風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

体力

2008年03月31日 | 雑感
どうやら桜も開花したみたいですが、今日は雹が降ったり、変な天気です。
卒業、入学、転勤、異動などで慌しい日々を送っている方もおられるでしょう。
季節の変わり目、風邪を引いている方もいますし、花粉症でグズグズいっている方もいます。
色々な意味で心が騒ぐ季節ですね。

新しくメガネを買いました。
前のは自転車で転んだときにどこかに行ってしまいました。
思い切って、遠近両用にしました(笑)
角度をちょこっと変えるだけで見え方が違うものですから、視点が定まらず世界がぐらぐら揺れる感じです。
1週間ほどで慣れるそうです。

耳が遠くなるまでにはまだ時間がありそうですが、さてどうなることやら。
視覚、聴覚に限らず、味覚、触覚、嗅覚すべてにおいて淡白なものを好み始めるのでしょう。
五感が弱るから淡白なものを好むようになるのか、淡白なものを好むようになるから五感の機能が衰えていくのか。

昨日の深夜たまたまテレビを見ていたら、4~50代の格闘家たちのドキュメンタリーをやっていました。
昼は仕事をして、夜にジムに通っています。
どれだけ鍛えていても、肉体は必ず衰えていくものだということは、当人たちが一番よく知っているみたいです。
普段身体を全く動かさないぼくなどはかえって肉体の衰えに気がつかなかったりするのでしょう。

十全に生きるということは、身体が十全に機能するということも含むでしょう。
若い頃に戻りたいなどとは思いませんが、年に応じてしたいと思うことは懸念無く出来るコンディションは持っていたいものです。

それにしても、ボクシングジムかなんかに通おうかなと思ったこともありましたが、その番組を見てやめました。
本当にしんどそうでした。
新陳代謝が悪くなるということは、疲労が蓄積するということです。
散歩かなんかがお似合いなのかもしれません。


虚しさ

2008年03月29日 | 雑感
YouTobeでテレサ・テンの「空港」を聴いてます。
とても懐かしいです。
10代の頃パチンコ屋でよく流れていました。
パチンコ屋でその頃よく流れていた曲としては浜田省吾の「路地裏の少年」でした。

夢なんか持てず、金も無く、酒を飲むことと三本立ての映画を見るのが楽しみでした。
三食付の快適な自分の部屋というのがなかったからニートにならなかっただけの話です。

何もかもが過ぎ去って行きます。
なんの不足はありません。
したこととしなかったことが交差します。
生きている限り、何かをしたりしなかったりします。
しても後悔、しなくても後悔という人生だけは送りたくありませんでした。

まぶしい太陽を眺めれば、すべてはそれはそれです。
「太陽がいっぱい」という映画はまさにそんな感じでした。

アラン・ドロンというのは「太陽がいっぱい」だけではなく、結構いい映画に出ていました。
「冒険者たち」「サムライ」「ビックガン」などなど。
どの映画にも「切なさ」が漂っていました。

「切なさ」というのは、人生を生きている限りついて回る感情でしょう。
無機質に言ってしまえば、「無理・無駄・ムラ」な出来事のなかで、様々のことを経験する「虚しさ」でしょう。
そこに寂しさが加われば、演歌の世界になります。

なにはともあれ、明日も陽の下のもとに生きて行きます。




司馬遼太郎

2008年03月28日 | 雑感
司馬遼太郎の小説が好きな人は多いと思います。
「竜馬が行く」「坂の上の雲」「翔ぶが如く」などなど、寝る間も惜しんで読んだ人もいるでしょう。
ぼくも読み始めると、他のことをする時間がとにかく無駄に思えて、先に先にとページを捲りました。

魅力的な人物像というのは、どこまでも人の興味をそそります。
司馬遼太郎はそういう意味で人物像を造形する才に恵まれていました。
人物像を造形する才に恵まれているということは、市井の人々に対するまなざしが確かで深く優しかったということなんだろうと思います。
学者が書いた歴史物が面白くないのは、そういう点での洞察力が弱いからなのでしょう。

