑制された演技で全編が貫かれていましたから。




2006年11月11日 | 雑感
朝から雷混じりの雨降っています。
寒々しい空です。

滝の仲間からミキシィという登録制の掲示板へのお誘いがあったので登録しましたが、使い方がめんどくさそうです(笑)
ちょっと徘徊してみましたが、使いこなすには時間がかかりそうです。
いろいろ自己紹介やらなんやらがあって、なんやら照れくさいというのもありますし。
ま、ぼちぼち覗こうかとは思っていますが。

だいたい、このブログを書くのだって、なかなか書くことがなくて困ることがあります。
今日は何かを書こうと決めるようなことはなく、思いつきで書いていくわけですが、なにも思いつかない日というのがあります。
なにも思いつかないままでも、なんとか言葉を埋めていくことはできるのですが、心も文章も低調です。
例えば、今日とか(笑)

で、こういうことを書くのはせっかく読んでくれている方に失礼ですから、何か考えます。
う~ん。

お客さんで、それはそれは美人な姉妹がいます。
ぼくより年上なんですが、なんというか美人のオーラが漂うような姉妹です。
近所の生臭坊主がぼくの店にいるところをちらりと見て、ぜひ紹介してくれと言ってきましたが、即座に断りました(笑)

二人ともやり手で、複数の店を持ち、全てを成功させています。
賢く、気持ちも細やかで、決断も早いです。
なんというか非の打ち所がありません。

ぼくの店には数ヶ月に一度くらいしか見えないのですが、いらっしゃると店内が明るくなるような気がします。
買うと決めたら早いのですが、値切りもそれはそれは厳しいものがありますが、まぁそんなものです。

でも、ご家族の中でいろいろなごたごたがありまして、妹さんの方が少しブルーになりました。
数年間は町に出るのも嫌になるくらいに落ち込んでいたみたいです。
何回か話を聞いたのですが、ポロポロと泣きながら話したあとは、「ありがとうね!」と元気に笑って帰って行きます。
そんな妹さんも、新しいお店を開きました。
一杯数百円のコーヒーを出す店ですから、日当代も出ません。
それでも、「今は修行中だから、お金はいいの」と笑って言います。
噂で素敵なコーヒーショップができたとは聞いていたのですが、彼女が開いた店だとは知りませんでした。

もの凄く辛い経験も肥やしにして、先へと進む彼女を見ていると、こちらまで勇気づけられます。
その店も区画整理にかかり、あと一年かそこらで立ち退きになるそうです。
それまでは次のステップへの準備期間として、数百円のコーヒーを出し続けるみたいです。
彼女なら、きっと新しい展開を起こして、また素敵な店を立ち上げるでしょう。

彼女を見ていると、いろいろ感じることがあります。
運は確かに並外れて強いものを持っているのですが、その運を生かす心根が優しくて、しなやかで、強いんです。
運が強くても、心根が弱ければ、逆に強い運に潰されるかも知れません。
神仏などに強運を願い、お金も地位も手に入れたとしても、それを生かす心根がなくて潰れる人たちというのは結構いそうです。

してみると、運が強いことが一概にいいことだとは言えません。
自分にふさわしい運を、自分の精一杯の心根を使って、生かしきるというのが幸福と言うのかもしれません。
運が強いと、それだけやることも多いし、プレッシャーも多いし、煩わしい人間関係も人より多いでしょう。
それを受け入れ生かしきる人が、強い運を貰えばいいんです。
彼女は本当に苦しんで、顔がやつれていても、決して自然な笑顔を忘れませんでした。

ちなみに、ぼくは女性を見るとき美人かどうかを気にするタチでは全然ありませんので、念のため。
近所の生臭坊主と一緒にしてもらっては困ります。













虹色の光

2006年11月10日 | 雑感
昨夜は久しぶりにネネさんと飲んだんですが、ヨーロッパ旅行の写真の焼き増ししたのを貰いました。
その中の一枚にアッシジで撮った写真があるんですが、これがちょっとあれです。
ネネさんとぼくが塀の上に並んで腰掛けているんですが、ネネさんの肩から腰にかけて虹色の光が覆っています。
ネネさんと親しい霊能者の方に視てもらったら、なんでも3種類のエネルギーが結合した非常に珍しい光だそうです。
3種類の光がなんだったのかは、聞いたのですけど忘れてしまいました。
その隣でぼくはというと、ウスバカゲロウのように逆光の中で存在感を失っています(笑)

