風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

政治と個人

2008年09月30日 | 雑感
人の命は重いと言います。
そんなことは一般論で言えるようなことではありません。
命を大切にする生きかたをする命が重いのであって、自他の命を軽んじる生き方だってできるというだけの話です。
重い人生もあるし、軽い人生もあるだけです。

差別も糞もありません。
その人の選択があるだけです。
軽い人生を選んでおいて、自分の人生を重く見ろと他人に要求しても、他人は知ったことではありません。

人を虐めておいて、あれは虐めではなかったとかなんとか、なんとでも言える時代が今です。
今進行しつつある政治における言語の使い方の乱れ方を思うと、そりゃなんとでも言えなければ損な気分になるでしょう。

麻生総理の所信表明がありました。
メディアは相変わらず、天下国家を語っていない、具体論に欠ける、野党に対する挑発だ、と批判のオンパレードです。
天下国家を語ろうとした安倍総理をぼろくそにこき下ろしたのは誰なんでしょうか。
国政の総論的ヴィジョンを示す所信表明の場で、社会保険制度の不備による一被害者に対して言及がないからといって、責める。
さんざん与党を挑発してきた野党が、自分たちに質問で返すとは何事か、失礼だと罵る。

ついていけません。
議会制民主主義を謳う道筋で起こりえる最低なマイナス面です。
国民が消え、理念が消え、現実が消え、権力・利権に対する執着ばかりです。

語るに落ちます。
好きなように国民を利用してください。

という感じです。

国民よ、しっかりしましょう。
と、いい加減な感じで言うより仕方がありません。

政治なんかどうでもいいと思えば思うほど、政治に取り込まれていきます。
団結の旗印を立てることは、今の時代に不可能です。
この混沌とした世に個人個人をどう立てられるか。
それに尽きるんだと思います。

ポール・ニューマン

2008年09月29日 | 雑感
ポール・ニューマンの訃報を新聞で読みました。
いい役者だな~と思う男優はたくさんいるのですが、ぼくが男のせいか、
いい男だなぁ~と思う役者は余り多くはありません。
その余り多くはない、いい男だなぁ~と思う役者がポール・ニューマンでした。
遊び半分で始めたドレッシングを販売する会社で成功し、
その会社が上げた純利益2億2千万ドル(ドルですよ!)全額を恵まれない子供たちのために寄付をしたり、
父親の名声の軋轢に負けて麻薬で死んだ自分の息子を悼んで、麻薬撲滅の運動に参加したり、
とにかくスケールが大きく人間味が溢れる俳優さんでした。

ぼくが代表作を一つだけ上げるとすれば、「暴力脱獄」です。
邦題が無茶苦茶すぎます。
「クールハンド・ルーク」が原題です。
日本では知名度が低いですが、アカデミー主演男優賞の候補にもなったみたいです(今日、ググってみてはじめて知りました)。
強いて訳すなら、「いかした奴・ルーク」でしょうか。

カミュの「異邦人」をたっぷりアメリカナイズしたような、かっこいい映画でした。
ニヒルという言葉がその昔流行しましたが、ニヒルというスタイルから独特のイヤミと臭みを抜き取ったのがルークでした。

べろべろに酔っ払って、パーキングメーターを引っこ抜いて、刑務所に入れられてしまいます。
意味もなく威張りくさる看守の言動に思わずニヤリとしてしまいます。
当然、看守から目を付けられ、虐められます。
囚人仲間からも、独自のスタイルを守り通すルークは虐められます。
ルークにとっては、そんなことはどうでもいい話です。
どうでもいい話なのですが、虐められている方のルークはその頑強な抵抗力の強さゆえに周囲からますます憎まれます。
刑期も理不尽に延ばされていきます。

そこからが彼の本領が発揮されます。
彼の関心は周囲の下らなさにはありません。
彼が守り抜いているのは、人々から受ける評価でもなければ、待遇でもないのです。
彼が唯一守り抜いているのは、魂の自由、それだけです。
それからどうなるのかは、まだ見ていない人のために伏せておきます。

