風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ここらでまとめ2

2007年04月28日 | スピリチュアル
え~と、今日は昨日の続きを書こうと思います。
例によって、実証できない話です。

5 情報操作
  
 世界の言論を統制したい勢力がいます。危険を煽って戦争を起こす、温暖化は二酸化炭素の増加が主要因であるかのごとく
 主張する、UFOは存在しない、月面の裏側についての情報等々、日々人々に流される情報はかなり手の加わったものである
 可能性が高いです。これに関しては、具体的なことは言わないでおきます。

 民主主義、人権、平等などといった思想にしても、宗教にしても、その本質が伝わるのを故意に歪めたり、削除している可能性もあります。
 これは普通に日常を送っている健全な人たちから見れば、とてつもなく嘘臭い話だと思われても仕方がありません。
 何のために、どんな人がそんなことをするのか、皆目検討が付かない話だからです。

6 善と悪

 大元の神(意志)から見れば、善と悪といったものはなく、全ては光と闇の渦の中で成長しているわけですが、人間の意志の
 レベルでは、悪というものはあります。他者の喜びを奪うもの、他者の成長の意欲を奪うもの、がそれに当たります。悪のあり方は
 とても巧妙で、善意の悪というのもありえます。それに比べると、善のあり方はとてもシンプルです。人が喜ぶことを喜ぶ。
 それだけです。

7 想念の力

 「思いは現実化する」というのは、スピリチュアルの世界では常識のようになって来ました。この世(人間の3次元の世界)で
 思いが現実化するのは、全て物質・人を動かすことによって成就するわけですから、タイムラグ(それなりの時間の経過)がありますが、
 霊界とか、より高次な世界では想いが瞬時に現実化するみたいです。つまり、想念自体が存在そのものと言ったほうがいいでしょうか。
 愛に溢れた想いを持っていれば、その人は「愛」という存在だし、「憎しみ」の想念を持っていれば、誰が見てもその人は「憎しみ」
 と映るわけです。いい意味でも、悪い意味でも、一切誤魔化しが効きません。人間は物質という衣をまとっているからこそ猫を被れるわけですし、
 時間の猶予もあるわけです。

8 この世の意味

 上にも書いたように、高次の次元では想いが瞬時に現実化します。ということは、「憎しみ」を持っている人は、憎しみを持った存在の
 ままでいるようなことになってしまいます。「憎しみ」そのものと化した人に、慈悲深い想いを持った人は寄り付けません。波長が
 合わないため、お互いの姿が見えないのです。そういう意味では、この人間界は、あらゆる想念を持った人が一緒くたに存在しています。
 本来、波長の合わない同士が、顔をつき合わせて生きています。波長が合わないと、心に苦痛を覚えますが、だからこそ色々な想いが
 あるのだということを経験し、学び、成長することが出来ます。霊界では、このような波長の合わないものが一緒になることはありません。
 おのおのが、おおのおのと波長の合う世界にい続けます。地獄の想念を持てば、地獄が心地よく思います。慈悲の想念を持てば、慈悲の
 想念を持つ存在に囲まれます。要は、人は一生を通じて、どんな想念を持つのかを自分で決めるために、この地球上に冒険に来たのです。

9 因縁

 因縁は別に悪いという意味ではありません。借金と貯金を持っているようなものだと言った人がいます。つまり、今回の人生を渡るに当たって
 自分という存在のバランスシートです。借金が多ければ、返す。貯金が多ければ、人より少し余裕のある生活ができる。それでも、
 この世の過ごし方によって、借金だらけの人が貯金がうんと溜まる生き方も出来ますし、せっかくの貯金を使い果たす人もいます。

 それから、人並みはずれた逆境にある人がいますが、その全てが因縁の結果だということではありません。その逆境を味わい、跳ね返す
 ことを自ら選択して生まれた人もいます。聖人と言われたような人がこの世に生まれ変わると、凄まじい逆境の中に生まれ変わることが
 多いそうです。波長がこの世の人間とは合わず、若い頃から苦悩する魂も多いそうです。

10 宗教

 既存の宗教組織に、個々の魂の道しるべとなるようなものは、ほとんど失われてしまいました。信者救済を謳いますが、信者獲得のための
 方便となっています。個々人が、自分の心の底の声を聞いて、個々人の道を探し当てる必要があります。全ての人を救うという教祖を望んでは
 いけません。教祖は、一人一人の心の中にあります。これは比喩ではありません。