ぼくが気に入った写真は、ピッティ宮殿の前でネネさんと並んで撮った写真です。
画面全体が夕陽を浴びてオレンジ色です。
ネネさんは夕日を見ています。
ぼくはネネさんの肩に手を回して、カメラ目線です。
肩に手を回すというのも、カメラ目線だというのも、屈折したぼくの照れ隠しです。
どうも自然体でカメラに向うことができません。
どの写真のぼくも引きつった笑いを浮かべています。
馬鹿みたいな話なんですが、こればっかりはしょうがありません。
写真を撮られると、魂が抜き取られると昔の人は思っていたそうなんですが、ぼくは昔の人なのかもしれません(笑)

最近、ネネさんの周辺では天使の目撃談が急に増えて来ているのだそうです。
何人も写真に撮ったり、ビデオに収めたりしているのだそうです。
天使というのはしばらく宙を飛んだあと、ぱちんと消える時、光の粉が散るそうです。
ディズニー映画に出てきたティンカーベルなんかが光の粉を飛び散らしながら飛んでいましたが、あんな感じなのでしょう。
なんにせよ、何かか動き出したような感じはあるのだそうです。

動き出したといえば、ぼくの方もちょっとやりたいことがありまして、動き始めています。
今の段階で大言壮語するのは止めといて、とにかく形にしていってみようと思っています。
動き出すと、いろいろな点が、線で結ばれていくから不思議です。








メンテナンス

2006年11月09日 | 雑感

さすがにタオルケットでは寒くなって来ましたので、毛布を出しました。
寒い朝に毛布にくるまっているというのは、ぼくの至福のうちの一つです。

せっかく早く目が覚めるようになったのですが、6時半過ぎないと夜が明けていません。
真っ暗な滝に入るのはちょっと気が引けるものですから、することが見つかりません。
で、スタンドの明かりで本を読んでいるうちに、また寝ます。
本気で坐禅を組む鍛錬をしてみようかと思う今日この頃です。

それから、どうも食欲のあり方が変です。
お腹は空くのですが、いざ食べようとすると二口三口でもういいやって感じになります。
お酒を飲みながらってこともあるのでしょうが、なんかご馳走が食べたくないというか・・・。
とろろとか酢の物とか豆腐とか、そんなものばかりを食べたくなっています。
急速にジジイ化しているのかもしれません。

粗食の極みで生活を続けた禅の坊様は大方長生きでした。
長生きしたいというわけではないのですが、余計な毒素を身体に溜め込んで、糖尿やらなんやらにはなりたくないものです。
菜食は精神も澄んでいきそうな気がします。
菜食を中心に、食べたい時には肉でも魚でもむしゃくしゃくうというのがいいのかもしれません。
でも、滝行を何回かしたあと、牛肉だけはホント食べたくなくなりました。

そういえば、体のメンテナンスってした事がありません。
断食道場などの噂を聞いてはいましたが、自分が行くと考えたことはありません。
年とともに血液の循環が悪くなり、毒素の排出機能も衰えていくでしょうから、そろそろ潮時かもしれません。
Qちゃんが推奨していた豆乳のパイナップルジュース割り、あれは気に入りました。
野菜ジュースもミキサーで作ろうとすると意外と手間がかかるんですよね。
重たくかさばるミキサーを洗ったりの後片付けが大変なんです。

昔、アメリカ一週旅行をした時なんかは、重いリュックを背負ってバス停(バス・ディーポと言いました)から、
ユースホステルまで5ー6キロ歩いて、それから街中を夜中まで散策していても平気でした。
実は前回ヨーロッパに行ったときは、たいした距離も歩いていないのにすぐくたびれまて、
カフェやらパブでぐだぐだ時間を過ごしました。
なんか、こういうことを書いていると、いよいよジジ臭いですね。
若い時の自慢と今の愚痴(笑)