学生のころこれを見て、うひょ~と思いました。
その頃の学生ならみな引っかかった虚無とか、アウトサイダーとか、そんな感じの世界の実写版だと思いました。

イェール大学大学院出のインテリでしたが、ハスラーとか私立探偵とか現場労働者とか、場末のニヒルな役柄が飛び切り似合っていました。
アクターズ・スタジオでジェームス・ディーンと同期だったというのも今日知りました。

役柄もカッコよかったですが、生き方がまたかっこいい役者さんでした。
天国に広がる風景を見て、ニヤリとしているような気がします。

価値判断

2008年09月27日 | スピリチュアル
清清しい秋晴れが広がりました。
といっても、朝方窓から見ただけですが。

人はよく誤解をします。
その場の雰囲気が読めなかったり、人の心の痛みが分からなかったりします。
勘違いを元に人を判断することもしょっちゅうなのでしょう。

そこにあるものを、そのまま受け取るというのは、余程心が澄んでいないと無理なようです。
心が澄むというのは、いかなる価値判断もしないということです。
花は美しくいい香りがするから好きで、ミミズは気持ち悪くて嫌いだ、ではそのままを受け取ったことにはなりません。
ミミズはシンプルにミミズの生命を生きているだけです。
花だって、花として咲き誇るだけです。
生きているだけ、存在しているだけ、その「だけ」に色々価値判断したり、好悪を表さずにいられないのが、人間です。

価値判断や好悪の感情を超越するとどうなるのでしょうか。
覚者と呼ばれるような人の言説を参考にしてみますと、すべてがあるがままにあるのが「奇跡」だ、ということでしょうか。
存在すること自体が神の恩寵と映るようです。

人間の計算高い曇った目で見ますと、自分の都合で物事を見ますから、存在に対して好き嫌いをいい、是非を問います。
自分の都合というのを仏教では我執といい、キリスト教では目の中の梁と言うのでしょう。

自分の都合を何よりも優先して考えるのが近代国家の容認する個人の自我です。
自分の都合などを放り投げてしまったら、さて、それほど困ることが起きるでしょうか。
食うために働くのは自分の都合ですが、誰かのため、何かのために働くこともできます。
出世するために勉強するのは自分の都合ですが、魂が真理を希求するのは個人の都合を遥かに超えたものです。
自分が急いでいれば、目の前をのんびり歩く人物が邪魔になります。
自分が出世したければ、能力のある同僚が妬ましくなります。
自分の都合というのは、そういう否定的な感情ばかりを日常に引き起こしていきます。

ある種のイデオロギーに染まった人間の都合は、染まっていない人間の不都合になります。
誰かの好都合は、他の誰かの不都合になることが多いです。

自分の価値判断にあったものを手に入れることを人々は喜びと思います。
価値判断しない人にとっては、この世すべてが喜びです。

まぁ、そんな感じなんだと思います。

手紙

2008年09月26日 | 雑感
そろそろ夕暮れ時の空の景色がダイナミックになる頃なのでしょうが、
どういうわけか最近夕方の空を見る機会がありません。
店の中にいればそりゃ見る機会はないのに決まっていますが、
以前は同じような労働条件でも結構夕暮れ時の空を見ていました。
まぁ、どうということではないです。

今日は張り切って手紙を数通書きました。
百円ショップで万年筆を売っていたのでつい買ってしまい、試しに何か書きたくなったのです。
手紙というのはやはりいいものです。
書き始めると、相手に対するいろいろな思いが湧き起こってきます。
この汚い字に込められたこの想いよ届け、という気になります。

別れた元妻から、ぼく宛の手紙がぎっしり入った箱が送り返されてきました。
未練がましく、手紙を溜め込んでいたものが、そのままそっくり送り返されてきたのです。
車のトランクに入れたままになっています。
どういうわけか、ゴミとして捨てるという気にはなれません。
昔の人がしていたように、焚き火と一緒に焼くという姿が一番正しいように思います。
どんな思いが交わされたにせよ、炎で焼かれるという浄化を必要とする日が来るものです。

ぼくの字は汚くて有名です。
一切なにも考えずに書き始めますから、汚い上に支離が滅裂です。
できれば、絵を書き添えます。
余りにも拙い絵なので、すべてが許されます(笑)