今日はこれまで。
なにか思いつくままに書いていますが、くれぐれも拒否反応のある方は読まないで下さいね。
正しいとか正しくないとかではありませんから。
ぼくの生きてきた上でのチェックポイントに過ぎませんから。
 
 

ここらでまとめ1

2007年04月27日 | 雑感
このところ、書く文章が煮え切らないのは、書くべきかどうかを迷うことが多すぎるからです。
決してもったいぶっているのではありませんが、書き出せば最後までちゃんと説明する必要があるし、
全て言葉で説明するのも大変な作業です。

で、ぼくなりにあれこれ読んで、考えて、腹にすとんと落ちた結論だけを言います。
ぼくの独断ですから、くれぐれも自己判断で読んでください。
胡散臭いと思われる方のほうが多いでしょうから、そういう方は読まないで下さいね。
読んでいいことは何一つないと思います。
もっとも、大抵はそこらに溢れているオカルト本に書いてあることばかりなんですが。




1 人の生きる目的は「魂の成長」
 
 ある境遇と肉体的・能力的条件を選んでこの世に生まれ出て、試練・困難を乗り越えることにより、
 更なる喜び、謙虚さ、生きることのありがたさを学ぶ。魂が「喜ぶ」というのがポイントです。

2 輪廻転生はある

 魂の成長が生命の目的ですから、決して優劣や善悪を競うのが、この世に生まれ出て、生きる目的ではありません。
 失敗したら、その失敗を取り戻すために、生まれ変わります。何度も何度も再挑戦して、完全なる喜び=
 悟り=静寂に至るまで、人は人生というステージに立ってきました。でも、今までのような何度も同じような
 転生を繰り返すという地球上の転生の仕組みは、近いうちにガラリと様変わりするみたいです。この辺りは、
 人々の意識次第で、その時期やら規模やらが変更される余地もありそうなので、正確なことは言えません。
 なにせ、宇宙規模のシステム変更みたいですので。 

3 異次元存在(霊・神々・宇宙人)は存在する

 物質もというものさえ、手に触れ、見えるものだという定説さえ、それはあくまでも人間の五感が感知するという
 だけのことであって、素粒子に分解してしまえば「点」の集まりに過ぎません。その「点」さえも何か「点」という
 固形物が あるわけではなくて、エネルギーの磁場のようなものでしかない可能性が高いです。つまり、物質界にさえ、
 目で見え、手に触られる固体というものはありません。手に触れ、目に見えるという人間の「認識作用」が
 あるだけです。

 換言すれば、エネルギーの磁場の様なもののあり方が、この世の物質を形成するそれと違えば、人間の目には見えず、
 触れず、聞こえず、といった存在がありえます。この辺りの説明は、もちろん場当たり的でいい加減ですから、
 聞き流してください。

 で、霊とか、神々とか、宇宙人とかという存在は、人間と同じ意識体ではありますが、存在のあり方として、
 3次元の物質の衣をまとうという形をとらない存在です。

4 霊・神々・宇宙人の違い

 それぞれ無数の種類、段階、次元の違いがあるのでごく簡単に。

 霊:これも一筋縄では説明できないのですが、肉体を離れた人間の意識体と考えればいいと思います。意識体ですから、
   人間と同じで、よりよき方向へ進もうとするものと、迷ったり、憎んだりする霊もあります。霊界、冥界と呼ばれる
   ところに生きます。

 神々:霊よりも意識のあり方が次元昇華して、より高度な意識体。人間と直接コンタクトを取ることはないとされています。
   神界と呼ばれるところに属します。

 宇宙人:人間とは波長のあり方の違う世界に住む住人。人間界(物質界)に波長を同調させることで、物質化して
   目撃されるようになるのがUFOと呼ばれるもの。そのようなことが出来る方法は、この三次元的物理学では不可能
   と思われる。

 霊にも色々なレベルの霊がおり、神々にも色々なレベルと個性があり、宇宙人にいたっては地球に住む人たちより
 よほど多彩な個性と属性を持っているようです。


今日はここまでにします。

それから、結論を先に言っておきますが、なにか特殊なことをする必要など一切なく、
日々の一日一日が大切なんだということです。
怖がったり、不安になることはありませんよということが言いたいのです。

 