ま、とにかく今のうちにメンテナンスしておく必要を感じてはいます。

昨日も書きましたが、イジメの関しての映像を二つだけ。
どちらも見て気分が良くなるようなものではありません。
特に後者は、なんというか、これが今の現実かと思うと平静ではいれません。
ご参考に。


福岡・三輪中事件の今までの経過をまとめた映像
http://ime.nu/sky.geocities.jp/wasurema/fukuokaijimejiken.html

女子生徒3人が一人の女子生徒を笑いながらしつこくしつこく殴る蹴るの暴行を加える映像
http://ime.nu/kr.img.dc.yahoo.com/b1/data/dci_etc/76.wmv


イジメ

2006年11月08日 | 雑感
福岡の三輪中で起きたイジメ自殺事件は解決の方向に向っているとは言いがたいようです。
なんか、複数の関係者にいろいろ隠蔽しなければならないような理由がぞろぞろあるみたいで、
死んだ親御さんはやりきれない思いで一杯でしょう。
風化させてはなりませんね。

罪(つみ)という言葉は、包む(つつむ)という言葉から来ていると聞いたことがあります。
要は、隠すということから罪深さが発生するということなのだと思います。
失敗は誰にでもありますが、それを隠すと罪深さが生まれる可能性が高まります。
大体、隠して発展的な良いことが生まれる可能性というのはきわめて低いです。
第三者にダメージを与えるようなことはあえて言わないということはありますが、それは隠すということではないでしょう。

江戸っ子でも武士でも正直さが最も好まれた気質でしたが、
今の企業にしても学校にしてもなんにしても、隠蔽するしか能がないような有様です。
隠蔽というのはもっとも無能な戦術です。
教育現場が隠蔽などという姑息な手段を選んだら、教育の名に値しないグロテスクな現場になります。
グロテスクな教育現場で、グロテスクなイジメが起き続けています。

そういえば、ぼくも小学2年の時に虐められました。
山裾のド田舎から仙台に転校しました。
訛も仙台のそれとは微妙に違い、着ている服もダサかったわけです。
毎日取っ組み合いの喧嘩になりました。
教室の床をごろごろ転げまわって喧嘩してましたが、授業開始のチャイムだかベルだかが鳴ると、
何事もなかったようにみな席に着きました。

なぜいじめられるかというような事を考えた記憶はありません。
子供ながらに異質のものは排除しようとする虐める側の心を理解していたものと思われます。
学校に行くのが嫌になるというようなこともなかったように思います。
毎日学校に行っては、なんかの因縁をつけられることをきっかけに取っ組み合いの喧嘩が始まりました。
子供ですから、引っかくとかつねるとかの攻撃ですから、たいしたダメージではありません。
良く覚えていませんが、数週間から一月ぐらいそれが毎日続きました。
因縁をつけられれば、ぼくも飛び掛って行ってましたので、相手も飽きたのでしょう、いつの間にか虐めはなくなりました。

面白いもので、それまで遠巻きに様子眺めをしていた他のクラスメートたちも、
虐めがなくなってからぼくに話掛けてくるようになりました。
今も昔も子供の心が変わったとは思われません。
子供を取り巻く大人の方が変質したんだと思います。
親も教師も教育委員会も、そのままありのままの状態を直視するということができなくなっているように思えてなりません。
教師間の間でも、親を取り巻く環境の中でも、好き嫌いがあり、虐めに近いことがあり、
正義なんて言葉が死語になっている現実があるわけです。
子供たちが異常になっているわけではありません。
異常を異常と認め、それを是正しようとしなくなった大人たちが異常なんです。

ある程度の虐めは失くすことはできません。
人も動物ですから、いろいろ野蛮さも持ち合わせています。
野蛮さを発揮しあうことでいろいろ鍛えられることもないではないです。
ただ行き過ぎたら厳しく断固と諌める、親ならぶん殴るというような大人の不在が虐めを陰湿化させているのでしょう。

それにしても、この期に及んでもまだ隠蔽しようとする人間がいるということが驚きです。
時間を稼いで、関係者を片っ端から転属やらなんやらして、問題をうやむやにしようとしているみたいです。
教育現場がここまで腐ったら、ちょっと言葉を失います。