偉人という者は確かに歴史の節目に現れます。
しかし、偉人はその存在を凡百の凡人に支えられました。
名も知れぬ凡百の凡人こそが歴史の裏舞台を支える「人間」です。

偉人になりたければ、なろうと思えばいいです。
その表に表れた顔と裏腹の理不尽だらけな苦悩に耐え切る覚悟があればの話ですが。

凡人とは無能の人という意味ではありません。
ありふれた日常に価値を見出せる人です。
ありふれた日常などというものは、元々どこにもないのですが。

一人の人としての存在にすとんと落ち着いた時、社会とか歴史とか文化とかに始めて参加できるのかもしれません。


健全さ

2008年03月27日 | スピリチュアル
今の日本の衰退の一因として、「老いては子に従え」という諺が廃れたことでしょうか。
どこもかしこも老人たちが何がしかの椅子にしがみついています。
その昔、50も過ぎれば隠居して、家業は跡継ぎに任せて悠々自適の趣味の世界に生きたものです。
農家の人々はそう泰然とはいきませんでしたが、孫やらひ孫やらに囲まれて、自然と面していました。

若い者は失敗します。
でも、そうやって失敗してこそ先人の教えを学ぶチャンスでもあります。
よってたかって過保護にして、若者を失敗させないものですから、若い者は過去に学びません。
学んでいないから、年寄りたちはますます心配して若い者には任せられないとなります。
悪循環です。

これからいよいよ老人の占める人口比率がピークを迎えます。
若い者も、老いた者も、誰のせいにするわけにもいきません。
健全な社会運営とは何かということを一人一人が考える必要に迫られるでしょう。

健全な社会というのは、その構成員である個々人が健全であることが前提であり、結果でもあります。
何が健全であるかという議論を改めてしなければいけないような社会といういうのは、言うまでもなく不健全な社会です。

「生きる」価値というのが共有されるのが最低限の健全な社会といえるのでしょう。
今の時代は、価値の共有というのが極めて難しい時代になってしまいました。
個々人が個々人の価値を追求せよというような強迫観念すらあるような時代です。
その先にある孤独感を耐え切る覚悟があるならそれもよしですが。

不思議なものです。
全体主義を否定するテーゼとして共産主義が生まれた土壌があったはずです。
でも、共産主義こそ現代に残る唯一の全体主義的なイデオロギーです。

思うに、キリスト教の全体主義が、共産主義というより人知的な全体主義的イデオロギーにすりかわっただけのような気がします。

唯物論は、下部構造と上部構造を措定します。
下部構造が上部構造を否応なしに規定していくと。
資本主義(誰かが誰かを搾取する構図)がある限り、搾取するものと搾取されるものがあり、真の人間性が疎外され続ける。
話としては分かりやすいです。
でも、ぼくはあえてそんな小理屈には与しません。
人は「統合」の場です。
すべての昇華、その筋の言葉で言えばアウフヘーベンが起こりえる場が「人間」だと思っています。

その鍵は「宗教心」だと言ったら、唐突過ぎるでしょうか。

唐突過ぎますね。

ただ言っておきたいことは、「人間」の可能性は、「その気になれば」もの凄いものではないかということです。


母と子

2008年03月24日 | 雑感
今、店に誰かが置いていった本をパラパラ読んでみました。
漫才コンビの「麒麟」の田村が書いた本です。
中学の時に父親が破産かなんかをして、家を追い出され、一人で公園で暮らし始める話です。
とても飾り気のない素直な文章で、一気に読めました。

後書きで「ぼくはお湯に感動できるハードルの低い人生を愛しています」みたいなことが書いてありました。
公園でたった一人暮らしている頃、友達の家で風呂に入れてもらい、お湯のありがたさに大感動したからの言葉です。

「ハードルの低い人生」という言葉はいいですね。
意味もなく高いハードルを掲げて、意味もなく四苦八苦することが多い世の中です。
ハードルが低ければ低いほど、見るもの聞くもの経験するものすべてに味わいと喜びを感じることが出来るでしょう。

それから、一貫して本に流れているのは著者の亡き母親に対する深い愛情です。
思わず貰い泣きしてしまうほど、真っ直ぐです。
田村京子という母親に喜んでもらうような生きかたをしたいと真っ直ぐに宣言しています。

今後の活躍を応援したくなりますね。


春が来た

2008年03月22日 | 雑感
もう後戻りすることもなく春ですね。
空がすっかり麗らかです。

来週辺りになると桜の開花予想も始まるのでしょう。
漫然と時を浪費する時代は終わりました。
今年咲く花は今年限りの花であるはずです。
その風情をあらん限りの感受性をもって味わいたいと思います。