2007年04月26日 | 雑感
今日はヒーラーさんのところへお客さんを連れて行ったのですが、
思わずヒーラーさんの家の庭に咲き乱れる花々に見入ってしまいました。
花など見る柄ではないし、花の名前も全然知りません。
でも、見入ってしまいました。

花が異様に元気なんです。
どの花もこれでもかとばかりに勢い良く咲いています。
ヒーラーさんの家の庭だからかなとも思いましたが、帰りがけ道端の花も注意してみてみたら、
どの花も張り切って咲いていました。

今日は空も爽やかで、時間があったので足を伸ばして海辺の天満宮まで足を伸ばしました。
きちんと掃除の行き届いた境内の梅の木は、すっかり若葉に覆われていました。
護岸で整備された海辺に出ますと、海も穏やかで、何人かが潮干狩りを楽しんでいます。

平和な時間が一帯に流れています。

心にわだかまりがないと、会話も弾みます。
日に日にまぶしくなる太陽に負けぬよう、前に進んでいければと思います。

なんか、中途半端な文章ですね(笑)




打ち上げ

2007年04月25日 | 雑感
昨夜はとても楽しい打ち上げとなりました。
ネネさんとじゅあんさんはまるで姉妹のように性格が似ています。
思ったことをそのまま行動してしまうので、周囲の人のお世話が欠かせない人たちです。
それが悪気があるとかないとかのレベルではありませんから、エピソードに事欠きません。

それで、打ち上げも終わり、解散となったところ、ネネさんがじゅあんさんに5千円返してと急に言い始めました。
じゅあんさんは、それはもう払ったじゃないと、言い返します。
二人でああでもないこうでもないと言いあっています。
周りはあっけに取られてそれを見ています。

結局、ネネさんの勘違いだったのですが、お菓子のことで言い合う子供の姉妹のようでした。
誤解が解かれたあとは、みなでアハハハと笑って終わりです。

まぁ、そんな感じでした。

それから、じゅあんさんを除いた数人でもう一軒の居酒屋に行って、解散しました。

帰りのタクシーは見知らぬ細い道をくねくね走っていきます。
高台なので、眼下に港の夜景が見えます。

運転手さんが「ここから見える海峡花火はきれいなんですよ」と言います。
「そうですか。でも、花火って切ないですよね」と言ったら、運転手さんは無言です。
多分、「なに酔っ払って気障なこと言ってやがる」と思ったに違いありません。

ぼくは窓を開け、風に当たります。
ひんやりとして心地よい風です。
「気持ちのいい夜ですね」とぼくは言います。
「ええ。そうですね」と運転手さんが答えます。
「どこまで気障な野郎なんだ」と運転手さんは思ったに違いありません。

それから、無言でタクシーはぼくの自宅に着きました。
ぼくはチップをうんと弾んで、タクシーを降りました。
そこで、しまったと思いました。
「なんという気障なやつだ!」と運転手さんは思ったに違いありません。

そんな感じでした。

岩戸

2007年04月24日 | 雑感
神々の岩戸が開き、人々の心の岩戸が開く。
それがそれぞれ呼応して、ミロクの世が来るらしいです。

心の岩戸ってなかなか自分で見極められませんから、難しいですね。
普段はそんなものが閉まっているのか開いているのか、そんな岩戸があるのかないのかさえ意識しませんから。

今から、じゅあんさんを交えて、イベントの打ち上げです。

自分の心の岩戸を開く何かの切っ掛けがあればいいなと思っています。

心の扉

2007年04月23日 | スピリチュアル
土、日と中森じゅあんさんの講演会&ワークショップでした。
初日が「鬼谷算命学」に関しての講演で、二日目がエンジェル・カードを使ったワークショップでした。
じゅあんさんは普段話すと気さくで豪快で天真爛漫な印象ですが、
ワークショップでは、時には根気強く優しく説き、時には厳しく本質を突く、懐の深く大きな人でした。

ぼくはスタッフの一員として参加したわけですが、ぼくとしては珍しく飽きることなく長時間の講演&ワークショップを楽しめました。
心の扉を開くという瞑想をしました。
ぼくは坐禅は組みますが、誘導型の瞑想というのには距離を置いているんですが、これはいい体験でした。

人それぞれ、見える扉の形も質感も大きさも違うし、扉の向こうに見える世界も違います。
なにが見えるのかは、予備知識になってしまうといけませんので、あれこれ言うのは避けます。
ぼくの場合に見えた扉の向うの世界を書いてみます。