義理で書く手紙が余りにも多くなった反動で、出される年賀状や暑中見舞いの枚数が減ってきていると聞きます。
一度、過剰になった義理の通信を整理して、書きたい人に書きたい手紙を書く、という感じなればいいと思います。
漱石はじめ、昔の人は実にこまめに手紙、葉書をしたためました。
今の電話よりも気軽に文書のやり取りをしていた感じです。
さらさらと挿絵なんかも入れています。
そういう感じになると楽しいですね。


パッション

2008年09月25日 | スピリチュアル
彼岸花の季節です。
田んぼの畦道や、土地の境界線に集中して咲いています。
その群生を遠めに観ると大変美しい色をしています。
刈り終えたばかりの田んぼをパパラチア色に縁取っています。

昨日は休みを取って、お気に入りの小さな神社に行ってきました。
神社の前の茶店はお休みで、楽しみにしていたうどん定食は食べることができませんでした。
どこもかしこも彼岸花が咲き誇っていました。
刈り入れの大事なときに、先祖の霊たちが末裔たちの田んぼの実り具合を確かめにこの世に降りてくる時期なのかもしれません。
先祖が日々踏みしめた畦道や、大事にした土地の境界線に彼岸花が群生するのもそのせいなのかもしれません。

近代以降の思考のあり方というのは、言葉を積み重ねることです。
言葉の積み重ねに矛盾がないかどうかをチェックしつつ、全体的な整合性を保つことができることを意見といい、論説といいます。
でも、おそらく、インパクトを持った想念とか、ヴィジョンというのは言葉の合理性を軽々と越えるのだろうと思います。
「~をしたい」という思いは、いかなる合理性とは無縁です。
言葉の合理性を無視した情熱を無条件に肯定したときに、その情熱はパッションという言葉に昇華します。

パッション
(1)情熱。激情。
(2)キリストの受難。また、それを主題にした受難曲。

情熱と受難が同じ言葉で表現されるところが面白いです。
身を震わせるような情熱に身を投じる時、その後の行為は「受難」となります。
困難をあえて受けていく行為となります。

情熱をもった生き方は美しいのですが、そこには「受難」という局面も確かにあるのでしょう。
受け切手こその情熱でもあるでしょう。
逆に言えば、受難=艱難を身を持って引き受けることを避ければ、情熱的な生き方はできないということかもしれません。

困難を遠目に困難だとするのは容易です。
貧乏、失恋、失敗、挫折、裏切り、絶望、困難のリストは無数にあります。
それらの困難を引き受けるというのはどういうことでしょうか。
困難の渦中に生きることによって、何が見えるのでしょうか。

おそらく、何か素晴らしい教訓とか境地が見えるわけではないのだと思います。
ただ、「生きる」ということが見えてくるのだと思います。
生きるということの馬鹿ばかしさと、崇高さとが、同時に見えてくるのだと思います。
どんな目に会おうとも、にこりと笑える余裕がそこから生まれてくるのだと思います。

矛盾を前提にするというのはある意味苦痛なのですが、矛盾を前提としない合理主義に貫かれた生というのは、
おそらく地獄をはるかに超えた苦痛以外のなにものでもないと言えるかも知れません。
思うことすることすべてに超越的な理性の検閲を受けるということは、人の心の自由というものを手放すことです。
いかなる形にせよ、自由を手放した人の心というのは、魂の喜びから遮断するということです。
自由のない成長ということはありえません。
だれかにどこかに連れて行かれることを成長とは言いません。
自らの意志で、観たい景色を見、会いたい人に会い、身を置きたい風の中に身を置くだけです。