シンプル

2006年11月07日 | スピリチュアル
急に寒くなったというか、平年並みの気候に戻った感じです。
夏物のスーツを着ているのですが、膝の辺りがスースーします。

先月、ほとんど仕事をしていなかったので(まぁ、先月と限ったことではないのですが)、月末の支払いが滞ってしまっていました。
こういうときにも、「すべてはうまくいっている」と思うのは勇気が要ります。
こういう状況だからこそ、心の底から本当に「すべてはうまくいっている」と思う必要があります。
で、今日、充分なお金が出来ました。
別に何かの手段を講じたわけでは全然ないのですが。

こういうのは、見方によれば、ひどく無責任な態度だということは良く分かります。
運任せ、人任せとしか思われないでしょう。
ある意味、運任せ・人任せではあるのですが、自分の目先の都合にとっていいことがありますようにとは願いません。
事態が悪化するのなら悪化した事態をそのまま受け止めようとは思っているのです。
どんな事態になろうが「すべてはうまくいっている」はずだからです。

毎日神棚に手を合わせます。
何かを願うというようなことはしませんし、できません。
ただ、今日の一日をありがとうございますと3回唱えます。
「すべてがうまくいっている」と心から思えれば、当然、感謝の心が芽生えます。
「すべてがうまくいっている」と口先だけでいうと、心にやましさやら疑問やらが生まれます。
心の底から「すべてがうまくいっている」と思うのは、簡単なようで難しいことかもしれません。

自分がついているということを自慢したいわけではありません。
今生きているということをよくよく考えてみると、すべての人がもの凄くついているのだと思います。
ついているから今生きているという大チャンスを貰っているのだと思います。

ぼくが言うとなんかうそ臭いな~と自分でも思わないこともないんですが(笑)
自分の人生を大チャンスと捉えて、前向きに生きたことなどないかもしれないぼくが言うのはあれなんですが、
でもぼくを含めて、すべての人にとって生きることはチャンスなんだということは疑いのないことだと思っています。

要は、チャンスという言葉の捕らえ方でしょうか。
お金や素敵な異性が天から降ってくるのをチャンスだと捉えると、そんなチャンスはなかなか巡ってこないことになります。
逆に、逆境や困難や苦しさに直面させられることが成長のチャンスと捉えることが出来れば、
その人の人生はチャンスだらけになるでしょう。

ぼくがこういう前向きなことを言おうとするとどうもウソ臭くなるのはなぜなんでしょう(笑)

おそらく、いいこと、正しいこと、豊かなこと、心地よいこと、嬉しいことというのは、すべからくシンプルなものだと思います。
シンプルさというのを失った心というのは、シンプルな言葉というのをあまり信用しなくなります。
人間や世間の裏側にはドストエフスキー張りのどろどろが渦巻いていて、真理はそのどろどろに手を突っ込まなければ見えてこないと、
その頑固な頭で考えてしまう癖ができてしまいます。
そんな頑固頭にとってはこれ以上シンプルではありえない「すべてがうまくいっている」という言葉は、照れくさすぎる言葉です。

シンプルな心に憧れながらもシンプルではないぼくにとって、正直その言葉にはまだ照れくささを覚えます。
でも、照れくさいながらも、その言葉を信じてはいます。
照れくさいなどという心の泡みたいなものは、放っておくに限ります。

考えてみると、怒り、憎しみ、嫉妬、恐れなどの負のエネルギーというのは、どれもが複雑な心の動きを伴います。
一見シンプルに見えますが、どれもが複雑怪奇な心の動きを見せます。
複雑さというのは魔界への入り口なのかもしれません。

シンプルで幸福なキーワード、「ありがとうございます」はその魔界からの複雑な触手を払いのける真言なのかもしれません。
もちろん、感謝できる状況ばかりが周囲にあるわけではないし、その反対の状況のほうが多いのかもしれませんが、
周囲の状況が複雑になり、困難なものになり、苦しいものになるのを防ぐためには、その状況に対して
「ありがとうございます」と言ってしまえれば、その状況をより複雑にしようとする心の動きを止められます。