宇宙空間と大気圏すれすれの所まで行った空の色を何かの映画で見たことがあります。
濃紺色というか、マリンブルーというか、、そんな感じの果てしのない空間が広がっていました。
その空間の遥か向うには強烈ですが、静かな白光が曙の光のように広がっています。

ああ、これが世界なんだと思います。
この空間に飛び出すことが生きるということなんだと思います。
でも、飛び出すのは少々怖い感じがしています。
しばらくそのあまりにも美しい青の色に見入っていますと、その空間内に動く気配を感じます。
姿形は見えませんが、ああ、竜神様だなと思いました。

と、体験を書くとトンデモ話になってしまいます。

まぁ、いろんな人がいて、いろんな悩みがあって、いろんな喜びがあるわけです。
すべては天に見守られていると。

その他にも色々気づくことがあったのですが、全部書くのは荷が重いので、今日はこの辺で。

感謝

2007年04月20日 | スピリチュアル
一時隆盛を誇った「ありがとう教」というのがありました。
その信者だった数人と面識がありました。
いくら話しても、根掘り葉掘り聞き出しても、スッキリしないものがありました。
どうも無理があるのです。

たんなる自分勝手な無策による経済的苦境やら、思いやりの欠如による家庭不和といった
状況に対しても、とにかく「ありがとうございます」で済ますわけです。
当然、聞いてるほうはムカッときます。
人はいたって真面目な人が多かったですが、この違和感はなんなんだろうと考えました。

信者がありがとうの波動で自分を包むのはいいのですが、
他者の存在が彼らの視野から抜け落ちているのです。
自分対世界で、自分がありがとうといえば、世界はそのままでもかまわないという感じです。
つまり、自分救済のための「ありがとう」です。

自分救済がいけないとはいいませんが、その人が救済されるために、
「ありがとう」とむやみに言われるほうは、なんというか不快感を感じます。
自分が利用されているような気になります。
ありがとうはいいから、ちゃんと働けよと言うと、
にこやかに笑って「ありがとうございます」と言って、働こうとしないのです。

「ありがとう」という言葉が軽いのです。

そんな感じの人が多かったので、なんだかなぁ~と思ってました。
そのうち、教団のほうでトラブルがあって解散しましたが、
定職に付かずに、同じような集団生活をいまだに夢見ている人が多いみたいです。
スポンサーを探して、沖縄に瞑想できる場所を作るだの、なんだの。

感謝というのは、あることに心から感謝が出来ると、
感謝の対象は先祖、太陽(自然)、ひいては全ての周囲の人、事物にまで広がります。
自分が救われればいいという狭さがありようがありませんせん。

それと、教団には教祖みたいな人がいました。
例によって、神格化されていました。
一人一人が生きていく過程で、自分が生きるということに感謝するという行為をする上で、
教祖がいるということは甚だ不自然で、不健康なものを感じていました。
感謝は、あくまでの個々人の経験内の中から、個々人の心の奥から湧き上がってくるものでしょう。
感謝するという行為は、人から教授されるものではないとぼくは思っています。

元信者の人がいたらゴメンですけど、以上感じたままです。


福禄寿

2007年04月18日 | 雑感
気づいてみたら、新緑が山を覆っていました。
気持ちのいい季節が今年も巡ってきました。

昨日、友達から本をいただきました。
「福禄寿」という本です。
福・禄・寿の三語で人間の生き方はほぼ網羅できると。

福: 人間関係
禄: 財産・お金
寿: 心身の健康

言われてみれば、人の悩みは上記の3点に集約できますね。

中国の帝王学では、6歳までは「寿」、つまりとにかく健康であれと躾けるのだそうです。
元気一杯に遊べということでしょうか。
6歳から12歳までは「福」、礼儀とかマナーとか人間関係を円滑にするすべを教え込むのだそうです。
で、12歳になってある程度の心ができたところで、「禄」、金銭に関する管理方法を学ぶのだそうです。

なかなか理にかなっているなと思いました。
で、面白いのが、帝王学はあくまでも為政者のための学なわけですが、
民衆には「福」と「寿」についての学問は流し与えます。
でも、「禄」についての学は与えません。
富は為政者の独占ですね。

日本においては「福寿」という言葉は良く耳にしますが、「福禄寿」という言葉はぼくは聞いたことがありません。
やっぱり「禄」の学は抜き取られた形で、我々民衆には伝えられたのでしょう。
民衆は貧乏でも、呑気に健やかに暮らせというところでしょうか。