そのためには、「パッション」が必要なのかもしれません。
艱難を受ける。
どうせ受けるなら、顔を上げて、正面から受ければいいのでしょう。



黒い波

2008年09月23日 | 
そのひとはユリの花の匂いがした
何か香水でもつけてるのときいたら、いいえと首を振った

夏休み、アルバイトの切れ間を利用して彼女の田舎に遊びに行った
旅の途上と偶然を装ったが、ドキドキする胸で彼女の家に電話した

日本海を望む味気のない町に彼女は生まれた
冬には大雪が降るの、黒い波が押し寄せるの、と彼女は言った

夏の海はエメラルド色に穏やかに広がっていた
ウミネコたちが港で騒ぎ、子供たちが浜辺を駆け回っていた

海風で彼女の長い髪は乱れたが、気にする風もなく彼女は地平線の彼方を眺め続けた
ここの夜の空を見たらすごいのよ、と彼女は笑った

日本とか、アジアとか、そんなものじゃないの
宇宙の真ん中にいる、そんな感じなの

星たちの息遣いが聞こえ、おしゃべりが聞こえ、噂話も聞こえるわ
お月様はね、そんな星たちを監視するために天空に現れるのよ

ぼくはそんな彼女の話に言葉をさしはさむこともできずに、彼女の横顔を眺めた
彼女ははじめてぼくの目を見ると、じゃあ、これで、と言って立ち上がりスカートの裾を払った

夏休みも終わり、教室で何度か彼女と言葉を交わした
彼女の笑顔は遠くを見ていて、ぼくを見てはいなかった

それでも彼女の傍らを通り過ぎるとき、ユリの花の匂いがした
ぼくは彼女とのつながりのない世界にいながら、押し寄せる冬の黒い波を想像してみた

イントゥ・ザ・ワイルドⅡ(ネタばれ注意)

2008年09月22日 | 雑感
ついに「イントゥ・ザ・ワイルド」を観てきました。
一日一回、4時半という中途半端な上映時間でしたが、無理やり見てきました。

いやぁ~、たまらない映画でした。
若い頃に見たらもっとたまらなかったでしょう。
役者が良かった。
ああいう顔の若者って、今の日本には少なくなりました。
父親役のウイリアム・ハートは、少ない見せ場でもとても深い演技をしていました。

ぼくも放浪大好き男でしたから、なんというか、自分の青春時代が照れくさいほど重なってしまいました。

家庭の複雑さは、その中で暮らすナイーブな青少年の心を深く傷つけてしまうものです。
その傷の痛みに耐えかねて、青少年は反抗し、放浪し、更に自らの心を傷つけては、苦しい経験をさんざん重ねた後、
いずれ深い静寂に辿り着きます。
上手いこと静寂に辿り着けない場合は、自己破壊的な悲惨な道を歩み続ける可能性が高いです。

この世に信頼を失ったナイーブな心にとっては、この世のあり方というのはとても残酷なものに映ります。
お互いを本当の意味では尊重しない、エゴイスティックな偽善に満ちた社会に映ります。
正義、真理というものがあると信じたくてたまりませんから、
本当のことというのが人の数だけあるという意見は受け入れがたいものに感じます。
彼や彼女に映る愚かしい大人たちの姿に真理があるはずはないと思います。

そういう時期を経て、この世が一筋縄では行かないことを知り、己の思考の限界、経験の限界などを思い知りつつ、
大いなる視点から世を俯瞰することのできる成熟した心境になっていくのでしょう。
青春の挫折が深ければ深いほど、成熟の度合いは増すのかもしれません。

主人公も自然の中で取り返しの付かない挫折を経験します。
その挫折があまりにも深いがために、最後には大いなる視点に到達します。

あまりにも切ない話なのですが、切ないだけで留まらない感動がありました。
短い人生の中で、少なくとも彼は生ききりました。

あちこちに、珠玉のような言葉が散りばめられていました。
若い人に観てもらいたい映画です。
いろいろ語りたくなりますが、この辺で。


冒険

2008年09月19日 | スピリチュアル
昨日は久しぶりの休日、映画のはしごをしようとしましたが、なんだかんだスケジュールが合わず、
「ハンコック」一本だけを観ました。
思いのほかに面白かったです。
セリーヌ・ディロンはジョディ・フォスターと同じくらいに好きな女優です。
やさぐれた女殺人者を演じるために数十キロ太り、演じ終えて数十キロ痩せました。
役作りにかける執念は、女デニーロです。

人は肉体を去れば、(望めば)宇宙空間を自由に行ったり来たり出来るそうです。
肉体をまとおうが、去ろうが、人の魂は永遠の冒険を続けます。
目的は、喜び。

恋人を愛し裏切られるのも喜びなら、宇宙空間を飛び回るのも喜びだろうし、
孤児を世話し続けるのも喜びなら、畑で鍬を入れ、空を仰いで汗を拭うのも喜びなんだろうと思います。
どんな道を登ろうが、樹林帯を抜け視界が開け、風が頬に当たる時、人は喜びを感じます。
ただし、人を利用したり、搾取したり、支配したりという一時的な快感は喜びとは似て非なるものです。
説明は省きますが、利用したり搾取してみれば分かります。
喜びとは反対に、心が乾いていきます。
飢えていきます。