複雑さ=悪ではもちろんないのですが、複雑さというのは悪意やら邪念やらが身を潜めやすい場所なのでしょう。

う~ん、どの口で言ってんだという感じが(略)←複雑化の悪い例









内なる子供

2006年11月06日 | スピリチュアル
「泣きながら生きて」の丁さんみたいな生き方は心から素敵だと思うし、男らしくてかっこいいと思います。
そうは思うんですが、全然そういう生き方とは正反対な生き方を送っているぼくってなんなんでしょう?
あれほどの生真面目さも情熱も責任感も持ったためしがありません。
人それぞれだと言ってしまうには、あまりにも両者の溝は深いです。
「北の国から」のゴローさんも大好きだったりします。
中畑建設の中ちゃんも好きです。
でも、ぼく自身はそういうキャラクターを持って生きてはいません。

そんな時には、占いの本を見たりして自分を納得させようとしたりします(笑)
前にも紹介したかもしれませんが、「前世ソウルリーディング―あなたの魂はどこから来たのか 」(ジャン・スピラー著)です。

「地球と月の軌道の2つの接点「ドラゴンヘッド」と「ドラゴンテイル」から、前世のパターンと今生でのテーマを占う
ドラゴンヘッド占星術。占星術家である著者が、その秘法を初めて明かす」という触書の本です。

ドラゴンヘッドは主に前世からの因縁を開示し、ドラゴンテイルは今生での課題を暗示します。
仕組みとしては、ドラゴンテイルで示されるような今生の課題をクリアにすると、前世からの因縁の解消に向う課題の
クリアに向うという感じです。
ちなみに、ドラゴンヘッドもドラゴンテイルもそれぞれ誕生日によって決められる星座の位置です。

以前読んだ時は、ドラゴンヘッド、つまり前世からの因縁についてが非常にインパクトを持って読んだのですが、、
今回は、ドラゴンテイル、今生の課題がずしんと来ました。
結構分厚い本で、それぞれの星座に関して読む分量が多いのですが、書かれてあることのことごとくが
その通りだと言うしかありません。
人間関係がめんどくさくなるとすぐに逃げ出すとか、事態を傍観する癖があるだとか、なんやらかんやら耳に痛い言葉が続きます。

一言で言うと、自分の中に住む「子供」の声に素直に従えということらしいのです。
前世では、状況を客観的、的確に分析し、誰かに有効に仕えてきたという経験を経てきたので、
今生では、何かの組織や人に従属するのではなく、自分の可能性を信じて、子供のように無邪気に楽しめということらしいのです。
情報を分析して、客観的に状況を俯瞰して、でも行動には移さない悪い癖があると言うのです。
ぼくの中に住む子供は、もうすでに充分、状況に対して分析的・客観的な視点を持っているから、
更に情報を集めたり、慎重になったりするのではなく、そのまま子供の声を聞いて行動に移せと言います。

無邪気に楽しんでいるのは、飲みたいときに遠慮せずに酒を飲んでいることくらいかもしれません。
でも、自分の中の子供が「酒を飲め」と言っているかというと、それはなんか違うような気もしますが。

そういえば、ぼくの頭の中というのは基本的に幼稚な言葉ばかりが浮かんでいます。
「未来少年コナン」みたいな世界が本当は好きです。
「ラナ、今助けに行くからね!」というセリフは、今でもこっそり風呂場で声色を真似ています。
人の悪口を言おうとすれば、「うんこ」という言葉が浮かびます。
そういう意味での「子供」ではないんでしょうけれども(笑)

とにかく、なんかいろんな意味不明の遠慮やら思惑やらめんどくささやらで、行動ががんじがらめになっているのは事実です。
行動を起こさないことで、ますます心身のエネルギーが不活発になっていくという負の循環に陥ってます。
ぼくの中の子供はすっかりふてくされている、そんな感じです。

長年子供の声を聞き損なって生きてきたので、どれが本当の子供の声なのかがわからなくなっているというのもあるかと思います。
仕事もなにも、エーイめんどくさい、全部投げてしまえという声は子供の声ではなくて、前頭葉の退化したサルの声でしょう。
いや、別にサルに悪気はないんですが。