でも、今の世相ですと、貧乏でも呑気に健やかに暮らすということがだんだん難しくなってきた感があります。
「禄」というのは人生をバランスよく生きていくためには大変大切なんだと思う必要がありそうです。

成功者と呼ばれる人は、福・禄・寿のバランスが取れている人だと言います。
考えてみると、そうだなぁと思います。
日本の土壌では、「禄」のことを考えるのはあまり上品でないこととされていたために、どうもお金の管理がルーズでした。
「宵越しの金はもたねぇ」型が多かったように感じます。
ぼくはその典型です。

でも、「禄」が弱いと、その他の「福」「寿」にも悪影響が出るのが現代かもしれません。
ちょっと考えを新たにしました。
欲を張るというのではなく、人生のバランスを取るという意味での蓄財というのは必要かもしれません。

でも、今から蓄財の心構えなど育つんだろうかと、激しく自分自身を疑う今日この頃です。




肯定感

2007年04月17日 | 雑感
どうもご無沙汰してしまいました。
昨日は変な感じの雨の降りかたと、風の吹き方でした。
今日は気持ちのよい空が広がっています。

遺伝子DNAについての研究は進んでいるといっても、確か90パーセントだかなんだかの部分は、
いまだに何の働きをしているのか分からないそうです。
要するに、人間がまだ活用していない能力が眠っているということらしいです。

で、アセンションとか次元上昇とかいう話があります。
そういう事態になるのだとして、人はどう備えたらいいのか、その辺りのことが分かりません。
おそらく、その眠っているDNAの目を覚ますことが鍵だとは思うのですが。

アセンションとか次元上昇とかいう事態は、要約すれば地球自体の波動が上がって行き、
人間も波動を上げていかなければ存続できないということらしいです。
人間が自分の波動を上げるためには、なにが出来るのでしょうか?

で、考えたのですが、おそらく「喜び」です。
喜びを味わい、持続させることが出来れば、眠っていたDNAの目が覚めるのではないか。
喜びのヴァイブレーションほど純粋で、共振性が高いものはありません。

それに加えて、喜びというのは他者から強制されることはありえません。
これは結構重要なポイントだと思います。
一人一人の経験と選択と意志だけが大切です。
要するに、教祖や宗教組織を必要としません。
自らが喜ぶ体験や境地を味わい、笑いと共に自らの振動を高める。
今までの世俗的な経験ではおそらく味わうのは無理なことです。
達成感やら何やらということで一時的な喜びというのはこの世界にもたくさんありますが、持続が難しいです。
眠り続けるDNAの目を覚ますには、ある程度の持続が必要な気がします。

じゃあ、どうしたらそのような持続的な喜びを味わえるのか。
ぼく自身はあることをためすようになったのですが、まだ心から喜ぶには至っていません。
ヒントとしては、機嫌のいい赤ん坊と一緒になって笑っているような姿でしょうか。

喜びの要素というのはたくさんありそうですが、突き詰めるとシンプルなものだと思います。
自分の存在と、その喜びを分かち合う相手の存在と、その両者に関わる存在全てへの絶対的な肯定感です。

陰りのない肯定感。
なかなか難しそうですが、シンプルなところに答えはありそうです。

地球

2007年04月03日 | スピリチュアル
昨日の話は前後の文脈をぶった切って、このスペースで説明しきれるものではありませんでした。
失礼しました。

今日は朝から雲が掛かって、時折雨もぱらついていました。
地球というのは、「水」、「火」、「風」、「土」がエネルギーを互換しながら、生命が宿れる土壌を作り上げています。
雲(水)というのは、言うまでもなく、水が熱(日=火)で蒸発し、風で運ばれ、大地(土)を潤しています。
雨が降るというだけで、水、火、風、土の見事な連係プレーがなされます。

風というのがそれほど大事とは最近まで思えなかったのですが、今日坐禅を組んでいて気が付きました。
「呼吸」です。
酸素や二酸化酸素は呼吸(風)によって運ばれ、交換されます。
空気(風)がなければ、音も伝達されません。
風がなければ、鳥たちもタンポポの種子も空中を飛ぶことが出来ません。