どんなことにも喜べるようになれたら、こういう形での生は卒業なのかもしれません。
豆腐がおいしいと喜び、タンポポがきれいだと喜び、ささやかな人の親切に喜べたら、そりゃもう無敵です。
日常を日常以上の出来事とフレッシュに感じ取れる心の鮮烈さがあれば、この世はファンタジーでしょう。

それとは反対に、喜びとは反対の感情もこの世には満ちています。
恨み、憎しみ、嫉妬、絶望、悲しみ。
それらの魂は、この世を冒険に満ちたファンタジーワールドと感じることはなく、息苦しい牢獄と感じています。
どちらも冒険のあり方ではありますが、ベクトルが正反対です。
この世が牢獄なら、牢獄をぶち破ろうとします。
反社会的な行動をとるか、それが叶わぬなら自分をぶち壊すかの行動をとります。

魂の旅は、この世に生まれでるための条件に過ぎない「自分」とか「自我」を凌駕して、先に進みます。
喜びとは、先に進む成長の喜びでもあります。
その先に進む成長を無視して、「自分」とか「自我」を前面に立てるときに、人はどこにも行けないという悲劇に見舞われます。

実は、同じようなことをさっき書いたのですが、誤って全部消してしまいました。
改めて書いてみると、誰かがどこかで言っているようなことばかりですね。

まぁ、今日はそんなところで。


イントゥ・ザ・ワイルド

2008年09月17日 | 雑感
「イントゥ・ザ・ワイルド(into the Wild)」という映画が封切されるという広告を、何日か前の新聞で見ました。
アラスカの風景が素晴らしいという前評判です。
10数年前になりますが、この原作をフランクフルトの空港で買いました。
朝やけが夕焼けかは知りませんが、ピンク色に染まったマッキンレーの山の写真が表紙でした。

豊かな家庭に育った青年が、突然有り金すべてを寄付してバック一つで放浪の旅に出ます。
あちこちで皿洗いやなんやらをしながら、何かに引き付けられるように旅を続けます。
そして、ろくな装備も食料もないままアラスカの山々の懐の奥にまで足を伸ばし、そこで果てます。

この話は実話です。
作者は青年が歩いた足取りを丹念に追い、かかわった人々の話を収録して行きます。
彼は驚くほど純真で、会う人会う人に好印象を残して行きます。
人々に好かれようが好かれまいが、一切の頓着なく彼は街から街へと移動して行きます。

10数年前に半分読みかけたまま、その本を失くしてしまったので、死に至る経緯は分かりません。
荒野に打ち捨てられたバスの中で朽ち果てた姿で発見されたところから、その本は始まっていました。

彼を荒野へ突き動かしたものが実のところなんだったのかは誰にも分かりません。
ただ、人間社会に嘘臭さを感じ、厳しくもひたすら「リアル」な自然に踏み込んでいったのだと思います。

規則や慣習や馴れ合いに流される生き方というのはある意味では楽です。
でも、一瞬でも本当の生命の輝きに触れた者は、退屈な日常の流れに身を任せることに我慢ができなくなります。
飢えや寒さでさえも、生命の躍動に感じられます。
暖かい暖炉の前での食事などはひたすら馬鹿げた偽善の儀式になります。

そういう人にとっては、長生きはもはや目的とはなりえません。
ほんの瞬間の生命の完全燃焼のみを追い求めます。
アルチュール・ランボーがそうだったように。

この街にその映画が来るのかどうかは定かではありません。
でも、なんとか観てみたいです。

そう言えば、日本の冒険家、故植村直己もマッキンレーで消息を断ちました。
あの辺りには、その類の気質を持った人間を引き付ける何かがあるのかもしれません。

トレンチコート

2008年09月16日 | 雑感
夏が戻ってきたような暑い日でした。
それでも、今ガラス越しに見る外の風景は、すっかり夕暮れのスミレ色に染まっています。
一番好きな秋の気配が日毎に濃くなってきます。
この辺りでは虫の鳴く音は聞くことはできませんが、田舎ではさぞかし賑やかなことでしょう。