今でも充分にわがままなのですが、子供の声に従った建設的なわがままではありません。
非常にセルフィッシュなわがままです。
答えは行動です。
世間の中で行動するというのは、セルフィッシュなわがままは通用しません。
でも、世間の中に出て行くというのは、ぼくにとってはかなり心理的な抵抗を感じるのは事実です。
ぼくもやっぱり「カニ歩き」で鍛える必要があるのかもしれません。

泣きながら生きて

2006年11月04日 | 雑感
このごろよく月を見ます。
どうしてかなと今考えてみたら、このところ毎日晴れているからでした(笑)
でもなんかこのところ月がなにかを語っているような気はします。

ロンドンに深夜到着した翌朝、薄暗いうちに目を覚まし、ホテルの外を散歩したんですが、
東には昇りかけの太陽、西には青白い満月でした。
何かのメッセージがありそうだったのですが、残念ながらそんな声を聞く能力はぼくにはありませんでした。

日本神話にも月読命というつくに神様が出てきますが、その活躍はさっぱり伝えられていません。
月とか星星とか、当時の人間にとってもとても身近で重要なものであったはずなのですが、
なぜか日本神話では触れられていません。
逆に、触れられていないことが、何かを語っているようにさえ思えます。

前にも書きましたが、占星術や算命学というか、大方の占いは星の運行を基にして出来た統計術なのでしょう。
星の運行というのが、人の人生に影響を与えるということは証明は不可能にせよ、ありえないことではないと思います。

話は変わりますが、昨夜テレビで「泣きながら生きて」という番組を観ました。

文化大革命の影響で農村部に送られた男が、どうしても勉学する夢を諦め切れず、
妻子を残して、親族から借金をして日本にやってきます。
彼が入学した語学学校は北海道の阿寒の辺鄙な町にありました。
彼は働きながらでないと勉強できる身分ではありませんが、働く場所などその過疎の町にはありません。
仕方なく彼は東京に出ます。
阿寒から出た時点で彼は不法滞在者となりました。

東京に出た彼は働きます。
朝は掃除夫、昼は工場で、夜はコックとひたすら働きます。
部屋に帰るころは銭湯も締まり、給湯器のお湯で髪を洗い、身体を拭きます。
キャベツの炒め物などを作って夕食を食べ、残ったおかずは翌日の弁当にします。
彼の部屋には上海に残した娘の写真が一枚壁に貼られています。
不法滞在者となり、自分が勉強することを諦めた彼は、娘を大学にやるために必死に働く決心をしたのです。

上海で、何年も日本に行きっぱなしの夫であり父親である彼のそんな姿を、妻と娘がビデオで見ます。
妻は泣き、娘は身を粉にして自分のために働く父の姿を見て号泣します。

娘は必死に勉強します。
そのかいあって、彼女はニューヨークの大学の医学部に合格します。
上海からニューヨークに向う途中、東京でのトランジットの間の十数時間の間を使って、娘は父親に会いに行きます。
父親の狭苦しいアパートで、父と娘は静かに会話します。

翌日、父親は娘を成田まで電車で送ります。
彼は不法滞在者なので、空港内には入れません。
成田空港の一駅手前の成田で降ります。
娘は窓を振り返り、ホームに泣き顔で立っている父親を見ます。
動き出した電車の中で、彼女は号泣します。

ニューヨークで落ちついた娘に会いに、母親が上海を旅立ちます。
彼女もやはりトランジットを利用して、東京で夫に会いにいきます。
娘の時と同様、夫はその日も仕事があるため、日暮里の駅のホームで二人は待ち合わせます。
10数年ぶりの再開です。
過酷な労働で老け込んだ夫の姿を妻は見ます。

妻もまた、夫の狭苦しいアパートに連れられ、料理をする夫の後姿を見ます。
ベットの枕には、日本に行く時に妻が持たせた枕カバーが掛けられています。
壁には娘の写真が貼られているのを見ます。

夫は貴重な時間を目一杯使って、電車を乗り継いで、妻を浅草や東京湾に案内します。
自分だって今までろくろく観光したことなど無いでしょうに。
二人は静かに東京の目まぐるしい光景を見て回ります。