新聞などを眺めますと政局は駆け引きだらけでうんざりします。
これが政治というなら、勝手にしてればいいです。
自分で自分の身を守るのはいつの世でも鉄則でしょう。
政治がどんなにいい加減になろうとも、ぼくは楽しく生きていく道を探し出すだけです。

政治に求められるのは正義とか真理とかではありません。
「妥当性」です。
あってしかるべき姿と今ある現実の姿とのギャップを埋めることのできる感受性と想像力と実行力です。
そういうのが今の政治からは微塵も感じられません。
相変わらずの保身と権謀術策です。

ま、ぼくごときがここでなにを言っても始まりません。
ぼくが始められるのはぼくの生き方だけです。
もちろん穴だらけの生き方ですが、不足はありません。

とにかく待ちに待った春がやってきました。
まずは一斉に芽吹く植物の芳醇な香りを胸一杯に嗅いでやろうと思います。

展示会

2008年03月18日 | 雑感
土、日とはじめて他会場を借りて展示会をしました。
収穫もあり、反省もありの展示会でした。
身体は少々疲れ気味ですが、気持ちは元気です。

このたびはじめてアンティーク人形というものを扱いました。
有名なシュモウ、ゴーチェ、などの人形がこれでもかと揃いました。

ぼく自身はアンティーク・ドールというものには関心がなかったのですが、さすがに一級品は力がありました。
日毎に表情が変わります。
生きています。
それでいて、あくまでも品格が高いです。
今回初めてコレクターと呼ばれる人が存在する所以が分かりました。

ある人が人形の目を見て「見透かされているようで恥ずかしい」と言っていました。
彼女の言うところの意味も今回理解できました。
人形たちはそのまま真っ直ぐに世界を見つめています。
たいしたものです。

今回の展示会はバカラのグラスや陶器が多かったので、展示や撤収に手間がかかりました。
次回はこうしよう、ああしようという課題やなんやらが見えました。

いろいろやっていくうちに太い流れができていくでしょう。

協力してくださった皆様、お客様、有難うございました。


安心

2008年03月13日 | 
本当に安心すると

慈しみの柔らかい光が周囲を照らします

胸が空っぽなら

両手で自分の胸を抱きしめてください

本当に安心すると

喜びと感謝の波があふれ出します

あるがままというのはすべての許しがあってのことなのだと知ります

たんじゆん

2008年03月12日 | スピリチュアル
私は今幸せだ、と言い切ることができるでしょうか。
ぼくの場合はなんだかそう言い切れる感じになってきました。

幸せな状況があるわけではないです。
幸せな自分がいるということです。
どんな状況であれ、幸せだと思うことができるということです。

たった今まで知人とお酒を飲んでいました。
世の中は不合理だらけですし、矛盾だらけですし、悪意だらけです。
そんなことは百も承知していればいいのです。
そんな世の中で、腐らず、焦らず、奢らず、怒らず、笑顔で生きていく道はあるんだと思います。

人の計算には乗らずに、神の摂理に従うこと。
自然の摂理という方が良いかもしれません。
傷つけず、傷つけられないこと。
与えることがエネルギーの増加になるような生きかたをすること。
単純なこと。
冗談に満ちていること。

そんな感じです。

自分というものを振り返ればそりゃ赤面するしかありません。
思いっきり赤面すればいいだけです。

天狗様というのは、どういうわけか赤面しています。
酔っ払っているというのもあるのでしょうが、その能力をあまりにも褒め称えられるので赤面しているのかもしれません。

とにもかくにも、大事なのは「単純」であること、であるように感じます。
単純になるというのは、そう簡単なことではありません。
「自分」という中身を整理し尽くした後のことです。
単純=簡単という図式は的を射ていません。
単純になるための覚悟や勇気というものは、あらゆる複雑さを乗り越えていくと決心した時に生まれます。

なんにせよ、今夜は幸せです。

2008年03月11日 | スピリチュアル
日曜日、月曜日と色々あったのですが、どう書いていいのか分かりませんので書きません(笑)
ただ言えるのは、エネルギーが真っ直ぐに流れつつあるなぁ、ということです。
いろいろな面で誤魔化しというのは通用しなくなるでしょう。

誤魔化しが効かないのなら、ありのままの自分でありのままの世界に立ち向かうだけです。
フルチン(下品ですみません)で世の中に立ってしまえれば、怖いものはそうそうありません。
すべての武装(知識、経歴、学歴、金銭、エトセトラ)を投げ捨てた時に、何が残っているのか。
残ったものが自分のすべてです。
最後の最後まで残ったものを大切にしましょう。