地球が生命体だとすれば、その見事な循環システムを担うのが、「水」「火」「風」「土」です。
その四つの働きが見事に調和して働く時に、地球は安定した働きをします。
でも、温暖化が騒がれていますが、これ以上気温が2度上がると、調和が崩れ、地球はもがき苦しみだすのだそうです。
「水」は洪水となり、「火」は火山が噴火を始め、「風」は台風やハリケーンが荒れ狂い、土は洪水で押し流され、
火山灰で埋まるとう具合らしいです。
重い病にかかった時の人間の苦しみと同じ様な感じがします。
もがき苦しむことによって、毒素を流し、調和を回復しようとします。

昆虫にしても、植物にしても、人間などの動物にしても、全ての生命体は完璧といっていいほどの循環システムを持ちますが、
地球もそれ以上の循環システム、自己治癒システムを持っているのかもしれません。


アマテラス

2007年04月02日 | スピリチュアル
アマテラスオオミカミに関しては色々な説があります。
元々、伊勢に鎮座していた神様を日の神様に祀り上げたとか、古来の大和の神様を遷座したものだとか、諸説入り乱れています。
霊能力のある方でも、トヨウケノオオカミをお祀りする伊勢の外宮に感応する人はよく聞くのですが、
内宮のアマテラスオオカミに感応したという話はあまり聞きません。
あちこちの神様に感応する滝の導師もアマテラスオオカミに関しては、よく分からないと言ってました。

で、今朝ある本を読んでいたら、エジプトの黄金時代においては、「死後」の世界が重要で、
この世で生きることは死語の世界に赴くための訓練期間と考えていたらしいです。
その死後の世界において、一つの理想的なあり方は、星星になることだったらしいと。

星になるということは、生命体を宿し(生命体=必ずしも人間みたいな3次元の存在ではありません)、
宇宙空間に光を放ち続けるという意味で、「絶対利他」の存在になるという意味で、霊格が高いものがなるということだと。

なるほどなぁと思いました。
ガイア思想みたく地球そのものが生命体であるという考え方は、かなり広まってきています。
それなら、星星も生命体であるのかもしれない。
しきりに感心して、ベランダに出て、薄い靄越しに天空に上った太陽を拝んだわけです。
そこで、ふと思いました。
そうすると、太陽もある霊格が顕現したものではないかと。

我々が呼ぶところのカミとは、3次元より高次元におわす存在=霊格です。
霊格の階級というか、レベルの階層は複雑深遠で、ここでは説明できませんが、
とにかく太陽も霊格の一つだとしたら、それ霊格を「アマテラスオオミカミ」と読んだのではないかと思いました。

教科書的には、農耕が始まり、実りをもたらす太陽神としてアマテラスオオミカミが誕生したような説明がなされますが、
農耕云々以前に、太陽があって、太陽系があって、地球がある、そういう太陽系の存在の中心としてのアマテラスオオミカミではないか。
そう思ったわけです。

太陽系も、星星も、銀河も、神々の舞踏に見えていたのだと思います。
アマテラスが誰の子で、女性で、云々というのは神話的創作ではないかと思います。

ちょっと説明分かりづらいですかね。

農耕云々が先にあり、それで人々の想念が農耕を支配する太陽神を求めた、創り上げたというのが今までの説明でしたが、
そうではなく「星辰は神々である」というエジプトと共通の宇宙に対する信仰が先にあったのではないかと思ったわけです。

古代の巨石文明は必ず太陽の位置や、星の位置を意識して驚くべき労力を費やして作り上げられています。
おそらく、古代の人々はエジプト人と同じく、夜空の星星にカミを見ていたのだと思います。

日本神話では、宇宙の根源神は天之御中主神です。
人は畏れることは出来ても、窺い知ることのできない神様です。
その他、「ムスビ(=産む働き)」の神様が色々いて、イザナギがアマテラス、スサノオ、ツクヨミの3神を産みます。
アマテラスが太陽、スサノオが海(または国土)、ツクヨミが夜を司ります。
この三神以下が、人に感知できる神として、最も人々に崇められたのでしょう。
ツクヨミの不遇は、なにか意味深ですが。

まだなにを言いたいのか分かりづらいですね(笑)

要するに、古代の人々はおそらく太陽をじかに「神様」として見ていたんだと思います。
観念で神様として捉えるようになったわけではなくて。
古代の人たちには、神様がいるかいないとかの話じゃなくて、神様が太陽として現に見えていたのではないかと。

う~ん。

ちょっと整理してまた書きます。