トレンチコートというのがあります。
ハンフリー・ボガードなんかが「カサブランカ」で着ていたベルトやらボタンやらなんやらが一杯くっ付いたコートです。
ぼくも二十歳くらいの時にいきがって買って着てみたことがあります。
古着でしたが(笑)
でも、あれは日本人の体型には似合いませんね。
長身でがっしりした身体でないと、無駄な布地をべらべら使っただらしのない服に見えます。
それほど暖かいものでもないし、日本の風土からすると着る機会が少ないコートでもあります。
やはり、夏でも朝晩になると突然寒くなるようなヨーロッパの風土に合ったコートでしょう。

ダッフルコートというのもありますね。
ボタンではなく、棒を紐穴に通して止めるやつですね。
あれも個人的には日本人には合わないと思います。
アメリカのアイビーリーグかなんかの学生に一番似合いそうです。
VANが流行らしたんだったと思います。

じゃあ、日本人に合うコートはないのか。
ないこともないと思います。
サラリーマンのステンカラーコートなどは溶け込んでいます。
カシミアのスタンダードなコートなんかもいい感じです。
でもやっぱり、着物の上に羽織を着て、正絹の襟巻きを巻く、中村主人スタイルがなんといっても一番似合うでしょう。

思うんですが、うんと不況になって先進国だなんだという余計な思惑がなければ、
日本の食生活も装飾文化も江戸時代に戻るんではないでしょうか。
ものを徹底的に無駄にしない合理主義の塊ですし。
ちょん髷帯刀は再び流行ることはないでしょうが。

中村主人スタイルで堂々とヨーロッパでもアメリカにでも行くようになったら、日本人の評価は上がると思います。
無理してトレンチコートを着て行くよりは、ずっと好感が持たれるような気がします。

下らない話で、ごめんなさい。

臭い

2008年09月15日 | 雑感
台風が日本上陸を窺っているそうです。
台湾に上陸して戻ってくるって、これまたすごい進路変更ですね。

ともあれ、今日も店に出ています。
スタッフは皆お休みで、ぼく一人です。
店内に流しているアヴェ・マリアだとかグレゴリオ聖歌だとかを聴きながら、ビールを飲んでボーっとしています。
ダンボールが山積みになった事務所をちょこちょこ片付けたら疲れてしまいました。
ちなみに、ビールは麒麟の「ザ・プレミアム 無濾過」です。
ごまかしのないビールで、最近はこればかり飲んでいます。

事務所にはまだかすかに異臭が残っています。
数日前、店に入るとかすかな異臭がしました。
なんだろうと思っていましたが、原因は分からずじまいでした。
そこへ、このビルの貯水タンクの不具合を直しに水道工事の人がやってきました。
貯水タンクへは、ぼくの店を通り抜けないと行けないようなビルの構造になっています。
工事の人が最奥の事務所の窓を開けた時です。
凄まじい臭いがどっと流れ込んできました。
工事の人に原因を探してくれと頼んだところ、猫が死んでいました。
スタッフが大家さんに頼んで死体を片付けてもらう手配をしました。
翌日、その筋の業者の人が来て、片付けてもらいました。

何度か顔を見たことのある猫でした。
とてもとても愛らしい顔をしていました。
貯水タンクのあるところは四方をビルの壁に囲まれていて、格好の猫のねぐらになっていました。
スタッフの一人が家から猫の餌を持ってきて、皿に盛ってあげたりしていました。
その猫が無残な姿で死んでいました。
3日間、線香と水を供えて供養しました。

このところ、異臭にまつわることが続いていました。
車のトランクにオークションカタログを大量にいれっぱなしにしていたのですが、それを事務所に移そうとしたときです。
トランクに入れてすっかり忘れていた野菜やら豆腐やらが茶色い液体になっていました。
貴重なオークションカタログにもすっかり臭いが染み付いていました。
事務所に移しても、臭いは消えません。

それから、引越しの時に指先を怪我してしまい、救急病院で縫う羽目になりました。
包帯を取り替えないでいたら、それまた臭うようになりました。

そんなこんなで臭い続きなのですが、一件だけなら忌まわしい経験となりそうなものですが、
こうも続きますと忌まわしいというような感覚ではなくなりました。
生きてる細胞は死に、死ねば分解して土に返るだけです。
土に帰る過程が、大変ドラマチックだということに過ぎません。
お陰で、感覚が図太くなったようです。