日曜日にはネネさんの親友のアイカさんのコンサートでした。
以前より数段パワフルになっていました。
みんな日々進化して行きます。
先に行く者は、進化(深化)する姿を見せることによって、人々の進化を促します。
本当の意味で先に行く者は、先に行く姿を誇らしげに見せたいのではありません。
その先にある光をみんなに見せたくてたまらないのです。
こういう言い方さえ傲慢に感じる人もいるでしょう。
真実というのは、おそらくほとんどの人間にとって、傲慢な顔をしているんだろうと思います。

ぼくが受け取ったメッセージはこうです。
「あなたがすべてであり、あなたが源だ」

自分を大事にするということはどういうことなんだろうかと問いかけられます。

「あなたは自分を本当に大事にしていますか?」

フォークソング世代からのメッセージでした。










チームワーク

2008年03月08日 | 雑感
誰かに使われるという境遇を離れて10年経ちました。
どちらがいいということはありません。
なんでもそうですが、すべてには一長一短、裏と表があります。

一つだけ思うのは、独立するにせよ、チームワークというものを経験・マスターしてからの方がいいですよ、ということです。
人と係わるのが嫌だから独立するというのはおそらく上手く行かないでしょう。
独立ではなく孤立する羽目になるような気がします。

独立したら、それこそ人からの応援をいただかないことには一つも物事が進みません。
人と係わることが嫌な人を応援しようとする人はなかなかいません。

ぼくのは場合は、人と係わるのが面倒くさいと思うことはよくありますが、嫌だと思ったことはありません。
人と係わるというのは面倒くさいものです。
それは「自分」という存在の七面倒くささをいささかなりとも知る人なら、お分かりかと思います。

面倒くさい人間同士が、面倒くさいあれやこれやの関係をこんがらかして生きるのが、人の世というものでしょう。
組織の中なんかにいますと、その面倒くささが恒久的な日常になっていて、息がつまるというのはよく分かります。
息をつまらせながらも、こんがらかった糸をほどいてはまたこんがらかり、こんがらかってはまたほどく。
そんな感じで日々が埋まって行きます。
でも、独立しても同じです。
ただ、こんがらかせるのもほどくのも、全部自分の責任だということが違うでしょう。

ものごとがこんがらかる状態というのは、チームに所属すると必然に起きることです。
いくらこんがらかろうが、チームの所属印でいる限り、冗談を言ったり喧嘩したりして、ほどいていくのがチームです。
こんがらかる状況に対しての耐性がつきます。
自分ひとりの思いだけではどうしようもないのも学びます。
ある程度の時間が必要なことも学びます。

会社やある特定の組織に属していれば、それがチームですが、独立すれば社会全体がチームです。
それを面白いと感じるか、怖いと感じるかはそれは人それぞれでしょう。
どこへいても人はやっぱりチームワークが必要となります。

ニートや引きこもりの問題というのは、チームワークを学ばなかったせいでの孤立化の問題であるように思います。
生きるというのは面倒くさいことを引き受けることだという認識が欠けているように思います。
自分の面倒くささは許容するのに、他人の面倒くささは受け入れることも出来ないし、その必要性を感じることもないでしょう。

で、その面倒くささというのはすべて例外なく「自分」というものが外界に投影しているのだ、ということが今日の言いたいことでした。



2008年03月07日 | スピリチュアル
日に日に日差しが明るくなりますが、今の太陽って昔の太陽と違いますよね?
黄色い裸電球だったのが、青白く強く輝く最新のなんとか電球みたいです。
ポカポカと照らす感じではなく、ギンッと天空に光っておいでです。

近頃、やたらリアルな夢を見ます。
起きがけが多いです。
リアルな夢を見て、あー夢だった、でも面白かったから続きを見ようと思ってまた寝入ると続きが見れたりします。
というわけで、朝方は布団の中でぐずぐずすることが多いです。

娘もおっぱいを欲しがって泣くことはあっても、夜泣きというようなことはあまりなかったのですが、
このところ異常な泣き方をしてしばらく泣き止まないことがあります。
嫌な夢でも見ているんじゃないかと思います。