瞬く間に朝が来て、夫は妻を成田に送ります。
やはり空港までは行けませんから、成田で降ります。
電車の中でも、降りるときも二人は余り言葉を交わしません。
言葉になんかできないのです。
電車が動き出した時、妻も窓を振り返ります。
やはり、夫は泣き顔でホームに立っています。
妻は電車の中で人目も憚らず号泣を止めることが出来ません。

ニューヨークの娘は、無事卒業のめども立ち、ひとり立ちの時期を迎えます。
彼は上海に帰ることを決心します。
帰る前に、廃墟となった阿寒の語学学校跡をたずねます。
なにもいい思い出などないだろうに、彼は阿寒が第二の故郷だと誇らしげに言います。

成田から飛行機に乗ります。
窓の外には、十数年間働きづめに働いた日本があります。
目にはみるみる涙が溜まります。
彼は手を合わせます。
泣きながら手を合わせます。

その頃上海では、妻が帰ってくる夫のために食事を用意しています。
歯がすっかり駄目になっている夫のために、おかゆのご馳走を用意して、待っています。









言霊

2006年11月02日 | スピリチュアル
今日は以前にも触れたことがある「致知」という雑誌に載っていた記事から。
11月号なんですが、とても心に響く記事満載でした。
その中の一つ、越智啓子さんという薬を使わないで全国各地からの患者を治療している精神科医のお話から。

「言霊パワーで人生エンジョイ」という題です。
『水からの伝言』(江本勝著)というその筋では有名になった本があります。
ありがとうとか、感謝とかのポジティブな言葉を掛けた水の結晶は均衡の取れた美しい結晶になるのに対し、
バカヤロウとか、死ねとかのネガティブな言葉を掛けた水の結晶はグチャグチャになるというのを写真で詳細に証明した本です。
そこで、人間もまたその体の70パーセントが、水で出来ているわけです。
自分に、あるいは他人からどんな言葉をかけ、かけられているのかが大変重要になってくるわけです。
同じことを言うにしても、言い方や仕草や、要するに言う方の心持ちが受け取る側に大変大きな影響を与えます。

また、越智さんは子供のころから霊を見たり、妖精を見たりしていたそうです。
その後、精神世界に導かれるように入っていき、過去生療法を取り入れた療法に取り組み始めます。
今生での課題、難題、苦しみ、悲しみなどなどが、過去生のカルマの解消のために生じていることが分かったからです。

そうして患者さんなどを治療していくうちに、「人生はすべて自分でプログラムを組んで生まれてきている」と越智さんは確信します。
難題であればあるほど、それを解消した時には大きなカルマの解消が起こるということなのだと思います。
そこで大事になってくるのは、それではこうした人生の流れは運命なのかということです。

「では、人間はその運命したがって生きるしかないのでしょうか。そんなことはありません。過去生の呪縛を解き放ち、
今世で素晴らしいあなた自身の人生を作ることはいくらでも可能です」と越智さんは言います。
「そこで重要な役割を果たすのが、言霊パワーなのです。(中略)まだ目覚めていない遺伝子のスイッチをONにすることは、
とっても簡単です。まずはできると思うこと、そして「できる」と言葉にすることです」

そして最強の言霊は「すべてはうまくいっている!」だと言います。
「『うまくいっている』と言い続けると、潜在意識はすでにそういう状況にあると認識して、
どんどん『うまくいっている』状況を作りだしていくのです。ぜひお試しあれ!」

以上、越智さんのようなことを言っている成功者はこのところたくさんいます。
そういう成功者の話は、このページからもリンクしているQちゃんの「宇宙となかよし」というページに行ってみて下さい。
もうポジティブな言葉が飛び交いまくっています(笑)
でも、ネガティブな考えからなかなか抜け出せない人には、こういう話はなんというか、人を馬鹿にしたような話に聞こえるかもしれません。
すべてがうまくいっていないのに、「すべてがうまくいっている」なんて言えるか!と思うのも理の当然ではあります。
でも、「すべてがうまくいっている」と思い切って言い続けるうちに、すべてがうまくいっていないと思っていた自分の周囲の事態が、
すべてがうまくいっていないと思い込んでいただけだと気づくこともあるかもしれません。
うまくいっているか、うまくいっていないかは、言ってみれば物事の見方の違いでしかない場合もあります。