汚い話で、ごめんなさい。
猫はちゃんと天国に行ってくれたような感覚があります。
時々、こちらをじっと見つめたつぶっらな目を思い出しています。




形から思いへ

2008年09月14日 | スピリチュアル
今朝はお滝へ。
ぼくとしてはそれなりに気持ちが良かったのですが、見ていた人によるとぼくが入っている間は水が白く濁っていたそうです。
ぼくが滝を出た瞬間に滝はもとの清い流れに戻ったそうです。
導師曰く、タチの悪い酒が流れ出ていたんだそうです。
身に覚えがありますので、そうなんでしょう。
いつまでもダラダラしていられませんね、ほんとに。
でも、こんな身ながら滝は淡々と受け入れてくれます。
その淡々が、ありがたいことです。

滝行の後、ネネさんと生徒さん、導師と一緒に朝食を摂ります。
鯉料理専門店で、滝行の後、特別にぼくらのために600円で自然食の朝食を食べさせてくれています。
ネネさんと導師との間で動物霊の憑依の話になりました。
詳細は省きます。
でも、ぼくが思うに、もうそういう話はどうでもいい時代に入ってきていると思います。
ネネさんと導師との話がどうでもいいという意味ではありません、もちろん。
具体的に影響を受けてしまった人がいたら、それはそれはヤッカイなものには変わりありませんから。

どうでもいいという意味は、そういう類の魑魅魍魎に心を向ける必要は全然なくなって来ているという意味です。
主に、怖れ、怒り、絶望、虚栄といった人のマイナス面の心をそれらは栄養源にします。
人が心を向けなければ、それらは力を失います。
無視というのでもないです。
そういったものが目の前に現れようが現れるまいが、心を動かさなければ大丈夫です。
それらの得意な術は、嘘、幻想、マヤカシを駆使して、脅かすか、虚栄の欲望をくすぐるか、そんなところでしょうか。

で、そのあと店に出ます。
新しい店は休日もオープンです、今のところ。
この短期間で働き者になったものです。

思いが形になるというよりも、形がぼくの思いを背後からプッシュしてくれているような感じです。
プッシュしてくれているうちに、脚力をつけ、推進していければ言うことがありません。
お世話してくれるすべての存在の皆様、生かしていただいて有難うございます。

現実

2008年09月13日 | 雑感
すっかりご無沙汰してしまいました。
新店舗開店前後のごたごたがずっと続いていました。
おかげさまでどうやら落ち着きました。

今までの店のように一日中ネットで遊んでいるというようなことは許されそうもありません。
新しい店がすべきことをどんどん創りだしてくるという感じです。
怠け者のぼくにはしんどいながらもありがたい状況です。

実のところ、伊勢ー白山から帰ってから日常に戻れというような啓示みたいなものがありまして、
新店舗を巡る忙しさは日常に足を下ろすにはちょうどよいタイミングでした。
日常に戻れって、じゃあ、それまではなんだったんだという話ですが、そりゃもう心が浮遊してました。
どういう具合に浮遊していたかと聞かれればちょっと返答に困りますが、心ここにあらずが常態でした。
それで大して困ったことも起きなかったのですが、時間の中を生きるというよりは、
時間が傍らをぼくとは関係なくぐんぐんと流れていく感じでした。
現実を空想の膜が覆っていて、触れても現実の手触りがない、そんな感じでした。

というわけで、現実にしなければならないことに追われているうちに、現実を覆っていた空想はどこかに吹き飛んでしまいました。
生の現実の手触りは荒々しくて、いたるところに棘が突き出ています。
まぁ、そんなものでしょう。
今後も体中に引っかき傷を作りながらも、現実の上をてくてくと歩いていくことでしょう。

今までは文字通り空想の繭のなかでまどろんでいたようなものなのでしょう。
快適この上ないです(笑)
繭は壊されました。
さて、どうするかです。

明日は年に一度の恒例のネネさんたちとの滝行です。
水もひんやりとしてき始めているだろうと思います。
いろいろな意味で、気合の入れ直しです。