ぼくは精神分析による夢診断というのを昔読んだことがありますが、全然あたっていると思いません。
なんという凄まじいこじつけなんだろうと思った記憶があります。
一説によりますと、睡眠中は別次元の世界へ魂が飛んでいるらしいです。
もちろん人の意識は、肉体を持った意識の在り方に訓練されていますから、別次元での体験が肉体を持った意識に翻訳されたのが、
夢ではないかと思っています。
つまり、夢でみる映像はそのまま別次元の体験ということではなく、別次元での体験が3次元的出来事に翻訳された映像であろうと思うわけです。
だから辻褄が合いませんし、ストーリーが飛躍しまくります。
平気で主人公が変わったりしますし。

夢で未来の予知やら、犯罪者の居場所を探し出すことやらをする人もいるようですね。
夢というのはまだ未知なる世界と通じる回路が秘められているのかもしれません。
そういう未知なる回路を開く手段として、ドラッグもかつては盛んに使われたようです。
どこかの脳内の機能が何らかの理由で閉鎖されているのでしょう。
傲慢な人類がその機能を自由自在に使ってはあまりにも危険だということなんだろうと思っています。


冬の終わり

2008年03月05日 | 
朝方になると山に靄がかかるようになった冬の終わり、
太平洋が見たくなって電車に乗った。

電車を降りて、灰色の集落を抜けると、あいかわらずの海が広がっていた。
なにも考えてないくせに、何かを見透かしているような顔をするいつもの海だ。

縮れた海草やプラスチックや発泡スチロールで覆われた砂浜には、
人影もなく海鳥の鳴き声もない。

冷たい風が遥か沖合いから吹き寄せる。
ここに来るまでのどこかで何か気の利いた出来事に出会ったかのような波の音。

海の底では海の底で行われるべきことが行われたのだろう。
ハワイはいつものハワイであり続けているのだろう。

それにしたって、ここは死んだような集落を抜けたところの汚い浜辺だ。
ここにおれが立っているのは、なにかの出来事なのだろうかとふと思う。

灰色の空の下で灰色の海を見ながら、
自分がちっぽけな存在であるなんてことはおれは考えない。

おれの意志は空も海も薄汚い集落さえも呑み込んでやろうと意気込んでいる。
でも、いざここに立っていると、その気がすっかり失せているのに気がつく。

風が強すぎるし、そのうえ冷たすぎるのだ。
おれの意志が求めた初春の海の顔はどこにもありはしない。

こういうときにはどこかに薄汚れた飲み屋でもあればいいはずなのだが、
死んだ集落には飲み屋さえない。

おれは腐臭のする砂浜を物憂げに歩いてみたりする。
その実、なにひとつ物憂げな気分ではなかったりするのだが。

こういう空虚な出来事をおれは重ねてきたのだろう。
おれの出来事とこの浜辺の出来事は見事に一致しているのだろう。

吹くなら吹け、冷たい風よ。
そのうち恥ずかしげもなく金色に輝く太平洋に会いに来てやる。



求道か精進か

2008年03月04日 | スピリチュアル
求道とか精進とか道を究めるための言葉は色々あります。
ぼくは人の歩くべき道がそんなに狭いものだろうかという疑問がズ~ッとありました。
もとよりある大道を楽しく歩いていけばいいんじゃないのくらいに思っていました。

今でこそ思うのですが、求道とか精進の道は要するに「近道」を指し示しているんですね。
近道ではあるんですけど、そこから外れると救いがない道というか。

人は想念の生き物です。
己の想念を現実社会に映し出します。
自分は大道を歩くと決めたら、いたるところに大道が現れる、はずです。

ここら辺の感覚は人それぞれです。
人それぞれの道が大道だ、と言いたいわけです。
そう思うかそう思わないかの違いが、自己を認めるか認めないかの大きな違いのような気がします。

そう単純な話でもないのですが、こと細かく分析するようなことでもない気がします。
人一人が生きるという重さ。
それをどう感じるかなんだと思います。

2008年03月01日 | 雑感
今3体のアンティークドールがこちらを見ています。
だらしがなくてごめんなさい、と言うしかないような目でこちらをじっと見ています。
みんなきれいな顔をして、きれいな目をしています。
百年以上も前から、そういう顔して、そういう目で世の中を見てきたのでしょう。
だらしがなくて、ゴメンナサイ、です。

今まで30代の女性と話をしていました。
30代の男性は辛そうです。
なんと言って言いか分からないほど、どん詰まりの状況です。
それでも女性は隙間を縫って羽ばたこうとはしているのですが、男性はどんづまっているようです。

頑張れ>男

と、偉そうにいいう自分が何ぼのもんか、ということに帰着します。

頑張れ>おれ