「魂は生き続け、命は永遠です。その中で今回、「今の自分」を選んで生まれてきたのには、それなりの意味があります。
せっかくですから今世の自分を充分にエンジョイしましょう。まずはエンジョイすると思うこと。その言霊は、
必ずあなたの人生を素晴らしい方向へ導いてくれるはずです」

ネガティブ思考に慣れすぎたぼくのような人間は、愚かしいことにポジティブになるのがどうも照れくさいのですが、
いろいろ気づかせてもらい続けたお陰で、言霊が重要であることは疑いようはなくなりました。
日々のの思いも願いも愚痴も、すべて言霊です。
心が先にあるのか、言霊が先にあるのかはなかなか難しいところではあるんですが、
自分の発する言霊を磨くことによって、心が磨かれ、人生が磨かれうるのだとしたら、ちょっと気が楽になりますね。



幻影

2006年11月01日 | スピリチュアル
相変わらず麗らかな晴天が続いています。
昔は木枯らしの吹く季節だったと思うんですが。
今朝は毎月恒例のお宮参りでした。
参拝に来る方は例外なく鈴をジャラジャラ鳴らして、お金を賽銭箱に放り投げ入れます。
こちらが口の中で祝詞を上げていようと、なんであろうとお構いなしです。
滝の導師から神仏に失礼だからお賽銭を投げ入れるなと指導されているぼくとしては気になってしまいますが、
集中力がまだまだ足りないのでしょう。

話は変わりますが、昨日の朝、久しぶりに仏前で坐禅を組みました。
だらだらと雑念が流れ出てきますが、10分ほどで集中できるようになります。
カーペットの皺になっているところに半眼の目を落としていたのですが、その皺が人の顔というより、餓鬼の顔に見え始めました。
のっぺりとした皮膚は沈んだ灰色で、眼が深く落ち窪み目の奥には絶望的な闇が宿っています。
口は引き攣れたように開いていて、汚い歯が覗いています。
坐禅をしている時はそういう幻影やら妄想やらなんやらには一切関わらないことになっているのですが、
いつまでもその餓鬼の顔が消えません。
怖いという感じも不気味という感じも一切ありませんが、目には餓鬼の顔が映り続けます。

餓鬼というのは余りにも欲深に我欲を追い求めたために、何を与えられても決して満足することの出来ない亡者です。
水が欲しくて水を飲むとたちまち水は炎になるともいわれていたような気がします。
「欲しい」という欲念ばかりが肥大した哀れな地獄の亡者です。

ふと思うことがあって、真言を唱えました。

地蔵菩薩のご真言(闇の世界で苦しむ者をお救いください)。
→顔の表情が微妙に揺らぎました。

観音菩薩のご真言(あらゆる魂に救いの手を)。
→開いていた口が閉じられ、瞬間、目に宿っていた闇が消えますが、また口も目も開き元の餓鬼の表情に戻りました。

阿弥陀如来のご真言(正しく彼岸にお導きの手を)。
→観音菩薩のときと同じような表情の揺れが激しくなります。

白衣観音のご真言(傷ついた魂に癒しの手を)。
→表情はゆれ続け、目に闇が去ったり来たりします。

光明真言(すべての存在に仏の御光を)。
→開いたり閉じたりしていた口と目がすっと撫でられたように消え、ノッペラボウの顔になりました。

すべての真言を唱え終わると、顔は跡形も無く消え、カーペットの皺に戻りました。
これらの仏様は坐禅をしている座布団の前の棚に安置してあるぼくが集めた仏様たちです。
もちろん幻影でしょう。
でも、幻影を見た経験は経験としてウソはありません。
それが何を意味するのかどうかということにはあまり興味がありません。
変に理屈を立てると経験がウソになっていくのが落ちですから。
こうして今思い出すまですっかり忘れそうになっていたほどの経験です。
恐怖も感動も驚きもありません。
ただのかすかな経験です。